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第二章・第一話 緩やかな縺れ

「――何。和宮かずのみや様がそのようなことを?」

 その日の昼間、飼い猫としばし戯れていた天璋院てんしょういん、こと敬子すみこは、輿入れ前からの侍女である幾島いくしまの言葉に顔を上げた。

「左様です。突然の軟化した態度に、今日の総触れに出たお女中は皆、戸惑うばかりであったとか」

「そう……」

 二代目の飼い猫・サト姫を抱き上げ、その背を撫でてやりながら、敬子は目を伏せる。

 義子むすこ嫁となる和宮と顔を合わせたのは、彼女が江戸城入りした時の対面の儀が、最初で最後だ。あれ以来、彼女とは会っていない。

 正確に言えば、彼らの婚儀の折も顔を合わせてはいるが、敬子からすれば遠目に若夫婦を見ただけなので、対面の数に入っていなかった。


 嫁としてやってきた和宮の第一印象は、はっきり言って最悪だった。

 敬子が、和宮と直接会う前に聞いた彼女の話は、この政略結婚をかなりゴネまくったこと、承諾したと思ったら嫁してくるに当たって約定を五つも提示したことのみだった。その点を見ても、眉をひそめる思いだった。

 敬子の常識としては、ある程度の身分の家に生まれたからには、結婚は親が決めて当然のことだった。それが政略であっても、何の不思議もないし、不平を言うには当たらない。

 敬子のように、ある日突然、生家せいかである分家から、本家を経て公家くげの養女となり、それに伴って名前がコロコロ変わっていく例も少なくなかった。敬子自身は幼少より常に、いつ、どうなってもいい覚悟はしながら過ごしていた。

 引き替え、和宮は天皇家という、武家に於いての徳川家に当たる家に生まれついておいて、そんな覚悟もしていなかったのか、と半ば呆れ返っていた。そして、すぐに『いや違う』と思い直した。

 和宮が、生まれた家にも関わらず覚悟がおろそかだったのは、周囲の者の責任だ、と。

 加えて、和宮も家茂と同い年で、まだ若い。ならば、今後の教育次第でいくらでも考えを改めさせることは可能だろう。

 その考えのもと、初対面時には毅然とした態度で筋を通しただけで、敬子としては決して和宮に意地悪をしようという意図はなかった。

 ただ、しとねがなかったというのは手落ちだったと、今も後悔している。身分によらず、たとえ一時いっときの来客であったとしても、茵がないのは失礼だ。

 ところが、座る位置関係だけで彼女は大袈裟に騒ぎ、茵がなかったことも含めて侮辱だと言い放った。兄帝に言い付ける、とまで付け加えたのにはやはり呆れた。単なる脅迫にしても、どこまで甘ったれの常識外れか、と。

 敬子自身も若干頭に血が上っていたので、その時は売り言葉に買い言葉でその場を辞してしまった。しかし、数日して頭が冷えてみると、和宮の発言にはいくつか気になる点があった。

 そこで、幾島にそれとなく調べさせたところ、大いに同情すべき事情が明らかになった。

 和宮には元々婚約者がいたこと。その婚約者と、互いに想い合っていたこと。彼らの婚儀はまさに、幕府が家茂との婚儀を申し入れた年の末に予定されていたこと。

 幕府からの結婚支度料まで贈られていたというから、和宮からすれば、『幕府も認めたはずの結婚を、婚儀寸前になって取り消すなんて!』という心持ちだったのだろう。

 これだけの事情があったなら、身分だのあるじと臣下だのという理屈を抜きにしても、将軍との婚儀を散々に嫌がり、当て付けのように結婚に当たって条件を出したのも頷ける。

 しかも、その婚約というのは和宮が五歳の頃成されたという話だ。であれば、政略結婚の覚悟も何も、彼女が『将来は婚約者と結婚するのだ』と堅く思い定めていたとしても不思議はなく、公平に見ても何ら彼女が責められる謂われはない。

(……ただ……)

 そこまで同情できても、敬子としてはどうにも腑に落ちないものがあった。

 一度嫁してくることを決めたならば、その時に覚悟も決めるべきであったのではないか。

 加えて、あの対面の半月ほどのち、朝廷から『和宮への態度を改めよ』という達しが本当に来たことにも眉をひそめた。

 普段、あまり人を好き嫌いで分別ぶんべつするタチではない敬子も、率直に言って『もう付き合い切れない、勝手にせよ』と早々(そうそう)に匙を投げる格好になった。

 大人げないとは思うが、どうしようもない。こちらが歩み寄ろうとしても、向こうに取り付く島もないのだから。

 あれでは武家のおさ、将軍の正室としての責務も果たせまい。

 御台所みだいどころとしての務めは、家茂いえもちに正室が添うまでのつもりだったが、当分引退はできないようだ。

 和宮の事情や、自分の感情をつぶさに見つめ整理し、やっと切り替えた矢先のことだった。

(……いかな心境の変化やら)

 そうは思ったが、考えれば婚儀から早五ヶ月経とうとしている。

 敬子のほうに、気持ちの整理を付ける時間があったと同様、和宮にも心境の変化をもたらす何かがあったとしても、おかしくはない。

「……幾島」

「はい、天璋院様」

 改めて、和宮の身辺を調べ報告して欲しい――そう告げようと、口を開き掛けた、直後。

「失礼いたします、天璋院様」

 中臈ちゅうろうの一人が、座敷と縁側の間にある廊下である入り側に膝を突いた。

「何用じゃ」

 幾島が振り返って訊ねる。

 すると、中臈は頭を下げながら、意外な客の来訪を告げた。


***


「天璋院様――いえ、義母君ははぎみには先触れもなく、御前失礼いたします」

 天璋院の居所を訪れた和宮は、躊躇ためらいもなく下座に腰を下ろすと、手を突き頭を下げた。

「……苦しゅうない。おもてを上げて楽にせよ」

「恐れ入ります」

 言われて顔を上げると、あの日以来の天璋院が目に入った。

 凡庸な造作、しかしどこか凛とした空気の持ち主である彼女は、凪いだ湖面のような瞳で和宮を見つめる。その瞳の表情は、どこか家茂に似ていた。

 とは言え、家茂は、天璋院と先代・家定いえさだの実子ではない。血の繋がりなどないのは明らかなのに、それがやはり母子おやこの証明のようにも思える。

「久方振りですね。そなたと話をするのも、そなたが江戸城入りしてからの対面の儀以来か」

「はい。その節は、大変な無礼を働きました。まずはそのことについて、心よりお詫び申し上げます」

 和宮はもう一度、深々と頭を下げた。

「加えて、かようにお傍近くに住まっているのに、ご無沙汰をいたしました。重ね重ね非礼の段、何卒お許しのほどを」

「何を申す。おもてを上げなさい。この義母ははも、そなたの事情など何も知らなかったゆえ、厳しいことを申しました。ですが、そなたも考えを改めたのですから、互いに水に流すこととしましょう」

「かたじけのうございます」

 ゆるゆると頭を上げ、背筋を伸ばしたまま、再度会釈するように顎を引く。

「義母君に於かれましてはご健勝のご様子、祝着に存じます」

「ご丁寧なご挨拶、いたみ入ります」

「……まったく、どのようなおつもりでおいでになったのやら」

 直後、小さく呟く声が耳に入るが、和宮は気にしなかった。いや、気にしないよう努めた。

(……てゆーか、陰口にも大分慣れたというか……聞かないと却って物足りない気がするのもどうかと思うけど……)

 内心で呟いて、そっと息をく。

 ここへ来るのも日を置こうかと思っていたが、日を置いては来辛くなるような気もした。それに、『とことん付け上がりそう』な女中たちを押さえるには、和宮だけでは残念だが力が足りないのも分かっている。

 兄帝や朝廷を当てにせず、女中たちを制御する為に、あらゆる感情を排除して合理的に考えると、天璋院の協力を得ることが一番手っ取り早いことも分かっていた。

 何より今日、女中たちに頭を下げると決めた時、『皇女としてのすべて』を捨てることも覚悟したのだ。

 今更、誰から何を言われようが、誰にへりくだろうが、痛くも痒くもない。

(……全部、何でもないわ。家茂の隣にいる為なら)

 強がりでも何でもなく、今和宮の心中は、むしろ晴れやかだった。

 下らぬ意地を捨ててみれば、天璋院とて決していけ好かない女性ではないことも、何となく分かる。

 ――などとツラツラ考えていると、天璋院が「今のはたれぞ」と口を開いた。

「えっ?」

 ポソリと嫌味を言ったと思しきお女中が、慌てたように漏らす。和宮は反射で声のしたほうへ顔を巡らした。

 視線の先にいた、格好からするとお中臈は、彼女のあるじである天璋院に目を張り付かせ、身を縮めている。

「どのようなつもりも何も、和宮様はしゅうとめであるわたくしに挨拶に参られたのだ。下らぬ邪推をして、和宮様をご不快にさせるようならすぐさまこの場を去るがよい。ながいとまを出すゆえ、戻らずとも構わぬ」

「そんな、天璋院様……!」

「義母君」

 和宮は、慌てて天璋院に向き直った。

「どうぞ、この者をお許しください。これまでのわたくしの態度ゆえに、この者の中にはわたくしへの悪感情が渦巻いているだけなのです。決して悪気があったわけではないでしょうし、仮にあったとしても実際にわたくしの身が傷付いたりしたわけではございません」

 やや嫌味だったろうか、と言ってから思うが、まあ仕方がない。けれども、天璋院は「いいえ」と首を振った。

「そなたがこのように武家の習いに従い、態度を改めたのです。わたくしも、水に流すとはっきり申した。にも関わらず、そなたを現御台所と認めぬこの態度は許しがたい。加えてその者は、正真正銘、御台所であるそなたよりも身分が下。にも関わらず、暴言を吐いた者を許しては、大奥の規律が乱れます。これも、武家の習いです」

 和宮は、一拍の間を置き、「それは、肝に銘じます」と言ってから続ける。

「ですが、……恐れながら、お訊ねしてもよろしいでしょうか」

「何です?」

「それでは、規律と身分で下の者を押さえ付けることになりはしませんか?」

 天璋院は、目をしばたたいた。

「どういう意味です」

「規律は大切でしょう。それはよく分かっております。しかし、身分の威光で下の者を押さえ付ける……それは、これまでわたくしが無意識にしていたことです。それを、今になって深く恥じ入り反省しておりますが、謝罪も反省も、押さえ付けられた側はすぐに受け入れられるものではございますまい」

 天璋院のみならず、彼女の周囲にいたお女中たちも皆唖然としている。まるで、総触れの再現だ。

 だが、総触れの時のように吹き出したい気分にはなれぬまま、和宮は言葉を継いだ。

「これまで……奥の規律を乱してきたわたくしが、本来申せた義理ではないことも、承知しております。ですが……その者が、わたくしや、わたくしに随行してきた女官たちに対し反発をいだくのは当然のこと。ゆえに、しばらくはその者のみならず、ほかのお女中がわたくしをざまに申しても、構わず大目に見てはいただけぬでしょうか」

 言い終えて、食い入るように天璋院を見つめる。

 天璋院も、静かに和宮を見つめ返し、やがて口を開いた。

「……分かりました。そなたがそう言うなら、この場では特別に許しましょう。ですが、いつまでもというわけには参らぬ。それはご理解を」

「心得ております。あの……義母君」

「何か?」

「わたくしは、これから御台所として学ぼうという状態です。今後も、教えを請いにこちらへ運ばせていただいてもよろしゅうございますか?」

 すると、またも天璋院は目を瞠る。周囲のお女中も、言うに及ばずだ。

 しかし、天璋院はやがてうっすらと頬を綻ばせ、「もちろんですよ」と頷いた。


***


「……いったい……まことにどのような腹積もりでありましょうや」

 和宮が敬子の居所を辞し、入り側の角を曲がる。彼女の姿が見えなくなった途端、幾島がどこか憤慨したように口を開いた。まだ、お付きの女官の後ろ姿は見えているのにだ。

「……確かに……どういう心境の変化があったか、私も気にならぬではないが」

「何か企みがあるに決まっております! ご対面の儀の折、受けた侮辱をお忘れではないでしょう?」

 幾島は、たった今さっき、その侮辱を受けたかのように怒りっ放しだ。

 しかし、敬子はやんわりとたしなめる。

「おやめなさい。素直に詫びを入れた者を更に打ち据えるなど、それこそ武家の人間がすべきことではない」

 今年で五十四になる幾島を、未だ二十六の敬子が宥めるのは、何やらあべこべな感があったが。

「しかしっ……」

 年甲斐もなく、更に何か言い募ろうとした幾島は、敬子の睨むような流し目を受け、口を閉ざす。

「……左様に申すのであれば、幾島」

「何でしょう」

「少し……宮様の身辺を調べては貰えぬか」

「調べる……とは?」

「いえ……調べるというのは適切ではないな。数日、生活を見守って、そのさまを報告してくれるとありがたいのだが」

「見守る……でございますか」

「うん。あのように心境の変わった理由が知りたい。彼女の生活を見れば、その理由がおのずと見えてこよう。私が直接見に参れればよいのだが、そうしたら却って目立とうし……」

 敬子は、先刻と打って変わって、穏やかに幾島を見た。

 しばし見つめ合った末、幾島は「承知いたしました」と頭を下げた。


***


 他方、和宮のほうでも、居所に帰り着いた途端、噛み付いてきた者がいた。

「宮様! いったい、どのようなおつもりであの武家女に頭などお下げに!?」

 上段之間じょうだんのまの上座へ和宮が腰を落ち着けるなり、その向かいに座った庭田にわた嗣子つぐこが、キャンキャンと叫び出す。

 天璋院の居所では決して口を出さぬようにと厳命しておいたので、それは守った反動だろう。

「本日の宮様は、まことどうかしておられるのではあらしゃいませんか!? そのように、武家風の着付けまでして! お女中連中にまで頭を下げたと聞き及んでおりますが、幕府や大奥に媚びていかがなさるおつもりです!! 皇女として、内親王としての誇りをお忘れですか!?」

(……今日、突然あたしが狂ったみたいに言われても困るんだけど)

 和宮は、かすかに眉根を寄せる。吠えまくる嗣子の言い分が、どこか遠い場所から聞こえる騒音のようにしか思えなかった。

 皇女として、内親王としての誇りも意地も、とうにその辺に捨てて久しい。ただ、それを表明する機会がなかっただけだ。

 手応えがなかったのが不満なのか、嗣子は膝行しながら、盛大に眉間にしわを寄せて言い募る。

「そもそも、わたくしどももこちらへ参る道々、また、江戸城へ入っても常々申し上げていたはずです。お役目をお忘れめされませぬようにと」

 役目――幕府に攘夷を、異国を打ち払う仕事を達成させること。

 そんなことは分かっている。

 だが、分かっていることと、それが実質できないこととは別問題だ。

「宮様ご自身も、公方くぼう様にはなびかぬと、固いご決意の上で、この江戸城へ入られたのではあらしゃいませぬか」

(……それはそうだけど)

 そこを突かれると、和宮としてはかなり痛い。

 つい先日、熾仁たるひとにも、たった四月よつき(厳密には四月ではないが)でどうしてそんなにあっさり心変わりできるのか、と責め立てられたばかりだ。

 けれども、実際に家茂に会って、その人となりに触れれば、誰だって彼に好意をいだく、とまで言っては妻の欲目だろうか。

「それでなくとも、このところの宮様のご様子は見るに耐えませぬ。公方様と人目もはばからず、所構わずむつみ合われる始末。わたくしは、どのように主上おかみへご報告申し上げればよいやら、戸惑うばかりにございます」

 何と反論すべきか分からず、和宮は沈黙しっ放しだ。

 所構わずの下りは一理あるから、反駁はんばくの余地はない。ただ、和宮の名誉(?)の為に言うなら、家茂には人目のある場所では口づけなどはやめてくれるよう言っているが、彼が聞かないだけだ。

(……まあ、あたしも嫌じゃないから、その点はやっぱり反論できないんだけどさ)

 終始、口を噤み続ける和宮が言葉にきゅうしていると見たのか、嗣子はここぞとばかりに畳み掛ける。

「そろそろ、定期報告を京へ送らねばなりません。呉々も、わたくしの報告が嘘になりませぬよう、宮様には言動をお慎みくださいますよう、お願い申し上げます。お分かりになりましたら、まずは、その着付けを御所風にお戻しになられませ。それから、お女中への詫びも天璋院へのそれも撤回し、御台所の称号は受けられませぬよう」

「……何よ、それ。あたしが言動を慎むのは、あんたの名誉の為なの?」

 考える余裕はなかった。

 反射で覚えた不快感のままに、投げるように言い放つ。途端、嗣子の顔色が変わった。

「いえ……いえ、そうではなく……」

 失言を取り繕おうとするように、嗣子はわずかに後退あとじさり、平伏する。

「そう。あなたがそのつもりなら、ちょうどいい機会だから言っておくわ。邦姉様」

「はい、宮様」

 苛立った声音のまま話を振られたものの、邦子はいつも通り静かに頭を下げた。

「同じことを二度も言うのは面倒だから、女官には時機を見て姉様から話してくれる?」

「何を、でございましょうか」

「あたしは上様をお慕いしている。だから、彼の為なら何だってできるし、何を捨てても惜しくない。彼の負担にならない為なら、ここでの生活を武家風に改めろと言われればそれもいとわないわ」

「宮様!」

「黙りなさい。そなたに発言を許した覚えはない」

 思わずと言った口調で言葉を遮ろうとした嗣子に、和宮は冷えた温度の声を投げ返す。

「上様とあたしがどこでいちゃつこうと、そなたを含めた女官たちにとやかく言われる覚えはない。今後は、いちいち奥女中たちと衝突するのもやめて。いい? 言動を慎むのはそなたたちのほうよ」

「ですが、宮様」

「いいのよ? お兄様に、ありのままを報告してくれて。そなたの名誉が傷つくものねぇ? あたしは構わないわ。夫と睦まじく過ごしているって報告されたって、後ろゆびされる理由はないもの」

「宮様」

「話は済んだわ。下がりなさい。不満ならいつでも京へ帰って構わないのよ。あたしはまったく困らないから」

 言うだけ言ってしまうと、さっさと立ち上がって御休息之間おきゅうそくのまへ引き上げた。下がれと言っておいて矛盾しているとは思ったが、彼女はきっといつまで経っても腰を上げないような気がしたのだ。

(何が分かるって言うの)

 苛立ちのままに、胸の内で呟く。

 京から共に来て、大奥での苦楽を共にした彼女らにも分からないことがある。

 政略の道具にされる理不尽への怒りは、今も確かにある。けれど、それ以上に、家茂と過ごす時間は大切だ。

 第一、彼と夫婦になれと強制したのは、周囲の人間――和宮を政治の道具扱いした人間たちだ。だから、夫婦になったのだ。そうして、彼に惹かれ、愛した。

 その何が悪いというのだろう。

 彼を愛して、彼も愛してくれて、そうして二人、他愛のない幸福な時を過ごすことを、どうして咎められなければならないのか。

(もうやめるって、決めたもの)

 見栄を張るのも、意地を張るのも。

 家茂の隣を守る為なら、身分を尊重されることにこだわるのもやめると決めた。

(……ただ……)

 和宮の中ではどうしても一つだけ、引っ掛かりがある。お柊和ひなのことだ。

 家茂本人は、『もうケリは付いている』と言っていたけれど、そんな言い分は、和宮に気を遣っているだけだということを分からないほど、鈍くはないつもりだ。立場を逆にしたらまさに、ケリを付けるのはそう容易たやすくないことくらい理解できる。

 和宮の場合、前の想い人である熾仁に一旦愛想を尽かしてから、家茂に出逢った。今の想いは二度目の恋のようなものだから、熾仁が目の前にいなければ、さして気にはならない。

 けれども、家茂はどうなのだろう、と答えの出ない問いは、和宮の中で延々と繰り返されている。

 寿命で死んだのではなく、殺された恋人。しかも、殺される切っ掛けとなったのが、和宮との縁談なのだ。どうしたって簡単に割り切れるはずがない。

 御休息之間にしつらえられていた、茵に腰を下ろし、脇息にもたれる。

 どこかで割り切らなくてはならないのは、自分のほうだ。だが、そうできる日が来るのだろうか。

 いつものように堂々巡りを始めた思考を持て余しながら、和宮はそっと吐息を漏らして視線を落とした。


©️神蔵 眞吹2024.

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