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殉×愛×ハッピーエンド  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
第一幕 江戸、下向
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第二章・第二話 縺れた心

 桂御所かつらのごしょへ戻ったのは、夕刻になってからだった。

 母・観行院かんぎょういんによると、どうやら母が和宮かずのみやの置き手紙を読んでいるところへ、大叔母・勝光院しょうこういんが踏み込んで来たらしい。熾仁たるひと以上に、もっともらしい嘘でその場を誤魔化すということが苦手な母が、手にしたふみを隠すどころか内容をただされて黙っていることなど、できるはずがなかったとは思う。

 邦子と兵士に付き添われ、戻った和宮に駆け寄った母は、言い訳の一つもせず、かと言ってほかに何か口にすることもできなかったらしい。ただ、彼女は娘を黙って抱き締めた。


***


 母と別れ、私室に戻った和宮は、「ひとまずお召し替えを」と言う藤に答えることもできず、ただされるままに普段着に着替えた。

 用意されたしとね〔座布団〕に座り、胡座を掻いてぼんやりしていると、やがて同じようにいつもの着衣に着替えた邦子がやって来た。その両手に盆が携えられ、その上には茶器が一式載っている。

「宮様」

 一言、声を掛けたものの、邦子はそれ以上どう言葉を掛けていいか分からなかったらしい。彼女は黙って膝を突くと、盆を床へ置いた。

「……宮様。それではわたくしは、しばしおいとまいたします」

「えっ」

 そう言われて、和宮は初めて顔を上げた。目線の先には、普段通りの静かな表情の邦子がいる。

「どこ行くの?」

「どことおっしゃられても……勝光院様の権力範囲について、正否を確認に」

「あっ……ああ、……そうか……そうよね……」

 確かに、有栖川宮ありすがわのみや邸でそんな話をした。それを忘れて問いただしたばつが悪さに、和宮は無意味な呟きを漏らして目を伏せる。

「調べの為に、わたくしは数日お傍を離れますが、有栖川宮ありすがわのみや邸には土御門つちみかどの者を見張り兼護衛に付けます。和宮様には母君と乳母めのと殿がおられますし、こちらにも土御門の者が守りに付くよう配して参りますので、ご安心を」

「……うん。ありがと」

 俯いたまま、また呟くように礼を言ったが、邦子はまだ和宮の前を辞さず、沈黙していた。

「……何?」

 いつまで経っても、彼女が行く様子がないので、和宮は痺れを切らして、自分から問いを投げた。

「宮様」

「だから何よ」

「お傍を離れる前に一つ、確認させていただきたい儀が」

「何?」

 バカの一つ覚えのように『何?』を繰り返す内に苛立って来る。

「何か……お気掛かりなことがございませんか」

 そして、直線的に核心を突かれて、息を呑んだ。

 伏せたままの瞼の下で視線をウロウロさせ、やがて諦めて吐息を漏らす。

「……姉様」

「はい」

「……熾仁兄様のこと、なんだけど」

「はい」

「……何なのかな……兄様が考えてること、分からなくなっちゃった」

 自嘲気味に吐露するが、今度は邦子は何も言わなかった。それに却って背を押されるように、和宮は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

「愛してるって言ってくれたのも、きっと嘘じゃないのよ。そうだって思いたい、けど、……いざ危なくなったらあたしに責任を押し付けたのも、多分……兄様の本音って言うか、本性って言うか……」

 他人に見せない一面というものは、人が誰しも持っているものなのかも知れない。とっさの時に出るそれこそが、その人の本質だという話も、聞いたことはある。

 でも、まさかと思った。まさか、い慕って来た、あのひとが――

「それでもあの人を庇いたくなるあたしも何なんだろう……何かもう……訳分かんない……」

 言い募る内に、鼻の奥がキュッと痛む。理由の分からない涙がこぼれ出て、和宮は唇を噛み締めた。


***


 その日の内に桂御所を発った邦子は、予告通り、数日の内には桂御所へ戻った。

 そして、あの日の勝光院の言葉が事実であることを、和宮に告げた。

「そう……ありがとう。ご苦労様」

 そう答えはしたものの、この時の和宮にとって、それは最早大半、どうでもいいことだった。勝光院の権力の範囲がどうであれ、熾仁が無事であれ処罰されるのであれ――とにかく、和宮はまだ、あの日熾仁が和宮を庇わず、自分の保身だけを優先したことに受けた衝撃から、うまく立ち直れていなかった。

「それと……和宮様」

 ぼんやりと返事をして、ぼんやりとまたあの日のことを考えていた和宮は、邦子が発した言葉に我に返る。

「何?」

「こちらを……」

 彼女は、いつからか携えていた文箱ふばこを、そっと彼女自身と和宮の間に置く。

「これは?」

「帰りに、桂御所の前で岩倉殿とお会いしました。偶然ではなく、待ち構えておられたようですが」

「岩倉……殿が?」

 和宮は、眉根を寄せて、文箱を見つめる。

「はい。先日、主上おかみが幕府に宛ててしたためられました勅書ちょくしょの写しだと言付かりました。こちらをご覧になられた上でご降嫁の件、今一度ご勘考かんこう遊ばしますように、と……」

 兄帝の『勅書』。それは、降嫁の件については、とどめと同意義だということだ。

 もう逃れられないのだと、誰かに囁かれた気がしたのに、それもどこか遠い場所で起きている他人事のようだった。

 機械的に手が動いて、文箱の紐をほどき、中の文へ目を落とした。


***


『――……すでに関東が攘夷じょういめいほうじた以上、朝廷も降嫁勅許の約束は果たさねばならぬ。にも関わらず、和宮本人が降嫁を固く拒絶している。かと言って、この縁談が成立しなければ幕府に対して信義を欠く事になるので、私は我が娘・寿万宮すまのみやを代わりに立てることも考えている。

 しかし、もしも幕府が寿万宮では不承知であり、その上で尚、和宮も固辞するようならば、私は、この責任を取って譲位じょういするほかはないと考えている』――


(譲位……かぁ)


 昼間、読んだ勅書の写しの内容を反芻し、そっと息を吐く。もう横になった布団の中、和宮はその夜も何度目かの寝返りを打った。

 このところ――というより、先日、熾仁との駆け落ち未遂の日から、眠れない夜が続いている。眠いはずなのに、目を閉じても眠りはやって来ない。

 今日までは、目を閉じれば思い浮かぶのは、あの日の熾仁の、冷たい言葉の数々だった。

 最初は、わざとひどいことを言っているのだと思っていた。和宮の未練を断ち切る為に――だが、濡れ衣で捕縛されそうになった彼は、和宮に責任をすべて押し付けようとした。

(……まあ、それは別に構わないわよ。事実、あたしが押し掛けたんだし、兄様はもう別れようって言ったんだしさ)

 ただ、それは見せ掛けではなく、本音だったのかも知れない。

 本当は生まれ年の忌みごとを気にしていて、別れたくて仕方がなかったから、この機に乗じて婚約を破棄できたと思っていたのに、和宮が駆け落ちしようと押し掛けたから――

(……でも……二年前には、降嫁の可能性については、兄様しか知らなかった。その時は、兄様から『駆け落ちしよう』って言ってくれたのに……)

 はあっ、と溜息をいて、またコロリと布団の中で転がる。

(……ホントは、あたしのこと、どう思ってたんだろ……)

 けれども、今『本当の本音を聞かせて』と熾仁にただしたところで、返る答えが本当かどうかは、もう分からない。答えてもらえたとしても、和宮のほうがそれを信用できない気がする。

 枕に顔を埋めて、敷布を握り締め、目を閉じた。どの道、何が真実であっても、もうどうにかなる所はとうに過ぎていることは、和宮にも理解できていた。

 それに今、どうにかなるとしても、もう熾仁と一緒になりたいという気持ちは薄れている。

(……あたしも……兄様のこと、どう思ってたんだろ……)

 好きだった――と、思う。少なくとも、駆け落ち未遂の日までは。

 けれども、あんな面を見せられて――感じたのは衝撃と失望だろうか。まさか、あんな男だとは思っていなかった。それが、正直な気持ちだ。

 もちろん、熾仁だって、突然捕縛されそうになって動揺した果てに、何とか助かろうとしただけだということは分かる。立場が逆になれば、和宮だって熾仁を売らないと言い切れる保証はない。

 しかし、そんな面があることを知った今、結婚前にそれが分かって破談になったことはよかったような気がしてしまう。それだけは、降嫁の話を言い出した者に感謝しそうになるくらいだ。

(……お互い様ってことね)

 そう思って、何度目かの溜息を吐く。

 互いに、その程度(・・・・)だったのだ。ただ、婚約者同士だからと周囲に持ち上げられて、恋をした気になっていただけだった。こうなってみてそれに初めて気付くと、ひどく虚しい気分になる。

 だからと言って、両手もろてを挙げて、喜んで江戸へ下ろうという気持ちにもなれない。

 こちらの結果がどうあれ、幕府方が和宮を降嫁させるに当たって、熾仁や有栖川宮家の人々、更には、和宮の母や伯父を人質に取ったことに変わりはない。

 そんな汚いやり口を考える者たちの巣窟に飛び込むのも、正直御免だ。それくらいなら、尼になるか、自害したほうがよっぽどマシだと思うけれど、飛び込まなければ母や伯父がどうなるか分からない。

 兄帝だって、譲位するしかなくなる。

 結局、今の和宮に残された道は、一つだけなのだ。周りの皆を巻き込まないように、江戸に行く道だけ――。

(……でも覚えておくのね、幕閣のクソジジイ共)

 自分は、決して彼らに屈したわけではない。

 心まで思い通りになると思ったら大間違いだ。脳内で罵倒するだけなら、それこそ自由である。

(意のままになる操り人形だと思ってたら、痛い目見るんだからね――――っっ!!)


***


 翌日、万延まんえん元年八月二十三日〔一八六〇年十月七日〕。

 母が宮中へ参内し、和宮の降嫁承諾の意を伝え、その三日後には熾仁との婚約は正式に解消された。

 これで当分、和宮がみずからやるべきことはない。

 このあと、結婚以外の行事といえば、先帝であった父の十七回忌の法要があるが、それは母か兄が差配してくれるだろう。とは言え、娘である自分がまさか出席しないわけにも行かない。

 有栖川宮家に嫁ぐのなら、別に法要終了を待たずとも構わなかったが、江戸に行ってしまったら、往復に凄まじい時間が掛かる。

 降嫁するならそのあとで、と幕府には通達したが、年内にはどうしても降嫁して欲しいと幕府側から要請があったと聞いて、和宮は早々にぶち切れる羽目になった。

幕府そっちがどーしても来て欲しいって言うから仕方なく(・・・・)ってやる(・・)のよ!? こっちの都合にあわせるのが筋ってモンじゃないのっ!? どこまで横暴なのよ!」

 と、一通り喚き散らしたのは言うまでもない。

 結局これも、兄に宥めすかされ、説得される形で折れせざるを得なかった。けれども、その前に兄が幕府方に出した条件の内、『降嫁前に内親王宣下の儀を行うこと』というのがどうも年内では満たせそうになかった。

 それ以外にも、準備が年内では到底間に合わない。何しろ、皇女の嫁入りだ。

 しかも、同じ京都にある有栖川宮邸へ移るだけなのとは違い、江戸までの大旅行である。旅行するだけではなく、嫁ぐのだから、そうすぐに戻っては来ない(とは言え、毎年父の回忌ごとには京へ戻るつもりだし、そう幕府にも通達してあるが)。

 つまり、引っ越しと同義だ。

 随行の女官の選定、荷造りなど、並大抵の日数では終わらない。

 物理的な理屈を聞いた幕府も承諾せざるを得ず、和宮はそのことにわずかながら溜飲を下げた。


***


 翌・文久ぶんきゅう元年四月十九日〔一八六一年五月二十八日〕、内親王宣下の儀式を受け、『親子ちかこ』の名を賜った和宮は、同年十月二十日〔一八六一年十一月二十二日〕、桂御所をあとにした。

 熾仁との破局からは実に一年以上経っており、更には彼に対する恋慕の情も薄れている。だが、気持ちの整理が付いたかと言えば、そうでもないのが不思議だった。

 まだ好きなのだろうか、と己に問うても、巧く答えられない。『好きではない』という答えには納得できないし、『好きだ』という答えも違う気がする。

 五歳で出会ってから、破局までの九年間は、ずっと好きだと思っていた。将来の夫で、恋い慕っているのだと思っていたし、駆け落ち未遂の日までは生涯の伴侶だと、信じて疑わなかった。

 まだ、あの日彼が、和宮にすべての責を押し付けようとしたことだけが夢ではないかと思う自分もいる。

 ただ、確かに分かっていることもあった。今も納得いかないのは、幕府が周囲の人をしちに、無理矢理こちらを思い通りにしたことだ。それだけには屈したくないと、もどかしい思いが胸奥きょうおう深くでくすぶっている。

 住み慣れた京を離れること、そこに政治的な思惑が絡んでるということも、本当に気分が悪い。

 政治的に必要だから別れろという周囲の圧力が、熾仁の本性を丸裸にしたことも、今となってはよかったことか、分からなくなっている。知らないまま、一緒になったほうが幸せだったかも知れないとも思う。

 知らなければ、多分それなりに幸せだったし、こんな風にグルグルと思い悩むこともなかった。

 訳が分からない焦燥に、胃が捩れて、頭の芯がねじくれそうだ。

 乗っていた輿に付いている小窓をそっと細く開ける。沿道に出ている人たちの姿を素通りし、和宮は今あとにしたばかりの屋敷の方角を眺めた。

 そっと気遣うように、同乗していた母の手が、和宮のそれに触れる。

 力ない笑みを返して、和宮は小窓を元通り閉じた。


***


「――よろしゅうございますか、和宮様。あなた様のご使命はただ一つ。将軍に、攘夷を実行させることでございます」

 休憩に立ち寄る宿場ごとに、同じことを言う為にわざわざ持ち場を離れて訪ねてくる女性のげんに、和宮はうんざりとした気分で溜息をいた。

 ここは和宮に割り振られた休憩の部屋で、女性には女性の部屋があるはずだ。いい加減、そちらへ戻ってはもらえないだろうか。

 と思って一度言い返したことがあるが、彼女はまったく聞く耳を持たない。目を逸らし、気持ちばかり彼女の声を遮ろうと、扇を広げてその陰に顔を伏せるが、女性は今日も頓着なく続ける。

「将軍は、宮様よりも格下。つまりは、臣下でございます。それを努々(ゆめゆめ)お忘れになりませぬよう。そして、江戸に到着しましたら、何が何でも攘夷実行を確約させるのです。よろしいですか。夫婦というのはあくまで形式上だけのものです。決して将軍にはお心をお許しなさいませぬよう――」

「あの、典侍ないしのすけ様」

 典侍、と呼ばれた女性の声がピタリとやむ。和宮もチラと扇の陰から顔を出した。

 そこに立っていたのは、邦子だ。典侍は、話を遮られた苛立ちも露わに、邦子を睨み据えている。

 しかし、邦子は若いが、そんな睨みに怯えるような女性ではない。涼しい顔で続けた。

「お話中、ご無礼いたします。昼食が済みましたら、すぐにご出立ですので、典侍様もお食事を。お部屋にご用意ができております」

 典侍は、何か言いたげに唇を開閉あけしめした。が、やがて鼻息と共に立ち上がり、彼女付きの女官を引き連れて部屋をあとにした。

「宮様」

 典侍に声を掛けた邦子が、気遣わしげに声を掛けて腰を下ろす。彼女と和宮の間に、邦子が連れてきた下女が、膳を置いて下がっていった。

「……ありがとう。助かったわ、邦姉様」

「いえ。申し訳ございません。少しお傍を離れた隙に」

 邦子もその美しい顔をしかめ、和宮に視線を戻す。

「あのお話、確か京を発たれて最初の夜に、わたくしも耳にいたしましたが」

「繰り返し言いに来るのよ。大方、あたしが箱入り過ぎて、三歩歩いたら忘れる鶏と同じ頭だと思ってんだわ」

 ふん、と鼻息も荒くこぼすと、邦子は苦笑した。

庭田にわた嗣子つぐこ様……でしたね」

「元々はおもう様の典侍だったのよ。おもう様が亡くなってからも、請われて宮中に残って、後進の女官の指導を担当してたって聞いてるけど」

 和宮は、父・仁孝にんこう帝が亡くなったあと、皇居の外で生まれた。生後、初めて参内したのは三つの頃だが、その時のことなど記憶にはない。だから、内親王宣下の儀式の為に参内した折に顔を合わせたのが、和宮の感覚としては典侍、こと庭田嗣子とのほぼ初対面はつたいめんだった。

 ちなみに、典侍というのは、宮中の女官職の一つで、通常、仕えた帝が亡くなれば、宮中を辞すのが決まりだ。帝の側室予備軍でもあるらしいが、庭田嗣子がどうだったのか、和宮は知らない。

「……とにかく、あの庭田典侍は、あたしが将軍に嫁ぐ交換条件の、『幕府に攘夷を実行させる』って使命を果たすことに、燃えに燃えてんのよ」

「心中、お察しします」

 痛ましげに微笑した邦子は、続けて膳を手で示す。和宮も無言で苦笑を返し、箸を取った。

 ただでさえ、熾仁との別れに際しての複雑な心情を持て余している和宮としては、道々延々と続くこの結婚の意義講義には辟易している。せめて、江戸に着くまでのあいだくらいは、放っておいて欲しい。

(それに……あたしだって、男女として徳川家茂(いえもち)とどうこうなる気なんて更々ないっつの! 兄様との間がどうであれね!)

 ふん! と鼻息も荒く、苛立ち紛れに、ブリの煮物に箸を突き立てる。

 身体はこうして江戸に赴くことになってしまっても、心だけは永久に、もう誰のものにもならない。

 少なくとも、将軍に心を許さないことが、理不尽に和宮を脅迫した幕府へのせめてもの意趣返しで、和宮にできる唯一精一杯の抵抗なのだから。

 そんなことを、悶々と考えながら、ふと上げた視線の先に、川に張り出した枝が燃えるように赤くなっているのが見えた。

(……そう言えば、兄様と清水寺に行ったのも、紅葉こうようの頃だったっけ)

 辺り一面に紅葉もみじが広がり、赤や黄色で眼下を敷き詰めたのようになっていた。とても綺麗だったのを覚えている。

「……落ちて行く、身と知りながらもみじ葉の、人なつかしくこがれこそすれ」

 悔しさと懐かしさが一緒くたになった歌が口を突いて、尚更惨めな気分になる。

 天皇家から、臣下のはずの将軍家へ。京の都から江戸へ。

 今の自分は、二重の意味での落ち人だ。

(……いや、三重かも)

 熾仁の元から――顔も知らない、ほかの男の所へ。

 今日も、何度目かで盛大な溜息を一つ吐いて。

 和宮は、食事の残りを、自棄ヤケのように口へ掻き込んだ。


***


 一ヶ月弱の旅路の果てに、江戸に着いたのは十一月十五日〔一八六一年十二月十六日〕だった。

 その、様々な公式の事務手続きを経て、実際に和宮が江戸城に足を踏み入れたのは、今日、十二月十一日〔一八六二年一月十日〕になってからだ。

 中庭に面した廊下から見える冬の空は、小春日和と呼ぶにふさわしい、薄い青に染め上げられている。

 都でも江戸でも、見える空の色や様子は何も変わらないようだ。


「――……ま……宮様?」


 ふと足を止めてぼんやり空を眺めていた和宮は、先導の奥女中の声で我に返った。

「和宮様。いかがなされました?」

 型通りに伺いを立てる言葉を掛けながらも、目の前の女中の顔にはしっかりと『別にあんたの心配なんてしていないけど、ボーッとしてられると困るんだよ』と書いてある。

「あ……いえ、別に何も」

 だから、和宮も愛想笑いを浮かべることもせずに淡々と答えてやった。

 江戸城内の女中は、階級の上下を問わずまるで表情がない。感情がないのかと言ったらそうではなく、出世欲にギラギラしてるのがありありと見える者もいる。結局、意地汚いと言おうか、嫌らしいと言うか――こんな中に放り込まれたら、確かに公家出身でも、がっついて嫌味にもなるだろう。なまじ、相手や場の空気なんて読んでいたらやっていられない。公家出身だからこそ変わらなければならなかった大叔母に、和宮は今更ながらに同情の念を禁じ得なかった。

「それではまずこちらへ。上様がお待ちでございます」

 先導の女中も相変わらずにこりともせず、事務的にふすまに手を掛けた。

 『上様』――こと、将軍・家茂いえもち

 和宮と同い年の、この国の最高権力者が、女中が開けた襖の奥に座していた。襖に向かって対面ではなく、下座へ、横を向いて座っている。

 襖の開く乾いた音に、その横顔がこちらを向いた。

 烏帽子えぼし直垂ひたたれに身を包んだその容姿は、意外なほど整っていた。

 中性的美貌――とでも言えば、ピタリとハマる表現だろうか。

 武家の男なんて、皆々、むさ苦しくてごつい男ばかりに違いないと思っていた。

 しかし、目の前にいる少年は、どちらかと言えばなよやかで儚げな印象だ。体つきはほっそりとしていて、恐らくは肩幅も華奢な彼は、和宮の中の『武士』の先入観を見事に吹っ飛ばしてくれた。

 烏帽子の下からわずかに見える漆黒の髪。

 通った目鼻立ちと、切れ長の目が、逆卵形の顔の中に品良く収まっているのだけでも『端正』の一言に尽きる。

 そして、極上の黒曜石をはめ込んだような、それでいて透き通るような瞳――数瞬、和宮は状況も忘れて、吸い寄せられるようにその瞳をまじまじと見つめてしまった。

 視線と視線がぶつかって、一瞬時が止まったような錯覚に襲われる。

 どうにも肩透かしを喰わされた気分で拍子抜けしながら、家茂の正面に用意された敷物へ歩を進めた。

 政略の為に、しゃあしゃあと婚約破棄を請求する連中の大将が、どんな男かと思ったら。

(結構、整った顔立ちよね……)

 もちろん、男は顔ではないし、自分は特に面食いだという自覚もない。それに、目の前の男に生涯心を許すまいと決めてはいても、造作への単純な評価とは別問題だ。

 好奇心で、扇の蔭からチラリと目だけを覗かせて、改めてその容貌に視線を走らせると、再度合ったと思った目は、フイと伏せるようにして逸らされてしまった。

(――感じ悪っっ!!)

 第一印象は最悪だ。

(顔だけ男だなんて、やっぱり武家の人間の大将やってるだけあるわ)

 こんな男が生涯の伴侶だなんて――と、思うが、その場で思い切り溜息を吐きたいのを何とかこらえる。家茂との対面の儀を終えると、その部屋を出てまた中庭に面した廊下を先導の女中のあとについて歩いた。


 建物の様式も、都と江戸ではまったく違う。

 都の住まいだった桂御所は、どちらかと言うと優美さを追求している印象だけれど、江戸城はひたすら実用的だ。

 都の建物様式に慣れた和宮の目には、それが何だかなく、冷たく映った。それが不意にまた、泣きたい気持ちにさせてくれる。

 涙を呑み込むように、扇の陰でこっそり深呼吸すると、すぐ後ろを歩いていた邦子が、気遣わしげな視線を投げて寄越すのが分かった。

 彼女に向かって視線だけ投げ返して前に向き直るのと、先導の女中が腰を屈めて新たな襖を開くのとはほぼ同時だった。

 「こちらへ」と女中が指し示す部屋の中へ足を踏み入れる。

 今日の行事は取り敢えずこれで終わりだ。

 先代御台所(みだいどころ)――つまり、先代将軍・家定いえさだの正室であり、夫となる家茂の義母・天璋院てんしょういんとの対面が今日最後の行事である。

 顔立ちは凡庸でありながら、どこか凛とした空気の持ち主である彼女は、部屋の奥に座して和宮を迎えた。

 後ろを歩いていた邦子が前に進み出、和宮の手を取り上座へ導く。和宮も、ごく自然に従った。

 何の疑問も持たなかったのだが、そこへ先導の女中が割って入った。

「宮様! 宮様のお席はこちらでございます」

 『こちら』と言って女中が指し示したのは、敷物も敷いていない下座しもざの席だった。

(……あたしに――先帝の内親王であり、今上きんじょう帝の妹たるこのあたしに、畳の上にじかに座れって言うの? しかも下座に!)

 そう思った瞬間、頭に血が上った。けれど、「どこまで侮辱すれば気が済むのよ!?」と怒鳴り散らすことだけは、辛うじて実行に移すのを思い留まった。

「無礼な!」

 だが、和宮の代わりに爆発した者がいた。庭田嗣子典侍だ。

「和宮様に、下座へ着けと申すのか!?」

「何か、不都合でも?」

 反射で喰って掛からんばかりの女中を制し、静かにそう答えたのは、意外にも天璋院本人だった。

「当然であろう! 宮様ご降嫁に当たり、幕府に遵守するよう提示された五箇条を、よもや忘れてはおるまい。その内の一条には、『何事も万事御所風のこと』とある。つまり、宮様は御所の常識で扱われねばならぬ。そなたたちは臣下ぞ。臣下があるじの上座に着くとは、何事だ!!」

 これだけ噛み砕いて丁寧に説明すれば、どんなバカでも分からないはずはない。次の瞬間、当然天璋院が無礼を詫び、上座を譲るものと思っていた。庭田典侍もそうだったに違いない。

 けれども、またも予想外の返事が返って来た。

「ここは、江戸城大奥です」

「何だと?」

「その約定やくじょうに関しては、確かに存じております。ですが、わたくしは委細承知したとは申しておりません」

 穏やかに、だが、反論を許さない口調で、天璋院が続ける。その静謐な色を湛えた瞳が、庭田典侍ではなく、まっすぐに和宮を見据えた。

「事情がどうあれ、して来た以上、それなりの覚悟はおありのはず。そなたも、嫁入り先にあれこれと条件を付けるなど、ただの甘え、常識外れだと知りなさい。郷に入りては郷に従えとも申しましょう。ここは、武家を統括する将軍家の棲む城。そなたも申したき儀があれば、侍女に頼まず、ご自分の口で申されてはいかがですか」

 とっさに、声が出なかった。何を言えばいいのか分からない。

 決して臆したわけではなく、言葉を口に乗せれば、何を口走るか分からなかったのだ。

 気を遣う義理はないが、口汚く罵ることだけは避けるべき場面だと、本能的に察していた気がする。罵ったほうが負けるのだと。

 その場に、張り詰めた緊張を孕んだ沈黙が落ちたのが、一瞬だったのか、それよりもっと長かったのか。

 こちらが何も言わないと見て取った天璋院が、和宮から見て右手を指し示して再び口を開いた。

「お分かりになったのなら、そちらへお座りを。それと、モノのついでですから、申しておきます。今後は、わたくしをしゅうとめとして敬うことをゆめ忘れませぬよう」

「何、ですって」

 ようやく震える声が出るけど、それで怯むような可愛らしい神経は、目の前の女性は当然持ち合わせてはいないらしい。

「聞こえませなんだか。されば、はっきりと申しましょう。そなたからいただいた贈り物ですが、宛名が『天璋院へ』となっていました。敬称が付いていないのは書き損じかと思っていましたが、その態度から察するに、どうやら違うようですね」

 責めるような内容だけれど、声音に怒りは感じられない。寧ろ、哀れんでいるようだ。

(哀れまれてる……あたし、が?)

 責め苛まれるよりも屈辱だ。

 怒りとも憎しみとも付かない、ドス黒い感情に、身体が震える。けれど、天璋院はそれには気付かないのか、穏やかに続けた。

「今まで御所で暮らしていたのなら、是非もありませぬゆえ、それはこれから学ばれればよろしい。武家社会では、姑のほうが嫁よりも立場は上。従って、今後はわたくしに、嫁として姑への礼を尽くすように」

「あ……あたし……わたくしが礼を尽くすのは、主上とおたあ様だけよ。主上の上に人はいない」

 みっともないほどに震える声で、それでもどうにか言い放つ。すると、天璋院が無言で首を傾げた。

 まるで手応えのないその反応に、無性に腹が立つ。懸命に、なるべく凛と響くように意識して言葉を連ねた。

「そなたは……そなたたち幕府の者は、天皇家の臣下のはず。そして幕府は、わたくしが嫁してくる際に交換条件として約定を受け入れた。わたくしは、婚約者と引き裂かれ、どうしてもとそなたたちに無理難題を突き付けられ、やむなくここにいる。そなたたちがこちらの要求をすべて呑むのは当然のことでしょう。そちらこそ、態度を改めるがよい」

 途端、それまで黙って成り行きを見守っていたらしい女中たちがどよめいた。

 けれど、天璋院だけは憤るでもなく苛立つでもなく、静かに和宮に視線を向けている。和宮も、負けじとその瞳を睨み返した。

 その沈黙が、どれくらいの間続いたのか。やがて天璋院は、聞き分けのない幼子を宥めるような笑いを漏らして、立ち上がった。

「そなたとは話していても平行線のようですね。分かりました。言葉が通じるようになったら、改めて挨拶するとしよう。では」

 シュス、と衣擦れの音を立てて、打ち掛けの裾を捌いた天璋院は、和宮の脇をすり抜ける。

 女中たちも、和宮を一顧だにすることなく、天璋院に付いて対面の間を辞して行った。

「無礼者! そなたら、宮様を何と」

「よい!!」

 天璋院を筆頭に、部屋をあとにする女中たちの背に、庭田典侍が叱責の声で追い縋るのを、和宮は素早く制した。

 それに驚いたのか、典侍だけでなく、女中たちの数名が、こちらを注視して足を止める。未だ、足を止める様子もない天璋院の耳に聞こえるように、和宮は続けた。

「言葉が通じぬのは、お互い様よ。このこと、しかと都の兄帝にお伝えします。勅令が下る前に、そちらこそ態度を改めたほうが身の為よ」

 すると、天璋院がピタリと足を止めた。さすがに、女中たちはおたついた面持ちでこちらと天璋院を交互に眺めている。

 いい気味だ。

 兄の名を出せば、まず考え直すだろう。和宮としても、彼女が詫びれば、本当に兄に知らせるつもりなんてない。

 けれども、振り返った天璋院の顔には、うっすらと不敵な笑みが刻まれていた。

「ご随意に」

 息を呑んだ。

(何なの、この女! 天皇家を――皇女を敬うって言葉を知らないの!?)

 怒りに震える身体を宥めるのが精一杯で、悔しいことにその場で言い返すことはできなかった。


 悠然と去っていく背中を、迂闊にも呆然と見送ったあと、和宮は半ば駆け込むようにして与えられた居室に逃れた。

 手にしていた扇を、思わず畳に叩き付ける。

(どうしてもって言うから来てやったのよ!? 都からこんな所まで……だのに……仮にも皇女たるあたしが、どうして格下の武家女に、あんな仕打ちを受けなきゃいけないの!?)

「……宮様……」

 いつの間に追い付いて来たのか、邦子の手がそっと肩に触れる。

 振り返ると、慈愛に満ちた瞳が、静かに和宮を見つめていた。何も考えられずその腕の中に飛び込み、悔し泣きに泣きじゃくる。

 ここまでされて、それでも黙って耐えなければならないのか。

 この調子では、恐らくあの男(・・・)も同類だ。

 こんな屈辱に耐えながら一生過ごさなければならないというのか。一体どうして、何の為に?

 けれど、ここへ来なければ、母や伯父が犠牲になっていたかも知れないのだ。二人を犠牲にしてまで、己の意地を通すような無神経さはさすがにない。

 だったら、どうすればよかった? どの道が正解だった?

 果てしのない自問に埋もれそうになりながら、これからの生活に光も見出みいだせないまま、和宮は慟哭した。


©️神蔵 眞吹2024.

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