第三章・第一話 馬上の変化
翌日、総触れの終わった四つ時〔午前十時頃〕に、家茂と和宮は隠し通路から外へ出た。
二人での外出とは言うものの、結局は邦子と崇哉も一緒だ。ほかの人間はともかく、この二人の目を掻い潜るのはさすがに厳しかった為、下手に隠し立てせず打ち明けて、一緒に来るかどうかの判断は二人に委ねることになった。
くっついて来られたのは、ほぼ九割九分九厘案の定、というところではあったが。
以前と同じく講武所へ立ち寄り、変装してから城の敷地の外へ馬で繰り出した。
「――で、どこ連れてってくれるの?」
城から充分に離れたところで、和宮はやっと口を開いた。
すると、チラリとこちらへ流し目をくれた家茂は、「どこでも」と言って、軽く肩を竦めた。
「お前が行きたい所に行こう。要望はあるか?」
「……うーん……急に言われてもなぁ……」
和宮は、眉根を寄せて唇を尖らせる。そんなことなら、昨日の内に言っておいてくれれば、邦子に相談もできた。
邦子は職業柄、いつの間にやら江戸の地理に通じてしまっているからだ。
「……じゃ、このまま異国に駆け落ちでもしちゃう?」
考えた末に、冗談混じりのつもりで言ったが、その表情が家茂からどう見えたのか、和宮には分からない。
彼は、虚を突かれたように瞠目していた。しかし、その表情は一瞬のことで、やがて強張っていた頬には、ユルユルと苦笑が浮かぶ。かと思うと、
「……分かった。じゃ、予定変更だな」
と、言い出した和宮のほうが焦る答えが返って来た。
「えっ、ちょっと待ってよ、本気?」
「お前は本気じゃないのか?」
「そりゃっ……可能ならそうしたい、けど」
答える声音が、尻窄みになる。
仮に予定通り、今日の日暮れに城へ戻れば、明後日には家茂は江戸を発つ。本当は和宮も共に行きたいが、家茂が『否』と言い続ければ、結局は彼の意思通りになるだろう。
言い出したら梃子でも動かないのは和宮といい勝負だが、要するに、明後日からしばらく家茂に会えなくなるのは、ほぼ確定事項だ。思っただけでおかしくなりそうだった。彼と離れない為なら、異国へ行くのも悪くないかも知れない、と最近は思っていたりする。
(……けど)
自分たちは、一般市民ではない。平民のように、普通に出会って恋に落ちていれば、或いはフイッと駆け落ちしても許されるだろう。
周囲の人間に心配は掛けるだろうが、少なくともそれで世の大勢にまで影響を与えるようなことにはならない。
だが、自分たちは違う。『個』の心のままに動けば、それは下々の民にまで影響を与えることになり兼ねない。そう分かっていても、今は家茂しか目に入らない自分がいる。
思えば、彼との婚姻の時は、まだ余裕があったのだ。自分の答え一つで、母と伯父がゆえなく裁かれ、兄帝がその地位を退くことになるくらいなら、自分一人が犠牲になるほうがマシだと思えるだけの余裕が――。
けれども今は、どうだっていい、と叫びたい衝動に駆られることが時折ある。
もちろん、熾仁たちの大奥侵入騒ぎによって、死人が出たことは記憶に新しい。好きな相手に愛を叫び、形振り構わず行動することは、時に人を死に至らしめる。相手が格下の身分なら、それを揉み消すことだって可能だと、思い知らされたばかりだ。
それでも、そんなことは知らないと言いたくなる自分にも吐き気がする。
好きな人と一緒にいたい、ただそれだけのことが、平民なら簡単に叶うことが、どうして自分たちには許されないのか。
(……やば)
急に鼻の奥がツンとして、気付けばもう目の中いっぱいに涙が溜まっていた。目を瞬き、頬を転がった滴が彼に見られない内にと急いで頬を擦る。
「……親」
ほとんど同時に声を掛けられ、反射でそちらへ目をやる。家茂は、いつの間にか和宮の乗った馬に自身の馬を寄せ、馬上から和宮に手を伸ばしていた。頬に、彼の指先が触れる。
「家茂……?」
「……ごめん。最近、泣かしてばっかだな」
クス、と自嘲気味に苦笑した彼の手が、和宮のそれをそっと取って握った。
「違う、家茂の所為じゃ」
「でも、江戸まで来なかったら、お前の毎日は多分、もっと平穏だったろ」
「それは……そうだけど、でも……あたし、幸せだよ?」
「泣いてばっかなのに?」
「家茂と出会わなければよかったなんて、思ったことない」
きっぱりと首を振ると、家茂はまた目を丸くする。彼の黒い瞳をしっかりと捉えて、和宮は言葉を継いだ。
「家茂と出会わなかった幸せより、家茂と出会って愛し合ってる今が大切なの。あんたと愛し合ってれば、泣いてばっかりでも不幸じゃない。一緒にいられれば、平穏じゃなくたっていい」
だから、連れてって。京へだって一緒に行ける。道中、どんなに危険だって構わない。足手纏いになんてならないから――そう続けたくなるのを、苦労して呑み込む。
素直にぶち撒けたっていいのかも知れないけれど、聞かされた家茂が困ることは嫌だ。
だが、呑み込んだ分だけ、握り返した手に力を込めることは止められなかった。
目を逸らすように伏せると、家茂も和宮と握り合った手に、力を込め返す。
「……やっぱり、行き先変更だな」
「えっ?」
目を上げて家茂を見ると、彼は少し後ろについて来ていた崇哉に声を掛けた。
崇哉は、「は」と短く返事をして、馬を家茂のそれに寄せる。
「悪いけど、城に戻ってくれ」
「えっ」
思わず声を上げた和宮に構わず、崇哉は家茂に質した。
「と仰いますと」
「京へ出発の日、俺は横浜で合流する。勝手言ってすまないが、上京の責任者に伝えておいてくれ」
「しかし……」
崇哉は、珍しく難色を示す。和宮は、事態が呑み込めず、成りゆきを見守ることしかできない。
「護衛なら桃の井がいるから心配ない。気になるなら、お前もあとから来ればいい。いつもの宿にいるから、今日中には着けるだろ」
繰り返すようだが、家茂はこうと決めたら梃子でも動かない一面がある。それは、崇哉にもよく分かっているのだろう。
早々に諦めたのか、小さく会釈するように顎を引き、馬首を返す。邦子と擦れ違い様、彼女に「では、あとは頼みます」と告げ、馬の腹を蹴った。
速足で駆け去る彼の後ろ姿を見送る間も惜しく、和宮は家茂に向き直る。
「本当にいいの? 家茂」
「何が」
「だって……京に行くのだって、家茂一人と随従の臣が数人ってわけじゃないよね」
和宮も、輿入れの際、京から江戸へ下るのに、かなりの大人数で来た。もちろん、家茂の場合は引っ越しではなく、政務で行って帰るだけだから、和宮の輿入れほど大掛かりではないかも知れない。けれど、それに近い大所帯の移動になることくらいは分かる。
仮に、途中で合流するのが家茂ではなく、臣下の一人なら問題ないだろうが、よりによって総大将が途中合流など、問題が起きないはずがないような気がするのは、和宮だけだろうか。
「それに横浜って」
言い掛ける和宮の言葉を、家茂は珍しく「行こう」と遮った。
「時間が惜しい。横浜まで、江戸からは十里〔約四十キロ〕くらいあるから」
ちなみに、馬が半永久的に動けるのは並足で歩かせた場合で、その調子だと、十里の距離は大体四刻〔約八時間〕ほど掛かるだろうか。
「じゃなくって! えっと……」
馬の歩みを再開した家茂に、慌てて続きながら、和宮は訊きたいことを整理しようと頭を巡らせた。
最初、和宮は『異国に駆け落ちしようか』と訊ねたのだ。
もちろんそれは冗談半分だったのだけれど、それに対して、家茂は『予定変更しよう』と言い出した。だから、てっきりまっすぐ異国に行くつもりなのかと思っていた。
けれど、家茂は『横浜で上京の集団に合流する』と言った。要は、家茂は今は将軍の職務を投げ出すつもりはないらしい。
もし、本当にここで簡単に将軍としての職務を投げ出すような男なら、がっかりするところだ。そんな男に惚れた自分の男を見る目のなさにも失望し、当分寝込むだろう。が、いざ本当に和宮よりも将軍としての仕事を優先するのを目の当たりにすると、それも面白くない。
何て――本当に何という身勝手な考えだろう。自分が何を望んでいるのかさえ、もう分からなくなってくる。
俯いて、そっと溜息を吐いた間合いで、「親」と前方から声が掛かった。顔を上げると、馬を進めながら、家茂がこちらを向いている。
「今言いたいこと、言ってみろよ」
「えっ……い、言いたいことって」
「当て推量になるから、俺からは言わない。早く。『えっと』の続きは?」
「えぇ、っと……」
同じことをモゴモゴと口の中で噛むように言って、和宮は俯いた。
何度か唇を開け掛けて閉めるという動作を繰り返し、無意識に息を吸って吐く。
「……えーっと……横浜に行くって言ったよね」
「ああ」
「あの……異国に行くんじゃ、ないの?」
結局、どう言っていいか分からなくなって、一番の疑問を捻りもなく口にした。
下げていた目線をチラリと上げると、家茂はこちらに向けた目を、何度目かで丸く見開いている。次いで、軽く吹き出した。
「いっ、家茂ってば!」
「ッッ……わ、悪いッ……」
悪い、と言う割にはそう思っていないのは、クックッと笑いの残滓を引きずっていることで明白だ。
家茂は、馬の速度を落とすと、先程と同じように、和宮の横へ馬を並べた。
「……ごめん。まず、奥さんのご希望に添えなくて申し訳ないけど、すぐ異国に行くわけにはいかない」
「……分かってるわよ。あたしのご立派な背の君は、愛する妻よりも政務と民が大事なんですもの」
半分本気でむくれつつも、冗談半分に言って、ツンと家茂から目を逸らす。
家茂は、刹那の沈黙ののち、「いよいよとなったら、俺はお前を取るけど」と前置きして続けた。
「仮にすぐ姿を眩ますとしても、異国に行くなら準備が要るだろ。お前にしたって、ついこないだまで毛嫌いしてた異国人がどんな感じか、見ておかないと心の準備もできないだろうし」
「そりゃ……」
婚儀から程なく、最初に家茂とお忍びで江戸の街に出た時も、結局異国人とは出会さなかった。だから、和宮は未だに異国人の風体を知らない。
どんな感じだと思う? と問われたら、やはりいつぞや見た、錦絵に描かれた風貌を答えるだろう。つまり、顔が大きくて鼻先はまるでヘチマの化け物のようで、目がギョロッとしている、鬼のような風体だと。
対して家茂は、『鼻と背が高くて、目の色が違うだけ』だと、事も無げに言っていたのを思い出す。
「……それで、何で横浜?」
「こういう話すると、また政治的で嫌かも知れないけど」
また家茂は前置きして、
「親は、本格的に日本が開国したのがいつか、知ってるか?」
と問うた。
思わず息を呑んだが、『いざとなったら異国へ逃げよう』と言っておいて、『いずれ鎖国に戻すんだから聞きたくないし関係ない』では済まされないと思い直す。
「……知らない」
和宮の答えに、若干間があったのには気付かぬ振りで、家茂は口を開いた。
「最初に米国のペリー提督が浦賀に来たのが、嘉永六〔西暦一八五三〕年。俺らが七つの頃だ。で、日米和親条約って条約が結ばれたのが、翌年の三月。これが、初めての異国との条約締結だった」
異国との条約締結や、異国人のことを言われても、和宮にはこれまでピンと来ていなかった。異国人に関することを、得体の知れない怪物のようにさえ思っていたものだ。
だが、自分たちが七つの頃、などと具体的に言われると、何だか急に身近なことのように思えてくる。
「それを皮切りに、五年後の安政五〔西暦一八五八〕年には、それまでも国交があった蘭国を含めて米国、魯西亜、英国、仏国の五ヶ国との間に、修好通商条約を結んだ。それがどういう条約なのかって説明は今は省略するけど、その反対を巡って起きた事件の一つが、廷臣八十八卿列参事件だ」
「ああ……」
和宮は、初めてその単語を聞いた日を思い出した。もう、随分遠い昔の話のような気がする。
「で、この条約に伴って、日本国内のいくつかの港を開いて、そこに異国人の居住と、各国との貿易を認めた。その時それを認めたのは幕府……当時の大老だった、井伊直弼だけどな。井伊大老は亡くなったけど、その条約は今も生きてるから、条約締結に伴って諸外国に許可したことは続いてる。横浜もその一つで、外国人居留地がある」
「居留地って?」
「異国人が纏まって住んでる場所さ。異国人の街って言い換えてもいい」
和宮は、目を瞬いた。
異国に向けて開かれた港がいくつあるのかは知らないが、その港近郊すべてにそんな居留地があるのなら、やはり鎖国の状態に戻すのは最早不可能ではないのか。
家茂から初めて話を聞いた時から納得はしていたものの、やはり実感を伴う説明を聞くと、まだ自分はどこかで鎖国の状態に戻す目があると思い込んでいたことに気付く。
「……家茂は、その……居留地に行ったことがあるの?」
先刻、彼は崇哉に、『いつもの宿にいる』と言った。行き付けの宿ができるくらいしょっちゅう、その辺りを訪れているのだろうか。
家茂は微苦笑すると、「何回かは」と予想通りの答えを口にした。
「最初に知り合いができたのは、麟太郎を通じてだな。あいつとは、柊和を亡くしてがっつりへっこんでた頃、出会ってさ。蕃書調所が何する所かは、親も聞いただろ?」
「うん」
麟太郎によると、蕃書調所は確か洋学、つまり外国の学問を研究する場所だということだった。近年は外交、すなわち諸外国との政治的なやり取りを担ったりもしているらしい。
「出会った頃、あいつはまだ蕃書調所に勤務してた。いや、籍は置いてたけどそこにいるだけでまあ、実質、勤めてはいなかったのかな。謹一に言わせりゃ、禄だけもらって寝くたれてたってのが正解みたいだけど」
身も蓋もない。
「それでも、稀~にちゃんと仕事してる時もあってさ。そういう時に、時々あそこに顔出してた英国人と、あいつの橋渡しで知り合ったんだ。今はそいつも忙しくしてるらしくて、滅多に江戸には顔見せなくなってるけど」
「じゃ、今日はその人に会いに行くの?」
「そのつもりだ。俺らより三つだけ年上なだけなのに、もう国許離れて、しかも外国にまで来て仕事してるって凄くねぇ?」
「国許って……仕事してるのは家茂だって一緒じゃない」
異国の人間を家茂が褒めるのが、何だか面白くなくて、和宮は唇を尖らせる。しかし、家茂はどこ吹く風だ。
「俺はまだちょっと踏ん切り付かないけどなぁ……だって、国内ならともかく、外国だぜ? 正確には、そいつが日本に来たのは去年の話だ。つまり、十八で外国勤務になってる。いくら居留地内だって、一歩外に出れば自分の国の言葉が通じない所に飛び込むって、すっげぇ勇気要ると思うけど」
和宮の知らない話をする家茂は、目も顔も輝いている。彼にとって興味のある(と思われる)分野の話をしていると、いつもは凛として見えるその容貌が、年齢よりも幼く思えた。
それが何だか可愛らしいような気がして、覚えず唇に笑みが浮かぶ。その笑みを、目敏く視界に捉えたのか、家茂が「何だよ」と透かさず問いを投げた。
「別に?」
「別にってこたないだろ。俺の話、どの辺が笑う要点だった?」
「……何か、新鮮だなって思っただけよ」
「新鮮?」
「うん。自分の興味がある分野に関してこう……目、キラキラさせちゃって。家茂って、実は異国に凄く興味があるの?」
すると、家茂は瞬時虚を突かれたような顔をし、次いで少しばつが悪そうに目を逸らした。
「……ごめん」
「何で謝るのよ」
「いや、だって……お前の平穏な生活ぶっ壊してまで主上がやりたかったことと真逆のこと、嬉しそうに語るとか……悪い。無神経だった」
「そんなこと……」
思ってもみない方向から謝罪され、和宮も一瞬言葉を失う。
「……そんなこと……鎖国は統仁兄様がやりたかったことであって、あたしがしたいことじゃないし……」
口に出してみて気付いた。
(……そうよ。別にあたしが鎖国したかったわけじゃないじゃん。確かに、錦絵の異国人はちょっと……怖かったけど)
実際の異国人は、錦絵とは違うと家茂は言った。ならば、和宮も会ってみればいい。ただそれだけのことだ。
「……あたしこそ、ごめんね。あたし……まだ拘ってたこと、あったみたい」
兄帝や朝廷から託されたこと――家茂に何が何でも攘夷を実行させることを放棄し、皇女であることも内親王であることもすべて捨てたつもりだった。
家茂の隣にいるには、それで充分だと思った。あとは、奥女中たちの心を掴み、彼女たちに長として認められれば、万事が解決するはずだった。
もちろん、熾仁のことは解決していないが、それはまた別の問題だ。一旦脇へ置くとしても、ほかに残っている問題があるとは思っていなかった。今の今まで。
「拘ってたことって?」
「……あたし……統仁兄様が嫌ってるから、あたしも嫌いなんだと思い込んでたかも。異国とか、そこに住んでる人とか」
けれども、それは和宮自身の考えではない。兄妹だからと言って、同じものを好きになり、同じものを嫌いになる必要なんてどこにもないことに、たった今気付いた。
「……家茂」
「ん?」
「もっと、聞かせて。居留地のことや異国のこと……それから、家茂の友だちのことも」
©️神蔵 眞吹2024.




