昨日の彼女を壊す
タイトルまんまだと思います。
透明に、綺麗にをモットーに書いております。
「いちか、来たよ」
一枚だけ名前のプレートが掛けられた扉を引いた。広めの病室にはそれに相応しい大きさの窓が付いている。
いつもなら引かれたカーテンの隙間から橙の陽が見えるのだが、今日は窓いっぱいに青空が見えた。早く仕事を終えて見舞いに来たからだろう、看護師がカーテンを閉める前のようだ。
その空に背を向けるように、女性がベッドの上で身を起こしていた。
「いつもありがとう、つぐみちゃん」
お姉ちゃんなのに頼りなくてごめんなさいね、お仕事疲れたでしょうと、彼女は柔和な顔を曇らせた。
「好きでやってるから。あ、これお見舞いとお土産」
彼女の好むパティスリーの紙袋と小ぶりの黒い箱を示すと、表情はすぐに晴れた。
「ありがとう! 今回は・・・・・・針水晶ね」
「珍しいでしょ。この前鉱物の展覧会があってね、そこで見つけてきたんだ」
実はおそろい、と左手人差し指にはめた指輪を見せる。
彼女はあらあらと驚きながらも嬉しそうに、金の線が走るその石を目の高さに掲げた。金色が多い石を選んできたからか、その石は水晶というよりも金の針を集めたように見える。
「この石越しに見ると、青空も夕焼けみたいね」
「夕陽は光が強すぎるから。代わりになるかなって」
「ありがとう」
微笑んだ彼女につられて、私も微笑んだ。
金の縁取りがされた皿にケーキを盛って差し出す。サバランというシロップに浸されたケーキは彼女のお気に入りだが、私には甘すぎる。
シロップがつかないよう、自由に肩を流れていた長い髪をゆるくまとめ、自分のバレッタをはずして付けた。
「懐かしいわ、それ。私が前にあげたものでしょう?」
「そう。こうやって付けて、あげるって言ってくれたんだよ」
「あの時は、まだつぐみちゃんは金髪だったわね。黒もかわいいけれど、金色も似合ってたわ」
彼女は懐かしそうに、黒髪に戻した私の髪を撫でた。彼女が入院すると同時に黒に戻した髪は、もう当初ほどには痛んでない。
もうあの色には出来ないけれど、幼かった頃がたまに懐かしくなる。
「つぐみちゃんはケーキを食べないの?」
「私はいいかな。いちかが食べてるのを見ていられたら、十分」
「あら、まるで口説いているみたいだわ」
くすくすと笑う彼女を横目に、紅茶の用意をする。私自ら淹れるなんて彼女の為にしかしないので、毎回少し手間取る。
肩越しに振り返ると、ベッドに転がった石はまだ高いところにある陽を浴びてキラキラ輝いていた。
彼女の左手薬指には今日も、私があげた石を何倍か濃くした色の、ちゃちな指輪がはまっていて、食器と擦れて嫌な音を立てた。
存分に眺め終わったのか、彼女はいつものように石を棚に置こうとする。彼女はベッドの脇に小さめの棚を持ち込んでいて、そこに今まで私があげた様々な色の石を飾っていた。
気に入ったものはベッドから手を伸ばしやすい高さの段に置いていたのだが、既に橙に似た赤い石がところ狭しと並んでいた。
「いいよ、貸して」
受け取った石はほんのり暖かくて、柔らかい気さえした。私は赤い石を一つ上の段に移動させ、新しい金の石を彼女の触れやすい位置に置こうとした。
その時、病室に明るい光が差し込んできた。
私が手にした石をすり抜けて、床にその色を映す。
ちょうど彼女はそれを見てしまったのだろう。いや、もしかしたらカーテンの閉じられていない窓越しに、赤い空を見たのかもしれない。彼女が息をのむのを感じた。
思わず顔を歪めてしまう。
彼女は、夕陽を見るべきではない。この色は、彼女が後生大事にいつも身に付けている指輪にあまりにも似ている。
かつて彼女に夢を見せた男が、約束の印として彼女に残した噓ものの指輪。
その時ひそかな流行りとなっていた、飴をコーティングしたお粗末なものだ。こうして彼女の生活を一変させたくせに、責任も取らずただ彼女を縛る、あの男の影。
彼女の視線が指を辿って、指輪で止まる。それは沈む間際の夕陽みたいな、覚めるような橙色をしている。
「つぐみちゃんには何度も話したのだけどね。この指輪、あの人がくれたの。初めて貰った物なのよ」
この病室を訪れる唯一の家族である私がその指輪を疎んでいることに、彼女が気づいていないはずはなかった。私が看護師に指輪を外させるように指示していると、聡い彼女はとっくに気がついているはずだ。
だけど、彼女は時々この指輪の話をする。
重ねられた白い手の指先だけが微かに動いて、橙を撫ぜる。
想い出の中に生きる人の頬を撫でているかのような、そんな動きに見えた。
「いつか一緒になろうって言ってくれたの。嬉しかったなぁ」
いつもなら、彼女の話はここで終わる。
あの男の話をすると私が不機嫌になることを知っていて、いつも少しだけ話すとすぐに別の話題に移っていた。その先をもしかしたらいつも言いたかったのかもしれない。
だけど、いつも言わない。言えない。
私にまで見限られたら、彼女は何もなくなってしまうから。なのに、なにがいつもと違ったんだろう。久々に見た夕陽が、彼女をそうさせたのか。
「二人で、二人きりで、静かに暮らせたらって」
「いちか」
まだ、あの男が一番なの、そう言いそうになったのを飲み込んで、もう私以外は呼ばない彼女の名を呼んだ。両親は「花は枯れて、実だけが良く育った」と言う。
そうだ。もう、彼女の存在を認める人は私以外にはいない。
「何度もこんな話、ごめんなさいね。勿論、つぐみちゃんには感謝しかないの。こうして生活も頼ってしまって。それに家のことも、仕事も押し付けてしまって・・・・・・。
今私がこうしていられるのは、全部ぜんぶ、つぐみちゃんのおかげよ」
夢を見ているかのような口調で彼女は話し続ける。私がきつく拳を握り締めたのには、気づかなかったのだろう。
「でも、でもね」
この橙を、信じてるの。
「こんなの信じて何になるのッ!?」
少し幼い口調の、彼女の本音をこれ以上聞きたくなくて声を荒らげた。
もういっそ忘れて欲しかった。
彼女にぬくもりと恋を伝えることができた、彼女の一番を奪い去った、幸運な男のことを。
華奢な指にはめられていた指輪を力任せにもぎ取る。節っぽくなった私の手と、白く滑らかな彼女の指が一瞬だけ絡んで、少し震えた。
でも気にせず、リノリウムの床に指輪を投げつける。外れた橙が跳ね上がるのを待たず、黒いパンプスのつま先で踏みつけた。
ぺキッとコーティングがまず割れた。
ついで増した荷重に、橙の飴が乾いた音を立てて弾けた。
飽き足らず踏みにじられた飴の破片がザリザリと音を立てて小さくなっていく。
彼女は何も言わなかった。それに身じろぎ一つしなかった。
「つぐみちゃん」
彼女は私の冷たい指先をつつむようにして私を引き寄せると、肩口に顔をうずめて、ほんの少しだけ、泣いた。
そして少ししてから顔を上げると、ただ悲しそうに笑って、そうねと一つうなずいた。
この破壊された想い出は、きっと夜には片付けられているだろう。欠片は隅にもぐりこんで残るかもしれないが、多分、その位置は今までの場所とは違う。
すべて受け入れたかのような彼女の視線の先には、あの夕焼け色にそっくりな、でももっと薄くて明るい、金色の筋の走る空が広がっていた。
《終》
色々な捉え方が出来ると思います。
裏設定もりもりの作品ですので、よろしければ深読みしてみてください。
読んで下さった方に少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
後ほどちょっとした設定をあげたいと思います。