第一章・第三話 婚約破棄
(……熾仁兄様、どうしたのかな)
熾仁と清水寺へ出掛けたその夜、潜り込んだ布団の中で、和宮は幾度目かの寝返りを打った。
いつになく優しい、そしてどこか恋人同士の甘やかさを感じさせる所作。それとは裏腹に、どことなく寂しげな微笑。
いつもはそんなことはなかったと思うのに、今日の別れ際に限って彼は、和宮との別れをひどく惜しんでいるように見えた。
やっと想いが通じたのかな、などと、楽天的に考えることもできるだろう。けれども、そう素直に考えるには引っ掛かる。何かがおかしい。
しかし、考えても答えは出なかった。直接本人に確認できればいいが、恐らく訊いてもはぐらかされると分かっている。
考えても仕方がない。そう思っている内に、やっと微睡みがヒタヒタと忍び寄って来た。
そして一晩眠れば、そんなことはもう忘れていた。
その答えが、意外にも和宮の前へ姿を現したのは、この時から二年後――有栖川宮家への輿入れを控え、桂御所に転居してから三月後のことだった。
***
「――破談!?」
松と鶴の題材が描かれた襖に囲まれた雅やかな室内に、甲高く素っ頓狂な声が響く。
いつものように、仕事帰りに訪ねてきた婚約者が、唐突に放ったのは、まさに爆弾発言だった。
「何よそれ、どーいう意味!?」
「宮様」
邦子が、身を乗り出した和宮を宥めるように名を呼ぶ。けれども、和宮はそれを頭から無視して、反射的に熾仁の胸倉に掴み掛かった。
「まさか、今更生まれ年の忌みごとがどうとか言い出す気じゃないでしょーねっっ!!」
「や、それは解決したことだって前にも話したじゃないか」
「だったら何? やっぱり十一も離れた子どもとの結婚が嫌になったの!?」
十六歳で当時五歳の幼女と婚約させられた熾仁の心中は、自分が十四になった今なら察して余りある。
二年前、チラリと脈ありと思えた態度は、数日後に熾仁が訪ねて来た時からこっち、もう元通りで進展はない。未だに彼は変わらず、和宮を『妹』としてしか認識していないのも分かっている。
立場が逆なら和宮だって、今三つの幼子と将来結婚の約束をさせられたとしても、相手を異性と見ることはできないだろう。だから、それを責めることはできない。
(……でもだからって……婚儀寸前のこの仕打ちはあんまりよ)
子どもっぽくしっぺ口になりそうになるのを懸命に堪える。けれども、声の音程が自然低くなるのはどうにもならない。
「だったら、何も婚儀寸前に破談なんて嫌らしい真似しなくたって――」
「落ち着いて。まだはっきり破談と決まったわけじゃないんだよ」
穏やかでいながら、慌てたような熾仁の弁明に、沸騰寸前だった和宮の頭は、一瞬にして冷めた。と同時に、彼の胸倉から手を離す。膝立ちになっていた姿勢から、そろそろと腰を落とした。
そう言われれば、熾仁は『破談になるかも知れない』と言っただけで『破談になった』と断定はしていなかった。
「……でも、そういう話が出てるってことよね……お式は今年の冬なのに何で今更……」
半ば独白のような和宮の呟きに、熾仁はそっと息を吐いた。
「実は、二年前からそういう話は出てたんだよ」
「えっ……二年前?」
二年前、という単語から、和宮の脳裏には、清水寺での熾仁の不自然な態度がよぎった。
「宮は、廷臣八十八卿列参事件について、知ってるかな」
「は?」
不意に、彼の口から飛び出した言葉に、和宮は眉間にしわを寄せた。
「えっ、廷臣……何?」
破談とはまったく関係なさそうな、しかも一度聞いただけでは正確に復唱もできない言葉だ。熾仁は、苦笑しながら「廷臣、八十八卿、列参事件」と、一言一言区切るようにゆっくりと繰り返す。
「二年前に、幕府老中の堀田正睦殿が、米国との条約の勅許を求めて上洛したことがあったんだ。簡単に言うと、その時に、条約締結に反対する公卿や殿上人が抗議したことを指す事件だよ」
「……ふーん……」
なぜ、ここでそんな事件の話が飛び出すのか、まだ和宮の中では繋がらない。繋がらないながら、「熾仁兄様、お詳しいのね」と言葉を継いだ。
「私自身、単独で反対の建白書を提出したからね」
「わたくしの兄もです。兄は、八十八卿の中に名を連ねております」
邦子も神妙な表情で口を挟む。
「へえ……そうなの? それで、その条約とやらはそのあとどうなったの?」
素朴な疑問に答えたのは、やはり邦子だった。
「主上の反対のお気持ちも強く、結果を持ち帰れなかった堀田殿は一時辞任に追い込まれたと聞き及んでおります。ですが、条約のほうは結局、そのあと幕府側が独断で調印してしまったそうです。主上も当時はひどくお怒りで、その頃から幕府への不信感をお持ちのようだとか」
「そう……」
眉を顰めたまま、吐息と共に言った和宮は首を傾げた。
「で、それと今回の破談の話がどう繋がるの?」
「直接どう繋がるかは、私にも分からないんだけど」
前置きした熾仁は、先を続ける。
「その頃から、朝廷はもっと幕府に対して発言権を強めたいという欲を持ったようなんだ。その為に、皇女を降嫁させる策を話し合った方々がいた」
「皇女を降嫁……って」
熾仁の言葉を無意識に繰り返し、和宮は「あれ?」と首を捻る。
「……でも、富貴宮なんてまだ生まれたばっかだったじゃない」
キョトンと呟く。富貴宮は、兄帝の娘で、和宮には姪に当たる。確か、生まれたのは一昨年の六月で、しかも去年の八月頃亡くなっていた。
兄帝には、去年の三月にもう一人、寿万宮という皇女が生まれているが、皇女降嫁の提案があったのが二年前だとすると、その皇女は寿万宮ではあり得ない。
その疑問を込めた視線を熾仁に向けると、彼は曇った表情のまま、首を横へ振った。
「違う。彼ら……つまり、皇女の降嫁を言い出した方々の頭にあったのは、最初から君なんだ」
「……あたし!?」
和宮は、自分を指さして、何度目かで頓狂な声を上げる。
「……って、冗談でしょ!? 何であたしなのよ。あたしなんてもう婚約が決まってるのに!」
「今の天皇家に適齢、且つ独身の姫宮さんがほかにいてへんからや」
「はい?」
身も蓋もない答えを紡いだのは、よく知った、熾仁とは別の人の声だ。
「……実麗伯父様……?」
上げた視線の先に立っていたのは、母方の伯父・橋本実麗だった。
***
「――和宮さんご降嫁の話が、具体的に動き出したんは今年の頭かららしい」
譲った上座に腰を下ろした伯父は、邦子が出してくれたお茶に手を付けることもなく、どっと疲れたような表情で手にした勺を口元に当てる。
重要な話だからと、伯父が来訪した時点で、その場には和宮の母・観行院と乳母の藤も呼ばれ、同席していた。
「その頃から、この話に乗り気なんは、寧ろ幕臣のほうやいう話や」
「どういうこと?」
伯父にこの破談話の責任はない。それは重々分かっているが、どうしても問い質す声は尖ってしまう。
伯父は、和宮の口調に頓着なく、淡々と答えた。
「公武合体、言うてな。天皇家の威光を借りて、失墜した権威を何とか持ち直したい。それが、幕府側の思惑らしいわ」
和宮は、覚えず眉根を寄せた。
「幕府の権威って失墜してるの?」
「そのようですね」
誰にともなく発した疑問に答えたのは、邦子だ。
「浦賀に米国の船が来航し、無理矢理に迫った開国要求に首を縦に振ったのが弱腰だと、一部の幕臣も非難しているとか。黒船来航から最初の条約調印に至る過程で、鎖国体制が崩れたことで、幕府への不信が徐々に高まっていることも否定はできないかと」
「邦姉様も詳しいのね」
思わず感心して言うと、邦子は「情報収集も職務でございますれば」とごく当たり前のことだとでも言うように顎を引いた。
「それはともかく……」
権威を取り戻したい、と思うのは別に構わない。
政治を執る身としては幕府も必死なんだろうから、好きにやったらいいと思うが、和宮にとっての問題はそこではなかった。
「伯父様はさっき、降嫁する皇女があたしって具体的に決まったのは、今の天皇家に適齢、且つ独身の姫宮がほかにいないからだって仰ったわよね?」
「そうや。和宮さんのほかと言えば、宮さんの姉宮に当たられる敏宮さんと、当今さんの姫宮であらせられる寿万宮さんやが、敏宮さんはとうに三十路を超えてはるし、寿万宮さんは去年お生まれにならしゃったばかりの赤ん坊や」
ちなみに、腹違いの姉である敏宮は、別段嫁き遅れて独身、というわけではない。彼女には、歴とした許婚がいた。婚約したのは敏宮が十一の時だが、その翌々年、肝心の許嫁が亡くなってしまったので、以来結婚せず独身でいるというだけの話だ。
市井の民や武家の者なら、妙齢になれば、ほかに改めてよい相手を探して結婚するだろう。しかし、皇族の『婚約』というのは結婚と同等の意味を持っている。婚約したあとで、正式に夫婦となる前に相手に先立たれても、その後ほかの相手と結婚するということはまずあり得ない。
「一方の現将軍・家茂さんは、当年和宮さんと同じ十四歳。年齢も釣り合うから、熾仁さんとのお話はなかったことにして早うご降嫁あれ、というのが幕府の官僚方の言い分や」
「……何なのよ、ソレ」
呆れてモノも言えないとはこのことだ。
年齢が釣り合うから、一度は幕府も認めた結婚話をなしにして、早く嫁に来いとは、随分一方的で乱暴な論説である。
そもそも、『年齢が釣り合えば誰でもいい』的な論理が気に食わない。
「第一、幕府が立った時に朝廷と貴族を政治から引き離しといて、自分が困ったらニコニコすり寄ってきて仲良くしましょうってちょっと違うんじゃない?」
「宮様。正確に言えば、武士が朝廷から政権を取り上げたのは江戸幕府成立よりももっと前ですが」
「ご丁寧な訂正ありがと、姉様」
投げやりに言って、和宮は立てた膝に肘を突いて、また一つ吐息を漏らした。
「……百歩譲って『困った時はお互い様』とか言うんならそういうことにしておいてもいいけどさ。でも……」
結局、今問題になるのは、和宮がすでに婚約済みであること、一度はその結婚を幕府も認めて、あまつさえ支度金まで贈ってくれたのに、あっさりそれを翻したのでは筋が通らないことだ。
その婚儀はこの冬に迫っているというのに、一体何を血迷ったらそんな乱暴な考えが浮かんで、しかも実際に相手に伝えられるのだろう。
もっとも、その答えは、伯父が先刻口にした、『今の天皇家に適齢、且つ独身の姫宮がほかにいないから』である。そうなると、『だから何で』という疑問に戻り、堂々巡りを繰り返すばかりだ。
「……それでお兄様……いえ、主上は何て……?」
そう、腹違いの兄である現帝さえ断ってくれれば、この問題はそれで片が付くはずだ。
和宮は、ワラにも縋る思いで、伯父の顔を見た。
「もちろん、有栖川宮さんとのお約束はもう十年も前からのことやし、幕府も認めた結婚のはず。お式の日取りも内定済みやと、斯様にお断りにならしゃいました」
ある意味、予想通りの返答に、ホッと胸をなで下ろし掛けた。けれど。
「しかし、これで果たして幕府が引き下がるかどうか……やな」
一縷の望みをあっさりくつがえすような台詞が続いて、上昇しかけた気分は元通り地に墜ちる。
発言した伯父は言うまでもなく、母、藤、熾仁や邦子の表情も一様に重い。和宮自身のそれも、似たようなものだ。
「――大丈夫……」
まるで、江戸から迫り来るかのような暗雲を払いのけたい一心で、和宮は無意識に言葉を絞り出していた。
「だって、お兄様がお断りになったんだもの。幕府だって従わないわけにはいかないはずよね……」
呟くように室内に落ちた和宮の言葉に、同意してくれる人はいなかった。
そうであって欲しいと願う気持ちは、きっと、その場にいた誰もが同じだったとは思うけれど。
(大丈夫……)
俯いて、膝に置いた手を無意識に握り締める。
一抹の不安を振り切るように、和宮は自分に言い聞かせていた。
兄帝が同意しなければ、幕府だって無理強いはできないはず。絶対に大丈夫だ、と。
***
しかし、天皇家の威を借りて何とか権威回復したい幕府は、天皇家が思う以上に必死だったらしい。
初めて破談の話を聞かされた日以上に、心なしか青い顔をした熾仁が、『その報せ』を持ってきたのは、深刻な話題とは思い切り不釣り合いな、青空の広がる昼下がりだった。
「……正式に、破談……?」
たった今熾仁に告げられた、信じられないような言葉を、唇が勝手に反芻する。自身の御座所に、弱々しい呟きが力なく落ちた。文章の意味が、うまく頭に入って来ない。
しかし、話の内容を理解することを思い切り拒否する頭とは裏腹に、身体は反射的に動いて、熾仁の胸倉を掴んでいた。――まるで、あの日と同じように。
「正式に破談って……この短期間で何をどーしたら破談なんて話になるのっっ!?」
「宮様!」
ほとんど悲鳴に近い抗議を叩き付ける和宮を、傍に付いていた邦子が慌てて止めに入る。熾仁は、数瞬苦しげに顔を歪めると目を伏せた。
「……一昨日……九条尚忠殿が家に来て……父と話をして行ったらしいんだ」
「誰よ、九条尚忠って」
「現関白様です。准三宮様のお父君ですわ」
答えたのは、邦子だ。
准三宮とは、略称を准后とも言い、太皇太后・皇太后・皇后に準ずる地位を指す。
そう言われれば、現在の准三宮の話は聞いた覚えがあった。会ったことはないが、兄帝の寵愛する后だという。確か、兄は正式に皇后にしたがっているようだが、幕府の反対で、未だ叶わないらしい。
「それで、その九条尚忠が何を話したのよ」
問い質す声音がキンと尖るが、どうしようもない。
邦子の手に無言で促され、ひとまず熾仁の胸元から手を離し、腰を落とした。それを確認したのか、熾仁が口を開く。
「九条関白殿と父との会談内容は、私にも詳しくは分からない。ただ……父は状況をよく飲み込んでないみたいだった。私たちの縁談を蹴らないと、有栖川宮家に災いが降り懸かる、仕方なかったんだの一点張りで……」
早い話が、要領を得ない、というやつだろうか。
「私も、父からは今朝になって話を聞いた。昨日の内に……父は、有栖川宮家からの正式な申し出として、婚約の猶予願いを武家伝奏に提出したらしい」
武家伝奏とは、朝廷にある役職だ。通常、公卿が命じられ、武家への奏上を担当する。
「猶予願いって……」
「事実上、婚約解消願いとして受理されたから、安心しろと父には告げられた」
「そんな一方的な……!」
あまりのことに、それ以上の言葉が続かない。
(安心しろ、ですって? 何が安心よ!)
できることは、将来義理の父になっていたかも知れない相手に、脳内で思い付く限りの罵倒を浴びせることくらいだ。
「それでっ……それで、どうしたのよ。兄様は拒否してくれたんでしょ!?」
またも、問い詰める声は悲鳴になる。熾仁は、表情を苦く苦く歪ませるばかりだ。
「何とか言ってよ!」
沈黙する彼に焦れる。手は勝手に、再度熾仁の胸元を掴み上げていた。
「兄様は平気なの!? あたしがっ……あたしが、ほかの男の所に嫁いでも……!」
しかし、口走り掛けた問いには、自ずと答えが出てしまう。
(……平気よね……)
クスリ、と自嘲の笑いが漏れた。自然、彼の胸元を掴んだ手の力が緩む。
熾仁にとって、和宮はどこまで行っても『妹』でしかないのだ。どんなに可愛く思っていても、どこの世界に『妹』を他家に嫁がせるのが嫌だとゴネる『兄』がいよう。仮に、最初は『嫌だ』とゴネていたとしても、最終的には祝福してくれる兄が大半であろう。
平気じゃない、と言ってくれるとしたら、理由はせいぜい、可愛い妹の嫁ぎ先が気に入らないから、程度のことだ。二年前、対外条約の調印に反対する建白書を出したくらいだから、熾仁も幕府にいい感情は持っていないだろうし――けれど、それはもう関係のないことだ。
もういい、と言い掛けた瞬間、衝撃が襲った。
一瞬、事態が理解できなかったが、程なく抱き締められていることに気付く。ほかでもない、熾仁にだ。
「……兄様……?」
「……すまない……」
耳元に、吐息のような謝罪が落ちる。
「……ごめんよ……どうしてもっと早く気付かなかったんだろう……」
「兄様……?」
「愛してる」
和宮は瞠目した。
彼に何を言われたのか分からない、と思うのは今日二度目だ。
「君を愛してる。失いたくない、できることなら連れて逃げたい」
とっさに言葉が出なかった。夢を見ているようだ。
ずっとずっと、幼い頃から欲しかった言葉。それが現実に紡がれている。
和宮は、熾仁の背に手を回し、力一杯しがみついた。
「……だったらそうして」
「……和宮?」
熾仁の腕が緩む。
互いの顔が見える距離まで身体を離し、見つめ合う。
「お願い、兄様。連れて逃げて、お願いだから」
今なら間に合う。今、この瞬間ここから逃げてしまえば、やっと叶った想いと共にこの男性と添い遂げることができる。
しかし、熾仁は無情にも首を横に振った。
「……できないんだ」
「兄様!」
「できることならそうする。だけど、無理だ」
「どうしてよ! あたしを愛してるって言ったのに!」
「君を連れて逃げれば、恐らく追っ手が掛かるだろう」
「そんなの、払い退けられるわ! 邦姉様はきっと付いて来てくれるし、強いもの! あたしだって馬にも乗れるし、弓だって射られる! 大丈夫だから!」
「聞け、和宮」
静かに、押さえ付けるように返され、和宮は息を呑んだ。これまでに聞いたことのない、低い声だ。
「私たちが追われるだけなら、まだいい。だが、その内宰相中将様……実麗様もこちらへ来られるだろう。……父の話だけでは私もよく分からなかったから、実は父と話し合いを持ったという九条関白様の元へも話を聞きに行った。そうしたらちょうど、中将様もおられて……」
「伯父様が……関白殿と何を……」
「中将様に、降嫁の話が本決まりになったから、宮を説得して欲しいと話しておられた。本決まりになったということは、幕府側へ正式に、天皇家側から了承の返事が送られたということだ」
「そんなっ……ひどい、あたしの意思はどうなるのよ!?」
熾仁は答えなかった。ただ、ひどく辛そうに顔を歪めるばかりだ。
「熾仁兄様!」
答えは、言葉ではなかった。今まで見たこともないほど間近に熾仁の顔がある。
それ以上何も言うことができなくて、ようやく唇が熾仁のそれで塞がれていることに気付く。
彼の唇が離れるまでの時間は、随分長かったようでもあり、それでいてほんの瞬きする間だったような気もした。
長い永い一瞬ののち、熾仁の唇は温もりだけを残してゆっくりと離れていく。
「……熾……」
「……すまない。今の私にはそれしか言えない。……本当にごめん」
再度抱き締められて、吐息に乗せるような謝罪が耳元に落ちる。
拘束が解かれ、彼の温もりそのものが離れた。
「兄様っ……!」
慌ててそれを引き留めようと手を伸ばす。けれども、彼の袖の端は、あとわずか届かず、和宮の細い指先は空を掻いた。
涙で霞んだ視界の中で、愛しい熾仁の背中が遠ざかって行く。彼の直衣に焚きしめられた香の残り香だけが、しばらくの間、尾を引くように漂っていた。
唇に触れる。
初めての――そして、愛する人との最期かも知れない口付けは、甘くほろ苦く、それこそ残り香のように未練を募らせる。
和宮は、唇を拳に当てるようにして俯いた。
酷い。ひどい。ヒドイ。
まだ好きなのに。
こんなに好きなのに。
どうしてあたしが巻き込まれなきゃならないの――……?
©️神蔵 眞吹2024.