第二章・第三話 最初の裁断
「すべて撤回し、白状なさい。さすれば、此度だけは不問に付しましょう」
和宮の言葉に、もう何度目かで室内の空気が揺れた。
「……それは、如何な意味でしょうか」
心底不可解、と言う表情で、滝山が首を傾げる。
「先程、そなたはそなたの意思が大奥の総意だと申した。これは撤回しなさい。大奥と言っても、勤める人間の一人一人に意思があり、勤めることとなった理由も異なる。誰もが皆、そなたのように滅私奉公の精神で取り組んでいるわけではないが、それを責める謂われも権限も、そなたにはなかろう」
見上げて、凛と告げると、滝山はまたも顔を強張らせ、唇を噛み締めた。
「そして、先刻亡くなった者は、そなたが殺したのであろう。それを白状せよ。理由の如何によっては、不問に付すと申している」
その言葉がその場に落ちると、今度は呆気に取られたと言いたげな空気が室内に満ちた。滝山も、しばし唖然としたあと、余裕を取り戻したような嘲笑を浮かべる。
「……これはこれは。正義を標榜する宮様らしくもない。殺人犯を見逃すと?」
「そのようなことは申しておらぬ。もちろん、人を殺した罰は受けてもらうが、何故そのようなことをしたのか、理由を訊きたいと言っておるのだ。それとも、まさかそなたは快楽殺人者の類か?」
つまり、理由もなく、ただ楽しみの為に人を殺すのか――そう問うている、と分かったらしい。今度こそ滝山の顔に、真剣な驚きと呆れが入り交じった感情が去来するのが分かった。
ややあってから、ポカンと開いたままの口をユルユルと閉じた彼女は、一瞬俯き、改めて口を開く。
「……分かりました。まず、最初のご下命ですが、一部撤回いたしましょう。確かにわたくしは、大奥を取り仕切る長ですが、あくまでその役職の内の一人に過ぎません。そして、真実大奥を統べるのは、本来であれば仰る通り、将軍正室たる御台様です。わたくしの考えが奥の総意だという言葉は失言でした。申し訳ございません」
滝山は、打ち掛けの裾を捌いて膝を突くと、和宮と家茂、そしてこの場に居並ぶ女中たちに、順に頭を下げた。
「一人一人の意思、という点については、すぐには撤回致しかねますが、これは宮様の此度のご用命ではないでしょうから、保留と言うところで譲歩願います」
「いいでしょう」
即答に驚いたのか、彼女は伏せがちになっていた顔の中で、目を小さく見開いた。
しかし、それは一瞬のことだった。答えに対しての答えのように、会釈すると、言葉を継ぐ。
「そして二点目のご下命についてですが、……仰る通りです。わたくしが、手を下しました」
「何故だ」
室内でどよめきが起きる前に、和宮は問い質す。
「仮に、此度生き残った者の証言で、侵入者の容疑が決定的になった場合、これが表沙汰になれば、折角の朝廷との融和に、またも罅が入りましょう。侵入者の正体は、宮様もご存じかと」
和宮は、眉間にしわを寄せた。
熾仁も慶喜も、有栖川宮家の縁戚――つまり皇室に近い人間の縁者だ。この二人の容疑が確定的で、紛うことなき事実であっても、朝廷の縁者を疑ったとなれば、朝廷で騒ぐ者は当然いる。ましてや熾仁は、和宮の父・仁孝帝の猶子だ。兄帝もいい気分ではあるまい。
「されど」
「ですが、此度偽装出火騒ぎを起こした者は全員死にました!」
和宮の反駁にかぶせるように、滝山がやや大きな声で続け、顔を上げる。
「侵入者は逃げ果せ、手掛かりは不明となれば、大奥内々の不祥事で済みます。内輪の不祥事であれば、朝廷に報せる義務も生じませぬ。どうか、何卒ご配慮を」
「……つまり、証人もいなくなった今、此度の偽装出火事件を、ここで終わりにせよ、調査も打ち切るべしと、そういうことか」
「御意にございます」
「……侵入者も、これ以上追及するなと?」
「はい」
和宮は、思わず両手を握り締めた。先程、滝山から奪い取った薬用の薄紙が、カサリと小さく音を立てる。
(無理よ……だって、そんなの)
つまりは隠蔽だ。
確かに、和宮は今さっき、ことと次第によっては不問に付すと滝山に宣告した。それは即ち、大奥の外へは漏らさないという意味合いだ。
ただ、調査だけは続け、熾仁と慶喜には内々に釘を刺すつもりだった。続けるはずだった調査が、滝山が折角生き残った証人の口を封じた所為で頓挫しそうになっていることも、紛れもない事実だ。
「……断る、と言ったら」
「宮様は、先程申されたではありませぬか。わたくしが、先刻の火之番殺しを自白すれば、此度は不問に付すと」
「ああ、言った。そなたのしたことは不問に付そう。目を瞑るのは、これが正真正銘最後であることも、よく覚えておいて欲しいがな」
素の口調でがなり立てそうになるのを全力で堪えながら、和宮は一つ深呼吸した。
「但し、此度の調査をこれで打ち切ると約束した覚えは、微塵もない」
「宮様!?」
「上様。わたくしの申したことに、何か矛盾が?」
それまで黙って成り行きを見守ってくれていた家茂に目線をくれると、彼は唇の端をかすかに、どこか面白そうに吊り上げた。
「いや。矛盾はない」
「上様!」
「考えてもみよ、滝山。仮に、此度の調査を打ち切り、すべてをなかったことにしたとする。そうしたら、此度大奥へ侵入した曲者は、性懲りもなくまた大奥への侵入を試みるであろう。次は真実、火を放つかも知れぬし、これは言わずに置こうと思っていたが、此度、実は御台が誘拐され掛けた」
家茂の最後の台詞に、女中たちがまたどよめく。
そんな中、家茂は静かに滝山だけを見据えた。
「どうだ、滝山。次に同じことが起きて、その上御台がその時こそ誘拐されたら、そなたは責任を取れるか? 大奥から御台が誘拐され、その犯人がかのお方だと知ったら、主上は犯人のほうを不問に付してくれよう」
家茂は、女中たちの手前か、熾仁と慶喜の名を濁した。
「だが、幕府が御台を返してくれるよう食い下がれば、『主上とその義弟殿下を疑うのか』と朝廷が噛み付いて来た挙げ句に、朝廷との全面戦争にもなり兼ねない。そうなれば、幕府の負けは決まっている。何せ、朝敵となるのだからな」
朝敵――つまり、朝廷と帝に楯突いたという烙印を押されるのだ。
「そなたは言ったな。此度の調査そのものを中止せよと。それが原因で、幕府が朝敵になる事態になったらどうする? まあ、これは最悪の事態というやつだが、そうなったらどう責任を取るつもりだ」
さすがにそこまでは考えが及ばなかったのだろう。さしもの滝山も、うっすらと青ざめ、小刻みに震えている。
「……で、……ですが」
「ですが?」
「ですが、それは……此度の件にも同様のことが言えると、先程わたくしが申し上げました。もし、此度の件でかの方々を疑うていると主上に知れれば、それこそ取り返しがつかぬことになります。上様の仰る事態が起きるのは、遅いか早いかの違いだけでは」
「なるほど、そう来たか」
クス、と不敵な笑みを漏らした家茂は、脇息へゆったりと肘を預け、頬杖を突いた。
それはさり気ない仕草に見えたが、和宮は小さく目を瞬いた。今気付いているのは和宮と――もしかしたら、松本も気付いているかも知れない。
チラリと松本のほうを見ると、彼も周囲に気取られない程度に表情を強張らせている。
家茂が頬杖を突いた時、和宮には彼の頬に伝う脂汗が一瞬だけ見えてしまった。予想以上にこの場の議論が長引いた所為だろう。もう彼は限界が近い。
(家茂)
思わず彼のほうへ顔を向けて、唇を動かす。その瞬間、視線が絡んだ彼は、小さく手を挙げた。まだ大丈夫、そういう意味だろうか。
「……もし、そうなった折には、わたくしが巧く収めて見せる」
しかし、和宮は家茂が次の反論を口にする前に、自分のほうへ滝山の注意を向けるように口を開いた。
「わたくしは、今や朝廷、及び兄帝に託された、『徳川将軍に如何なる手を使っても攘夷を確約させる』という使命は放棄した身だ。どこまで幕府の……いや、上様の盾になれるかの保証はない。だが、兄帝の、わたくしという『妹』に対する情だけは、まだ健在だと信じている。そこに付け込めば、どうにかなるであろう」
「しかし」
「今重要なのは、『次』の事態を防ぐことだ。それには、どうにかしてかの方を止めるしかない。かの方に諦めてもらうしか、もうその手段は残っておらぬ。正確な調査など、最早あの方にとっては何の意味もない……もうお一方に関してはまだ、公的な処罰も有効かも知れぬが」
「……つまり、わたくしにどうしろと?」
「わたくしに従い、協力して欲しい。そなたの心からの、恒常的な忠誠など望まぬし、簡単に得られるとも思っていない。だが、此度だけ、停戦協力に応じてはもらえまいか」
「如何な意味でしょう。邪魔をするなと仰せなら、その通りに。調査の間、奥を出よと仰るのなら、それも従いますが」
「此度の件の解決収束の為には、そなたの持つ情報が要るのだ。ゆえに、協力が欲しいと申している。昨日のようにわたくしからの質問をのらりくらりと躱したり、今朝のように重要な証人の口をあっさり封じたりでは困るのだ。見方によっては、そなたは侵入者の指示を受けていると思わざるを得ないが、どうだ?」
滝山は、さっと顔色を変えた。ようやく、彼女は自身に疑惑が向けられている理由を悟ったらしい。
「そんなまさか……先にも申し上げましたが、偽装出火、及び宮様拐かし未遂に関して、わたくしは潔白です。仮に、侵入者が宮様拐かしに成功した場合、幕府はかつてない窮地に陥るのは明白。わたくしは、左様なことは望んでおりませぬ」
「であれば、幕府の安泰、延いては上様の安泰を願う者同士、今回は手を結ぼうではないか」
和宮は、滝山に手を差し出す。滝山は、今日何度目かで目を見開いた。
「……何を企んでおいでです」
次いで質され、和宮は溜息を吐いて、一度手を下ろす。
「……別に、企んでなんてないわよ。いい加減にして。じゃあ訊くけど、あたしが企むことって何? 幕府の転覆?」
「……まだ、かのお方の許へ帰ることをお望みでしょう。これまでの上様との睦まじいご様子も、我らを油断させる為では?」
「全然。言っとくけどあたし、好きでもない男と……せっ……接吻したり、抱き合ったりする趣味はないし、そんなの耐えられる性分でもないんだけど!」
またも、室内がどよめいた。当然だろう。
口にするのは、正直羞恥が先に立つ言葉だった。自分も随分武家社会に染まったものだ。色々な意味で、恥ずかしさに頬が火照るのが自覚できるが、もう躊躇っている場合でも、恥ずかしがっている場合でもない。
滝山がこう思っているということは、女中の大半もそう思っているに違いないからだ。未だに、天璋院の居所以外の女中の支持が得られない理由も、これなら納得がいく。
そう思うと、違う意味で目眩がした。
「口では何とでも言えましょう」
「ああ、そう。でもあんた、あたしたちの床入りの翌日には色々報告受けてるはずでしょ? 前にも訊いたと思うけど」
「その辺り、誤解があるようですから申しておきますが、寝ずの番の勤務は本来、上様とご側室の同衾時のみです。ご正室との閨の場合、それはございません」
「はあ? でも、あたしたちの初夜なんて、皆が聞き耳立ててたみたいだけど?」
「初夜ですから、ご成婚をお聞き届けするのは当然の義務でございます。しかし、以降はございません」
(マジかよ)
脳裏でだけ言いながら、チラリと家茂を見る。再度、目が合った彼は、さっと目線だけを逸らした。
(覚えてろよ)
口に出さずに短く、何に対するそれか自分でも分からない罵りを吐いて、滝山へ向き直る。
「……分かった。話戻すけど、あたしに企みはない。あるとすれば、先日の侵入者の続けての侵入、及びそれに付随する彼らの目的を頓挫させることだけよ。もっとも、あんたが思い込んでる通り、あたしが幕府をどうこうしようとすることがあるなら、そうすることで家も……上様に利がある時だけ」
「ですから、口では何とでも言い繕えます。宮様を信ずるに足る担保にはなり得ませぬ」
「では、どうすれば協力してもらえる?」
「わたくしでなくとも、御年寄りはあと三名はおります。宮様ご自身が仰ったではないですか」
「取り仕切ってるのはあんたでしょ? それこそ、大奥のすべての人事も」
「それが何か」
「仮に御年寄りがあと三人いても、今の調子じゃ、あんたはこの件の解決の為に、ほかの三人に、親切に引き継ぎまでしてってくれると思えない。どっちにしろ説得の手間が掛かるなら、あんた本人を口説き落とすほうが手っ取り早いでしょ」
滝山は、瞬時口を噤み、半ば睨め付けるように和宮を見上げた。和宮も、負けじと滝山を睨め下ろす。
「……ねぇ、あんたこれからも、こういう面倒ごとが起きるほうがいいと思ってる? それとも、これきりにしたい?」
滝山が、開き掛けた口を閉じるのが分かる。どちらかと言えば答えは後者なのだろうが、素直にそういうのも癪に障ると言ったところか。
「……わたくしとしてはいっそ、火之番殺しとして処罰されるほうが気楽です。そうなれば、堂々と奥をあとにできますし、奥をあとにすれば面倒ごとにも関わらずに済みますから」
小波のようなざわめきが起きる中、和宮はニヤリと唇の端を吊り上げた。
「分かった。じゃ、決まりね」
「はい?」
思わぬ言葉だったのか、いつの間にか逸らしていた視線を、滝山が和宮に向け直す。その視線をしっかりと捉えると、和宮は口調を改め、言葉を継いだ。
「そなたへの罰を決めた。そなたは、火之番殺しの罰として、大人しくわたくしに従うのだ」
「はあ!?」
今度こそ、滝山は頓狂な声を上げた。脇息にもたれて億劫そうにしていた家茂も、目を丸くしている。
最早しばし愕然としていた滝山は、気を取り直すように幾度か深呼吸し、口を開いた。
「……宮様。それは如何なる意味でしょうか」
「言葉の通りだ。そなた、言ったではないか。火之番殺しの罰を受けるほうが気楽だと」
「それは……ですが、それは」
「違う意味だったなどと申すでないぞ。そもそも罪人に、処罰の内容を選ぶ権利があると思うたか?」
何人も反論できないほどのド正論に、滝山はグッと言葉を詰まらせる。
「そなたが気楽になるのなら、奥を去ることなど許さぬ。火之番殺しの罰として、そなたはわたくしを御台所と認め、終生わたくしに忠誠を誓うのだ。そして早速、此度の件について全面的に協力を約束せよ。分かったな」
「宮様!」
「黙れ、無礼者。わたくしは御台所だ。そう呼べ」
「忠誠も要らぬと、先程は申されたではないですか!」
「左様だ。何の処罰も絡まない場なら、個人に心を捩じ曲げるようなことは要求できない。されど、処罰なら別だ。まったく、そなた、いいことを申してくれたな」
クックッ、と堪え切れない笑いが合間に挟まってしまう。滝山はと言えば、自分で口にしたことがどれだけ迂闊だったかを思ってか、反論もできずに歯軋りしている。
「これ以上の異議は聞かぬ! 滝山への処罰を申し渡す。まず、降格だ。御年寄りの身分は据え置くが、最下級へ落とす。そして、此度の件について、わたくしへの協力と、以後の変わらぬ忠誠、次代筆頭御年寄りへの丁寧な引き継ぎを命じる」
「宮さ……いえ、御台様! いくら何でも処罰が多すぎます!」
「異議は聞かぬと申したはずだ。そなたには不問に付された前科もあるのだから、その分まで考えれば妥当だと思うがな。如何でしょう、上様」
家茂に視線を投げると、彼は口元を押さえていた。鼻先から上は明らかに、今にも吹き出しそうなのを堪えている表情だ。
「……大奥のことは、御台の管轄だ。余に口を挟む権限などない」
口元から手を外さないまま、辛うじて絞り出したのがありありと分かる声は、笑いを含んで震えている。
「恐れ入ります、上様」
おどけるように返して、和宮は滝山に目を戻した。滝山は、相変わらず悔しげに唇を噛み締めている。
「さて、どうする、滝山。くどいようだが、そなたには決定権も選択権もない。処罰を受けぬなら自害せよなどという親切な選択肢も、わたくしはくれてやらん」
「……もし、お受けし兼ねると申し上げたら?」
「処罰を拒否する権限など、あるわけがないでしょう。どうせそなたは受け入れるしかない」
「されば、どうするかなどという、それこそ親切なご下問はなさらないでいただけますか」
「これは悪かった。では、返事は?」
ニコリと笑って、彼女を改めて見下ろす。
やはり忌々しいと言わんばかりの表情で拳を握り締めていた滝山は、程なく白旗を揚げた。
©️神蔵 眞吹2024.




