第三章・第三話 予期なき暗雲
「本日は、ようやっと上さんとの対面が叶い、恐悦至極に存じます」
文久二年十一月二十七日〔一八六三年一月十六日〕、白書院・上座へ座った勅使、三条実美がふんぞり返って言った。開口一番、嫌みのおまけ付きだ。
建前として結局あれから四日後、一旦城に戻って来た、城主であり将軍たる家茂が下座にいるのは、相手が勅使、すなわち帝の名代だからだ。
実美の隣には、姉小路公知も、腰を下ろしている。
そして、同席を申し出た和宮は、家茂の隣に座し(この席次に落ち着くのに、勅使の二人が身分上下の件で騒ぎ立てて一悶着あったが)、更に下には幕閣の重役が数名、顔を揃えていた。
「早速ですが上さんには、我々の訪問理由は、お聞き及びであらしゃいましょうか」
「はい。攘夷推進のご催促にいらしたとか。主上にはご心配をお掛けし、面目次第もございません」
背筋を伸ばした家茂は、今日はきちんと髷を結い、その上に烏帽子を付けている。初めて出会った時の装いだ。
一房落ちた前髪の下に見える涼しげな美貌から余所行きの言葉が漏れると、とてもではないが、整った容貌と落差がありすぎる普段の言葉遣いは連想できない。
実美たちは、基より想像だにもしていないだろう。
二人は満足げに頷き、実美が口を開いた。
「それでは、我らが来た以上、すぐにでも攘夷を決行いただけますな」
実美は、ニヤニヤとどこか嫌らしい笑みを浮かべて家茂を見ている。大方、見掛け通りのナヨナヨしい(美)少年と思っているのだ。
和宮は、実美を瞬時睨み付け、次いで家茂に目線を移した。直後、彼はその薄く引き締まった唇の端を、不敵に吊り上げる。
が、それは一瞬のことで、勅使の目には留まらなかったに違いない。
「そうしたいのは山々ですが、将軍としての仕事はそれ一つではない。それに、宮様ご降嫁に際していただいた攘夷の期限は、七、八年は先のはずです。婚儀からまだ一年経たぬのにもう催促を受けるとは、こちらとしては些か戸惑っております。主上には何か、左様にお急ぎになる理由がおありで?」
思わぬ迎撃だったのか、実美のほうが困惑した表情になった。が、唖然とした口を急いで閉じた彼は、改めて口を開く。
「いえ、そんな……ですが、婚儀より、直に十月が経とうとしております。この間、幕府には一向に攘夷決行の動きもなく、主上におかれましては、もしや、元の婚約を白紙にしてまで御妹君を嫁がせたのも無意味だったのでは……と、斯様にお悩みであらしゃいますゆえ」
今度は、家茂がかすかに唇を噛んだ。政略結婚の件を突かれると、さすがに反撃の手がないらしい。
「左様なことはございませぬ」
透かさず口を挟んだ和宮に、勅使が見開いた目を向ける。その目線を、しっかりと捉え、和宮は顎を引いた。
「確かに、初めは攘夷の約束と引き替えに、わたくしは幕府に差し出されました。されど、先日も申しましたが、わたくしは上様と一緒になれたこと、ほんに幸せと思うております。主上には、わたくしの幸せよりも攘夷のほうがお大切なのかも知れませぬが……」
「いいえ、宮様!」
「滅相もござりませぬ、主上はそのようなことは決して……!」
大慌てで兄帝を庇うように言い立てた二人は、ふと、同時に同じことに気付いたような表情で、口を閉じる。言葉を発したのは、やはり実美だ。
「……しかし、宮様。つかぬことをお伺いしますが」
「何です?」
「今仰ったこと、よもや幕閣や上さんに強制的に言わされてはあらしゃいませぬな?」
「まさか」
「失礼ながら、確証は?」
「わたくしは、上様を心よりお慕い申し上げているが、この婚儀に際しての幕閣の行いを、許したわけではない。何かコトを強制されたとて、突っ撥ねるでしょう」
そしてそれは、朝廷に対しても同じこと、と付け加えそうになるが、危ういところで呑み込んだ。そんなことを言えば、どこでどう揚げ足を取られるやら、分かったものではない。
「ですが、それすら言わされていない確証がおありで?」
「と言うと?」
「つまり……上さんを心よりお慕いしてあらしゃると」
「バカなことを……ここまでにわたくしは散々自分を曲げなければならなかった。何故、ここでも幕閣の操り人形に甘んじねばならぬ」
思い切り不快感を全面に出してやるが、実美も公知も、負けずに思い切り不信げだ。
「……よかろう。信じるも信じぬも、そなたらの好きにいたせ。だが、その代わり、先日約した口添えはなかったことにさせてもらう」
「宮様!?」
「もちろん、呼称の件は、わたくし自ら文を書かねば収まらぬだろうから、それは実行する」
というか、あの翌日早速書いて、邦子に京へ届けるよう頼んだ。彼女は上臈御年寄りという役職にある以上、そう簡単に大奥を離れるわけにはいかなかったが、彼女の信頼する土御門の手の者が、今頃京へ向かっているはずだ。
文には、呼称の詔を撤回してもらえるよう頼むと共に、勅使の二人に落ち度がない旨も書き添えてある。
「――が、そなたたちを庇うことはやめよう。無論、わたくしが呼称についての詔を辞退した件が、何事もないのに京へ届く可能性は低い。されど、わたくしの口添えのない状態でそなたたちが京へ戻ったのち、万が一まだ城内でわたくしの呼称が『和宮様』となっていない現状が主上の耳に入ったら、そなたたちはどうなるかな」
和宮が畳み掛ける内に、実美と公知の顔色は、見る間に青ざめていく。
(あー、いい気味ね)
爆笑を堪えるのに苦労したという勝麟太郎の気持ちがよく分かる。視線を感じて、チラリとそちらを見ると、家茂が唖然としたような、それでいて笑い出す寸前のような、複雑な表情をその美貌に浮かべていた。
「――そっ、それはともかく!」
微妙な沈黙が落ちたのも刹那のことで、実美がそれまでの空気を叩き切るように咳払いする。
「こちらの用件の本題は、攘夷推進! それも速やかに行っていただくことが肝要にございます」
「万が一、即時ご返答、またはご説明がなき場合、近々に、主上は公武合体のご政略はなきものにするとお考えです」
和宮は目を見開いた。
家茂の横顔も、似たようなものだ。彼は瞠目し、和宮に横目をくれる。
その表情は、険しいものだった。
***
家茂直筆の、『攘夷実行について説明するため、上洛する』旨の返答書を戴き、勝ち誇った勅使が意気揚々と江戸を発ったのは、それから八日後の、文久二年十二月五日〔一八六三年一月二十四日〕のことだった。
和宮から兄帝に対する取りなしをやめる、という言葉に対する意趣返しにしては破壊力のあり過ぎる切り札――要は、攘夷を決行しなければ家茂と和宮は離縁させられるというそれには、和宮も、家茂さえ為す術がなかったのだ。
ただの脅迫だと切って捨てるには、あまりにも危険が大きい。兄帝も朝廷も本来、この婚姻によって得るところはなく、しかも都では降嫁推進派が処罰されている今、この婚姻を白紙に戻しても何ら損はない。
対して、和宮たちは個人的な感情からだが、別れることなんてもう考えられないのだ。
「……本当なら、離縁を受け入れるほうがいいかも知れないけどね」
束の間、訪れた静寂の中、奥の居室で家茂と相対した和宮は、自嘲気味に呟いた。
「何でそう思う?」
家茂は、以前とは違い、静かに確認する。
「だって、そうでしょ? 攘夷なんて実行すれば、異国との戦になるかも知れない。戦は、民を巻き込むわ。あたしは、この国の将軍の妻なのに……為政者の妻なら、民を一番に考えなきゃいけないのに」
呟く内に、鼻の奥が痛んで、制御する間もなく涙がこぼれる。
「……無理だよ。今更あんたと別れるなんて、考えられない。あんたを失うくらいなら、ほかはどうだっていい」
濡れた頬を乱暴に拭って目を伏せる。
「……ごめん。軽蔑するよね、こんな……」
「……いや。親のことは言えねぇ。俺も同じだ」
不意に手首を掴まれ、引き寄せられた。気付いたら、彼の腕の中にきつく抱き竦められている。
「……家茂」
「言ったろ。お前を手放さない為なら、主上に土下座だってできる。最悪、二人で逃げたっていいって」
折角引っ込めた涙がぶり返した。それを呑み込もうとする間に、彼の唇がこめかみへ押し付けられるのが分かる。
「俺だって為政者失格だよ。お前と別れること考えたら……正直、民のことまで考える余裕なんかない」
「家茂……」
彼の名前以外何も言えず、和宮は縋るように彼の背に回した手で、必死に彼の着物を握り締めた。
「……けど、このまま済ます気もねぇよ」
「え」
耳元に囁く声音は、どこか物騒なものを孕んでいる気がして、和宮はパチクリと、涙の残った目を瞬く。
顔が見える所まで離れると、視線の先にあった彼の目は、不敵な笑みを浮かべていた。
***
キョトンと丸くなった目を見ながら、家茂は彼女の顔に、自分のそれを伏せる。軽く口付けて、そのまま彼女を押し倒した。
「えっ、ちょっ……家茂?」
戸惑ったような声に、答える気はない。彼女の帯を解いて、その隙間から掌を滑らせる。
「家茂ってば、急に何……!」
反論する唇を今度はやや強引に塞いで、抵抗する手を押さえ付けた。
呼吸の限界まで口付けた唇を離すと、先刻までとは別の意味で潤んだ榛色の瞳が、当惑の色を浮かべてこちらを見上げている。
「家、茂……?」
名を呟く声に、すでに甘いものが含まれていれば、家茂としては煽られるだけでしかない。
「……嫌?」
何に対する質問か、彼女に分からないはずがない。
彼女はたちまち眉根にしわを寄せ、困ったように眉尻を下げる。
「嫌ならやめるよ。ここんトコ、ずっとお預けだったけど……無理強いは趣味じゃねぇから」
「……バカ……」
彼女が手首に力を入れたので放してやると、彼女の両腕が家茂の首に回る。引き寄せられ、彼女から口付けられたのを了承と取った家茂は、顔を傾け直して、自分からも彼女の唇に、自分のそれを押し付けた。
今すぐ彼女が欲しい――これは、半ば本音だった。
慶喜に重傷を負わされてからこっち、和宮とは床を共にできなかったのも事実だ。それゆえ、正直彼女に餓えていたのは否めない。
けれど、もう半分は、彼女に言えないことを誤魔化す為だった。それと、少しの間でも、彼女には政治的なことは忘れていて欲しかった。
だから、彼女が結局、気を失うまで抱き潰した。
今は意識を手放した彼女の頬に、家茂は緩く握った拳をそっと這わせる。手枕して彼女の隣に横になっていた家茂は、伸び上がるようにして彼女に顔を近付け、唇を啄んだ。
どんな状況でも、やっぱりその唇が甘く思えることに苦笑する。
そっと息を吐いて、家茂は身を起こした。
(……このままじゃ済まさねぇ)
脳裏で呟いた先にいるのは、先日やって来た勅使の二人だ。
建前上、勅使には『攘夷について説明する』という帝への返信を持たせたが、それが不可能なのは前々から承知だ。しかし、その約定の下、幕閣は契約を交わし、和宮の人生を破壊してまで彼女を家茂に添わせた。
その弱みがあるからこそ、朝廷にいいようにいたぶられる今の状況に、家茂は苛立ちを覚える。結局、その約束の下にしか、自分たちの夫婦関係は成り立たないのかと思うと、不条理に身が焦げそうだ。
もちろん、それがなければ、自分たちが出会うことはなかった。無理難題な感のある政治的な契約の結果、出会って愛し合うようになってしまったのだから、皮肉な巡り合わせとしか言い様がない。
それとも、朝廷は家茂と和宮が、互いの手を放せなくなることを見越していたのか。朝廷、延いては帝は、家茂に向かって『和宮を手放したくなければ早く攘夷をしろ』といくらでも脅迫できるのだから、結婚が成立する前より性質が悪い。
無意識に唇を噛み、突いた拳を握り締める。
(くっそ……!)
中性的な美貌に不似合いな文句が、脳裏でだけ吐き捨てられた。
まだ婚儀から一年も経たないのに、家茂は時折、政略だけなかったことにできないかを考えてしまう。何のしがらみも枷もなく、ただの夫婦として和宮と暮らしていけたらどんなにいいだろう。
将軍でさえなければ、そもそも攘夷なんて気にせずにいられる。が、将軍でなければ、彼女と出会えなかった矛盾には、胃が捩れそうになる。
攘夷と引き替えに彼女と一緒になったという立場上、攘夷をしないわけにはいかないし、将軍の座を放り捨てれば、彼女が次代将軍の妻にさせられる可能性も、ゼロではない。
政略とは関係なく、純粋に彼女を愛しているのに――朝廷の口出しがなければ攘夷なんて忘れていられるのに、何かと言えば口を出してくるその存在が、鬱陶しくて敵わない。
いざとなれば本当に、二人で駆け落ちする日が来ないとは言い切れなくなって来た。
言うまでもなく、家茂は和宮と想いを通わせてからはずっと、いつもどこかでその覚悟はしている。今のような生活はできないかも知れないけれど、彼女が一緒なら気にならない。
もっとも、狭い日本国内では逃げ回るしかなく、異国への逃亡も視野に入れる必要はあるが、すでに英語と蘭語は修得済みだ。言葉ができれば、あとはどうとでもなるだろう。
和宮も聡明な女性だから、教えれば言語は修得できると思っている。けれども、今の彼女が異国をどう思っているかは分からないし、このことはまだ家茂が個人的に考えているだけなので、ギリギリの手段だ。
(……第一、真っ先に逃げるのも、やられっ放しも性じゃないし)
立てた膝の上に肘を突き、前髪を掻き上げる。
理由はどうあれ、朝廷の者たち――帝も含めた、京の皇宮に棲む者たちは、またも和宮の人生を壊そうとしている。彼女の意思を頭から無視して、彼女が恰も自分たちの駒ででもあるかのように――それが、家茂には何よりも我慢ならない。
(冗談じゃない。親も俺も、人形じゃねぇんだぞ)
苛立った吐息と共に腕を下ろし、眠る和宮のほうへ視線を落とす。と、横たわった彼女の右前腕部に走る、刀傷が目に入った。
家茂は眉を顰めながら、そっと身体を屈め、彼女の腕を取ってそこへ口付ける。
熾仁と慶喜が襲撃して来た夜に受けた傷は、抜糸はとうに済んでいるものの、まだ痕が薄く残っていた。
(……何とかこのまま消えてくれりゃいいけど)
白くて滑らかな彼女の肌に、見るからに痛々しい刀傷など残しておきたくない。それも本音だが、もっと奥にある本心は、ほかの男を想起させる傷なんて、彼女の身体に付けておきたくなかった。
彼女の身体に痕を残していいのも触れていいのも、自分だけだ。彼女を泣かせるのさえ自分以外の人間がするのが許せない、とまで考えて、家茂はふと我に返る。何だかもう狂気染みていて、自分でも些か寒気がする思考だ。
(……アホくさ。何考えてんだろ、俺)
溜息を吐いて、元通り手枕して床へ倒れ込んだ時、いつの間にか目を開けていた和宮と視線が噛み合った。
「……悪い。起こした?」
苦笑しつつ、彼女の頬へ指先を滑らせる。彼女は、小さく首を振って、自分も家茂へ手を伸ばした。
誘われるように、寝転んだまま彼女のほうへ躙り寄り、彼女の身体に腕を回す。
「……ごめん。無理、させたよな」
いつだかも同じことを訊いた気がする。状況が違うとは言え、彼女に関しては自分の理性は本気でまったく当てにならないことを再確認した気分で、家茂はまた小さく溜息を漏らした。
だが、和宮はこれにも「ううん」とまた横へ頭を振る。家茂の背にしがみつくように回された彼女の腕に、力が込められるのが分かる。
「……平気」
それに、何と返していいか分からなくて、家茂は抱き締めた和宮のこめかみへ、そっと唇を押し当てた。
「……家茂」
「うん?」
不意に呼び掛けられ、首を傾げた家茂に対する和宮の答えは、言葉ではなかった。胸元から伸び上がるように家茂に顔を近付けた彼女は、自身の唇を家茂のそれに押し当てる。
触れるだけの口付けは、温もりだけを残して離れたが、見える距離まで離れた彼女の瞳は、泣き出しそうに潤んでいた。
「親?」
「……抱いて」
家茂が目を見開く間に、和宮は家茂の胸元へ置いていた手に力を込めた。押し返そうとすればできただろうが、家茂はされるまま、彼女に押し倒される形で仰向けになる。
和宮はそのまま、覆い被さるようにして家茂に口付けた。繰り返される、辿々しい接吻に、彼女の望むまま応えてやる。
ふと、それが途切れて目が合う頃には、彼女の頬は濡れていた。口付けによる、生理的なそれではない。
「……どした?」
「……怖いよ、家茂」
頬を拭ってやる動きが、瞬時止まる。和宮はこちらの反応に構わず、まくし立てるように続けた。
「怖い。ねぇ、何であたしたち、周りに運命を握られてなきゃなんないの?」
「親」
「嫌だよ。二度と嫌。こんなに好きになっちゃって、どうして離れられるの。あたしたち、人形でも駒でもないわ」
「分かってるから、少し落ち着け」
先刻、まったく同じことを思った家茂は、首を伸び上がらせ、和宮を宥めるようにその唇を啄む。
目の前で取り乱されると、意外と冷静になれるもんだな、と脳裏でだけ呟いた。だが。
「落ち着いてられない! あたしは嫌よ、あんたと別れるくらいなら死ぬから!」
彼女の言葉に、家茂のほうも早々に何かが外れた。
瞠目した直後には、彼女の身体を押して天地を入れ替える。組み敷いた和宮の身体を抱き竦め、それ以上言わせないとばかりに激しく口付けた。
暴力的な衝動に任せ、彼女の口腔をめちゃくちゃに掻き回し、呼吸の限界を感じてやっとその唇を解放する。
「ッ、家、」
「……死なせるかよ」
瞬く彼女の目をしっかり見つめ、弾む呼吸を整えながら言葉を継ぐ。
「俺だって御免だ。二度と惚れた女を先に死なせるくらいなら、心中するくらいの覚悟はできてる」
「家茂」
「お前を死なせない為なら、何だってしてやる。将軍の座なんて惜しくない、最初から要らなかったんだからな」
けれども、将軍の座にいなければ、柊和の死を乗り越えなければ、和宮と出会えなかった。何度となく考えた、ひどい矛盾と皮肉に、脳の中心が灼き切れそうな錯覚を覚える。
「愛してる」
無意識に言って、また最初から深く口付ける。
息継ぎさえ惜しいほどに、角度を変えて接吻を繰り返す。
「家茂」
唇が離れた瞬間、和宮の潤んだ目が、家茂を見上げた。
「……ごめん。もう言わないから……今日だけいいから、朝まで放さないで」
「……親?」
「何も考えさせないで。何も、考えたくないの、おかしくなりそう」
嗚咽の合間に続く必死の訴えを聞いていられなくて、家茂はまたその唇を自分のそれで塞ぐ。
「……分かった。何も考えられなくさせてやるよ」
思ってもみなかった、法的な離縁の危機。それが、自分たち以外の人間の意思で成されるなんて、確かに思えば気が狂いそうだ。
それを避ける為の策も、反撃も、最悪あの世へ逃げることも――今は、何も考えたくない。
この夜が明けたら、動こう。だけど、今だけは――脳裏で言い訳を繰り返し、家茂は愛しい妻の肌に溺れて思考放棄することを選んだ。
©️神蔵 眞吹2024.




