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第二章・第二話 交わらぬ論議

「……もー、やだ……サイテー……」

 はずむ呼吸音の間に、和宮かずのみやの泣き出しそうな声が挟まれる。だが、家茂いえもちは今朝とは打って変わって、ケロリとしたものだ。

「何がサイテーなんだよ」

「だって……あんな、……面倒くさい、女、みたいな……」

 いや、『みたい』ではなく、実際面倒だろう。

(……呆れたよね……うん、絶対呆れた)

 よりによって、『民とじぶんとどっちが大事?』だなんて、どうして口に出してしまったのか。

(死んでも言わないって思ってたのに……家茂のバカ)

 これで、完全に愛想を尽かされただろう。そうであっても、もう仕方がない。

 半ば覚悟したのに、涙が勝手に溢れてくる。あんな勝手なことを言っておいて、捨てられたくないなんて、本当にどうかしていると自分でも思うけれど――。

「……ちーか

 不意に、背後にいた家茂が、和宮を抱え込むように後ろから抱いた。

「今、何考えてるか、言ってみ?」

 耳朶に口付けられながら囁かれ、和宮は小さく肩を竦める。

「……もう、言わない」

 頬に伝った滴を拭いながら、ぶすくれた声音で答える。が、家茂はやはり動じない。

「いいから」

「だって絶対呆れてるでしょ」

「別に?」

「嘘。でなきゃ、軽蔑したわ。絶対よ」

「してねぇよ。前にも言ったろ? 何があっても軽蔑しないし、ちかを手放したりしないって」

「だって、あたし言ってることおかしいじゃない。自分でもそう思うのに」

「何が」

「為政者の妻としては失格よ。民よりも夫が大事だなんて」

「俺個人としちゃ、嬉しいとしか思えないけど?」

「じゃ、あたしが民を一番に考えてたら?」

「……面白くないかもな」

 明らかに機嫌になった声音に、和宮は首だけを巡らせる。目が合った瞬間、顎先を取られて仰向かされ、唇を短く啄まれた。

 少し顔が離れると、ふてくされた顔をした家茂の顔が見える。

「……俺だっておかしいよ。言ってること全部矛盾してるって、分かってるけど……」

 けれど、それが二人とも本音なのだ。

 為政者としては、民を一番に考えなくてはならない。民の幸せと平穏が一番だ。

 だが、個人としては、ただの恋人であり、ただの想い合う夫婦でいたい。

 結婚した経緯からして、そんなことは許されないのに、そう分かっているのに――まさに、理性と感情の狭間で、グルグルとキリなく回っている気分だ。

 和宮は、家茂の腕の中で身体の向きを変えた。無意識に、両腕が彼の首筋へ回る。抱き寄せるように伸び上がると、彼も和宮を抱き寄せた。

 ごく自然に唇が重なり、徐々に口付けが深くなる。

 今日はもう、何も考えたくない。最近、そう思う夜は日毎に増えている。彼の腕に溺れてそれらを後回しにするたび、考えなくてはならないことが増えていくのも分かっている。

「ッ、家茂……だめ、もう、今日は」

 流され掛けた理性を引き戻すように、彼の胸元を押し返す。が、家茂はやはりあっさりと和宮の制止を無視した。

「まだ、二ヶ月ある。今日くらい、いいだろ」

「……それで気付いたら、明日出発ってことになってるかも知れないのに……」

 そしたらどうするんだ、と上目遣いにできるだけ怖い顔を作って家茂をめ上げたつもりだった。だが、あまり効き目はなかったらしい。

「分かってるって。だから、今日だけ……取り敢えず、何も考えずにいるのは(・・・・・・・・・・)、な」

 意味ありげに言った家茂は、和宮が何か言い返す隙を与えることなく、唇を塞いだ。


***


 その言葉通り、家茂が行動を開始したのは翌日のことだった。いや、正確には翌日開始したかった。

 しかし、抜け駆けは許さないとばかり、翌日は家茂の所為で寝て過ごすしかなかった和宮は、家茂を一日傍から放してくれなかった。


 ――熾仁たるひと兄様の所に一人で行く気なら、許さないわよ。


 そう、ドスの利いた声で言われても、正直痛くも痒くもなかったが、『どうしても一人で行くなら、あたし、家茂に付いて京に行くから』と言い出されたのには、反撃の手がなかった。


 ――それとこれとは話が別だろ。

 ――別じゃないわよ。第一、熾仁兄様の付き纏いには、お兄様だって関係してるんだから。


 確かに、帝が同意しなければ、和宮と家茂の結婚は成立しなかったことは確かだ。


 ――それに、兄様と婚約してたのはあたしよ。あたしがどうしても説得しなくちゃ。

 ――絶対説得し切れないね。お前が目の前に現れたが最後、何するか分からねぇぞ、あの様子じゃ。

 ――そんなの、あんたが相手にしたって同じでしょ。寧ろ家茂が一人で説得に当たるほうが危険よ。

 ――俺が簡単にられるとでも?

 ――そうは言ってない。けど、目の届かないトコであんたに何かあるほうが嫌。


 ここでまず、反論が途切れた。

 立場が逆なら、家茂も同じことを考えたに違いないからだ。


 ――……何かあったとして、お前に対処できんのか?

 ――できなくても一緒に死ぬことはできるから。

 ――……お前、最近二言目(ふたことめ)には死ぬ死ぬって言うけど、大丈夫か?

 ――大丈夫じゃないとしたら、全部周りの所為よ。あたしは周りの攻撃に対して防御してるだけだわ。

 ――防御って、

 ――周りの思い通りに生きるのは御免よ。あたしは最期、周りに向かって『ざまあみろ、あたしはあんたたちの思い通りになる人形じゃないし駒でもない!!』って叫びながら死ぬのが目標なの。


 最早、主題がズレて来たのを感じ、家茂はまたも瞬時沈黙した。

 すると、


 ――今、主旨が変わったって思ったでしょ。


 と、図星を指される。


 ――言っとくけど、変わってないよ。あたしにとって大事なのは、死んでもあんたと一緒にいることだから。


 和宮は、横になったとこから、家茂の手に自分の手を伸ばした。


 ――誰にも邪魔されずに、一緒にいたい。あたしが望むのは、それだけよ。

 ――……たったそれだけのことが、俺らにはめちゃくちゃ厳しいってのは、よく分かってると思ったけど。

 ――頭で分かってるのと、感情とは別物でしょ。


 掴まれた手が、そっと引き寄せられる。


 ――それこそ、あんたも同じ気持ちだと思ってたけど?


 言うと同時に、彼女の唇がそっと指先に触れた。

 反論を持たない家茂には、彼女に白旗を揚げる以外の選択肢はなかった。


 そして今、家茂は不承不承、彼女と馬を並べて熾仁がいるはずの場所へ向かっている。桃の井の調べによると、熾仁はどうやらまだ、慶喜よしのぶ所有の別邸の一つに潜伏しているらしかった。

 慶喜に関しては、どうにか一つの決着を付けた格好になった。まだ決して安心できる形ではないが、確たる証拠がない以上、これで納得するしかない。

 そして、もう一人の大奥侵入の容疑者である熾仁にも、今回何らかの落とし前を付ける必要はあった。とにかく、彼を江戸にとどまらせたまま、何の決着も付けずに、家茂が江戸を離れることになるのは避けたい。

 もし熾仁と、何のけじめも付けられないままに出立の日を迎えるようなことがあったら、本当に和宮を京へ連れて行くよりほかなくなるだろうが、それも避けたい。

 なぜなら――

「――菊千代きくちよ様」

 ふと、思索を遮るように表向きの呼称で呼ばれて、家茂は顔を上げる。

 先導していた桃の井が馬を止めていたので、家茂も自分の乗った馬の手綱を引いた。隣で和宮も馬を止める頃、桃の井は曲がり角の先を指さしていた。

「ここを曲がった先が、慶喜殿の別邸です」

 つまり、熾仁の潜伏先だ。

如何いかがしましょう」

「って言うと?」

「正面から乗り込みますか? それとも裏から密かに――」

「正面突破でよくない?」

 桃の井の伺いを、和宮があっさりと遮る。

「どういう意味だよ」

「だって、裏でコソコソするから、あっちにも付け入る隙を与えるんじゃない。だったら、正面から堂々と行きましょうよ」

「けどなぁ……」

躊躇ためらう理由があるの?」

 キョトンとしたように問われて、家茂は、そっと溜息をいた。

 和宮も、頭の悪い女性ではない。寧ろ聡く、頭の回転は速いほうだろう。だが、皇室というやんごとない生まれの所為か、素直すぎる一面がある。

「……考えてみろよ。仮にも将軍夫妻が何の前触れもなく、そこにいねぇはずの人間を訪ねて現・権中納言ごんちゅうなごんの別邸に出向いたなんて、人の口のにでものぼったら、どんな尾鰭が付くか、分かったもんじゃねぇぞ」

「言いたい人には言わせておけばいいじゃない。あたしたちにやましいことなんかないわ」

「まあ、悪意のある流言なんて、俺も気にする謂われはねぇけどさ。もし下手な噂が流れた時に、その辺あの(・・)有栖川宮ありすがわのみやがどういう風に利用するか、類型いくつか考えるだけでゾッとするね」

 目を伏せ、言ってしまってから、露骨過ぎたかと気付いて口を閉じた。同時にチラリと和宮を見やると、予想通りと言うべきか、彼女は若干青ざめている。

「……あー……悪い。怖がらせるつもりはなかったんだけど」

「……ううん、ごめん。あたしも考えなしだった」

 無意識にか、山桜桃ゆすらうめのような唇に指先を当てた彼女は、軽く深呼吸して見えたのちに、手を元通り手綱に戻した。

「……では、話が纏まったところで、裏へ回りますか」

 桃の井がそう断じ、軽く馬の腹を蹴る。

 家茂と和宮、崇哉たかなりの三人は、異論なく桃の井に続いた。


***


 邦子だけを馬の見張りに残し、家茂と和宮と崇哉は、裏手から慶喜の別邸へ忍び込んだ。邦子を伴うと、熾仁を無駄に喜ばせるだけだろうという、家茂の判断だ。

 慶喜が浜離宮はまりきゅうに幽閉されていることは、一橋ひとつばし家の家人けにんにもしらせが入っているだろうに、この別邸の周囲には、見張り一人いない。

 或いは、守りを固めることで、周辺住人の不審を買わない為かもしれないが、それにしては静か過ぎる。庭先にすら見張りが立っていないのは、現状からするとおかしいと思えるのは、気の回し過ぎだろうか。

 過ぎる静謐な空気が、却って肌にひりつく。たまり兼ねて、和宮は、家茂の袖を軽く引いた。

 何だよ、と言いたげな顔で、家茂の黒い瞳がこちらを向く。

 和宮は、彼の耳許へ唇を寄せ、ひそめた声で「おかしくない?」と疑問を捻りもせずに口に乗せた。

「……何が」

 家茂が、同じほどに声を潜めて問い返す。

「だって、……熾仁兄様がいくら生粋きっすい公家くげだからって、状況が分かってないはずない。だとしたら、見張りくらい立てるはずじゃない?」

 家茂は、唇を小さく震わせたが、言葉を発することはなかった。ただ、和宮の言葉に同調しないわけではないらしい。かすかにひそめられた眉根が、それを示している。

 考え事をするように伏せられた目が、次の瞬間、ハッとしたように見開かれた。

 和宮が何かただすより早く、家茂は和宮の腕を引き寄せ、腕の中に庇う。その前を、崇哉が固めると同時に、バラバラと兵士らしき男たちが数名、三人の周りを囲んだ。

「……これはこれは。どなたかと思えばお揃いで」

 クックッ、と耳障りなような笑いと共に、植え込みの陰へ隠れていた三人の元へ、熾仁が姿を現す。

「熾仁……兄様」

「和宮はこっちへおいで。ほかの二人は、取り敢えず地下牢へ」

「はい、熾仁様」

「寄らないで!」

 思わず和宮は鋭く男たちを睨み付けるが、当の男たちはもちろん、熾仁も動じた様子はない。

「君たちに選択権はないよ。仮にも権中納言の邸宅への不法侵入だ」

「――たかが権中納言風情が、大きな顔をしないことだな」

 それまで黙っていた家茂が、改まった言葉遣いで口を開いた。

「何だって?」

「有栖川宮様は、なるほどこの場で一番貴い方かも知れない。だが、ほかの者たちはどうだ? 将軍たる余よりは、身分が下だと思うが」

 切れ長の目元の中で、黒い瞳が流れるように動く。

 睥睨へいげいされた男たちは、『将軍』と聞くなり、怖じ気付くように足を引いた。

「下がれ! このお方をどなたと心得る。畏れ多くも第十四代将軍、徳川家茂様なるぞ! 控えよ!」

 崇哉が朗々と牽制する。男たちはどうするべきか迷ったように、熾仁へ目を向けた。

 彼らと目が合うと、熾仁はうっすらと微笑し、鷹揚おうように頷く。

「大丈夫。ここの全責任は私が取るよ。だから、安心して将軍と側近を地下牢へ」

「……余が何も手を打たずにこの場にいるとでも?」

 クス、と嘲るような笑みを浮かべて、家茂はまっすぐに熾仁を見据えた。

「何と?」

四半時しはんとき〔約三十分〕しても余たち三人が戻らぬ時は、すべておおやけにするよう手配しておいた。証拠がなくとも、まあ噂にはなりましょうな。権中納言と帥宮そつのみや様が、よりによって公武融和の象徴たる婚姻を潰そうとした、という辺りは」

 熾仁は瞬時、歪んだ笑みを浮かべると、投げるように言った。

「バカな……公になって困るのはそちらでしょう。何しろ、そうして強引に私から和宮を奪い、彼女をめとっておきながら、その最重要の交換条件たる肝心の攘夷をする気配が一行にないことは、それこそ誰の目にも明らかだ。将軍とて、知らぬわけではないでしょう。京で、降嫁推進派の公卿くぎょうと女官がそれぞれ朝廷を追放され、処罰を受けていることは」

「攘夷する気配がない、だけで反故ほごにされていると思われるのは心外だ。これから約定を遂行するかも知れぬこちらと、明らかにすでに公武融和政策を潰しに掛かったそちらと、不利なのはどちらだとお思いで?」

 自信満々に畳み掛けられ、熾仁は反論に詰まったようだった。

 聞いている内に、和宮も瞬時唖然としていたが、慌てて表情を引き締める。

 だが、家茂の言ったことは、すべてはったりだ。もちろん、馬の見張りに置いてきた邦子が、いつまで経っても和宮たちが戻らなければ、何らかの策は講じてくれるだろうが、すべて公にするような捨て身に近いことをやらかすなんて、和宮は聞いていない。

(……あー……いやでも、あたしに内緒でやるかも……やらないとは言い切れないよね、家茂のことだし……)

 そういう意味での、和宮の家茂に対する信頼は、すでに揺らいでいる。言うまでもなく、彼が和宮に危害を加えるような目論見を立てることはないし、彼の愛情も疑っていない。

 けれど、彼はある部分に限定して、だが、和宮も信じていないのだろう。それは、和宮に黙って慶喜と対峙したことからも明白だ。そのくせ、その時邦子は同行させたというのが、未だに釈然としない。

(……別に、男女の情があったなんて微塵も思ってないけどさ)

 そんなことを考えている状況ではないのに、心底から沸き上がるのは、紛れもない嫉妬だ。

(……悔しい)

 唇を噛み締める。未だに、家茂に守られるだけの自分が悔しい。彼の隣なら、戦場にさえ共に立ちたい、戦場でこそ隣にいたいのに――。

 邦子と同じくらい強かったら、同じように情報収集ができるなら、どこへだってついてけるのに、今の自分ができるのは乗馬と、弓を射ることだけだ。

 もっとも、最初に邦子に弓以外の戦術の教えを請うてから、随分経っている。今なら、近接戦はこなせると思っているが、腕試しする場がまだない所為か、自信が持てない。

 無意識に家茂にしがみつくと、和宮の身体に回った彼の腕が、そっと抱き返してくれるのを感じた。

「――どうでしょう。ここは一つ、穏便に取引と行きませんか」

 熾仁の反論がないと見て取ったのか、家茂が口を開く。

「何ですって?」

「元々、先に城の奥まで不法侵入したのはそちらだ。だが、それはこちらの不法侵入で手打ちにしましょう。そして、そちらが公武融和の象徴たる、我々夫婦の婚姻を破壊しようとした件も、此度は不問に付します。もし、帥宮様が即時、京へお帰りくださるなら」

「……断る、と言ったら」

「わたくしが、統仁おさひと兄様にふみを書きます」

 家茂が何か口にするより早く、和宮が改まった語調で答えた。統仁とは、兄帝のいみなだ。

「ここで熾仁様にお諦めいただけぬのなら、統仁兄様にあいだに入っていただくよりありません。元々、わたくしたちの婚約を破談にする決定打を振るったのは、統仁兄様です。わたくしと家茂様が相愛となったのちも、熾仁様だけが過去のえにしに囚われ諦め切れぬゆえに、わたくしは心底迷惑していると……文を届ける者が邦子なら、統仁兄様もお分かりくださいます」

 家茂の腰に手を回したまま、熾仁を見据えて告げる。熾仁は、一瞬呆気に取られたような表情でいたが、すぐに悔しげに唇を噛んだ。

「……私は、君を諦める気はない」

「結構です。いえ、本心は諦めていただきたく、わたくしと添わない熾仁様のお幸せを考えて欲しいと思っています。しかし、今すぐには無理でしょう。ですから、此度はひとまず、江戸から去っていただきたいのです」

 再度、熾仁が沈黙する。

「どうしますか」

 家茂が、問いを重ねた。

「今、あなた様の取るべき道は、二択です。黙って江戸を去るか、和宮様を誘拐しようとした件、それに付随する諸々一切を朝廷と主上おかみに報告するか」

 すると、熾仁はまた少し余裕を取り戻したように、唇の端を吊り上げる。

「主上に報告すれば、困るのはそちらだと申したはずだ。降嫁推進派が追放された今、主上は将軍と和宮の婚姻を悔いておられる」

「悔いても遅いわ」

 和宮は、冷え切った気分で反射的に言った。口調はに戻っている。

「あたしは家茂と出会って愛し合って、幸せなんだもの。今更家茂と引き離されるくらいなら、死を選べる。迷いなくね」

 冷ややかに熾仁を睨め上げるが、彼に動じた様子はない。

「分かっているよ。君は将軍に暗示を掛けられているんだ。でも、私のもとに戻れば、暗示は解けるし、私と一緒になれて良かったと思える日が来るよ。それも、そう時間は掛からないと保証する」

 芯から慈しむような微笑は、昔と変わらない。変わらない、ように見えるけれど、和宮にはもうそれは、執着男の醜悪な微笑にしか見えなかった。

「あたしの気持ちを決め付けないでって言ったでしょう。あたしの気持ちが分かるのは、あたしだけよ」

「そんなことはない。君とは長い付き合いだ。将軍よりも私のほうが、君のことは分かっているよ」

 笑ったまま歩を進めて来る熾仁には、最早嫌悪しか感じない。

「私と帰ろう、和宮。約束通り、一緒になるんだ。ほとぼりが冷めるまで、一緒に隠れて住もう。大丈夫。さっき言った通り、主上は君たちの政略結婚を悔いておられる。破談になるのなら、これ以上ない晴れやかなお気持ちになられるだろう」

「つまり、取引には応じない、と?」

 冷や水を浴びせるような家茂の声に、熾仁はまさに水を差されたという表情で家茂に目を向けた。

「取引とは?」

「あなたが京へ戻る代わりに、こちらは此度の件を一切不問に付すという取引です」

「分からないお人だな。京へ戻ると言っているだろう。和宮を連れてね」

「わたくしは帰らぬと申し上げております!」

 元通り語調を改め、和宮は熾仁の言い分を言下に退ける。

 普段と違う語調が、余所余所よそよそしく響いたのだろう。熾仁は、初めて驚いたように目を見開いた。

何故なにゆえお分かりくださらぬのです。わたくしはすでに家茂様の妻。夫である家茂様を心より想い、い慕っております。もし、統仁兄様がわたくしたちの婚姻に心痛めておいでなら、その必要もご心配もないこと、心を込めて綴った文を出しますので、熾仁様もご心配なきよう」

 和宮が言い募る内、熾仁の眉間にはしわが寄り、眉尻がヒクヒクと震えて下がり気味になる。唇は何か言いたげに戦慄わなないたが、すぐには言葉が出て来ない。

 幾度か開いたり閉じたりを小さく繰り返し、やがて出て来たのは震え声だった。

「……どうして、君こそ分かってくれない? 私は君を心から愛している。君だって同じだろう。十年前の約束通り一緒になることが、互いに幸せになる道だと、どうして分からない」

「あなた様との縁は、すでに終わったのです。どうか、京へお帰りを。それをお願いする為にこそ、わたくしは今日、密かにあなた様をお訪ねしたのです」

「君は私と京へ帰るんだ!!」

 叩き付けるような叫びにも、和宮は動揺を覚えなかった。感じるのはもう、疲労に近いむなしさだけだ。

「……何を言っても無駄なのね」

 吐息と共に、思わず諦念ていねんの言葉が漏れる。

 それは、以前にも思ったことだ。今の彼とはもう、会話すら成り立たない。相手が、こちらの言い分を聞いてくれない、聞く意思さえないのだから。

「行きましょう、家茂」

「……いいのか」

 その『いいのか』という確認に、どういう意味が込められているか、和宮には分からない。

 いや、様々な意味が込められているのだろう。

 説得しに来たのではないのか、穏便に帰ってもらう為ではないのか――もちろん、和宮とて、最初はそのつもりだった。もう一度、誠意を込めてきちんと話せば分かってくれるのではないかと、その一縷いちるの望みを懸けて、ここへ足を運んだ。

 けれど。

「……熾仁兄様には、あたしの言葉は届かない。話し合いは、言葉が通じる者同士の間でなら成立するけど、兄様とは無理ね」

 或いは、とうに分かっていたことを、念の為に確認したかっただけなのかも知れない。

 疲れた目を上げた先にいた熾仁は、どこか青ざめているように思えたが、和宮にはもうどうでもよかった。

「さようなら、熾仁兄様。京までの道中、お気を付けてお戻りください。どうぞ、おすこやかに」

 最後の、『妹』としての誠意と共に、和宮は深々と頭を下げた。


©️神蔵 眞吹2024.

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