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第一章・第一話 熾仁、始末

「……マジで?」

 家茂いえもちに問われて、和宮かずのみやは首を縮めた。

「じゃ、何であんなに俺との結婚ゴネてたんだよ」

 相愛になった今となっては、そんなことを聞けばいい気分はしないのだろう。どこか不機嫌な口調でただされ、うつむいてしまう。

「降嫁話を聞いた時は、本当に兄様が好きだと思ってたから、別れたくなかったの! だから破談が決まったあとで駆け落ちしようとして……兄様のトコに押し掛けたら断られて押し問答してる所へ推進派が兵士連れで有栖川宮ありすがわのみや邸へ押し寄せて、あたしを誘拐した罪をでっち上げて兄様を捕らえようとしたから、兄様は事実を説明することで何とか捕縛を逃れようとして――」

 まくし立てながら、両掌に顔を埋めた。頬が熱い。ばつが悪過ぎて恥ずかしい。

(何で今更こんなことまで説明する羽目になってんの?)

 自問しても、答えは出ない。

 駆け落ち未遂の件は、果たして和宮が悪いのか、そのあと誘拐の冤罪で捕まりそうになった熾仁たるひとが、事実を事実として訴えようとしたことが悪いのか。

「……ごめんなさい……今まで言う機会がなかったから……」

 何に対するそれか分からない恥ずかしさで、涙が出そうになる。これで自分も家茂に軽蔑されるかも知れないと思ったら、遅蒔きながら怖くなった。

「……ちなみに、有栖川宮が捕縛を逃れようとした時って何て言ったんだ?」

 家茂が、感情の読めない声音で問いを重ねる。和宮は、程良く真っ白になった脳内にある記憶を辿った。

「……えっ、えっと……推進派の代表が、兄様をあたしの誘拐容疑現行犯で捕らえるって言ったから、兄様は『自分は何もしてない、破談になったんだからもう別れようと諭してただけ、和宮がここにいるのは彼女のほうが勝手に押し掛けただけで、自分は誘拐なんてしてない』って……」

 それで心が離れてしまうのも薄情だと、改めて思った。熾仁は、あくまでも事実を事実として訴えただけだというのに、それをひどいと言うのは筋違いに思えて来る。

「もうっ……兄様も、本当にごめんなさい。あたし……あたしもどうせその程度だったんだよね、兄様への想いは。逆恨みで心が離れるくらいの、薄い想いだったの」

 そんな薄っぺらい恋情が原因で、人一人の命が失われたかと思うと、改めて罪悪感で一杯になる。

「家茂も……ごめんなさい、あたし……あたしのバカみたいな我が儘がやっぱり――」

 柊和ひなさんを死なせたんだ、と続けようとしたが、できなかった。それより早く、手首を引っ張られる。反射で顔を上げると、伸びて来た家茂の掌が後頭部へ回って、彼のほうへ引き寄せられた。

 思わず目を瞑った瞬間、唇がもうすっかり馴染んだ感触に塞がれ、さっきとは違う意味で頭が真っ白になる。

「ッ……」

 いつもより観衆が多い中で口づけられて、動転寸前になった結果、碌々抵抗もできない内に勝手に意識が溶けそうになった。

「……もう、いい」

 和宮が大人しくなったのを見計らって、啄むように唇を放した家茂が、熱い吐息と共に告げる。

「お前が有栖川宮に失望したのも、当然だな」

「え……?」

「もし、その場にいたのが俺なら、喜んでお前と駆け落ちするね」

 間近で見つめた先にある漆黒の瞳が、いたずらっぽく笑ったように思えた。

「軽蔑……しないの?」

「何で」

「だっ、だって、……あの時、兄様は、事実を言っただけなのに……あたし、逆恨みして、それで」

「惚れた女に『一緒に逃げてくれ』って頼まれたのに、理由がどうあれ躊躇した挙げ句に、事実だとしても責任全部押し付けて逃げたんじゃ、ソイツが悪いに決まってるだろ」

 どっと安堵が押し寄せ、ボロリと目から滴がこぼれる。

「家茂ぃ……あたし、ごめ……」

「だから、もう謝らなくていい。柊和が死んだのはお前の所為じゃないって、前にも言ったろ?」

(何で言おうとしたことバレてんのよ……やっぱ、こいつ鋭過ぎ)

 脳裏では罵倒しつつも、ごめんねと性懲りもなく続けようとしたが、嗚咽に遮られて音にならなかった。

 困ったことに、一度決壊した涙腺は、中々元通りにならない。

「この先何があっても、俺はお前を手放さないし、軽蔑したりしない。大丈夫だから」

 家茂の掌が濡れた頬をそっと拭い、彼の唇が和宮の顔中へ口づけの雨を降らせる。彼の優しい慰めに、尚のこと涙腺を刺激され往生していると、家茂は和宮を腕の中へくるむように抱き寄せた。


***


(さーてと)

 和宮の額に唇を押し当てながら、横目で確認した熾仁の顔は、ちょっとした見物だった。

 青ざめて表情は硬直し、唇は何か言いたげに震えているが言葉を発することはできていない。

「……で、いつまで見物してるつもりだ? 彼女の気持ちが理解できたら、お帰り願えませんかね、親王殿下(・・・・)

 和宮の肩先をポンポンと優しく叩きながら、家茂は熾仁をめ上げる。

 こちらが言葉を発すると、熾仁のほうもようやく口を利くことを思い出したようだ。ビシッと人差し指をこちらへ突き付ける。

「そっ、そっちこそ、その下賤な手を彼女から離せ!」

「うっわ、型通りな正義の味方っぽい台詞、ありがとうございます」

 おどけて返すと、益々神経を逆撫でしたらしい。「うるさい!」と喚いた熾仁は、家茂の胸元に縋り付いている和宮の手首を、強引に掴んだ。

 涙を止めるほうに夢中になっていた和宮は、それで我に返ったのか、息を呑んで熾仁へ視線を向ける。

「おいで、和宮。一緒に京へ帰ろう」

「……嫌よ、帰らない」

 涙で掠れた声で言いながら、和宮は掴まれた手を振り払おうと身を捩るが、熾仁は構わない。

「大丈夫だ。たった四月よつきで心変わりできるなら、私でもいいはずじゃないか」

「じゃあ訊くけど、兄様はそんな移り気な女でもいいわけ?」

「まさか。私と一緒になれば、きっとまた私に心が戻るはずだし、ずっと一緒にいれば君の心は永遠に私のモノさ。そうだろう?」

「違う。あたしの心は、二年前に熾仁兄様から離れたの。聞いてなかった?」

「それは嘘だ。あの時、『駆け落ちしよう』と言ってくれたのは、君じゃないか」

「兄様は拒否したわ」

「見せ掛けだよ。分からないのかい? いずれ一緒になる日が来るまで距離を置いたほうが、周りの目を誤魔化せる」

「なら、どうしてあたしの降嫁話を最初に聞いた時点で、あたしにもそれを話してくれなかったの?」

 痛いところを突かれたようだ。熾仁は、息を呑むように押し黙る。

「先に『駆け落ちしよう』って言ってくれたのは、兄様だった。あの時点で本当のこと話してくれてたら、あたしだってその時一緒に逃げるって言えたのに」

「……あの時はまだ……降嫁の議論が、朝廷でも本格化してなかったんだ。君が言ったように、駆け落ちは必要のないことだったから」

「だったらどうして、必要になった時には拒んだの」

「……だから、家族がしちに取られて……君だってそうだろう。家族の為に、こんな所まで来て、こいつに嫁いだんじゃないのか」

 熾仁の言葉に、今度は和宮のほうが息を呑んだのが分かる。

(そう言や、初夜の時にもそんなこと言ってたっけな、こいつ)

 家茂は、和宮の手首を掴んだままの熾仁の手を、強引にもぎ離しながら和宮に目を落とす。

「その辺、詳しく訊いてもいいか」

「えっ」

 和宮も、家茂に視線を戻した。

「お前、こいつから気持ちが離れたあとも、結婚ゴネてたんだろ。初夜の日に……それと、雛市に行った時にも言ってたよな。家族が人質に取られて、とか何とか」

 あの日は、家茂も半ば苛付いていた為、彼女の話などほとんどまともに聞いていなかったし、聞くつもりもなかった。

 だが、想い人がいなくなったあとも結婚を拒絶していた理由があるはずなのだ。雛市の時にもチラリと彼女が漏らしていたが、具体的に聞く機会が今までなかった。

 熾仁が和宮に改めて伸ばそうとする手を、まるで夏の深夜に頭の周りを飛び回る蚊を払うように叩き落としながら、家茂は俯いた彼女を見つめる。

 彼女は、瞼の下でウロウロと視線を泳がせたあと、重い口を開いた。

「……勝光院しょうこういん様って知ってる?」

「勝光院?」

 家茂は、眉根を寄せた。

「悪い。誰だっけ」

「十一代様と十二代様の時には、姉小路局あねのこうじのつぼねって名前で、大奥で上臈じょうろう御年寄りを勤めてたらしいの。幕政の人事にまで口出しできるくらい権力があった方で……あたしの、大叔母に当たるんだけど」

「へぇ」

「その方が、ちょうどあたしと兄様が駆け落ち未遂した時に、京まであたしを説得に来たのよ。あたしが降嫁を拒んでるのは、伯父様やおたあ様が、あらぬことをあたしに吹き込んだ所為じゃないかって噂があるって……もしそうなら、二人を処罰するって言って」

 分かり易い脅迫だ。

「おまけに、お兄様……主上おかみも、もうあたしを嫁がせるって返事しちゃったから、あたしが嫌だって言い張るなら、責任取って譲位する、なんておっしゃるから……」

「……そっか」

 無意識に彼女の頬へ手を滑らせ、額に唇を落とす。

「ごめん……それじゃ、気分良く嫁に来いってのが無理な相談だよな」

「そんな……家茂は、悪くないでしょ」

「いや。配下がそんなことしたんじゃ、天辺にいる俺にも責任がないなんて言えない」

 元々、飾り人形に甘んじて、幕政そのものはお座なりにしていた。幕臣の好き勝手を許していたのは、完全に家茂の手落ちだったと改めて思い知る。

「そう思うのなら、和宮はどうぞお返しを」

 そこへ、やり取りを苦虫でも噛み潰すような顔で見ていた熾仁が、ここぞとばかりに割って入った。

 家茂は、最早遠慮もなく熾仁をめ上げる。

「だーかーらー、何でちかを返さなきゃなんないんだよっ。第一、ちかはモノじゃねぇんだけど」

「モノだなんて、とんでもない。ただ、あなたでは、宮を幸せにはできない。分かるだろう?」

 聞き分けのない子どもをあやすような微笑に、心底苛立つ。それは、和宮も同じだったようだ。

「決め付けないでよ。あたしの幸せはあたしが決めるの。正直言って、兄様じゃ無理よ。安全圏からしか、あたしを求められないひとなら、必要ないの」

「そんなことはないよ。現に今、危険を冒しているじゃないか」

「どーゆー危険よっ! 後ろ盾得てから得意顔で迎えに来られたって引くだけなんだけどっ!」

 すると、熾仁はまたも微苦笑を浮かべて首を振った。

「今は仕方がないね。君はすっかり幕閣と将軍に洗脳されてるんだから……まあ、とにかく帰ろう。私と一緒になれば、それでよかったと思える日がきっと来るからね」

 さあ、と性懲りもなく和宮の手首を掴む寸前の熾仁の手首を、家茂は逆に素早く掴み上げた。


***


「さっきから黙って聞いてりゃ、あんたの言い分は随分一方的だな」

「どういう意味かな。どこが一方的だって言うんだい?」

 熾仁は、最早敬語もやめ、嘲るように言って手を振り払おうとした。しかし、どこにそんな力があるのか、家茂の華奢に見える手は頑強に熾仁の手首を掴んだままだ。

「あんたは自分の幸せばかり主張して、ちかの言い分をまったく聞こうとしてない。それにあんた、肝心な謝罪もまだだろ」

「謝罪? 将軍に謝罪すべきことなんて」

「俺にじゃない。ちかにだ」

「宮に?」

「ああ。幻覚キノコを彼女の食事に混ぜさせたのはあんただって話だが」

 すると、熾仁は若干ばつが悪そうな顔になった。

「……確かに……その事実は認めるよ。だけど仕方なかったんだ。将軍、あなたを始末して、彼女を私の元へ連れ戻す為には」

 その『将軍』本人を前にして、『始末する』などという大胆発言を、熾仁自身ばかりか家茂も気にしていない。

「それで彼女にもしものことがあった日にはどうする気だった?」

「どうするって……あるわけないだろう。たかが幻覚キノコだ。中毒なんて幻覚を見るだけで終わる、人畜無害なモノさ」

「過敏症って知ってるか?」

「は?」

 急に話題が変わったように思ったのか、熾仁が眉根を寄せる。けれども、家茂は構わなかった。

「ある特定の食べ物や毒に過剰反応が起きる症状のことだ。って一口に言っても症状には幅がある。単に発疹が出て痒くなるだけって軽いモノから、命に関わる呼吸困難までな。食べ物に限って言えば、俗に言う『身体に合わない』ってやつだ。聞いたことは?」

 問いを重ねられて、熾仁は益々眉間のしわを深くさせる。家茂が言いたいことが、まったく理解できないようだ。

「それと、私が和宮に幻覚キノコを食べさせたのに何の関係が?」

「もしもちかがその幻覚キノコに対する過敏症だったら、どう責任取るつもりだったんだよ」

 熾仁は、一瞬息を詰まらせた。伏せた瞼の下で、先刻よりも激しく視線が左右に蠢く。

「そ……れは……」

「百歩譲って過敏症がなかったとしても、毒が一晩で抜けなかったら? 思わぬ症状を引き起こしたら? でなくても重篤な後遺症が残る可能性だってゼロじゃなかったんだぞ」

「だ、だが、幻覚キノコで普通はそんなことは起きないし、聞いたこともない。現に彼女は元気になってるじゃないか」

「結果論だな。快復したから言えることだ。ある種の毒素が含まれてるって分かり切ってる食材を、軽い気持ちでヒトの食べる膳に混入するほうがどうかしてる」

 それまで、淡々と言葉を紡いでいた家茂の声音に、明らかな怒りが混ざり始めた。

「ましてや、万が一のことが起きた時に解毒の方法も分からないモン、自分以外の人間の口に突っ込むなんて論外だ。そんくらい常識だろ、ボンボンが!」

 彼が吐き捨てるように言い放った時、熾仁は小刻みに震えながら青ざめていた。実行犯だった邦子も同様だ。

 家茂は、苛立った溜息を吐くと、熾仁の手を振り払うように放す。そうして、深呼吸を挟んでから口を開いた。

「……分かったらちかに謝れ。下手すりゃ本当に彼女を殺すところだったんだからな」

「……あ、そん、な……」

 熾仁は首を横に振りながら呟き、和宮に目を向ける。

「違うんだ、宮。分かってくれ。私は君を殺すつもりなんてなかった……君を取り戻したかっただけなんだ。何も悪いことなんてしてない、分かってくれるだろう?」

 今日、何度目かで彼に手を握られそうになって、和宮は身体ごと家茂の腕の中へ逃れるように後退あとじさった。

 心からの謝罪は得られないと、家茂も早々に諦めたらしい。もう一つ溜息を吐くと、崇哉たかなりに目配せする。

 崇哉は会釈のように頭を下げ、熾仁を和宮から引き剥がすようにして立たせた。

「……だめだ……だめだ、宮。私と来るんだ」

「兄様」

「何が君の幸せは、私が一番よく知ってる! 私と一緒になることこそが、私の幸せであり君の幸せなんだ! ここで私と帰らないと後悔するぞ、和宮!!」

「ご無礼を」

 一言、断りを入れた崇哉は、問答無用で熾仁の後頭部へ手刀を落とした。一瞬で、熾仁は静かになる。

 崇哉は、気を失った熾仁を軽々と抱え上げ、部屋を辞して行った。

 くの字に折り曲がって、崇哉の肩で揺られて行く熾仁を、和宮はどこか虚しい気分で見送る。

 結局、最後まで分かってもらえなかったし、駆け落ち未遂の日の熾仁の言動についての満足な答えは得られなかった。自分以外の人間を、簡単に変えることはできない。それは分かっていたつもりだけれど――。

 そっと息をいた時、「宮様!」と悲鳴のように邦子が声を上げた。

「申し訳ございませんでした、宮様。わたくしは……わたくしは、宮様を殺すところでした」

「姉様」

 邦子はその場で、額を畳に擦り付けんばかりに平身低頭している。

「改めて、心より謝罪致します、どうか……どうか、ご存分にご処分ください」

 和宮は眉尻を下げて、家茂をうかがった。

 邦子の処分は、彼女には告げていないが、家茂に任せてあるのだ。「もういい」と和宮が言ったところで、家茂がそう思うかは分からない。

 瞬時、目が合った家茂は、目だけで頷いて邦子に視線を向ける。

「桃の井」

「……はい、上様」

「お前は、有栖川宮に命じられて仕方なく、ちかの膳に毒を混入したんだ」

「……え、はい?」

 心底不可解、という顔をして、邦子が顔を上げた。

「家茂」

 名を呼ぶと、家茂は苦笑に近い微笑を浮かべて和宮を見る。

「……あれからずっと考えてたんだ。お前に、桃の井の処分を任された時から、どうするのが最善か」

 吐息を挟んだ彼の視線が、邦子へ戻った。

「彼女の力量や役所やくどころを考えたら、安易に追放や降格処分にすべきじゃない。だけど、咎めなしってわけにもいかない。滝山や奥女中の手前もな。無罪放免にしたら、確実にまたひと騒動起きる。ちかだってそれは本意じゃないだろ?」

「う、ん……」

 ぎこちなく頷くと、家茂が再度和宮に目を向ける。視線が絡んで数瞬ののち、彼はまた小さく笑った。

「だから、有栖川宮に全部責任引っかぶって貰う」


***


「……つまり、桃の井様が和宮様の御膳に毒物を混入したのは熾仁親王殿下のご指示で、強要されて仕方なくしたことだから、善処して欲しい、と」

 そう滝山が確認したのは、翌日の夜、和宮の居所でのことだ。

「ああ」

 上座に着いた家茂が頷くと、滝山は能面のような表情で問いを重ねる。

「その上、奥女中たちには何も明かさず解決したとだけ言えと?」

「無理なら無理だって言え。ほかの方法を考える」

 家茂がなく投げるように言えば、いつものように滝山は、『承知いたしました』とそれだけを告げて、家茂と和宮の前から辞すはずだった。しかし、今日に限っては違った。

 眉根から鼻に掛けてそれはそれは深いしわを寄せた彼女は、「承伏いたしかねます」と告げ、果敢にも言葉を継ぐ。

「奥女中に一方的に疑いを掛けられたのは、上様と宮様ですよ? 女中たちに屈辱的な聞き取り調査までなさって、それを、経過も話さずなかったことにして欲しいと? 虫が良過ぎるのでは?」

 と言われれば、和宮にしてみれば返す言葉もない。しかし、家茂は動じない。

「筋を通したいのは分かるけどな。じゃあ、あんたがしたことはどう筋を通す?」

「何のお話でしょう」

「あんたが表の老中や奥医師とはかって柊和を毒殺したのは知ってる。前にも言ったと思うがな」

 ゆったりと脇息に肘を預けた家茂は、滝山に冷えた目線を投げる。

 一見、彼女は動揺したようには見えなかった。だが、内心は分からない。

「……まあ、いい。じゃあ、今回の一件、あんたはどうしたら満足する?」

「桃の井様に表立って厳重な処罰を。そして、すべての奥女中へ、宮様からも心からの謝罪を求めます」

 同席していた邦子は、何か言いたげに首をもたげるが、それを和宮は手で制した。その様子を視界の端に納めながら、家茂が問いを重ねる。

「桃の井への処罰、具体的には何を?」

「追放処分に処していただきたく」

「なるほど。だったらあんたも一緒に出てけよ」

「は!?」

 今度こそ滝山は動揺したように、下げていた頭をガバリと上げた。

 けれども、家茂は変わらず平然と続ける。

「当然だろ? 桃の井は宮の古くからの侍女で護衛も兼ねてる。思いっ切り信頼できる彼女を宮の傍から引き離して、逆に将軍の恋人を手に掛けて平然としてる女を、宮の傍に置いとくわけにいかない。危険過ぎて俺が安心できないからな」

 唖然としていた滝山は、ユルユルと口を閉じ、やがてその唇を噛み締めた。

「……恐れながら、上様。お柊和の方様の件は、すでに終わったこと。かのお方は急病で亡くなられたのです」

「うん、知ってる。表向きにはそう処理されたからな。今更覆そうとは思ってない。何しろ、その時検死した奥医師までご丁寧にあの世に送ってくれたんだ。後腐れのない見事な証拠隠滅には恐れ入るぜ」

 綺麗な顔と落差のあり過ぎる毒舌が、よく聞いていないとそれと分からぬほどの淀みなさで嫌味を並べる。

 これまでの付き合いで、家茂が顔の割にかなり苛烈な一面もある少年だということは、何となく察してはいた。だが、実際それを、具体的に自身の耳目で見聞きしてしまうと、和宮はいた口が塞がらない気分になる。邦子も漏れなく同意見だったのか、彼女は実際にポカンと口を開けていた。

 けれど、滝山はやはり唇を引き結んでいる。

 その場を、しばし支配した沈黙を破ったのは、結局滝山だった。

「……つまり、上様はどうされれば満足だと?」

「それは何に対して?」

「お柊和の方様と桃の井様、両方の件に関してです」

 家茂は、一瞬口を噤んだ。

 恐ろしいほどの無表情で滝山を見つめ、やがて口をひらく。

「柊和を返せ、なんて常套句吐いたトコで、不毛なだけなのは分かってる。あくまでも理性では、な。だから、彼女の件に関しては、もう本当に何も言わない。言いたいのは山々だけど」

 ふん、と鼻先を鳴らすようにして、家茂は言葉を継いだ。

「でも、言わないのと許すのとは同義じゃない。俺が何も言わねぇからって、スカンと忘れてやってるとかおめでたい勘違いはするなよ。俺はあんたが何をしたか知ってる。そして、忘れてやるつもりも許すつもりもない。次にあんたが何をやらかすか、俺が興味津々で見張ってるのを常に忘れないことだな」

「……肝に、銘じます」

「じゃあ、柊和の件はここまでだ。当座の問題は桃の井のことだが」

 脇息にもたれていた家茂は、ゆったりとした動作で背筋を伸ばすように身を起こす。

「あんたの要求は本当に受け入れられない。感情論じゃなく、真面目な話だ」

「それは、いかなる意味でしょう」

「仮に、あんたの言う通り、桃の井を追放したとする。そうしたら、彼女はどこへ戻ることになる?」

「……京、でしょうか」

「まあ、そうだな」

 家茂は、確認するように邦子を見た。邦子が、是の意を示すように頷くと、滝山に視線を戻す。

「で、宮の腹心の侍女が前触れもなく京へ戻ってきたら、主上はどうすると思う?」

「……何故なにゆえ戻ったのか、訊ねるでしょうね」

「それで、桃の井が経緯いきさつを話して、それを主上が丸っと信じてくれればいいが、多分そうはならない。何せ、宮の降嫁後のあれこれで、かなり幕府に対する心証はよろしくないはずだからな。下手すると、有栖川宮を陥れる策謀だとか何とか、曲解する可能性もゼロじゃない」

「されど」

「今、幕府と朝廷が国内でコトを構えている余裕はない。ただでも外国の脅威に晒されて、幕府内はその対応に右往左往してる。そこに付け込んで、今まさにどっかの他藩が幕府内の人事にまでクチバシ突っ込んできてる状態なんだ。ご丁寧に勅書まで掲げてな。奥向きはまつりごとに口出ししないのが基本だっつっても、現状の空気くらい読めってのは難しい注文か?」

 ついに、滝山は難しい顔をして押し黙った。

 が、伏せた瞼の下で、目をさまよわせた末に、視線を上げる。

「……よろしいでしょう。桃の井様ご自身への処罰は、此度不問と致します。ですが、わたくしは奥女中全員の不満収拾までは請け負い兼ねます。あとはそちらでどうにかしてくださいませ。わたくしは一切関知いたしませんので」

 では、と一礼すると、滝山は強引に話を切り上げて、さっさと部屋を辞してしまった。


©️神蔵 眞吹2024.

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