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殉×愛×ハッピーエンド  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
第二幕 Fall in love
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第一章・第三話 かの人の変貌

「……熾仁たるひと、兄様……!?」

「久し振りだね、和宮かずのみや

 上げた瞬間には緊張を含んでいた熾仁の顔が、柔らかく笑む。

「どうして……どうして兄様がここにいるの!?」

 思わず、叫ぶように問う。すると、微笑を深くした熾仁は立ち上がって、和宮のすぐ傍まで歩んだ。そして、そっと和宮の手を取る。

「勅使として来たんだよ。和宮にも渡すものがあると言うから、その役を買って出たんだ。君にもう一度会えるかと思って」

「兄様……」

 あたしも、会いたかった。そう言ってしがみついただろう。結婚する前――駆け落ち未遂の日以前の、和宮なら。

 だが今は、何をどう言えばいいか分からない。訊きたいことはほかにも山程あるけれど、今更訊いても仕方がないことでもある気がする。

「……会いたかった」

 しかし、樽仁のほうが、沈黙する和宮を当然のように抱き締めた。

 抱擁も、嫌ではない。だが、和宮としては、それはもう兄妹の抱擁と大差なかった。

「可哀想に……随分やつれたね。さぞ苦労しただろう」

 互いの顔が見えるところまで離れ、熾仁が和宮の頬に掌を這わせる。そのまま、彼はごく自然に顔を傾けた。口づけの気配に、和宮はとっさに熾仁の胸元を押す。

「……和宮?」

「あ、あの……それで、あたしに渡すモノって?」

 かなり急に話を逸らした所為か、それともあからさまに口づけを拒否した所為か、熾仁の顔が訝しげに曇る。

 しかし、和宮の行動の意味を特に追及することなく、彼はかたわらにあった文箱ふばこを和宮に差し出した。

「勅書の写しだ」

「勅書? 何の?」

「君が中身を知る必要はないよ」

 宥めるような笑顔で言われて、覚えずムッとした。だが、熾仁はそれには気付かなかったようだ。

「今頃、原本は老中の手に渡ってる。老中がそこで握り潰した時の用心だ。君なら、確実に将軍へ渡してくれるだろう?」

 やはり幼子に命令するような口調に、和宮の目元は冷ややかに細められた。いや、幼子相手の説教ならまだマシだ。

(……まるで、政略の道具(間者)扱いね)

 あんなにも彼を好きだと思っていたはずの気持ちが、氷水でも掛けられたように急速に冷めて遠退いていく。

 いや、駆け落ち未遂の時に冷めたことは分かっていたけれど、こんなに強烈ではなかった。子ども扱いが不満だったのも、『言っても理解できない』と思われていることへの反感だったのだと、今なら分かる。

 しかし、その不満はおくびにも出さず、文箱を受け取った。

「……上様に、渡せばいいのね?」

「うん。頼めるかな」

「分かった」

 これが、やはりあの駆け落ち未遂以前のことなら、『任せて』と続いただろう。しかし、今は最低限の了承の言葉だけを口に乗せた。

 それが、なく響いたのかも知れない。熾仁は、自分が渡した文箱を取り上げ、脇に置いて和宮に向き直った。

「兄様?」

「もういい加減、『兄様』はやめようよ」

 困ったように笑った熾仁は、先刻の続きをしようとするかのように、和宮の頬に手を添える。

「兄様、あの」

「悪かった。あの日、君を連れて逃げなかったことを、どれだけ後悔したか……」

 今度こそ唇が重なりそうになって、和宮はさり気なく顔を背けた。

 しかし、熾仁は構わず頬に口づけ、繰り言を続ける。

「離れてみて分かった。どんなに自分が君を愛しく思っていたか……」

(愛しいが聞いて呆れるわ)

 思わず脳裏で反論してしまう。

 愛しい相手なら、なぜあの日、和宮にすべての責任を押し付けて逃げるような真似をしたのか。

(……いや、事実は事実なんだけどさ……)

 そう、事実が事実だから、和宮は表立って熾仁を責めることを躊躇ちゅうちょしてしまうのだ。

「兄様、もうやめて」

 それでも、求愛行為にあらがいい続ける和宮に、熾仁は構わず言葉を継いだ。

「もう少しの辛抱だ。すぐに京へ戻れるから」

「は? どういう意味?」

 眉根を寄せて、和宮は再度熾仁の胸を押して距離を取ろうとする。

「要は、十四代将軍がいなくなればいい。今、十四代がいなくなれば、君は実家へ戻れるんだ。いくら何でも、一度()した皇女を次の将軍に再嫁はさせられないからね。表向きには君は京へただ戻ったことにすれば、密かに私と一緒になることもできるよ」

 瞠目した。

「……何をするつもりなの」

 今度は思い切り腕を突っ張る。すると、ようやく熾仁の腕の力が緩んだ。正面から顔を合わせると、熾仁は眉根を寄せた。

「だって、君が江戸入りしてからどれくらい経っていると思うんだ。正式に婚儀が成立してから数えたってもう四月よつきは経ってる。そのあいだに、攘夷を号令しようと思えばいくらでもできたはずなのに、ちっともその気配がない。大方、幕府にはもうその気がないんだろう」

 覚えず、ギクリとする。

 確かにその通りだ。でも、違う。できないのだ。不可能なのだ。

 それを、朝廷も兄も、熾仁も知らない。それゆえか、熾仁は言い分を述べ続ける。

「だったら、攘夷を実行してくれそうな人を将軍にしたほうが手っ取り早い。十四代には将軍を退いて貰う。この世から(・・・・・)退場してもらうことでね」

「やめて!」

 反射で、制止の言葉が口を突いていた。

 熾仁が、意外だと言わんばかりに目を見開く。

「……和宮?」

「……だめ……そんなこと、しないで。殺すなんて……人の命だよ?」

 必死で言い募る言葉も、今の熾仁には届かないらしかった。

 彼の顔には再度、宥めるような、幼子を言い諭すような表情が浮かぶ。

「何を言っているんだい?」

 困ったように彼は小首を傾げた。

「君だって忘れたわけじゃないだろう。私たちを卑劣な手段で引き裂いた、幕府のやり口を」

「それは……」

 それを言われれば反論はできない。

 いくらもう、熾仁から心が離れていても、それとは別に幕府の横暴さ、非道さが許せないから、今家茂(いえもち)としっくりいっていないのだ。言い淀んだ隙に、熾仁は懇々と踏み込んでくる。

「忘れちゃだめだ。将軍なんて、卑怯な幕府のおさだろう? 人間と思わないことだ。いいね? 和宮」

「違うわ。兄様、聞いて。あの人だって被害者なの。幕閣と一緒にはできないわ」

 どういう意味だ、と訊いてくれると思った。しかし、熾仁は宥めるような笑みを浮かべるばかりだ。

「可哀想に。君は将軍と幕閣に洗脳されたんだね」

「兄様!」

「シッ、もう兄様と呼ぶのはやめてくれよ。さっきも言っただろう?」

 こんなにも、彼は言葉の通じない人間だっただろうか。それ以上、どう反論していいか分からなくなってくる。

「大丈夫。君はすべて私たちに任せておけばいい。邦子や、お母上にも帰り支度を密かに始めるように伝えておくれ。近い内にきっと都に帰れるからね」

「嫌、お願い兄様! 家茂……上様を殺すなんてそんなこと」

「大丈夫だ。将軍がいなくなれば目は覚める。安心しておいで」

 やんわりと微笑んだ端正な顔に、ゾッとする。まるで、冷や水でも浴びせられたようだ。

 違う、こんなのは熾仁ではない。熾仁こそ、何かに洗脳されたとしか思えない。

「姉様……邦姉様!」

 悲鳴じみた呼び声に、すぐに襖が開いて邦子が姿を現す。次いで、彼女も瞠目した。

「熾仁……様!?」

「やあ。久し振りだね、邦子」

 熾仁は、先ほど和宮にしたのと同じように、笑って挨拶した。

「そこを閉じてこちらへおいで、邦子。今後のことを話しておきたい」

「はあ……」

 泣き出しそうな顔をしているあるじと、熾仁を見比べるが、邦子は何の疑問も感じなかったようだ。首を捻りながらも襖を閉じてしまう。

(だめ)

 誰か、助けて。そう思うが、もう誰に助けを求めてよいか分からない。

「ご無沙汰しております。熾仁様にはご健勝のご様子、祝着に存じます」

 頭が空回る内に邦子が二人の傍に膝を突き、頭を下げた。

「相変わらず、堅苦しいねぇ、邦子は」

「だめよ、姉様。兄様は全然ご健勝じゃないわ」

 熾仁の腕から膝行いざって抜け出すと、邦子の腕にしがみつく。

「はあ?」

「健勝じゃないのは和宮だろ? 将軍の肩を持ったりして……大丈夫かい?」

「えっ? そうなのですか? 宮様」

 目を見開く藤子に、口早に急かす。

「話せば長いけど、とにかくもう行こう、邦姉様。話はあとで……」

「あとでじゃ困るよ。邦子。近々、今の十四代将軍は廃されて、死ぬだろう。だから、都へ戻る準備をしておいて欲しい」

 邦子が目を瞬く。

「まことですか?」

「うん。将軍が死ねば、和宮が都へ戻るのに、何の支障もなくなるからね。表向きにはもう都の実家へ戻ったことにして、当初予定通り私の妻にするから、そのつもりでいておくれ」

 すると、邦子は明らかに安堵の顔付きになる。

「それはようございました。宮様、熾仁様、お祝い申し上げます」

「姉様!」

「ああ、よかった。邦子はまだ話が通じるんだね」

「とおっしゃいますと?」

「和宮が将軍を殺して欲しくないなんて、困ったことを言うんだよ。どうしたって言うんだい?」

 首を傾げて、心底困ったと言いたげな熾仁から和宮の顔に視線を移した邦子は、責めるような顔付きで和宮を見、熾仁に目を戻した。

「……申し訳ございません。色々とありましたので、きっとお疲れなんですわ」

「ちょっ……邦姉様まで何サラッとおかしなこと言ってるのよ!」

 話が通じないのが増えた。

 どうしたというのだろう。幼い頃から姉妹も同然に過ごして来たのに、和宮の言い分に耳を傾けてくれないなんて。

「ご安心を、熾仁様。わたくしが付いておりますゆえ。観行院かんぎょういん様にもお話を通しておきます」

「頼んだよ、邦子」

「邦姉様!」

 甲高い悲鳴のように名を呼ぶ和宮の口元に、熾仁がその声を封じるように人差し指を掲げる。

 流れるような動きで顎先を取られ、口づけられた。

「邦子。和宮は本当に疲れているようだ。もう部屋へお連れして」

「はい、熾仁様」

「あ、それとこれを」

 熾仁が、脇へ置いていた文箱を、邦子に差し出す。

「これは?」

「勅書の写しだ。将軍に渡しておいて」

「心得ました」

 邦子は文箱を抱え、頭を下げる。

 そして、「さ、宮様」と和宮を促す。しかし、和宮は邦子の手を振り払った。

「だめよ、兄様。考え直して」

「君は私のところへ戻りたくはないのか?」

「それは」

 戻りたくない――その表現は適切ではない、と思う。すでに心は熾仁から離れているのだ。それに、家茂の傍を離れたくない。

 けれども、どちらも言えない。まだ、口にする勇気がない。

「大丈夫。もうすぐ、何もかも元通りになるからね」

 熾仁は愛おしげに和宮の頬を撫でると、邦子に目を向けた。

「邦子。私たちはしばらく江戸に滞在する予定なんだ。また連絡するから」

「はい、熾仁様」

「あ、そうだ。もう一つ、忘れるところだった。和宮、これを」

 熾仁は懐に入れた手に、袱紗に包まれた何かを握って和宮に差し出す。

「……今度は何? 家茂を毒殺でもしろって言うの?」

 もう彼には疑心しかない。今や、和宮の言葉を聞いてくれる者は、この場にはいない。

 すると、熾仁は目をみはったあと、小さく笑った。

「違うよ。何を言ってるのか……君にそんな物騒なこと、させられるわけがないだろう」

 言いながら、彼は和宮の手を取って袱紗包みを渡す。

「これは、単なる贈り物だ。和宮、もう誕生日過ぎていただろう? 半年も過ぎたらもうあれだけど」

「あっ……そうでした。これはうっかりしていましたわ」

 一つ手を打つと、藤子は上げ掛けていた腰を落として頭を下げた。

「おめでとうございます、和宮様」

「大分遅れたけどね。十六歳おめでとう、和宮」

「あ……りがとう」

 ぎこちなく礼を述べると、熾仁は満足げに笑ってまた一つ、和宮の頬に口づけを落とした。


***


(……なーにが『大分遅れたけどね』よ! 年替えがあったからそうなってるだけで、本当の誕生日は今日よっっ!)

 何も見ていない男だった。しかも、女心も理解してないと来た。

 表面上の和宮を見て、与えられた情報だけ覚えて、それだけでいつ愛したというのか。軽々しい口説き文句がとことん疑わしい。

 駆け落ち未遂の時、本当は碌でもない男だったのではと、チラと思わないこともなかった。でもそれは一面に過ぎないのかもという否定との間を行き来していたが、いよいよ本性を現したというところだろうか。

 今、まざまざとそれを思い知らされる。そして、自分が何も見ていない女だったことも。

 まさしく自己嫌悪だ。

「邦姉様」

「はい、宮様」

 対面之間たいめんのまから戻って早々に、和宮はギロリと睨むように邦子を振りあおいだ。

「悪いけど、洗面用具用意してくれる」

「……は? あの」

「それと、うがいの用具も。早く」

「は、はい」

 珍しくドスの利いた声に、それ以上の追及を許されない空気を感じたらしい。邦子は慌てて手に持っていた文箱を置いて、居室である上段之間じょうだんのまを辞して行った。

 その文箱にチラリと目を向ける。

『君が中身を知る必要はないよ』

 最早、いけ好かん笑顔になった熾仁の顔が脳裏をよぎって、憤然とその文箱の封をしてあった紐をほどく。

(おとなしく見ないままにしとくと思ったら大間違いよ! あたしだって字くらい読めるんだからね、あんたのおかげで!)

 苛立った音を立てて中にあった書翰しょかんを開くと、その文面に目を走らせた。が、読んだところで意味はよく分からない。

 全文としては、前置きと、『勅令として次の三箇条を授受するように』という簡潔な文章だけだった。

 その三箇条の内、辛うじて分かったのは、『一、将軍、上洛のこと』の部分くらいだ。

 残りの、『二、沿海五大藩の藩主を大老に任じること』『三、一橋ひとつばし慶喜よしのぶを将軍後見職に、松平慶永(よしなが)を政治総裁職に任じること』は、結局何がしたいのかが伝わって来ない。分かる者には分かる、というやつだろう。

(……これが家茂の暗殺計画とどう繋がるのかな……でも、確かこれは家茂に見せてもいいものよね。渡せって頼まれたんだから)

 暗殺する対象の家茂本人に見せるものに、さすがにその計画なんて直接書いてはいないだろう。

(狙いは何? 本当にあたしと復縁することだけが目的?)

 和宮は、箇条書きにされた文章の一番目を指先でなぞりながら眉根を寄せた。

「……えー、何々。将軍が諸大名を率いて上洛し、国事を議する?」

「きゃああっ!」

 いきなり耳元へ声を落とされて、和宮は思わず悲鳴を上げる。

「何だよ、びっくりした。いきなり大声上げんな」

 振り返ると、耳を塞ぐ仕草でそこにいたのは家茂だ。

「びっ……、び、びっくりしたのはこっちよ! いきなり耳元で喋んないで!」

「何回か呼んだぞ。何読んでんだ?」

「あ、えっとこれは……」

 無意識に書翰をクシャリと握り込む。

 熾仁は、和宮なら家茂に確実に渡してくれるだろうから、と勅書の写しを手渡した。しかし、これでは握り潰す確率が高いのは、老中ではなく和宮のほうだ。

「とっ、ところで何の用?」

「何の用はねぇだろ。勅使がお前と二人で会いたいって言ってたから、内容が気になってな」

 この三ヶ月のわだかまりなど、まるでなかったかのように言った家茂は、そのまま腰を下ろしてしまう。

 直後、邦子が女官に洗面・うがいの道具を持たせて上段之間に戻ってきた。

「……まさか、今から顔洗うのか?」

 朝起きてから洗ってないのか、と問われた気がして、たちまち頭に血がのぼる。

「んなわけないでしょ、ちょっと待ってて!」

 ピシャリと言って、隣の切形之間きりかたのまに引き取った。

 女官が袖を捲ってくれる間を待つのも惜しく、バシャバシャと派手に水を跳ね上げ、特に頬と唇を入念に洗う。

(っあー、気っ持ち悪い! 本気で百年の恋も冷めるってやつね!)

 というより、今さっき会った熾仁(駆け落ち未遂の直後とは同一人物に間違いない)と、長い間恋い慕っていた熾仁が、まるで別人のようだ。双子の兄弟がいただろうか、と本気で錯覚しそうになる。

 熾仁は確か、有栖川宮ありすがわのみや幟仁たかひと親王の第一王子だ。和宮の知る限り、異母同母含め、きょうだいはそこそこの数いるが、双子の兄弟はいない。

 どうしてあんなにも、別人のように変わってしまったのだろう。和宮との破局が彼を変えたと考えるのが自然だが、それより前から彼は幕府をよく思っていなかった節がある。

八十八卿はちじゅうはっきょう……何事件だっけ?)

 幕府の役人が、外国との条約調印許可を求めて上京してきた際に、それを突っ返すようにという上訴を、公家や殿上人が出した事件だったと記憶している。

 その時、熾仁は八十八卿の中に名を連ねるのでなく、単独で自発的に嘆願書を出したと言っていた。まつりごとに積極的に熱く関わるような一面をも、和宮が知らなかっただけなのか。

(だとしたって、あたしと復縁する為に手段を選ばないような人じゃなかったと思うけど……)

 考えれば考えるほど分からなくなっていく答えを求めるのを、一旦やめる。

 うがいも入念にしたあと、居間である上段之間に戻り、瞬時唖然とした。部屋の中では、文箱にぞんざいに戻しておいたふみに、家茂がシレッと当然のように目を通している最中だったからだ。

 悲鳴を上げるべきか、彼の手にある文を奪い取るべきか、黙認するべきか。真剣に悩んだ結果、出入り口でしばし硬直する。

 襖を閉めもせず立ち竦んでいる和宮に目を向け、「俺宛みてぇだけど」と軽く言いながら文を持った手を上げた家茂は、その文をヒラヒラと上下させた。

「勝手に……」

「だーから、俺宛の文を勝手に見るなとか言われても困るんですけど」

 どこからどう聞いても、突っ込みどころのない正論に、口を噤むしかない。

「むしろ、勝手に見たのはお前のほうだろ。で、コレ何? 勅使からもらったのか?」

「それは」

「でも、お前と二人で会いたがるトコ見ると、ただの勅使じゃねぇよな」

 またも、口を塞がれたような気分に陥る。

 洗面やうがいをした後始末をしている邦子を一瞬振り向いて、和宮は襖を閉じた。

 家茂の前に腰を下ろすが、言葉が出ない。何から話せばいいのか。

「……コレ、同じ文面ついさっき見たよ。中奥で」

「えっ? ちゃんと老中が見せてくれたの!?」

 反射で顔を上げる。

 すると、家茂が一瞬瞠目し、次いで苦笑した。

「老中が俺に見せるわけねぇじゃん、こんなの。俺なんて、名前だけで事実上いねぇも同然の将軍だぜ? 写し見してくれたのは別の奴」

 クックッ、とおかしそうに肩を震わせた家茂は、胡座あぐらを掻いた足の上にパサリと音を立てて文ごと手を下ろす。

「問題は、何でお前がそれと同じもんを持ってるかってことだな。さっきの勅使からもらったのか」

「……そうよ。老中が握り潰すだろうから、確実に渡してくれるようにって」

 観念して、俯き加減に唇を尖らせながら言う。素直に家茂に渡したくなかったのは、いかにもそれが、道具としての間諜のやりそうなことだからだ。

 その上、家茂の暗殺と失脚を企んでいる人間から言付かったものを、ウカウカと渡す気になれなかった。

「……お前さ」

「何よ」

「ほかに何かあった?」

 ――鋭い。

 そう思っただけで、口を噤み続けるのが精一杯だ。

(……あったけど……あったけどさ)

 それこそウカウカと口にはできない。

(だって……だって、望んで座ったわけじゃないのにその座にいるだけで命狙われてるとか、聞いて衝撃受けない人いないじゃない?)

 伏せた瞼の下で、視線をせわしくウロウロさせる。しかし、程なく家茂の指先に、額をツンとつつかれた。

「沈黙長すぎ。内容は吐いてないけど、ありましたって言ってるようなモンだぜ?」

 またも面白そうに笑いながら言う彼の顔に、思わず目を奪われる。

(……ああ)

 こんな時なのに、その綺麗な笑顔に見惚みとれる。

 この笑顔を、曇らせたくない。素直にそう思う。それがなぜなのか、理由はよく分からないけれど。

「まあ、素直にここで全部吐いとけよ。お前、全然嘘がける性分しょうぶんじゃないだろ」

 和宮の思考を余所に、笑いの残滓を引きずりながら家茂が流し目をくれた。

 しかし、和宮は尚も逡巡する。

(……どうしよう)

 膝に置いた手を握り締める。拳を中心に、緋の袴が複雑なしわを刻んだ。

 勅書の写しを渡されたこと以外にあった出来事。それは、多かれ少なかれ、家茂を傷付ける事実を伴っている。

 もちろんもう、初恋には自分の中で決着は付いてしまったから、今更熾仁とどうこうなる気も、復縁する気も更々ない。

(だけど)

 チラリと目を上げる。

(怖い)

 口に出すことで、家茂の死が確定的なものになってしまうかも知れない。そう思うと、和宮はどうしても、その場で残りすべての出来事を打ち明けることはできなかった。


©️神蔵 眞吹2024.

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