第二章・第一話 想いと陰謀
時刻的には就寝のそれを、とうに過ぎていた。だが、まだ消されずにいる蝋燭の灯りが、頼りなく揺れている。
薄闇の中、掛け布団の中に足を突っ込むようにして身を起こした家茂は、立てた膝に肘を突いて、ずっと考え込んでいた。
生来、気になることがあると眠れない性質だ。とことん考えて、一定の結論を出さなければ気が済まない。
「――上様」
出し抜けに小さく声を掛けられるが、家茂は驚かなかった。
細く開けられた襖の向こうには、いつも寝ずの番の者がいる。ただ、話し掛けてくることは珍しい。
「……今日の当番はあんたか」
「は。僭越ながら、お休みになれぬご様子。何か、気になることが?」
率直に問われて、一瞬、息を呑んだ。次いで、苦笑を漏らす。
「……ったく、昔からあんたにだけは隠し事できねぇよな」
「恐縮です」
「褒めてねぇから」
あの桃の井といい、きょうびの近侍は洞察力が鋭過ぎていけない。たまには放置しておく優しさもあると知るべきだ。
ただ、今日に限って言えば、その空気をわざと読まない対応で正解だった。内心で甘えつつ、家茂は口を開く。
「……あんたはどう思う?」
問いが抽象的過ぎたのか、瞬時の沈黙ののち、「何についての御下問でしょう」と問いが返ってくる。
「今日の勅使についてだよ」
今日、勅使が持って来た勅書をこっそり写して、一番最初に見せてくれたのは、この男――川村崇哉だ。代々、江戸城御庭番分家の家系の出である彼は、家茂が幼い頃は分家筋の縁で、紀州藩邸にいた。
現紀州藩主の茂承や、柊和よりも付き合いが長く、信頼度という意味では兄弟同然の仲だ。ただ、崇哉は身分を気にし過ぎる嫌いがあり、彼と話しているとどうも対等の付き合いという気がしないのは困ったものだった。
「勅使について……と申されましても、何をお訊きになりたいので?」
家茂は一つ、舌打ちを挟んだ。洞察力鋭く空気をわざと読まない上に、こちらの本音を吐露させるのも巧いと来たら、立つ瀬もない。
「……和宮と話をしてた男は誰か、分かってるんだろ」
「は。有栖川宮熾仁親王殿下。かつて、和宮様の許婚であった男です」
「へぇ……」
あの男が、と家茂はチラと見ただけの容姿を思い返す。
面長の輪郭に、長い鼻筋、凛々しい眉と切れ長の目、やや厚めの唇が配された、比較的端正な顔立ちの男だった。
(……あれが、和宮の昔の男、か)
同時に、初夜の席で和宮が髪を振り乱し、涙ながらに恋しがっていた様子が思い出され、家茂は整った顔を無意識に顰めた。
「……あんた、あの男と和宮の対面の時、部屋の外に控えてたはずだな」
それだけで、ほぼ生まれた時からの側近には通じたらしい。とぼけまくっていたさっきとは別人のようだ。一拍の間を置いて、襖の隙間からやや分厚い封筒が差し入れられる。
家茂は無言で立ち上がると、その封筒を受け取り、布団へ戻った。
昼間、どれだけ待っても、和宮が勅使、こと有栖川宮熾仁との話をすべて打ち明けることはなかった。正確に言えば、長過ぎる沈黙を挟んだ末に、桃の井に丁重に追っ払われたのだ。
勅書から、明かされなかった対談の内容を推測するのは、はっきり言って不可能だった。だが、それでも考えずにはおられなかったのだ。
あんなにも、彼女が勅使との会話を秘する理由を。
その対談を密かに聞いていた崇哉が、今になるまでそれを黙っていたのは、対談の内容を書き起こすのに時間が掛かったこともあるだろう。
だが、要求しない限り崇哉が情報を渡さない時は、大抵理由は決まり切っていた。
(……単純に、俺に聞かせたくない内容なんだよな)
クス、と自嘲的な笑みをこぼした家茂が目を落とした紙面には、和宮と熾仁との間で交わされた会話が、克明に記録されていた。
***
翌日からしばらくは、和宮は気が気ではなかった。
熾仁との対面時の様子から、もう邦子は信用できず、このところほとんど口を利いていない。あれから熾仁と連絡を取っているのか、勅使団の動向はどうかなどをできれば訊ねたかったが、彼女もまだまだ家茂のほうをよく思っていないようだからどうしようもなかった。
結局は、邦子も生粋の、公家の子女なのだ。
武家を徹底して見下し、あくまでも天皇家の臣下と見なし、相手の態度が気に入らなければとことん悪し様に扱う。
もっとも、和宮自身も多かれ少なかれその嫌いはあるので、邦子だけを責めることはできなかった。
ともあれ、信頼していた姉妹同然の侍女を頼れない以上、自分でどうにかするしかない。そして、家茂にも打ち明けられないとなれば、できることなど限られていた。
総触れや、そのほかで彼が奥へ足を運んで来た折に、穴が開くほど彼の顔色を見定めることだ。
いつぞや、『自分の身は自分で守れる』とこともなげに言い放ったところからすると、腕は立つのだろう。それは大丈夫、と彼を信じるしかない。
残る暗殺の危険は、毒だ。
あれから七日ほど経っている。今のところ、顔色は問題ないように思えたが、身体の中までは分かるはずもない。
(……後々こうなるなら、もっと奥女中たちと歩み寄っとくんだったなぁ……)
思わず溜息を吐くが、まさしくあとの祭りだ。ちなみに、こう思うのは二度目で、後悔先に立たずも付け加えるべきだろう。
しかし、京から一緒に来た女官たちや、何より邦子が当てにできない事態が訪れるとは、思っていなかったのだから、仕方がない。
「……なぁ」
「何よ」
この日も、フラリと奥を訪ねてきた家茂の顔を、半ば睨むようにして見据えながら、和宮はどこか上の空で答える。
それに対し、
「あれから何でそう、俺の顔をしげしげと見つめてんだ?」
と、ついに率直な問いがぶつけられた。しかし、和宮は素気なく言い返す。
「気にしないでいいよ」
「いや、するだろ。一日二日ならともかく、ここんとこ毎日だぜ?」
「元気ならいいの」
明後日の返事をしながらも、和宮は家茂の顔から目を逸らさなかった。
この七日間は元気だったのだから、いきなりぶっ倒れることはないだろうが、やはり一緒にいる間だけでもずっと見ていなければ、不安で仕方がない。
他方、家茂は小さく息を吐くと、襖を閉じて和宮の傍に片膝を突いた。そして、左手を畳に突くようにして和宮に顔を近付けると、耳元で囁く。
「……俺の暗殺計画でも聞いちゃったか?」
――息を呑んだ。
「図星だな」
その通りだ。というより、それを軽く越える爆弾発言だ。
(……って、何でそれ知ってるのよ!)
思うが、口にはできない。乗せていいものかどうかも判断が付かない。和宮にできたのは、陸に打ち上げられた魚のように口を開け閉めすることだけだ。
顔が見える距離に離れた家茂の唇には、不敵な笑みが刻まれている。
「何で知ってるかは秘密。ただ、俺はその企みを口にした奴のことも知ってる。首謀者かどうかまでは分からねぇけど」
クスリと小さく笑って、彼は腰を下ろしながら続けた。
「まあ、今んところは変な襲撃もないし、膳に毒盛られたりもしてねぇから安心しろよ」
「あ、安心って……そっ、そんなのっ、これからもないとは限らないじゃない!」
思わず叫んでしまって、肩を竦めて口を塞ぐ。
邦子が聞き耳を立てているかも知れないのだ。自分の居所も油断できないなんて、本当に何という世界に来てしまったのだろう。
「……策はあるんでしょうね」
そろそろと手を下ろして、ジロリと家茂を睨め上げる。すると家茂は、肩を竦めてあっさりと言った。
「あると言えばあるけど、ないと言えばないかな」
「何よそれ」
「要は出たとこ勝負ってやつ?」
「……早い話が無策か……」
妙な脱力感に、がっくりと肩を落とす。
対照的に、何が面白いのか、クスクスと小さく笑った家茂は、またもや爆弾を投下した。
「久し振りに一緒に馬でも乗るか?」
「ばっ!」
バカ言ってんじゃないわよ! と続けようとして、慌ててまた言葉を飲み込む。
しかし、飲み込んだ続きは相手にしっかり伝わったようだ。
「何でバカなんだよ」
「だ、だってあんた今狙われてんのよ? 自覚してんの?」
「何だ、そんなこと」
何度目かで笑った声には、今度はやや物騒な響きが含まれている。
「それが怖かったら、今頃思考放棄でもしてるけど」
不敵な微笑が、その整いまくった美貌と相俟って、どこか美しい。
状況も忘れてまたしてもドキリと跳ねた心臓を宥めている内に、家茂は立ち上がった。
「家茂?」
「確かにお前も一緒はマズいよな」
「え」
じゃ、と手を挙げた家茂に「待ってよ」と追い縋るように腰を上げる。
「何」
「じゃないでしょ、本気で馬場に行くの?」
声を落としたまま続けると、彼はまたも苦笑する。
「引きこもって鬱々としてたら、いざって時に参っちまうからな。でも、お前が付き合う必要はねぇよ」
「え?」
和宮は眉根を寄せ、首を傾げた。そんな和宮に、家茂はゆっくりと手を持ち上げる。和宮の頬に触れようとするようにその掌を近付けたが、躊躇ったのちに拳を握り込んだ。
「……家茂?」
「この件が片付くまで、お前は奥を出ないほうがいい」
彼の持ち上がっていた手は下ろされ、先刻まで浮かんでいた面白そうな笑みは、すでに掻き消えている。
「どういう意味よ」
「もう失いたくないんだ」
「だから、何――」
何を言っているのか。言葉を最後まで言わせず、家茂は和宮を抱き締めた。
「……い、えもち……?」
「……悪い」
だが、抱擁は一瞬で解かれる。
「とにかく、大丈夫だから」
「何がよ」
互いの顔が見える位置まで離れた一瞬、見えた表情は、泣き出しそうに歪んでいた。けれども、見間違いか勘違いと思えるほど刹那で、その表情も不敵な微笑に塗り替えられてしまう。
「家茂ってば」
「そんな顔するな。じゃあな。繰り返すけど、この件が終わるまで奥を出るなよ」
今度こそ、何を問い返す間もなく、家茂はきびすを返した。
慌てて廊下に出て追い掛けるが、どういう早足か、家茂の背は既に遠くなっている。
(……そんな顔って、どんな顔よ)
無意識に頬に手を当てる。
最後のやり取りの、違和感に眉根を寄せた。
『この件が終わるまで、奥を出るなよ』
そして、最後の台詞が意味するところは、何なのか。
(……今まであたしの行動制限するようなこと、あいつは言わなかった)
乗馬も弓も、皇女らしからぬからやるな、とも言わない。和宮が和宮であることを、決して否定しなかった。
だのに、今日だけは、言うことが彼らしくない。
(……本当は、付き合って欲しかったんじゃないの?)
暴走したって平気だ。絶対に付いて行ける。
邦子はいつぞや、『精神が平静でないと怪我をする』と言って憂さ晴らしの乗馬を止めたことがあった。だが、自身の乗馬の腕は、『皇女サマのお遊び水準』ではないと、和宮はある程度自信を持っている。それこそ、乗馬に限って言えば、自分の面倒くらい自分で見られるのだ。
(ホントに水臭いんだから)
――あたしはあんたの妻じゃないの?
脳裏をよぎり掛けた言葉だけは敢えて無視して、和宮は長い間躊躇った末に、上段之間へと引き取った。
***
「たっ、大変でございます、御台……いえ、和宮様!」
その日の夕餉から四半時ほどして、和宮の居室に駆け込んで来たのは、御年寄りの長の地位にある滝山だ。普段、何をするにも冷静沈着な彼女が、ここまで狼狽しているのは珍しい。
珍事であるがゆえに、『大変』という言葉に真実味が帯びる。
「何事です、騒々しい」
落ち着いて、上から何かを咎めるように邦子が答えた。だが、滝山は邦子ではなく和宮だけを見て告げる。
「うっ、上様が……上様が、ご危篤で」
「何ですって?」
和宮は目を剥いた。
「どういうことなの、詳しく話して!」
「それが……それが、馬場で突然狙撃され」
「狙撃!?」
和宮は叫ぶなり立ち上がる。いや、立ち上がったつもりだった。
だが、思うように足に力が入らず、すぐに前方へ膝を突いてしまう。
「宮様!」
「狙撃だなんて……容態はどうなの? だから、自覚があるのかって言ったのに……!」
邦子の支えてくれる腕に縋りながら、前に進もうとする。
「……でも、ちょっと待って。あいつが……家茂が馬場に行ったのって昼間じゃなかった? 何で今になって連絡が来るのよ」
「それは……」
平時、淡々と、そしてハキハキと物を言う滝山が口籠もっているのも珍しい。
とにかく、これでは埒が明かない。一刻も早く、彼の元へ行かなければ。そう思ってもう一度立ち上がろうとするが、四肢が痺れ力が入らない。
「家茂……!」
死んじゃだめ。
それが、口から出たのかどうなのか、和宮にも分からない。
目の前がチカチカと明滅し、視界が揺れる。急速に頭と瞼が重くなって、和宮の意識は闇に呑み込まれた。
***
――行かなくちゃ。
暗くなった意識の中、その言葉が脳裏に浮かぶ。
――早く、行かなくちゃ。家茂が死んじゃう。
死ぬ? 家茂が?
彼が、自分の傍から永遠にいなくなるなんて、考えたこともなかった。
綺麗な顔して、口を開けば台無しの毒舌。その毒舌ゆえに、なよやかな外見とは裏腹な、死とは無縁の、ある種の強さを持っていると信じていた。
だのに、こんなに呆気なく、あっさりと。
――だから、開国なんて嫌だったのよ。
開国したから、弓よりも強力な飛び道具も入って来るのだ。第一、狙撃なんて、コソコソ隠れて人の死角から狙い撃ちだなんて卑怯にもほどがある。正々堂々、正面から挑んで勝てないと思う相手だからそんなことを。
銃による傷や、それによる損傷、治療法なんて、和宮は一切知らない。知らないからこそ、不安になる。
――容態はどうなの。いいえ、危篤って言ったわ。じゃあ、すぐに会わないと。
もがいても、指先さえピクリとも動かない。
何と脆弱な。
自分は、たかが夫の危篤の報せごときで動けなくなるような根性なしだったのか。心底情けなくなって、無意識に爪を立てた先に、敷布の感触を覚える。
――家茂。
嫌だ、死なないで。あたしと次に会うまで死なないで。嫌だ。二度と会えないなんて、そんなこと――
直後、その手が温もりに包まれる。
ぼんやりと目を上げると、曇った視界の中に見慣れた美貌が映った。
「……え、もち……?」
「……ああ。俺が分かる?」
「……危篤、だったんじゃ……」
銃で撃たれたクセに、程なく動き回るなんて、どれだけ無謀なのか元気なのか、もう判断が付き兼ねた。
「家茂……」
握られた手を、縋るように握り返す。
「逝かないで……」
「……バカ。人を勝手に殺すな」
彼の表情はよく分からない。
ただ、その手を離したくなくて傍にいて欲しくて、和宮はもう一度身体に力を入れた。
起き上がろうとしているのが分かったのか、家茂が慌てて背中に手を入れてくれる。
「まだ寝てろ」
「……寝たら、あんたがいなくなるかも、知れない、でしょ」
呂律もうまく回らない。それでも懸命に言い募る。
「……傍に……いて」
「分かったから」
「……好き、なの」
彼に必死でしがみつく。出し抜けに悟った想いは、考える間もなく口から滑り出た。
「……和、宮……?」
「……あんたが、好き……だから……」
――だから、傍にいて。逝かないで。永遠に手の届かない所へなんて、行っちゃ嫌だ。
家茂が、和宮の所為で愛した女性を失ったことも、その為に和宮を憎んでいるかも知れないことも、今はどうでもよかった。
相手がどう思うか、熟慮する余裕もない。
和宮の頭にあったのは、今伝えなければ、今素直にならなければ後悔する、ということだけだ。
壊れたように告白を繰り返す唇が、不意に塞がれる。
見たこともないくらい、家茂の顔が間近にあるのが分かったが、それの意味する状況は理解できなかった。ただ、きつく抱き竦められているのだけは分かる。和宮は重くなる瞼に逆らわずに目を閉じ、彼に応えるようにしがみつく腕に力を込めた。
©️神蔵 眞吹2024.




