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殉×愛×ハッピーエンド  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
第二幕 Fall in love
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第一章・第一話 雛市

「……ごめんなさい……!」

「……和宮かずのみや?」

 初めて、まともに名前を呼ばれたことに、気付く余裕もない。

 ごめんなさい、と繰り返そうとして、それも思い留まる。謝罪のしようもない。

 うつむいて、震える手で口元を押さえる。

 和宮の想い人だった男はまだ生きているが、家茂いえもちの大切な人はもういない。

 彼は、どんなに和宮を恨んだだろう。

 和宮さえ存在していなければ、幕臣たちが公武合体などと叫ぶこともなかった。天皇家さえ存在しなければ、柊和ひなは死なずに済んだかも知れない。

 和宮が自身の気持ちで手一杯だったあいだに、人が一人亡くなっていた。

 それを知らずにいたことが、心底歯がゆくもどかしかった。

 立場が逆なら、絶対におかしくなる。もしも、幕府からの要請で熾仁たるひとが殺されていたら、きっと彼のほかの一面なんて知らないままだった。そうしたら、彼を深く愛していると思ったままだった。その上でほかの男との結婚などいられたら、とても正気ではいられなかっただろう。だのに――。

「……何で責めないのよ」

「……和宮?」

「柊和さんが亡くなったのは、あたしの所為じゃない……!」

 絞り出すように叫んだ途端、涙が勝手に溢れる。

 謝りようもない。知らない内に、深い深い罪を犯していた。

 どう謝ればいいのか、まったく分からない。

「どうしてっ……!」

 なぜ、あの夜以来、彼は責めないのだろう。

 お前の所為で柊和が死んだのだと、責任を取れと、理不尽に責め苛まれたほうがずっと楽だ。

 ややあって、不意に肩先に温もりが触れる。

 目をしばたたいた直後、優しく抱き寄せられた。

「家っ……」

「……悪かった」

「ッ……?」

 唐突に耳元へ落ちた謝罪に、再度目を見開く。

「言い訳だけど……知らなかったんだ。お前にも想う相手がいたなんて……ただ了見の狭すぎるオヒメサマが、武家への偏見で結婚を拒んでるとしか思ってなかった。だからあの日は、柊和の死んだ原因が目の前にいると思ったら……ごめん。見当違いの八つ当たりしちまった」

「……ッッ」

 嗚咽に遮られて、言葉が出ない。ただ、必死で首を振る。

 家茂の怒りは正しい。恨みも憎悪も、それを和宮にぶつけるのは正しいのだ。存分にそうすればいいのに。

「……ごめんな。お前の事情も気持ちも考えてやれなくて……悪かったと思ってる」

(何で)

 なぜ、彼はこんなにも優しいのだろう。憎い女を思いやれる理由が分からない。

「お前の所為じゃない。お前は何も悪くないから」

「……ごめ……」

「もう謝らなくていい。宮は何も悪いことしてない」

 幼子を宥めるように、家茂の手が優しく肩を叩く。

 何も悪いことはしていない。彼が、お為ごかしの口先だけでなく、心底そう思っているのが分かる。

 けれど。

(……違う)

 立派に悪いことをした。ひどい言葉を投げ付けて、きっと彼の心を抉ってしまった。

 だが、それももう言葉にならない。

 家茂の胸元に縋り付くようにして、和宮は随分長いこと啜り泣いていた。


***


 翌日の気分は、中々に最悪だった。

 昨日は結局、家茂に抱えられるようにして奥へと戻り、早々に寝所へ引き取った。

 久々に幼い頃に帰ったように藤と母に着替えさせてもらい、布団にもぐり込んだ。

 日長一日泣いて泣いて、頭痛に耐え切れなくなったら仕方なく泣くのをやめるのを繰り返した。昼食も夕食も取らずに夜を過ごし、合間にうたた寝して朝を迎えた。

 泣き過ぎて腫れ上がったような頭を持て余すのは、熾仁と破局した翌日以来だ。

 泣くだけ泣いたらややすっきりはしたし、その疲れによってか頭の中は真っ白だ。何も残っていない気がする。

 最早、何もかもどうでもいい気分だ。何も考えたくない。

 総触れに出なくてはならないはずだが、今日は誰も起こしに来なかった。昨日の昼から何も食べていないので、チラと空腹を覚えたが、もうそれすらどうでもいい。

 ただ、さすがに手水ちょうずと水分補給は怠るわけにいかない。昨日より何だか重くなってしまったように感じる身体を引きずり、用を足して寝所へ戻ると、そこには家茂がいた。

「よ」

「……じゃないわよ。何しに来たの」

「総触れに顔見せなかったから、気になって」

 はあ、と露骨に疲れた溜息をいて、和宮は敷きっ放しだった布団へもそもそと座った。

 チラリと目線を投げると、家茂は言葉通り心配げにこちらを覗き込む。ただ、大丈夫かとは口にしない。そうでないのが分かっているからだろう。

 体調不良の原因が、風邪などでないのも多分理解してくれている。

「水でも飲むか?」

 否も応も返事をする前に、家茂は枕元にあった盆の上で、水差しを傾けた。水を注ぎ入れた湯呑みを差し出す。

「ほら」

「あ……ありがと」

 短く言って受け取り、口を付けた。

「……何だかんだで結構あんた、毎日こっちに来るよね。将軍ってそんなに暇なの」

 何もかもがどうでもよくなっていた為か、つい皮肉が出てしまう。しかし、家茂は気にした風もない。

「言ったろ、俺も飾り人形だって。俺が表にいなくたって回ってるさ」

 クスリ、とこちらも皮肉めいた笑いと共に、立てた膝に頬杖を突いている。

 さすがに、昨日の今日で、『柊和さんが亡くなった時は、仕事で表に釘付けだったんじゃないの?』とは返せない。

 いつしか落ちた沈黙が重たい。を持たせるように、時折湯呑みを傾けていたら、中身はあっというに空になった。

 それを見計らったように、「ホラよ」と言った家茂が、何かの小袋を差し出した。

「……何?」

 手に載った小袋と、彼のあいだを視線が行き来する。

ければ分かる。じゃあな」

 身軽く立ち上がった家茂を見上げて、和宮は思わず「えっ、もう?」と言ってしまった。慌てて目を伏せ、口を押さえて、またチラリと彼のほうへ目を上げる。

 自分がどんな表情をしていたのかは分からない。だが、家茂は瞬時、キョトンと目を丸くしたのち、困ったような苦笑を浮かべた。

「まだしんどいんだろ。今日は様子が分かればよかったから」

 じゃあ、と手を挙げてきびすを返す。

 彼の背を見送ったあと、掌に残った小袋の紐を緩める。中からは、色とりどりの金平糖が姿を現した。

 目をみはった和宮の唇に、微苦笑が浮かぶ。

 そっと摘み上げ、口に含んだ小さな砂糖菓子は、優しい甘さだった。


 それから数日後、枕が上がるまで家茂は豆々しく奥へ顔を見せてくれた。

 庭へ出ることもできない体調で、籠もっていれば結婚前より女中たちが傍にいる状況だ。おかしな陰口がひっきりなしに、否応なく耳に入る。けれども、家茂が傍にいれば、そんな騒音は彼がいるあいだだけでも遠のいた。

 彼も、それを分かっていて通ってくれたらしい。

 御風違いという名の価値観の違い、それによる考え方の相違を責め立てる女中たちのさえずりは、和宮にとっては悪意以外の何者でもなかった。


「――まあ、結局生きてきた道の違いだからなー」

 一度、それについての愚痴をこぼした和宮に、家茂はのんびりと言った。その手には、一口大に切り分けられた羊羹がひと欠片刺さった楊枝がつままれている。

「それで済まさないでよ。そっちが合わせるって約束だったから仕方なく来たのに……」

「それを言ってくれるなよ。幕臣たちの暴走を統率できねぇのは俺の力不足だから謝るけど」

 言いながら、家茂は羊羹を口に入れる。

 和宮は、その桜の花弁のような唇を尖らせた。彼に謝られると、何も言えなくなる。彼だって被害者なのは、今は和宮にもよく分かっているからだ。

「和宮だってそうじゃねぇの?」

「え?」

「仮にそっちが誰か武家の人間を婿取りせざるを得なくなったと仮定して、だ。婿に入ってくる男が、武家風の生活維持したいって言ったらどうする?」

「それは――」

 ふざけるんじゃない、としか思えない。しかし、反射で沸いた感想の傍から、疑問符が覗く。

「……でも、あたしには婚約者がいたのよ? それを無理矢理破棄しろって無理難題吹っ掛けたのは幕府側そっちなんだから、前提が間違ってるわ」

「……ごめん。それ言われると、ホントに何も言えねぇわ」

 ばつが悪そうに目を伏せる家茂を見ていると、最近は自分が一方的に悪い気になってしまうのだから、困ったものだ。

「とにかく、今は早く元気になれよ。幕府側こっちの人間の価値観や思惑を制御するのは難しいけど、奴らの陰口が聞こえない所に連れてくくらいはできるから」

 微笑した家茂が、和宮の為の羊羹を乗せた小皿を、目の前に差し出す。

「うん……」

 受け取りながら頷く。確かに、女中たちの口に戸が立てられない以上、こちらが避難するのが手っ取り早いだろう。

「枕が上がったら、見せたいモノもあるし」

 不意に、家茂が顔を近付け、耳元で低く落とす。外の女中たちに聞かれないようにする為だと分かっていても、心臓が跳ねた。

「みっ……見せたいモノ?」

 それを悟られないよう、さり気なく胸元を押さえながら、鸚鵡返おうむがえしに訊ねる。

「そ。楽しみにしとけ」

 湯呑みを掲げて、呷るように中身を飲み干した家茂は、じゃあな、と言っていつものように引き上げて行った。


***


 それから、完全に枕が上がって数日経ったある日、総触れが終わって四半時しはんとき〔約三十分〕後、家茂は和宮をいざなって本丸を出た。

 それも、いつぞやと違ってこっそりだ。

 堂々と行ったら、周りが色々うるさいから、と言うのが、彼の言い分だった。

 ちょうど、桃の節句の支度で大奥も騒がしく、邦子も含めた三人は、案外すんなりと抜け出すことができた。

 とは言え、病み上がりだからということで、今日の移動手段は馬だった。

「本当は船のほうが身体が楽だろうけど、船使うとどうしても役人の目に付くからな」

 とは、家茂のげんだ。

 そして、『病み上がりの宮様を、お一人で馬にお乗せすることはできませんっ!』という邦子の抗議の所為で、和宮は家茂の操る馬で、彼の前に座る羽目になっている。

 『講武所こうぶしょ』とふだの掛かった建物の前で、家茂は馬を止めた。邦子もそれに倣う。

「……ここが見せたいモノ?」

「まさか」

 と返されたが、敷地内にはどう見ても剣術道場と思える所もあった。建物を見て分かったわけではなく、開け放されていた扉から見えたのが剣術の稽古中の風景だったのだ。

 先日、何だかんだで見学しそびれたから連れて来てくれたのかと思ったが、どうも違うらしい。

 敷地内にあったうまやに一度馬を預けると、家茂はやはり勝手知ったる何とやらを実践しているかのように敷地内を進んだ。

 やがて、奥まった場所にあった建物に入ると、今日は玄関も勝手に上がり、執務室と思しき部屋で立ち止まった。

 出入り口から首だけを伸ばし、小さな声で「麟太郎りんたろう!」と声を掛けている。

 室内が小さくどよめく気配がして、程なく麟太郎が姿を見せた。今日は、本来の職場にいたらしい。

「これは上……いや、菊千代きくちよ様」

「頼んだもの、用意できてるか」

「はい、こちらへ」

 短いやり取りののち、先導する麟太郎と家茂のあとに、和宮と邦子も訳が分からないまま続く。

 案内された休憩所のような部屋には、女性が一人待っていた。

「では、こちらのお嬢様のお支度を」

「はい、旦那様」

 麟太郎の指示に女性が頭を下げると、家茂は邦子を伴って部屋を出て行った。

「え、あの……」

「こちらにお着替えいただくようにと、菊千代様のご依頼で」

「はあ……」

 菊千代、というのは、先刻麟太郎が言い直したところを見ると、すなわち家茂のことだろう。察するに幼名だ。

 などとぼんやり考えている内に、小袖と袴を脱ぐように言われた。

 用意されていたのは、町娘が着るような木綿の着物だった。襟は黒、布地はくすんだ薄桃色の小紋柄で、皇女が身に着けるには質素に思える。しかし、きょうびの公家も実はかなり質素な生活をしていたから、それ自体は気にならない。

 装いが公家と異なるのが若干目に付いたが、和宮の事情を理解している家茂が言うのだから、何か意図があるのだろう。そう納得し、特に抵抗もせず、女性に着付けてもらった。

 襟元がやや崩れた感じで、胸より下に帯が来る着付けは、少々だらしなく見える。

 けれども、着替えを終えて家茂に連れられて城下に出ると、気にならなくなった。

 武家屋敷が途絶え、雰囲気の異なる家屋敷が見え始める。そこで、三人は馬を下りた。手近な商家に馬を預けると、そこからは徒歩だ。

 商店街のようだったが、そこここで買い物をしている町娘は皆、今の和宮と同じような着付けで歩いている。

 うっかりいつもの装いで来たら、かなり注目を集めただろう。

 よく見ると、女性が多い。

「……ね、家茂。今日、何かあるの?」

 ひそめた声で訊ねると、「何で」と返ってくる。

「だって、随分女の人が多いように見えるけど……」

雛市ひないちだからな」

「雛市?」

「明日は桃の節句だろ? この時期になると、江戸じゃあっちこっちで雛人形を売る為の市が立つんだ。今日が最終日だから、間に合ってよかった」

「どういう意味?」

「お前の体調がどうなるか、分からなかったからな」

 言いながら、さり気なく家茂の手が和宮のそれを取る。

「家茂……」

「シッ。ここでは菊千代」

「あ……そっか、ごめん」

「はぐれたら面倒だからな。お前は何て呼ぶ?」

「え」

「ここでだけだよ。いつもの呼び名じゃ目立つだろ」

 和宮は、ウロウロと目を泳がせて、結局短く「ちか」と答えた。一応(いみな)なのだが、つい最近授かった名だ。和宮としてはまだしっくり来ない。しかし、ほかの名と言えばこれしかない。

「分かった」

 頷いた家茂に手を引かれながら周りを見回すと、広い道の両側に、店が軒を連ねているのが分かる。その道を両断するように、臨時の店舗らしき小屋もポツポツと建っていた。

 どの店にも、家茂の言った通り雛人形が陳列されている。

 道からも見える店内に、所狭しと棚が並び、そこに一つずつ雛人形が飾られている。客は上がり框や店の奥に腰を下ろして、商人の販売講話に耳を傾けているようだ。

 客のほとんどは女性で、友人同士が連れ立って来ている者、親子連れなど様々だ。

「すごぉい……」

「こーゆー人混みは初めてか?」

「うん……そうね、初めてかも」

 京にいる頃、自分は皇女としては活発なつもりだった。だが、考えてみれば、御所への参内や、火事などによる住居の転居、駆け落ち未遂で熾仁の邸宅へ押し掛けた時以外で外に出たことはないように思う。貸本屋も、向こうから来てくれた。

「どれか、買ってやろうか?」

「へ?」

 和宮は、間抜けな声を出して家茂の顔を見た。

「だから、雛人形。好きなんだろ?」

「えっ、なん、何で」

 ゆっくり見て回りたい、可能なら手に取りたいと思ってはいたが、口には出してない。

 どうして分かったのだろう、と思っていると、家茂はクスリと笑った。

「顔に書いてあるよ」

 彼の空いた手の指先が、ツンと一つ額をつつく。

 行こう、と言って歩を進める彼に手を引かれ、むくれつつ空いた手で額を押さえる。腹立たしいが、悪い気はしなかった。


©️神蔵 眞吹2024.

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