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殉×愛×ハッピーエンド  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
第四幕 リバウンド
31/45

第二章・第一話 非合理に懊悩《おうのう》

「――ちか

 慌ただしく退出した桃の井を見送るように首を捻って、所在なく立ち尽くしている和宮かずのみやに声を掛けると、和宮は微かに肩先を揺らせた。

 ノロノロと首を戻したものの、彼女は目を逸らすように俯いたままだ。

「座って」

 家茂いえもちは、畳を示すように小さく人差し指を上下させるが、和宮は瞼の下で目線を左右させた。

「――あ、もう……家茂は、寝たほうがいいよ。おたあ様と乳母ばあや、呼んでくる」

 力なく告げた彼女が、きびすを返すより早く、家茂は彼女の脚絆きゃはんの上で垂れた袴を素早く掴んだ。

「いいから、座れ」

 有無を言わせない口調でもう一度言うが、ほとんど反対を向いたままの彼女は、こちらへ顔を戻そうとしない。

 はあっ、と聞こえよがしに吐息を漏らし、家茂は掴んだ袴を下へ引っ張った。それに縋るように立ち上がる動きを見せると、彼女は慌てたように自分から家茂の身体に手を伸ばす。

 その手を逆に掴んで引き寄せ、和宮を背後からかかえるように反転させると、彼女の身体に腕を回した。

「えっ、ちょっ、家茂!?」

 泡を食ったように反射でもがく彼女に構わず、家茂は彼女のうなじを確認する。先刻、ふとしたはずみにチラリと見えた、そこに刻印されたあかあとに、彼女の肩先を抱き寄せながら唇を押し付けた。

「や、あッ」

 チュッときつく吸い上げると、彼女がビクリと身体を震わせる。

「いっ、家茂ってば!」

 早くも上擦った声で呼ばれれば、必然続きはしたくなるが、それはこらえた。代わりに啄むように唇を離す刹那、舌先でそこをチロリと舐め上げる。

「上書き。あと、消毒」

「はぁ!?」

「ほかに何かされた?」

「なっ、何かって」

「口づけの痕、付いてた。有栖川宮ありすがわのみやにやられたんだろ」

 息を呑んだように沈黙した彼女が、硬直するのが分かる。

 家茂はまたそっと息をくと、彼女の首筋に顔を埋めるように抱き締め直す。

「……怒ってるわけじゃねぇよ。お前が悪いわけじゃ、ないし」

 ただ、と挟みながら、腕に優しく力を入れた。

「……ごめん。ただの八つ当たりと嫉妬と……自己嫌悪」

「家茂……?」

「悪い……もっと早く駆け付けられてれば、こんな……」

 和宮は、またも沈黙した。言葉の代わりに、自身の身体に回った家茂の腕にそっと手を添え、擦り寄せるように家茂の頭頂部へ頬を寄せる。

「……家茂が悪いわけじゃないでしょ」

「……悪いかも知れないぜ。元はと言えば、あとから割り込んだのは俺だからな。……有栖川宮あいつの、言った通り」

 自嘲気味に呟くと、和宮が腕の中で身動みじろぎした。腕の力を緩めると、こちらへ向き直るように身体を反転させた彼女は、家茂の頬を掌で包んで、自分から唇を寄せる。

 触れるだけの口づけは一瞬で終わったが、彼女の開いた榛色の目と、薄暗がりの中で視線が絡んだ。

「政略を決めたのは、あんたじゃないでしょ」

「……それは否定しねぇけど」

「仕方なくでも脅迫されてでも、江戸ここまで来てあんたに出会って、……あんたを選んだのは、あたしの意思よ」

 家茂は瞠目し、次いで苦笑した。どちらからともなく、唇を重ね合わせ、啄み合う。

「……で、ほかには?」

 唇の離れた瞬間にそう問うと、和宮は目を丸くした。

「ほかにって……ほかには兄様には何も」

「俺が寝てる間に何があったかって訊いてんの」

 すると、和宮はまたも分かり易く身体を強張こわばらせた。

「そろそろ、何で泣いてたかの説明が欲しいな」

「せ、説明って……あたしだって何が何だか」

「でも、俺が寝てる間に何かはあったろ」

「う……」

 彼女が顔ごと目を逸らすのを、頬を捕らえることで阻止する。

「ほら、全部喋る」

「嫌」

 即答で『否』が返って来て、今度は家茂が目を丸くした。

「……何でだよ」

格好かっこ悪いから」

「何が」

「あっ、あたしが格好悪いトコ言わなきゃいけないから、やだ」

「……それを言っちゃー、昨日の俺も割とみっともなかったけど?」

 家茂が目を細めて見つめた先で、和宮が何度目かで目を見開いている。

「……何の話?」

「こんくらいの怪我で気絶して、お前にさせなくていい心配掛けたんだからな。みっともない以外の何でもないだろ」

「そんなっ……そんなことない!」

 急に泣き出す寸前のように顔を歪めた彼女は、首を横へ振った。

「そりゃ、心配したけど! けどっ……それがみっともないとは思わないよ。だって、松本に聞いたもん。そんなに軽い怪我じゃないって……」

「だから?」

「だから……家茂の意思とは関係なく、気絶しちゃっても不思議じゃないし、……生きてるんだから、もういいよ」

「じゃ、お前の話も多分、俺はみっともないとは思わない」

「そっ……それとこれとは」

 話が別、と続けそうな唇を、家茂は自分のそれでやや強引に塞ぐ。

 今、和宮は家茂の傷を気遣っているのか、本当に本気で抵抗して来ない。それをいいことに、家茂は顔を傾け直し、先刻よりも少し長く口づけを繰り返した。

「……なあ、聞かせて」

「……だって……」

 口づけで上がった呼吸の合間に、彼女の濡れた目が恨めしげに家茂を見つめる。そんな風に睨まれても、家茂としては煽られるだけでしかなかったけれど――。

「そろそろ口割ってくれないと、続き、したくなるんだけど」

「つ、続きって」

 その時になって、初めて彼女は距離を取ろうとするが、家茂は彼女の腰を捕らえて放さない。

「……可愛い」

 思わず言って、また軽く口づける。

「ちょっ……家茂」

「信用しろよ。何聞いても、失望したりしないから」

「嘘ばっかり。こないだ同じこと言ってて不機嫌になったじゃないの」

「だーから、ありゃ例外だ。お前だって俺に急に別れ話されたら、多分不機嫌になるだろが」

「そっ……それは……前提が違うって言うか、そもそも別れ話なんかじゃなかったし……」

「こういう時は、まつりごとのことは抜きで話そうぜ。つっても、お前はまた難しいって言うかもだけど」

 和宮は反論を探しているのか、口をパクパクさせながら、目を盛大に泳がせた。だが、腰は家茂にがっちり固められ、空いた手に顎先を押さえられていてほぼ逃げ場はない。

 彼女が白旗を揚げたのは、程なくのことだった。


***


『――誰も、指示に従ってくれないの』


 弱音も弱音、大弱音を吐いてしまって、言った途端、和宮は後悔した。

 元々、御台所みだいどころとしての案件は自分だけで解決するつもりだった。解決まで行かなくとも、自分の内だけで処理する予定だったというのに、りにって家茂に愚痴ってしまうなんて――。

『……ごめん。言うつもり、なかったのに』

『何で』

『だって……』

『格好悪い?』

『それもあるけど、言ったってどうしようもないじゃない。結局あたしが、奥女中の心を自分で掴まなくちゃいけないのに』

 最終的に、『一人で立つ』とはそういうことだ。家茂の寵愛や、兄帝の権威を笠に着ていては、いつまで立っても大奥のちょうとは認められないだろう。

 平時にはそれがいつにも増して難しいのは、天璋院てんしょういんに指摘されるまでもなく分かっていた。

 ただ、兄帝の権威の笠を脱いだ自分が、これ程無力だとは思わなかった。どれだけ自分個人の力を高く見誤っていたか思い知らされ、置いておくように指示したはずの棺が全部片付けられているのを見た時には、絶望さえした。

『あたし……やっぱり必要ないのよね』

 一度愚痴を吐露してしまうと、言わなくていいこと、寧ろ言わないほうがいいことまで口を突いてしまうのは、世の常だろうか。

ちか

『分かってたことよ。“皇女”っていう存在が必要なだけだったんだから、江戸まで来たらあとは用済みよね。元気でいればあとは自分の足で立ってもらっちゃ却って邪魔なんだし、おさとしてあおぐ必要も感じないわよね』

ちか!』

 グイ、と強く左の二の腕を握られ、和宮はハッと家茂のほうを向いた。彼は、まるで自分がぞんざいな扱いを受けたように顔を歪めたまま、和宮の後頭部を引き寄せ、抱き締めた。

『……俺が必要としてる。だから、そんなこと言うな』

『……知ってる。でも、家茂が必要としてくれる“あたし”は、“妻”として……“伴侶”としてのあたしでしょ?』

『それじゃだめか』

『ううん。だめじゃない。けど、あたしは家茂の寵愛に頼らないで、奥の長として立てる女になりたいの』

『焦らなくたっていい。まだ、お前がここに来て、半年とちょっとだろ』

『それは……そうだけど、でも……それじゃ、今回の事件、全然……』

『お前が一人で抱え込まなくていい。俺も関わってるから、今回は二人で掛かろう』

『でもそれじゃ』

 家茂は続きを遮るように、和宮の顔を上げさせて、そっと唇を塞いだ。

『……家茂』

『……愛してる。誰がどう言おうと、俺にはちかが必要なんだ。それだけは、何があっても忘れないでくれ』

 切なげにこちらを見つめる彼の黒い瞳を見つめ返していると、何も言えない気分になる。

 和宮は、へにょりと眉尻を下げて、『……ずるい』と呟いた。

『何がずるいんだよ』

『ずるいわよ。惚れた弱みに付け込むって、こういうこと言うのね』

 思い切り唇を尖らせて目一杯睨み付けても、きっと家茂にはこたえていないことも分かっている。

『だーから、何の話だよ』

 本気で何も分かっていないのか、分かっていない振りをしているのかがまったく読めなかった。


(……こいつ、どこまであたしを甘やかせば気が済むのかしら)

 彼の隣に延べたとこの上に横になり、和宮はやっぱり家茂の閉じた瞼を睨み付けていた。

(あんなこと言われたら、全面的に頼りたくなっちゃうのに)

 あのあと、『今日からお互いの傷が全快するまで、ここで一緒に寝よう』と言った家茂に逆らい切れず、藤がてきぱきと敷いた布団に寝ることになってしまった。

(……それ自体は別にいいんだけど)

 一緒に寝るどころか、もうすでに肌を合わせて久しい。名実共に彼とは夫婦だし、こういう言い方もなんだが家茂にはベタ惚れだし、隣り合って寝るくらいは何ともない。

 だが、和宮にとっての今の問題は、そこではなかった。

(……ホント、どうしよう。家茂は焦らなくていいって言ったけど……)

 掛け布団を胸元に抱え、和宮はそっと溜息をいた。明け切らない夜のこの時間は、まるで和宮の悩みそのもののように思えてしまう。

(……夜が明けたら、邦姉様も戻るかな……)

 邦子が戻ったところで、彼女が答えを持って帰るかは、定かではない。もちろん、彼女の情報収集能力は確かだし、『やる』と言ったからには何が何でもやり遂げる女性であることも知ってはいる。

 しかし、和宮にとって今の大奥は、味方が少な過ぎた。

 味方と呼べるのは、夫である家茂に、邦子、母・観行院かんぎょういん、乳母の藤、そして天璋院――

(…………ヤバい……いや、ヤバいなんてもんじゃないわ、片手で足りちゃう何これ)

 今や、都から随従して来た女官でさえ、味方とは言えない。

 大方は、庭田にわた嗣子つぐこ典侍ないしのすけに同調する考えだから、『和宮が家茂にたらし込まれて、本来の使命を忘れ去った』『使命を忘れた皇女に従う義理はない』というところなのだろう。

 それに、考えだけ同調してくれてはいても、天璋院とて全面的な味方とは言いがたい。『個』を迷いなく採れない時点で、和宮にとっては戦力外だ。

 それに、『戦力』という点で言えば、母も藤もほとんどものの役には立たない。あらゆる意味で、だ。

(……うわー、ええー……ちょっと待って。家茂に味方してくれる川村と勝を入れても、そしたら差し引きでやっぱり片手で足りちゃうじゃん、どーすんの、これ……)

 面倒臭い。そう思いながら、和宮はゴロリと寝返りを打って仰向けになった。

 そもそも、面倒臭さの根源は、やはり熾仁たるひとだ。いい加減、諦めてくれないだろうか。彼さえ和宮に執着するのをやめれば、丸く収まるというのに。

(……でも、あたしだって一歩間違えたらそうなってたかも知れないしなー……)

 もしも、駆け落ち未遂の日のことさえなければ、そして家茂の人柄を知らないままなら、和宮だって未だに熾仁との復縁を願っていた可能性もある。

 だから、これまでは頭ごなしに責められないと思っていた。その躊躇ためらいが、熾仁に付け入る隙を与えているのだろうか。

 それだけならまだしも、今回ついに死人まで出てしまった。亡くなった彼女たちは、公武合体策にまつわるあれこれには、何の関わりもない。ただ、あの日も自分の職務に励んでいただけだというのに――

(……だめだ)

 和宮は、家茂とは反対のほうへまた寝返りを打って、鈍い動作で起き上がる。

(……もう、これ以上は見過ごせない)

 人が数人も亡くなった以上、もう熾仁を放置はできない。

 自身の欲の為に形振なりふり構わず大奥へ侵入し、その結果、人を死なせた。この事実は、とても大きい。

 確かに、手を下したのは熾仁ではないが、一因を作ったことに変わりはない。

(……兄様……あなたは、越えてはいけない一線を踏み越えてしまった)

 布団の端を、無意識に握り締め、唇を噛み締める。

 もしかしたら将来、和宮のよき同胞、よき姉妹となるはずだったかも知れない者たちを、熾仁と慶喜よしのぶは殺してしまった。彼女らのすべての未来と可能性を、永久に潰したのだ。

(もうたくさんよ)

 上の者の勝手で命を絶たれる者が出るのも、その真の死因を隠蔽され、その者が生きていたあかしをなかったことにされるのも――何より、政の犠牲になる無辜むこの民が増えるのが、和宮には耐えられなかった。

 為政者の都合で命を絶たれた者にだって、その者の人生があったはずなのだ。

 それは必然、結婚し、平凡でも幸せな家庭を築くはずだった未来を、幕府上層部と朝廷の一部の臣下の都合で滅茶苦茶にされた和宮と熾仁たるひと、そして、家茂いえもち柊和ひなにも重なる。

 和宮にとっては、その結果結ばれた夫が家茂であったことは僥倖ぎょうこうだったし、今は家茂以外の男を伴侶にするなど考えられない。その相手が、熾仁であっても、だ。

 けれど、それはそれとして、何かの大きな圧力で人生を捩じ曲げられる苦痛や、理不尽に焦げそうになる憤り、悔しさが、和宮には痛いほど分かる。

 家茂にも、きっと理解できるだろう。そして恐らく、熾仁にも――

(……もう、たくさん)

 かつての自分たちと同じ思いをする者が増えるのは、もう嫌だ。そして、それを可能と思い込む権力者が増えるのも、御免だ。

 薄暗い中、ジワリと視界がにじむ。見る見る内に目に一杯になった涙は、あっさりと頬に大粒の滴となって転げ落ちた。


©️神蔵 眞吹2024.

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