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第一章・第二話 打開への模索

 そしてまたしばし、室内には沈黙が満ちる。

 やがて、溜息混じりに「……まあ、ある意味予想通りっつか……」と静寂を破ったのは家茂いえもちだ。

「……あの、宮様」

「何?」

 やや疲れた様子で口を開いた邦子に、和宮かずのみやはやはり疲れた声を返す。

「やはりここはその……皇女の名のもと、どうにかしていただくわけには」

 邦子が、気持ち身を低くして伺いを立てる。しかし、和宮は素気すげなく「嫌」と即答した。

「その必殺技、もう使わないって決めてるから」

 途端、家茂が軽く吹き出す。

「……何で笑うのよ」

「……ッッ、いや……必殺技って言い方が何か」

 クククク、と笑いの残滓を引き摺る彼に、自然唇が尖った。

 じっとりと睨め付ける和宮に、家茂は苦笑混じりに笑いを引っ込める。

「……なあ。その必殺技だけど、何で打ち止め決めたんだ? 前にも訊いたけど、答え聞きそびれてたろ」

「え、あ」

 前にも訊かれたっていつだっけ、と記憶を辿り、途中でやめた。あのあとあったことを思うと、顔が火照りそうになったからだ。

 それでも無意識に頬に手を当て、伏せた瞼の下で視線をウロウロさせたあと、ノロノロと手を下ろす。

「……あんたの……本当の妻になりたいから」

「本当のって……」

 今ももう妻だろう、と言いたげな顔をして、家茂は首を傾げる。

「あたし……これまで少しこだわりすぎてたって思って」

「実家にってことか?」

 小さく頷いて、口を開く。

「そりゃ……今だって複雑よ。幕府が無理難題吹っ掛けて、元々の結婚、破談にした汚いやり口は忘れられない。だけど……」

 おかげで家茂に会えたのだから、幕閣が悪いとばかりも言えないのが悔しい。

「あたし……今回の件で、もう色んな意地を張るのやめるって決めたの。あんたと一緒にいられることを一番に大事にしたい。ただその為には……あたしが家茂の本当の妻になる為には、奥女中に認められないといけないと思って」

「宮様、そんな……」

 思わず、といった様子で口を開き掛けた邦子は、我に返ったように自らの口元を手で押さえ、俯いた。

 家茂は、何も言わなかった。黙ったまま、和宮を見つめている。

「彼女たちに認められるには、いつまでも『皇女』とか『内親王』を振りかざしてちゃだめなのよ。どの道、お兄様や朝廷から期待される働きを放棄するんだから、天皇家の後ろ盾なんてもう期待できない。だからあたしは一人で……実家の威光を笠に着ないで、家茂の隣に立てる女にならなくちゃ」

「……じゃあ、今回の奥のほうの収拾は宮に任せる。それでいいんだな」

 静かにそう確認され、和宮は瞬時怯んだ。家茂と目を合わせていられず、伏せた瞼の下で視線をさまよわせる。

「……無理しなくていいんだぞ」

 そう苦笑混じりに言われて、キュッと目を瞑り、勢いよく首を横に振った。

「……大丈夫。あたし……できるから。平気」

 半ば以上、強がりだったのは見透かされていたかも知れない。

 家茂は、苦笑混じりに吐息を漏らすと、立ち上がった。和宮の前に膝を突いた彼に、軽く唇を奪われる。

「家茂」

「……分かった。思ったようにやってみろ」

 と言った割には、家茂の顔には苦笑のような表情が浮かんだままだった。

「ごめん、あたし……頼りないよね」

 添えられた手に、頬を摺り寄せるようにして自嘲混じりに言うと、和宮の額に自身のそれを押し当てた家茂は小さく首を振る。

「……少し……心配なだけだ」

 大丈夫、と即座には返せなかった。正直、和宮自身も収拾が付けられるかどうか、自信がない。

 江戸へ来た当初、あれだけ衝突しておいて、今更ニコニコすり寄って『仲良くしましょう』は通じないかも知れない。京にいる時――家茂との結婚話が持ち上がった際、いみじくも自身が言った言葉だと気付くと、益々事態を収める自信が失せていく。

 目を伏せたままでいると、仰向かされ、再度口づけられた。

 深くて長い口づけに身を委ねていると、不思議と不安が溶けていくような気がする。

 やがて啄むように一度唇を離した家茂は、和宮をそっと抱き締めた。

「……どうしても無理だと思ったら言えよ。その時は俺が全部引き受けるから」

 耳元に落ちる柔らかな声音に、涙が出そうになる。和宮は家茂の背に手を回し、彼の腕に甘えるように頬を寄せた。

「……そうならないように努力するわ」

 すると、家茂が息を呑んだのが分かる。

「……何よ」

 眉根を寄せて顔を見ようとするが、家茂は和宮を抱き締めたままだ。

「お前って」

「何」

「本っ当、頑固だな」

 耳元で言われて、そのまま首筋に彼の唇が落ちた。


***


 自分で何とかする、大丈夫――とは言ったものの、和宮はその、中々きっかけを捉えられずにいた。

 そもそも、女中の不満を鎮めると言っても、どうすればいいのか、皆目見当も付かない。

 そんなわけで、家茂とも顔を合わせ辛いと思っていたが、家茂のほうもこの何日かは忙しかったのか、申し訳程度に奥に顔を出すくらいで、泊まることはなかった。


「結局、朝廷の要求、丸呑みすることになったよ」

 と、家茂が溜息混じりに告げたのは、滝山と話をしてから九日後のことだった。

「要求って……熾仁兄様が最初にいらした日に、あんたに渡した書状の中身のこと?」

 眉をひそめて問うと、家茂も苦い表情を浮かべて頷いた。

「まあ、今日まで返事を引き延ばしはしたけど、どっち道断れなかったからな。相手は勅使だし」

 和宮は、思わず家茂の顔から視線を逸らす。

 相手が勅使であろうと、幕政に口を出させることを、普通なら受け入れるはずはない。これが、遙か以前、たとえば家康の頃だったら、こうはなっていないだろう。

 しかし昨今、黒船の来航を機に、幕府の権威は傾いていたと聞いている。それを、どうにか持ち直そうと図った策の一つが、公武合体――家茂と和宮の結婚だった。

 だが、婚儀に漕ぎ着けるまで、互いの陣営で一悶着も二悶着もあった。結果、却って幕府の権威は地に落ちているように、和宮には思えている。

 幕閣は、この結婚を成す為に、朝廷に平身低頭し、あらゆることを譲りまくったのだ。その最たることが、攘夷の実行だ。

 けれども、そんなことは不可能だと、今は和宮でも知っている。しようにもできないのが、現実だということを。

 その弱味もあるから、幕府はもう朝廷に強く出ることはできないだろう。

 できもしない攘夷を約し、困っている幕閣には『ざまあみろ』という気分だが、家茂を窮地に陥らせている一端が自分にもあると思うとやり切れない。

「……ごめん……」

 自然、謝罪が口からこぼれる。俯いたまま、膝に置いた手をきつく握り締めた。

「は? 何でお前が謝るんだよ」

 家茂の声が、頭上から降ってくる。

「だって……あたしがいなかったら、ほかの藩に付け入る隙なんて作ってないじゃない」

「だから、何でそれがお前の所為になるんだよ」

 呆れたように問いを重ねる家茂に、ついに答える言葉はなくなった。

 いつだったか、柊和ひなのことを知った時も、そう思った。

 天皇家が存在していなければ、和宮がいなければ、家茂はこの結婚を強要されることもなく、愛した女性を失うこともなかったと。

 今も同じだ。

 もちろん和宮も、この婚儀が強行されたことによって失ったものはある。熾仁への恋慕の情や、京での平穏な生活――けれども、今それらを取り戻したいかと訊ねられれば、答えは否だ。

 皇女として、内親王としての意地も矜持も、最早意味がない。家茂の隣にいる幸せに比べたら、取るに足りないものだ。

 家茂と出逢えて、愛し合えている今は幸せだと言い切れる。しかし、家茂はどうなのだろうと思ってしまうことが、最近は増えた。

「……宮?」

 他方、沈黙が長過ぎたのか、家茂が和宮を覗き込むように上体を傾けている。

 下からすくい上げるように見られれば、否応なく視線が絡んだ。

 どこを見ればいいか分からなくなって、ウロウロと目を泳がせてしまう。

 家茂は、呆れたような溜息を漏らすと、一度姿勢を元に戻した。そして、無造作に手を伸ばす。

「え、あっ」

 伸びてきた手にグイと後ろに押されて、思わず目を閉じる。だが、痛みを感じることなくそっと畳の上に背が付いて、そろそろと目を開けた。

「ちゃんと答えろよ。何でお前の所為になるんだ?」

「あ、あの」

 逸らしようのない距離で真上から家茂に覗き込まれる。顔ごと逸らそうとしても、それより早く彼の指先が顎を捉えた。

「誰かに何か言われた?」

「べ、つに……そんなんじゃ、ない、けど」

 仰向けに横たわって、家茂に顎を掴まれていれば、目を逸らす為には瞼を伏せるしかない。

 彼の窮地が自分の所為だと、そう考える理由を説明したら、家茂はどう思うだろう。

 怒るだろうか。呆れるだろうか。

 それによって、彼に愛想を尽かされるかも知れないのが怖い。

 沈黙していると、前触れなく唇を彼のそれで塞がれて、和宮は身体を震わせた。

「ンっ……!」

 反射で声が出た所為なのか何なのか、たちまち角度を変えて深く貪られる羽目になる。

 どうして急に、と思う疑問も、彼の接吻で早々に溶けた。

 呼吸の限界まで口づけ、やっと唇を解放すると、家茂は額を和宮のそれに押し当てる。

「……も、急に、何……」

「……こんなに愛してるのに、信用できない?」

「え?」

 生理的な涙の滲んだ目を瞬くと、意図せずこめかみに向かって滴が伝う。それを優しく指先で拭った家茂は、「何聞いても、不愉快に思ったりしないから」と続けた。

「呆れたりもしない。だから……今回勅使の要求を呑むのが何でちかの所為になるのか、どうしてお前がそう思うのか、ちゃんと答えてくれ」

「な、んで」

 どうして、考えていることが分かったのか。

 すると、それも読み取ったように、家茂はクスリと笑った。

「全部顔に書いてある」

「あ……」

 まともに言葉を紡ぐより先に、頬が火照る。

 やはり彼と目を合わせていられなくて、瞼を伏せた。

「あ……あの」

「ん?」

「家茂……」

「何」

「あたしを……離縁すれば、勅使に従わなくてもよくなるんじゃない?」

「は?」

 何でいきなり離縁なんて話になるんだ、と言わんばかりの声音に、『ああ、やっぱり言うんじゃなかった』という後悔が押し寄せる。

 その後悔に追い立てられるように、口は勝手に先をまくし立てた。

「だ、だから……攘夷だって、元々あたしが嫁いでくる交換条件だったじゃない。だったら、あたしと別れれば攘夷だってしなくて済むし、今回幕政に朝廷からの口出しされたのだって受け入れなくてよくなるし」

「……それがお前の望みなのか」

 普段より一段低い声が耳朶に落ちてきて、反射で「話が違うじゃないの!」と言いながら目を上げ、向き直ってしまう。

「何が」

「怒らないって言ったのに!」

「惚れた女に急に別れ話されて、不愉快にならない男がいたらお目に掛かりたいね」

 改めて見た家茂の表情は、完全な無だった。美人の無表情は、はっきり言って怖すぎる。しかし、『ちゃんと答えろ』と言われたから答えたのにこれでは、和宮の立つ瀬がない。

「べっ、別に別れ話なんてしてないでしょ!」

「別れ話じゃなかったら何だよ」

「だって……だから、今回勅使の要求呑む羽目になったのはあたしがいるからで」

「お前の所為じゃない」

 平然と、きっぱりと断言され、和宮は瞬時絶句した。

「……だ、けど……」

 どうしても、この政略結婚の意味を考えてしまう。少なくとも、幕閣や朝臣が想定する『意味』を。

「お前の所為じゃ、ねぇよ」

「でも、ん」

 反駁を遮るように、軽く口づけられる。

「……勅使の要求蹴る為にお前を手放すくらいなら、朝廷や主上おかみに土下座だってできる」

「家茂」

「土下座で許されなきゃ、二人で逃げたっていい。お前が嫌じゃなければ」

「……この結婚の意味、分かってる?」

「一応」

「政治的な約束の上に、あたしたちの婚姻は成り立ってるのよ?」

「その政治的な約束、破棄する意思を先に示したのはお前のほうだったと思うけど?」

「だっ、だって」

 破棄しなければ、家茂を好きでいることさえ許されそうになかったから。だから、意地も矜持も捨てる決意をした。だが、家茂は違うのかも知れないと思っていた。

「……前に……雛市の時に」

「うん?」

「あんた、言ったじゃない。攘夷以外の意味でなら、あたしの嫁いできた意味を無にさせないって」

「ああ、言ったな。ちかがすごくそこにこだわってたみたいだから」

「だ、だってあの時は」

 頬を優しく撫でる手が、顔ごと視線を逸らすのを許してくれそうにない。だから、瞼を伏せて言葉を継ぐ。

「……まだ……あんたを好きな気持ちに素直になるのに、その……抵抗があったっていうか」

「今は?」

「今、は……」

 伏せていた視線をそっと上げる。その先で、自分を見つめ返していた瞳は、静かだった。

 無表情というのではなく、凪いだ湖面のように静謐で、真摯に和宮を見つめている。

(……大好き)

 脈絡もなくその言葉が胸に落ちる。和宮は、無意識に家茂の肩に手を伸ばした。

 引き寄せるように力を込めると、斜めに持ち上がっていた家茂の上体が、和宮にゆっくりと覆いかぶさる。それでも体重は掛けないように気を遣ってくれる彼が、殊更愛おしい。

「……好き」

 耳元で囁くと、家茂の身体が小さく震えた。

「家茂が、好き。それだけよ。別れたら生きていけない。きっと寂しくて死ねるけど」

 口にすれば、出し抜けに涙が溢れる。

「でも、家茂が困るのも嫌なの。あたしの実家が天皇家だっていうそのことで、あんたの足を引っ張るなんて耐えられない」

 ややあって、彼の腕が絡み付いた。

 一見細く見えるその腕は、抱き締められると意外にたくましいことが分かる。

「……大丈夫だよ」

 こめかみに唇を落として、家茂は和宮の首筋に顔を埋めた。

「別に、足なんて引っ張られてねぇから」

「だけど」

「今回は、あくまで朝廷と幕府の間のことだ。ちかが気にする必要なんてない」

「でも家茂」

「もういいから」

 黙れ、と言わんばかりに、唇を塞がれる。

 宥めるような口づけが、やがて身体を重ねる前の前戯に変わるのに、そう時間は掛からなかった。


***


「……ご夫婦のコト(・・)にわたくしごときがとやかく言う権限は本来ございませんが」

 ブツブツと嫌味を言ってくる桃の井の顔を、家茂はまともに見られなかった。

 着流しは乱れ、ほどけた髪もそのままに座る家茂の傍では、和宮が横たわっている。すでに意識を飛ばした状態で、だ。

「抜き打ちで始まる男女のコト(・・)を目隠しするのに、毎回わたくしがどれだけ苦労しているかご存知ですか?」

 おもには、人払いその他に、だろう。

「……うん、毎回感謝してるよ、ホント」

 立てた膝に頬杖を突いて、あらぬ方向へ視線を向ける。

 何しろ九日もお預けだったのだ。

 もちろん、その間奥泊まりができなかったのは家茂側の都合である。仕方なかったと言えば仕方なかったし、納得もしていた。けれど、久し振りにゆっくり顔を見てうっかり口づけたら、早々に理性が飛んだのだから、家茂の言い分としてはこれも仕方がない。

「感謝はよろしいですから、上様も身支度を整えてください」

 苛立ちも露わにピシャリと言いながら、桃の井は和宮に掛けられていた着物を無造作にめくる。

 そこから覗いた白い肌から無理矢理視線を引き剥がし、家茂ははだけていた自身の着物の袷を引き上げた。

「……まあ、お女中方はどうか分かりませんが、女官のほうはこれで大分だいぶ武家方への悪感情も薄れてるようですから、一概に文句も申せませぬけど」

「……そうなのか?」

「正確に言えば、上様への悪感情が、ですね。上様が一心に宮様を想っておられることが最早あからさまなので、乳母めのと殿も母君であられる観行院かんぎょういん様も、ひとまずは安堵しておられるといったところでしょう。ただ、お女中陣との衝突は、未だ絶えませぬゆえ」

 家茂は腰紐を結び直しつつ、沈黙した。

 お風違い、なんていう一言で表しても、その内容は、互いの生活環境による価値観の違いだ。そうおいそれと足並みが揃うはずがない、というところは、家茂個人としてはある意味達観しているが、当事者同士はそうもいかないのだろう。

「……ところで桃の井」

「はい」

「先日来の奥女中を収める件だけどな」

「進捗でしたら、宮様にお訊ねになるのはご遠慮願います」

 静かに返されて、彼女らから逸らしていた目を見開く。

 その回答に、進捗のすべてが集約されていたと言ってもいい。

切形之間きりかたのまとこを延べてあります。宮様を運んでくださいませ。但し」

「わーかってるよ、今日はもう何もしないっっ!」

 振り向きざま、彼女の言い分を遮る。

 これで二人きりなら理性がぶっ飛ばない自信もないが、桃の井が一緒では如何いかんともしがたいというものだ。

 しかし、言外に示したその意を、桃の井が信じていないのは、呆れたように細められた彼女の目を見れば分かった。

「……わたくしがいても、案外構いませんよね、上様」

 言い返そうと開いた口を、結局何も言わずに閉じる羽目になる。思い当たる前科が多すぎたからだ。

(……って言ったって……どうせ最後まで見物なんかしないクセに)

 家茂もある程度、それを見越しているのだ。現に、接吻以上に進めば、桃の井はいつの間にか姿を消している。

 隣にある切形之間との境の襖の前に彼女が立つのを見て、家茂は吐息と共に和宮をかかえた。桃の井が開けた襖の向こうへ足を踏み入れる。

 言葉通り延べられている床へ和宮を下ろし、夏用の薄手の布団を掛けてやった。

 枕元へ腰を落として、彼女の寝顔を見つめていると、無意識に口元が緩む。寝顔さえ愛しいなんて、少しどうかしているのじゃないかと思うが、それだけだ。みっともなかろうが、それこそあからさまだろうが、最早構いやしない。

 愛しい女を愛しいと言って、何が悪いというのか。

 ただ、開き直った己の独白に、クス、と小さく自嘲の笑いが漏れる。

 和宮の頬に掛かった髪をそっと避けてやっていると、反対側の枕元へ盆が置かれた。その上には水差しと、湯呑みが載っている。

 それを持ってきたぬしである桃の井に、冷ややかに見られた気がして、「何だよ」と先に口を切った。

「断っとくけど、別にどうこうしようとしてたわけじゃ」

「そのようなことは申しておりません。上様」

「何」

 居住まいを正した桃の井は俯き、少しだけ口籠もった。だが、やがて意を決したように顔を上げる。

「単刀直入に伺いますが」

「何だよ」

「お柊和の方様の件について、上様には本当に、お気持ちに整理は付いておられるのですか?」

 ピクリと家茂の眉尻が震える。同時に一瞬瞠目するが、すぐには答えられなかった。

「……訊いてどうする気だ?」

 礼儀違反だとは思ったが、反問する。

「どうもいたしません。ただ、気になったので」

「ただ気になっただけで、ついこないだ会ったばっかの俺の昔の女について詮索するのが、あんたの役割か?」

 桃の井は、またも瞬時口籠もった。

 けれども、それも本当に一瞬だった。

「……宮様が……」

「宮が?」

「お気になさっているのです。もっとも、改めて口に出しておっしゃったのは、あのあと……吹上ふきあげでその件について、上様も交えてお話して以降は、一度きりでしたが」

「どういう意味だよ」

「お柊和の方様が亡くなられたのは、ご自分との縁談の所為――延いてはご自分の所為だと」

 初めて柊和について打ち明けた時も、和宮はそう言って泣いていたのを思い出す。

「……そんなこと、思ってねぇって前にも言ったのに」

「ですが、初夜の時点では上様もそう思われていたのでは?」

 家茂は刹那、言葉を詰まらせた。だが、やがて吐息と共に「幼稚な八つ当たりだよ」と返す。

「俺がガキだったんだ。彼女を無駄に傷付けて……悪いことしたって今も思ってる」

「左様ですか」

「ほかに、その件で宮から聞いたことは?」

「……自分が本当に、上様を想っていていいのだろうか、ともこぼしておいででした」

 今度は、完全に言葉を失った。

 和宮がそう思っている原因が、初夜の言い合いの所為だとしたら――その、柊和のことをすべて打ち明けた所為だとしたら、そうして付けてしまった心の傷をどう癒してやればいいのだろう。

「これはあくまでもわたくしの推測ですが……ご自分がお柊和の方様を殺して割り込んだような錯覚をなさっているのかも知れません」

 唇を噛み締める。そうしていないと、桃の井にまで見当違いな八つ当たりをしてしまいそうだった。

 そんなわけはない。少なくとも、家茂は今はそうは思っていない。

 和宮自身も、幕閣と朝廷の間の政治取引に利用された被害者だ。

 挙げ句、柊和を殺したのは幕閣と滝山であって、和宮ではない。彼女との縁談は、あくまでもきっかけに過ぎないし、彼女に言った通り、本気でやれば柊和を救う手立てはあったはずだった。

「……もし、上様が違うとお考えなら、折を見て直接宮様にそのようにおっしゃってください」

「……何で……今この話を?」

 すると、桃の井は苦笑を浮かべ、和宮に目を向ける。

何故なにゆえ今だったかという問いには、何ともお答えし兼ねます。申し上げる折を伺っておりましたゆえ……としか」

「そうか……」

「わたくしは、物心付くか付かないかのみぎりより、宮様のお傍近くでお仕えして参りました。それゆえ、恐れ多いことですが、宮様を妹同然に思っております」

 和宮に落としていた視線を上げ、桃の井は家茂を見た。

「大事な我が妹が、苦しんでいるのを見ているだけなのは耐えがたきことです。お苦しみを除く可能性の高い手立てがあるのに、手をこまねいているわけにはいかなかった。強いて申し上げれば、それだけにございます」

 瞬時、彼女とヒタと見つめ合った家茂は、逆に目を伏せ和宮の寝顔へ視線を落とす。

「……分かった。この件については責任持って対処するよ」

「よろしくお願いいたします」

「それはそれとして、懸案の件だけどな」

「先の……宮様食中毒の件についての、お女中たちの慰撫について、でしょうか」

「そう、まさにそれ。宮に訊くなって言うからあんたに訊くけど、あんたから見て状況はどうなんだ?」

 桃の井に視線を戻せば、彼女がまたそれを逸らすように目を伏せる。

「……率直に申し上げて、前進しているとは言い兼ねます」

「だろうな」

「単純に衝突していた頃より、状況は悪化しているとも言えるかも知れません」

 それも否定できない、と家茂は口に出さずに返した。

 何しろ、疑って調査するだけして、結論を女中たちにしらせていないのだ。女中たちにしてみれば、いつまで疑われているのか、と文句の一つも言いたいところだろう。

「悪化してるって具体的には?」

「……将軍正室の居所担当のお女中たちは、近頃こちらへは顔を見せません」

「……なるほど。抗議的休業に出たか」

 陰口ばかりが能ではない、ということだ。

「ただ、宮様に随行してきた女官の数も相当数おりますので、今こちらはその女官たちだけで回しております。女官たちからすれば、お女中がいない今のほうが、宮中と同じでいっそやり易いと、歓迎されこそすれ、不満は出ておりません」

 家茂は、さっきとは違う意味で言葉を失い、文字通り頭をかかえた。

 それはそれでどうなのだろう、と思う。

 一見、衝突のない職場になって平和にも思えるが、いつまでもこの状況を続けているわけにもいくまい。

(……だからって、一度こいつに預けるって言ったのを、こいつ自身が助け求めたわけでもないのに俺が出しゃばるわけにいかないし……)

 立てた膝に頬杖を突いて、眠る和宮に目を落とす。

 そもそも、大奥は基本的には、女たちの世界だ。

 いくらそこへ唯一出入りできる男が、将軍じぶんだけだからと言っても、その世界の規律に口出しする権利までは、古来持ち合わせていない。大奥の頂点は将軍正室である御台所みだいどころ――今この時に於いては和宮であり、大奥とそれに付随する組織は謂わば、彼女の管轄なのだ。

 もちろん、将軍が大奥をも包括している幕府組織の頂点ではあるから、その気になれば自分が指揮を執ることは可能ではあるだろう。

 しかし、将軍としての権力をまともに持っていたとしても、今は往時ほどの威力がないのは家茂にも分かっている。どこまで強制できるかは、はなはだ心許ない。

「……上様」

「何だ」

「恐れながら、お女中慰撫について一つ提案がございます」

「言ってみろ」

 促すと、桃の井は居住まいを正した。手を床に着き、頭を深々と下げる。

「どうぞ、わたくしにいとまをくださいませ」


©️神蔵 眞吹2024.

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