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第七章 カレンデュラ

 第四十八話 抗生剤の功罪



 ヤーバ駅を出ると強い日差しが襲ってきて、私は思わず駅舎へ引き返してしまいました。まだ春先だというのに、じっとしているだけで汗ばんでくる陽気と湿気。寒冷地出身の私にとっては、経験したことのない不愉快さです。

 改めて外へ出ると、光の圧力に押されて体が重く感じました。

 カレンデュラの建物は、ヤーバ駅をはじめとして瓦の屋根がよく目につきます。

 駅前広場を彩る真紅の花や、背の高いヤシの木々を眺めているうち、なんだかとても遠くまで来てしまったような気がして、言葉にならない感傷を味わいました。

 私は駅前広場から気の向くままに歩き、平屋の建物がひしめく市街地へ入りました。

 ヤーバには二階より高い建物がほとんど存在しません。西南の海で生まれた台風が年に何度もかすめていくからです。都市が平面的に広がっていったため、東や西の都より人口が少ない割に、土地に余裕がないようでした。

 建物だらけで風の通りが悪い市街地は、暑さや湿気もあいまって、甚だ不衛生な環境でした。お金を稼ぐことにあまり執着しないお国柄のせいでしょうか、再開発で街をきれいにしようという気風は感じられません。

 その代わり、南国の民はどんなときでも明るく、何よりも仲間を大事にし、他の国の人々よりずっと幸せそうに見える、というのが、私たち外国人が受ける一般的な印象だったのですが……。

 ヤーバの市場通りは、人通りはあるものの、まるで国王のお葬式でもあったかのように、誰もが口を慎んでいました。

 よく見ると、男も女も口にスカーフを巻いていて、もそもそと話し、聞きづらいはずなのにお互い近づこうとはしません。

 南国らしくない風習に疑問を感じた私は、近くの青果店の女将にそのことを尋ねてみました。

 答えを聞いて、納得しました。

 ヤーバでは、春から初夏にかけて毎年伝染病が流行するのです。

 ヴィステリアと呼ばれる流感に似た症状の伝染病は、抵抗力のない老人や子供を死に追いやる厄介な病気で、古くからこの土地の人々を苦しめてきました。

 癒術学校の教えでは、伝染病は神からの警告であり、積極的に対処してはならないというのが原則です。冷たいと思われるかもしれませんが、どうしてそのような病が起きたのか、人々は身をもって理解しなければならないのです。

 そうはいっても、窓の奧から聞こえてくる咳の声を耳にすると、私は心が痛みました。一人の癒師がいっぺんに千人のヴィステリア患者を診ることはできないのです。誰を選んで、誰を捨てるのかなんて、考えたくもありません。

 こちらからは手をさしのべられない。誰でもいい、私を頼って……。

 でも、これって、無力感という苦しみから救われたいがために、都合のいい考えに浸っているだけなのでは? 危険を省みず、手当たりしだいに癒していくべきなのでは? 目の前の病人も救えない癒師なんて……。

 自分を責めているうち、胸の真ん中が痛くなっきて、私は道行く人々の間で立ち止まりました。

 頭のてっぺんの方から、誰かがささやく声がしました。

(自分で自分に毒を盛ってどうするのです。癒師が倒れたらもっと死人が増えますよ? あなたはただ、流れに身を任せていればいいのです)

「で、でも……」

(あなたがどんなに優れた癒師でも、すべての人を救うことなど、できません)

「私一人では到底無理でしょう。でも、方法なら見つけることはできます」

(フフ、ちゃんと、わかっているじゃないですか)

「ですね。ありがとう、私」

 えっ? 私?

 ハッと気づくと、私の周りに人だかりができていました。

「幽霊でも見たのかい?」「この()もヴィステリアに頭をやられたんだわ」「スカーフをしなさいっ!」「うつるから離れて!」

 居たたまれなくなった私は、右も左もわからずに駆け出しました。

 三歩も行かないうちに男の人とぶつかり、私は尻餅をつきました。

「す、すみません! 私、まだ健康ですから! ほら、咳なんてしてませんよっ!」

「ゴホッ……おや? 君はたしか、氷河航路で海に落っこちた……」

 浅黒い肌の中年男は、スカーフ越しに言いました。

 カーキ色のベストに探検帽子。なんだか見覚えがあります。

「ヒソップ博士?」

「やっぱりそうか。いや、久しぶりだねぇ。ゴフッ……」

「博士もヴィステリアに?」

「仕方ないよ。大学ってのは無茶してでも勉強するか、でなければ遊ぶ奴が集まる所だからね。そんなことより……」

 ヒソップ博士は細い路地に私を連れこみ、小声で言いました。

「癒師はヴィステリアを治療できるのかい?」

「それは、今すぐ治せという意味ですか?」

 博士はうなずきました。

「研究者は、意味のない休暇ってのが大の苦手でね」

「癒術の力だけで即退治というわけにはいきません。ヴィステリアは病魔の一つ一つがとても小さく、数も膨大です。でも、体に備わった自然治癒力を上げて、回復を早めることはできます」

「つまり?」

「つまり、特効療法はないということです」

「そうか……遠方出身の先生はまだ知らなかったか」

「?」

「実はあるんだよ」

 博士は懐から薬袋を取り出し、表に書かれた薬の名前と能書きを、私に見せました。

「抗生物質……」

 近年、カビの一種をもとに特定の病原菌に効く薬が開発された、という話は耳にしていました。

「人類の科学はついに、大自然の創造主から一つ目の勝利をあげたと言われていたよ。そのぐらい、劇的に効いた」

「……」

「そう思っていたんだが……正しいのは、どうやら君のようだ……ゴホッ」

「訳を聞かせてください」

「ここではまずい。私の下宿で話そう」



 ヒソップ博士は長屋アパートの一室で一人暮らししていました。

 博士は十歳になる一人娘を、南の果てにあるコーカスという古都に残し、ヤーバ大学に単身赴任していました。娘さんの面倒は、幼なじみの少年と団地の人々が見てくれるから、心配ないとのこと。

 十歳の女の子が一人で暮らしてるなんて……私は心配でしたが、今はそれどころではありません。

 私は体の防御能を一時的に高める瞑想をして、開けた窓の縁に腰掛けました。風上にいれば、伝染に対する守りは二重になります。

 本が山積みになった机。博士は下のイスを引いて座ると、言いました。

「で、つづきだが、例の魔法の薬が、年を追うごとに効かなくなってきている。それでこのザマというわけなんだ……ゴホッ。ここ数年などは、薬がなかった時代よりも死者が増えているという話だ」

「それは、ヴィステリアにやられて亡くなった、ということですか?」

「他に何があるんだい?」

「効かなくなった原因はまだわかりませんが、それ以前に薬というのは体にとっては異物、積み重なっていけば毒になります。濫用すれば、その分だけ毒を分解して外へ出さねばなりませんから、寝ているだけでも相当な体力を使います」

「じっとしていても過労になる、というわけか」

「その通りです。過労の人は、健康な方がかからないような弱い病魔でも、命を落としかねません」

 博士は腕組みをして、うなりました。

「死因など一つしかないと考えていたが……いかんいかん、固定観念に捉われているようじゃ、考古学者なんか務まらないな」

 私は博士の体に両手をかざして癒しの念を送った後、トランクを手にして言いました。

「これから一週間、博士のお仕事は、栄養を摂りゆっくり休むことです。いいですね?」

「三日じゃダメ?」

「さらに二週間休むことになってもいいなら、構いませんけど」

 ヒソップ博士は苦笑しました。

「他人の説には耳を傾けない主義なんだが、今の脅しはさすがに効いたよ。それで、君はこれからどうするつもりだい?」

「ヤーバの街を一回りして、人々を苦しめている本当の原因をつきとめたいと思います」



 私はヒソップ博士の名刺を借りて、彼の知人や大学関係者の家を訪ね歩き、事情を話して、ヴィステリアにかかった方の体を診察させていただきました。

 瞑想して患者の体とつながり、わかった共通点は驚くべきものでした。

 ヴィステリアの原因となる細菌が、短い期間で体の性質を変え、薬に抵抗するようになっていたのです。診察しているその瞬間でさえ細菌は、流行りの言葉でいう『進化』をしていました。

 近年発表された『生物は環境の変化に合わせて体を適応させる』という学説は、まだ一般的ではありませんが、近いうちに世間を大いに騒がせることになるでしょう。



 次に私は、伝染病専門の火葬場へ行って、まだ亡くなって間もない方の、焼かれる前の体を調べていきました。

 予見した通り、死因の半分はヴィステリア以外の病気によるものでした。つまり、彼らは薬の濫用によって体を弱めたせいで、ささいな病気で命を落としたのです。

 私は直感しました。抗生物質の使用は、まったくの無駄どころか、人類の未来をも暗くする、恐るべき過ちなのだと。



 ヒソップ博士の学友のなかには、カレンデュラ総合病院に勤める、ハウンズという青年医師がいました。彼は将来、この国の近代医療を背負ってたつ存在として、注目されているとのこと。

 さっそく私はヒソップ博士に一筆したためてもらい、ハウンズ医師を訪ねました。

 午前の外来診察を終えた色黒の青年は、事務机に向かったまま、次の患者を迎えるかのごとく、私に丸イスに座るよう促しました。

 バカにされているのはわかっていました。でも、先に怒ってしまったら私の負けです。ここは従うしかありません。

 ハウンズ医師は言いました。

「ヒソップ君の手紙は読ませてもらった。薬の効きが悪くなっているのは知っている。だが、それはどんな薬にもあり得ることだ。慣れだよ」

「でも今回のケースは……」

「もうすぐ完成する新型の薬なら、ヴィステリアは確実に撲滅できる。それまでの辛抱だと、彼には伝えてもらいたい」

「……」

 私は言いたいことが整理できず、黙ったままそわそわしていました。

「どうした? 帰っていいよ。話は終わりだ」

 カチンときた私は、後先考えずに口を開きました。

「どんなに優れた抗生物質を開発しても無駄です。体の構造が単純な病原菌はすばやく適応できますから、伝染病が絶えることはありません」

「なんだと?」

 ハウンズ医師は読みかけた書類を机に放って、私を凝視しました。

「誰の学説だ? ジンセン大学か? オピアムの国立病院か?」

「私は癒師です。患者の体の深淵をのぞくことができます」

 医師はため息をつきました。

「仮にその不思議な能力で、小さな虫を拡大できるとしてだ。そこからなんで、進化論流の詭弁につながるのかね?」

「それを語る前に、報告したいことがあります。伝染病専門の火葬場で死体を調べた結果、半分の方はヴィステリアに罹っていませんでした」

「バカな!」

 ハウンズ医師は立ち上がりました。

「急場をしのぐためなら、抗生物質は有効かもしれません。でも、予防のために出すのは、今すぐやめてください」

「罹ってしまえばもれなく急場だ。君は伝染病患者を野放しにしろというのか!」

「極論を言えば、その通りです。伝染病は神からの警告なのです」

「何の警告だ」

「世の中は絶妙なバランスで成り立っています。何かが一カ所に集まれば、バランスをとるため、それを解き放つ力が生まれるのです」

「わかるように言いたまえ」

「伝染病の唯一の解決法は、都市を解体し、人々が適度に離れて暮らすことです」

「原始時代に戻れというのか? 理想主義もいいところだ」

「それができないのなら、病の苦しみを受け入れるしかありません」

 ハウンズ医師の黒い顔がみるみるうちに汗ばんでいきました。

「今まさに苦しんでいる患者に、君は同じことが言えるのかっ!」

 私は深くうつむきました。

「……言えません。私は神様や聖人のように、残酷にはなれない」

 涙があふれてきて、しゃくり上げるしかありませんでした。

 もっといい方法がきっとあるはず。でも今はまだ……。

 ハウンズ医師は私の手をとって立たせると、静かに言いました。

「私は自分が信じる方法を試すだけだ。君もそうすればいい。今日はもう帰りなさい」

「はい……すみませんでした」



 帰り道の途中、私はふと気づきました。

 自分の考えに他人を従わせようとしても、平和は訪れないのだと。

 私は一人の癒師として、自分ができる範囲の仕事に専念することにしました。

 心の奥底に宿る、未知の概念をあたためながら……。




 第四十九話 最南端への路



 新暦二〇四年 夏


 ヤーバ市民を苦しめてきた伝染病騒動は、猛暑を迎えるとともに収束していきました。ヴィステリアは恐るべき病魔ですが、高温には弱く、季節をまたぐことはありません。

 ハウンズ医師が言っていた新薬は、今季は間に合いませんでした。従来の薬が効かず、多くの死者を出したカレンデュラ総合病院は、市民との間に大きな軋轢を生み、存続の危機に追いこまれることとなりました。

 静養していたヒソップ博士はすっかり回復して、大学の仕事に復帰しました。

 一方、すべての患者は救えないという無力感に苛まれながらも、私は癒師を信じてやってくる人々のために働きました。

 伝染病が収束したのをきっかけに、私はヤーバを発つことにしました。



 ヤーバ駅のプラットホームで、ローカル線用の『短い弾丸』列車に乗りこもうとしていたとき……。

 駅舎の方からヒソップ博士が走ってきました。

「よかった、間に合った」

「あれ? 今日も大学のほうでお仕事だったのでは?」

「そうなんだが、大事なことを言い忘れていたよ。コーカスへ行くつもりなら、ぜひ私の自宅を使ってくれ。古い団地だし、高いところにあってちょっと不便なんだが、宿代が浮くからいいだろう?」

 水龍に授かった水晶を売ったおかげで、私が旅費に困っていないことを、博士は知っているはず……。

 彼の本音がわかり、私は微笑みました。

「娘さんに言づてはありますか?」

 ヒソップ博士は顔を赤らめると、咳払いしました。

「あー、その、秋には帰るからと」

「承知しました。では、秋にまた会いましょう」

 弾丸鉄道の短い列車は、例のごとく爆発発車してヤーバを出発すると、惰性走行をつづけ、二時間ほどで南の最果てヨモ駅に着きました。

 ヨモは交通利便のためだけに作られた小さな集落でした。駅前に少し建物が並ぶだけで、あとは真っ平らな原野がどこまでも広がっています。

 屋根とベンチがあるだけの寂しい駅構内を出ると、踏みならされた草地がありました。どうやら路線馬車が発着するスペースのようです。円い草地の真ん中に生えている巨木の下に、停留所らしき『雰囲気だけ』がありました。

 私は五人の色黒の老男女についていって木陰に入ると、水筒の水をがぼがぼ口にし、岩塩のかけらをなめ、最南端へ行く馬車を待ちました。

 癒師たる者、これしきのことでは長袖の黒衣は脱げません……というか、目下私は全身のあせもに悩まされていまして、脱いだら脱いだで、また伝染病かと騒ぎになりかねません。

 色黒の老人たちは地元訛がひどく、何を言っているのかさっぱりわかりません。ときどき興味深げに話しかけてくるのですが、私は笑顔を作ってうなずくだけで精一杯でした。

 やがて、原野の彼方から馬車らしきものが近づいてきました。

 客車を引く馬には、二本の立派な角が生えていて……。

「えっ? 牛?」

 大きな水牛一頭立ての牛車が、のろのろと巨木の下の停留所にやってきました。



 ヨモ駅を出た牛車は、足場の悪い泥地帯を進んでいきました。

 南へのびる牛車道。右手のほうは、海が近くて土に塩分が多いのか、草はあまり生えていません。一方、左手には背丈のある草地が広がっています。

 地図を見ると、この辺りは、西の海に向かって箒状に広がる大河の下流域で、バジール湿原と書いてあります。

 私は暑さに苦しみながらも、何もない静かな時間を楽しみました。



 優雅な瞑想の旅は、はじめの一日だけでした。

 ヨモからコーカスまでは牛車で五日かかるそうですが、途中に宿場は一つもありません。寝るときは、客車の中で座ったまま目を閉じるのです。

 衣服が汗臭くなってくると、蚊がどんどん寄ってきて、かゆくて瞑想どころではありません。

 イライラしだすと、湿原の単調さに退屈を感じてきました。すると、あれこれ考えはじめ、悲観的な思いにかられ、辛くなってきて、故郷のことがやたら頭に浮かぶようになりました。

「コーカスに寄ったら、エルダーへ帰ろう」

 私は独りつぶやきました。

 地図の上では、コーカスより南にはもう何もありません。

 しかし、厳密に言うと『何か』があります。私が旅するアルニカ半島は『大陸』と通称するほど広大、といっても半島は半島ですから、理屈ではもっと大きな陸地とつながっているはずなのです。

 超大陸があると考えられている部分には『未踏地』という文字以外、何も書かれていません。歴史が始まって以来、誰も到達した人がいないのです。

 コーカスの南には由来のわからない長大な壁があって、そこが現在の世界の果てとされていました。一方、海に目を向けると、半島の西南は竜巻海流、東南には奈落海流と呼ばれる船の墓場があり、やはりその先に何があるのか知る人はいませんでした。

 アルニカ半島の根元を横切る謎めいた遺跡『コーカスの壁』は、その麓にあたる土地のほとんどがサグワーロと呼ばれる熱帯雨林で塞がっていて、詳しい調査は行われていないようでした。

「壁の向こうには何があるんだろう?」

 私はぼうっとした頭で考えようとして、ふと手元の水筒を見つめました。

 それまでの考えはどこかへ行ってしまい、私は水をがぼがぼ飲み干しました。

 今は渇いた喉を潤すことだけが、私の生き甲斐でした。



 牛車は湿地帯を越えると、ぬかるんだ林道をしばらく行きました。

 やがて、まっすぐな道の彼方に、大きな白塔が見えてきました。

 塔の背景は雨雲のように灰色……なのに、真上を見ると痛いほどの晴天。

 どういうことだろうと不思議がっているうち、牛車は終点のペンステモン広場に到着しました。

 客車を下りた私は、白塔を囲む噴水池を見つけると、他の何にも目をくれず駆けていきました。

 人目もはばからず、水場で髪を洗ってすっきりすると、ようやく視野が広がってきました。

 雨雲のように見えていた塔の背景は、空ではなく、天空までつづく灰色の壁だったのです。

 壁のてっぺんはどこにあるんだろうと見上げてみても、高い空の白雲が邪魔して、よくわかりません。

 これが遺跡? 私には信じられませんでした。現代の人類の知恵をもってしても、自然の山より高い建物など、建てられるはずがありません。

 私はコーカスの壁をもっとよく見たいと思い、ペンステモン塔に上ってみることにしました。




 第五十話 白塔と若き探求者



 ペンステモン塔の螺旋階段は三三三段もあり、最上階の展望所に着いたときには、旅疲れと汗のかきすぎが重なって、私の皮膚はお婆さんのようにシワシワになっていました。

 展望所から見渡す古都コーカスは、一言でいうと城郭のない城下町です。西へ少し行くと海が広がっていて、北は湿地、東は熱帯雨林、そして南は巨大な壁と、これ以上ない天然の要害でした。ただ難があるとすれば、利用できる平地がとても狭いため、都市がこれ以上広がらないということでしょう。

 展望所には、コーカスの街や壁についての案内板がいくつかありました。

 コーカスは史上最古の都市といわれ、古代文明の一つに数えられています。当時の象形文字列の中にはすでに巨大壁の記述があり、壁の柔らかい部分に空けられた洞穴には、何千人もの下級市民が住んで……。

 驚いた私は、欄干のところまで駆け戻り、コーカスの壁を見直しました。

 目を凝らすと、下のほうに古い高層住宅のようなものが見えます。ヒソップ博士が言っていた不便な団地って、まさかあれのことでしょうか? 窓らしき穴の数を数えると、縦に三十ありました。横は数えきれません。

「さ、三十階建て……」

 壁の広さ高さといい高層住宅といい、桁違いの事だらけで、私の頭は混乱していました。

 神話のコーナーへ行くと、また別の記述がありました。

地神(じがみ)の歯』の話。あそこに生えているのは壁などではなく、大地の神の歯である。天から降ってきた厄災を噛み切るためにある。

防嵐(ぼうらん)の壁』の話。永遠なる豊穣の地を、南から迫り来る不毛の嵐から守るために、神々が壁を打ち立てたのだ。

『此岸と彼岸の境』の話。壁のように見えるあれは、この世とあの世の境目。生きているうちは、決してあちら側へ行ってはならない。特別な修行を積めば行けぬこともないが、人間にそれを叶えるだけの忍耐力はない。

 神話は気まぐれな創作などではなく、必ず元になった事実がある。故郷エルダーではそう言われています。

 コーカスの神話に興味を覚えた私は、ホームシックなど吹っ飛んでしまい、考古学者ヒソップ博士の帰りが待ち遠しくなりました。

 おっと、その前に娘さん、でしたね。

 ペンステモン塔を下りた私は、疲れも忘れて、コーカスの壁に通じる街道を歩いていきました。

水路道(すいろみち)』と呼ばれる、生け垣で仕切られた専用歩道をしばらく行くと、大きな滝が近づいてきました。

 滝はコーカスの壁の高い所にあいた穴から、直に水が飛び出しているように見えます。山も川もないというのに、あの大量の水はいったいどこからやってくるのでしょう。

 滝の真下には巨大な井戸のような穴があって、そこが人工の滝壺になっていました。滝壺の水たまりは溢れることなく一定の水位を保っています。今歩いてきた道の名前からして、地下水路の存在を匂わせていました。ペンステモン塔のまわりにある噴水とも何か関係があるのでしょう。

 大地の広がりに突然終わりを告げる灰色の壁は、そのあまりの高さ故に、近づけば近づくほど、壁という概念が頭から離れていきました。どんなに巨大なものだって、てっぺんがあるからそれだとわかるんです。天空へ向かう垂直の大平面は、一年中途切れることがないという、不思議な綿雲の中に消えていました。街のほうが晴れていても、壁の下だけはずっと曇り空なのです。

 私は壁の果てを探すのを諦め、ヒソップ博士の娘が住んでいるという、高層団地へ向かうことにしました。

 地上三十階もある石壁の団地は、滝のすぐ右脇からずっとつづいていて、肉眼では向こう端が見えません。

 私はヒソップ博士からいただいた紙切れを開きました。

「ええと、二八五六号室は……左端から五十六番目の窓があるところまで行って、第五階段口を見つけ、二十八階まで上……」

 ついさっき、塔の三三三段の螺旋階段を上り下りしてきたばかりだというのに……。

 私はその場にへたりこみました。



「はぁっ、はあっ、塔なんて、後に、すれば、よかった……」

 階段というのは、どうやら俊敏に動くための筋肉を使うようです。ペースや歩き方を考えないと、少し上っただけで息が切れてしまいます。

 中間点にあたる十五階には、ちょっとしたベランダがあり、風に当たって休憩できるようになっていました。ただ、ベランダは古代の石壁とちがって後から付けたものらしく、金属の枠がところどころ錆びていて、板の上を歩くたびにギシギシいって恐ろしいです。

 立ったままで、廊下側に体重をかけながら休憩していると、上空で大きな鳥が旋回しているのが見えました。

「えっ? 翼の下に人が……」

 よく見ると、三角に張った帆布のようなものに金属の手すりをつけた、不思議な乗り物でした。操縦しているのは十二、三歳の少年です。生まれて初めて見た、空を飛ぶ人間でした。

「こ、これってもしかして、大スクープなのでは……」

 しかし、団地の窓からぽつぽつのぞいている顔に、驚きの色はありません。

 飛行少年は、木の少ない北の湿原の方へ向かって、小さくなっていきました。

 団地の住民であるヒソップ博士の娘さんなら、何か知っているかもしれない。急にやる気が出てきた私は、残りの十三階をひいひい言いながら上っていきました。



 ドア枠らしき四角い穴には、『2856』とインクで書かれた、薄汚れたカーテンがかかっていました。肝心のドアはありません。廊下を見渡すと、どこの部屋も同じように無防備なものでした。

 ノックしたい衝動をどうすればいいのかわからず、私は思わず口で言ってしまいました。

「コンコン……」

 突然、顔から湯気が立つほどの恥ずかしさに襲われました。二つ隣の部屋のカーテンから、二つ結びの幼女が顔をのぞかせていたのです。

「こ、こんにちは」

 幼女はさっと顔をひっこめ、「ママ! ママ!」と叫ぶ声が小さくなっていきました。

 今、人を呼ばれると説明が面倒です。

 私は声を張りました。

「ごめんください! ごめんくだ……」

 カーテンの隙間から、さっと手がのびてきて、私の口もとを押さえました。

「近所迷惑」

「ふ、ふみまへん」

「コンコン……のときから玄関にいたんだけど、気づかなかったってことは、団地の人じゃないようね」

 十歳くらいの色黒の少女が顔をのぞかせました。

 カレンデュラ人の多くは黒髪で縮れているのですが、北国の血が混じっているのか、彼女はくすんだ金色の直毛でした。

「あ、あの、ヒソップ博士の娘さん、ですよね?」

「そうだけど? 父に会ったの?」

 少女の顔が急に明るくなりました。

「ヤーバで伝染病が流行っていたときに、施術させていただきました。あ、でも初めて会ったのは、氷河航路を船で渡っているときでした」

「氷河航路! あんのバカ親父……」

 少女はあきれ顔でため息をつきました。

「あたしパイ、中に入って」



 ヒソップ博士の自宅は、広い部屋がどんと一つあるだけの単純な造りでした。元が古代都市の洞穴住宅ですから、仕方ないのかもしれません。

 私はカレンデュラの風習に従い、玄関で靴と靴下を脱いで、素足で部屋をうろつきました。

 滅多に帰ってこないという博士の陣地は、雑多な物置き場と化していました。その代わり、パイさんの居場所は学者ばりの立派な書斎です。彼女はまだ十歳だというのに、父親が持ってきた書物をすっかり理解していました。

「お父さんの仕事に興味あるんですか?」

 私が言うと、パイさんは小さく首を傾げました。

「あたしが知りたいのは、壁のことだけ」

「壁について、何かわかりましたか?」

「白塔の展望所にある神話は読んだ?」

「はい、一応」

「この世とあの世の境目って話は、中世の頃に誰かがでっち上げたウソ。少なくとも壁の高さは有限で、向こうにも大陸が広がっていると、あたしは見ているの」

「こちらとは異なる国が、あるのですか?」

「向こうから誰か来たって記録がないから、それは行ってみないとわからない。人が住んでいるかもしれないし、悪魔だらけかもしれない。機械の帝国って可能性も否定できない」

「……」

 作家のメリッサさんがパイさんの存在を知ったら、さぞかし喜んで取材攻めにすることでしょう。

「その話、俺も入れてくれ」

 何の挨拶もなしに、色黒のほっそりした少年が部屋に入ってきました。何となく見覚えがある顔です。

 私はハッと思い出して、彼を指さしました。

「あっ! あなたは、さっき空を飛んでいた人」

 少年は照れくさそうに下を向きました。

「まだ飛んだとは言えないよ。空を滑って、ゆーっくり落ちただけさ」

 少年の名はリンデ。博士が言っていたパイさんの幼なじみです。

 パイさんは言いました。

「古代の記録の断片を拾っていくと、壁のどこかに、団地よりずっーと高い所に行ける通路があるらしいのよ。でも、わかってるのはそれだけ」

 リンデ君は言いました。

「パイがさ、飛んでいって調べられれば楽なのにって、ある日言い出して、俺がかり出されたってワケ」

「飛行機の発明に失敗したときの言い訳でしょ? それ」

「うるさいなぁ。大きなことをやるには、動機付けってのが必要なんだよ」

「あたしが生きてるうちに、完成するんでしょうね?」

「俺が完成させる前に、謎を解きゃいいだろ?」

「なによ」

「なんだよ」

 幼なじみの少女と少年はにらみ合いました。

「まあまあまあ!」

 私は二人の間に割って入りました。

「自分の事が上手くいかなくて、イライラするのはわかります。でも、相手にそれをぶつけても、自分の内側(なか)にある問題は解決はできませんよ?」

 二人はむすっとして、互いにそっぽを向きました。

 論理的な学問に比べると、ちょっと難しかったようです。知的な話をしていても、精神や感情はまだ年相応なのです。

 パイさんは拳を握ってつぶやきました。

「碑文よ……あの古代の碑文さえ全部読めれば、秘密通路の場所がわかるはずなのに」

「碑文とは?」

 私が訊くと、パイさんはため息をつきました。

「塔に上ったくせに、ど真ん中のでっかい石の塊を見逃したって、どういうこと?」

「すみません。案内板の神話に夢中で……」

 パイさんはふと私の姿を見て、ハッと息をもらし、怒りを収めました。

「黒衣に月蛍石のピアス……あなた、癒師よね?」

「は、はぁ」

 そういえばまだ、職業をきちんと言っていませんでした。

「文章の主の一人が、北の果ての岬から来たってことだけはわかってる。でも、肝心の部分は古代エルダー文字で書かれていて、さっぱりわからない。癒神エキナスの末裔である、あなたなら少しはわかるかもね」

「!」

 言葉には出しませんでしたが、私は口から内臓が飛び出そうなほど驚いていました。

 癒神様とコーカスの超古代遺跡に、何か関わりがあるのでしょうか?



 日を改め、私とパイさんとリンデ君は、ペンステモン塔を訪れました。

 サウナのように蒸した螺旋階段を上っていって展望所に出ると、パイさんが言ったとおり、フロアの中心に古代の石碑が鎮座していました。

 光沢のある黒い石は水晶のように硬く、掘り出してから何千年も経っているはずなのに、どこも風化していません。

 石碑には細かい文字がびっしりと彫りこまれています。

 パイさんは古代文字をなぞりながら言いました。

「現代の技術じゃ、粗い傷をつけるのが精一杯よ。超古代文明が存在していた証拠として有力だと思う」

 リンデ君は言いました。

「過去形で言うなよ。今も超文明が壁の向こうにないとは言えないぜ?」

「仮にまだ在るとしたら、なぜ連中はこっちの世界に干渉してこないのよ」

「うーん、それは……」

「今そんなことはいいの。プラムに碑文を読んでもらいにきたんだから」

「自分から逸れたくせに……」

「なんか言った?」

「読みます! 読みますからケンカしないで」

 私は進んでいって碑文に顔を近づけました。

 文字の形が明らかに違う文章がいくつか並んでいます。何カ国語かに訳してあるのか、それとも彫った時代が違うのか。ともかく、読めるのは古代エルダー文字の部分だけでした。

 内容は、北の果てのコホシュ岬や、ヘイゼル諸島のローズ島で見たものとほぼ同じでした。当時、癒神エキナスがその場所を訪れたことを記した文章です。

「どう?」

 パイさんの瞳に好奇の星が浮かんでいます。

 私は事実を述べました。

「えー、エキナスっていう癒し手が、コーカスにやって来ましたよって話だけ?」

 少女は肩を落としました。

「人にものを頼んどいて、それはないだろ。読めただけでも大事件じゃないか」

 少年は失礼を詫びろと言わんばかりに、手振りで少女を促しました。

「読めるかどうかより、中身が大事なのっ」

 そのとき、私はなにげなく別の読み方を試してみました。エルダー語は通常、横に連ねた文字を左から右へ読むのですが、右端から縦になぞってみると……。

「こ、これは……」

「どうしたの?」

 パイさんは少年ともめるのをやめて、こちらに飛びつきました。

「さっき読んだ文章は表向きのものです。見方を変えると、別の目的が現れます。ええと『瞳の奥の血管をたどれ』……と読めます」

「暗号かな?」

 リンデ君がいうと、パイさんは鼻をならしました。

「暗喩っていうのよ」



 私たちは想像力を働かせて、隠された意味を解釈しようとしましたが、何日かけて考えても、『瞳』がなにをさしているのかさえ、わかりませんでした。

 それとは別に、私は疑問に感じていることがありました。最果てのコホシュ岬や海賊島の山頂にあった石碑はともかく、古都コーカスは他の癒師もたくさん訪れていて、例の黒い石碑を見ているはずなのです。しかし、謎を解いたという話は誰の旅行記にも出てきません。

 まさか古代エルダー文字が読めるのは、私だけ?

 エキナスの石碑があるのは、生半可な気持ちでは行けない場所ばかりです。それが三つも重なったのは偶然でしょうか?

 私は自分が背負っている宿命について、恐れを手放し、真剣に向きあう時がきていることを悟りました。




 第五十一話 コーカスの壁の調査



 新暦二〇四年 秋


 ペンステモン塔の展望所にある碑文の謎。

 それが解けないまま、私とパイさんは高層住宅の二十八階で悶々と過ごしていました。

 私は決して本職を忘れたわけではないのですが、コーカスでは深刻な病に悩んでいる人をまったくというほど見かけず、修行にならないのです。この土地は火山や大樹の森と同様、大きな霊場になっていると、私は感じていました。

 一方、リンデ君は謎解きよりも機械のほうが好きらしく、飛行機の発明に戻っていきました。



 酷暑が一段落して、暦の上では秋となったその日。ヒソップ博士が約束通りヤーバから帰ってきました。

 博士は、私が碑文の一部を読めると知るや、愛娘との団らんもそこそこに、ああでもないこうでもないと、走り書きをはじめました。血筋なのでしょうか、モチベーションが落ちかけていたパイさんも、隣の机で負けずにカリカリやってます。

 私は二人が過労にならないよう、そっと癒しの波動を送るだけでした。



 ヒソップ博士が帰省して知恵者が二人になったというのに、一週間たっても、謎は依然、謎のままでした。

 いつものように机に向かう父娘。いつものように二人を癒す私。

 一体いつまでこんな日々がつづくのでしょう。

 旅立ちのきっかけがつかめないと思っていた矢先、変化は突然訪れました。

「わかったぞ! 大発明……じゃなくて大発見!」

 飛行機の設計に没頭していたはずのリンデ君が、大騒ぎして部屋に入ってきました。

「どうせ、女の子の着替えを空からのぞく方法とかでしょ?」

 パイさんはペンを置くと、白い視線を送りました。

「壁の近くは気流が乱れるから、そんなことできっこないよ」

「ふーん。じゃあ、可能かどうかは考えたわけだ。このヘンタイ」

「なに怒ってんだよ。そんなことより、『瞳』がなんなのか、わかったんだ」

 パイさんはそれを無視して、謎解き作業に戻りました。

 今度は父親がペンを置き、リンデ君に言いました。

「聞かせてくれ」

滑空布(グライドクロス)で街の上空を飛んでるとき、ペンステモン広場を見下ろしたんだ。そしたら、円い噴水池の中心に円い塔があってさ。塔は白いけど、てっぺんにはなぜか黒い平石が乗っかってた。あれって瞳のことじゃないかって……」

「それだっ!」

 博士は少年を指さしました。

「地図は百回読んだし、塔もこの高みから毎日見ていたはずなのに……ああ、なんて想像力に乏しいんだ!」

 頭を抱えて部屋をうろうろし、一人で何かしゃべりはじめたかと思いきや、博士はぴたりと足を止めて言いました。

「あそこが瞳だとすれば、瞳の奥の血管とは、地下に隠された細い通路のことだろう。血管は一番大事な脳につながっている。つまりコーカスの壁に通じているはずだ。でかしたぞ、リンデ君!」



 私とヒソップ父娘、リンデ君の四人は、遺跡調査の準備を進めていきました。壁についてまだよく知らない私のために、下見の場として、二カ所が選ばれました。

 まず、コーカスの西の外れにある海岸へ行きました。市内からつづく長大な壁は、なんと海の中までつづいていました。ある冒険家の記録では、古代の壁は沖の彼方で徐々に高さを低めていき、最後は海中へ没しているとのことでした。残念なことに、壁の果てには船の墓場とされる竜巻海流があって近づけないため、詳しいことは未だにわかっていません。

 次に、壁の高層団地の西端にある、謎の小窓を見学しました。ここが下見の本番です。団地が果てる場所の右斜め遥か上に、窓のような穴が、上に向かってぽつぽつと空いているのです。疎らな点線は肉眼では見えないところまでつづいていました。ヒソップ父娘は「あれは頂上へ行くための階段通路にちがいない」と口を揃えて言っていました。

 問題は、入口がどこにも見当たらないことでした。

 父娘は長年、その入口を探し続けていた。そこへ私がやってきて、可能性の扉を開いたという訳です。



 探検の装備を整えた私たちは、水路道を歩いて、ペンステモン塔へ向かいました。

 噴水池にかかる橋を渡り、塔の一階に来たまではよかったのですが、地下へ通じる道が見当たりません。ペンステモン塔は螺旋階段と展望所があるだけのシンプルな物見塔で、一階の床は硬そうな石が敷きつめてあるだけです。

 ヒソップ博士は身をかがめて敷石を除こうとしましたが、びくともしません。

 ほどなく警備員がやってきて、四人は塔から追い出されてしまいました。



 ヒソップ父娘は噴水池の水面(みなも)を見つめたまま、途方に暮れていました。

「なんか話が上手すぎるような気はしてたよ」

 リンデ君は私に耳打ちしました。

「簡単な秘密なら、とっくの昔に誰かが解いていたでしょうね」

「瞳の奥の血管をたどれ、か……血管、血管、血管とは何だ……」

 博士は独りでぶつぶつ言っています。

 一方、パイさんは池にうつった自分の顔を、悲しげに見つめていました。

「そ、その、こういうことは難しいからやりがいがあるといいますか……」

 私が近づいていって慰めようとしたときでした。

「これだわ!」

「ひっ!?」

 パイさんが急に叫んだので、私は腰がくだけて尻餅をついてしまいました。

「血管は血の管。血はこの水よ。管は水路をさすの」

「たしかにこの池は地下水路の出口の一つだが、潜るにしたって、あの管じゃ細すぎて人は入れないぞ?」

 博士は腕組みして噴水池の底を見つめました。

「出口がだめなら、入口よ」

 パイさんはそう言うと、広場を後にし、水路道をすたすた歩いていきました。

 残された三人は、あわてて少女の後を追いました。



 高層団地の東端、コーカスの壁にあいた穴から噴き出す大量の流水は、『街の方』が晴れた日——壁の近くは年中曇りです——によく七色の橋がかかるため、虹の滝と呼ばれていました。滝の下には滝壺にあたる人工の縦穴があり、きれいな水が一定の水位を保っています。

 私たち四人は滝壺のそばに集まると、深いプールの中を覗きこみました。

 滝壺の底に、太い水道管の口が見えます。

 ヒソップ博士は眉をひそめて言いました。

「潜っていけば通れないこともないが、隙間がないから呼吸ができない。調べるのは無理だな」

「そんな……」

 パイさんは肩を落としました。

「水道管の入口だけでも、調べてこようか?」

 リンデ君は言いました。

「お願い」

 少女は涙目で少年を見上げました。

 照れくさそうに上を向いたリンデ君は、深呼吸すると、滝壺へ飛びこみました。

 しばらくして、少年は水面に顔を出しました。驚きに満ちた表情をしています。

「水路の奥が明るかった……ぼんやりとだけど」

「採光と通気のための小窓がある証拠よ!」

 パイさんは手を打ちました。

 博士は低く言いました。

「まだそうと決まったわけじゃない。夜光を発する淡水魚かもしれないぞ?」

「たしかめてこようか?」

 少年が言うと、博士は首を横にふりました。

「そのままじゃダメだ。水の力をナメてはいかん。そうだな……ちょっと待っててくれ」

 ヒソップ博士は団地のほうへ駆けていきました。

 少しして、ゴム管とロープの束を抱えて戻ってきました。

 博士はロープの先をリンデ君の腰にまきつけ、ゴム管の端をくわえさせました。

「危ないと思ったら、ロープを二度引っ張ってくれ。我々がすぐに引き上げる。無茶はするなよ」

 リンデ君はうなずくと、再び滝壺へ入りました。

 私は遠くのほうにある時計塔の長針を見ていました。三つ進みましたが、ロープを引く合図はありません。

 長針が半回転しました。少年は戻ってきません。

「まさか溺れたんじゃ……」

 パイさんは今にも泣き出しそうです。

 私は寄り添って言いました。

「大丈夫です。彼のエネルギーを感じます。体が弱った様子はないようです」

 そのとき、ロープを引く合図がありました。

 私たち三人は力の限りロープを引っぱり、やがてリンデ君が水面に顔を出しました。

「苦しくない? 怪我してない?」

 真っ先に呼びかけたのは、パイさんでした。

「なんともないよ。でも、博士の言った通り、水の力はすごかった。帰ろうと思ったら、どんどん戻されちゃってさぁ」

 リンデ君は笑いました。

 少女はほっと息をつくと、いつもの口調で言いました。

「冒険譚はいいから、事実を報告してよ」

「ああ、そうだった。驚くなよ? 地下水路の横に歩道があったんだ! 横の壁が黄緑色に光っててなんか恐かったけど、ずっと奥まで行けそうだった」

 水道管の部分はそれほど長くないため、息がつづくと判断したヒソップ博士は、秘密通路探検を決行に踏み切りました。

 ここで、私は重大な見落としがあることに気づき、博士に言いました。

「行きはともかく、帰りはどうするんですか? 他に出口がなければ、猛烈な水流に逆らって泳がなければなりませんよ」

 博士は言いました。

「そこで相談なんだが、君はここで命綱を見張っていてもらいたいんだ」

 滝壺から数十歩東へ行くと、熱帯の大森林サグワーロの末端があります。

 太い木にくくりつけたロープを、誰かにいたずらされないよう見ていてほしい。そして、綱を引くときは団地の人を呼べばいい、という訳です。

「それは、構いませんが……」

 私は視線を落としました。

「あれ? もしかして、がっかりしてる?」

「い、いえ、そんなことは……」

「ここから先は命がけの旅だ。客人を巻きこむわけにはいかないんでね」

「はぁ……」

「やっぱり、行けなくて残念って顔してる」

 博士は微笑みました。

「……」

 どうして私はこう、顔に出てしまうのでしょう。

「じゃあ、俺が見てようか?」

 リンデ君は言いました。

「で、でも……」

「実を言うとさ、暗くて狭いとこ、苦手なんだ。頼もうか迷ってた」

 少年は幼なじみの少女を一瞥しました。

 私は納得しました。妹かそれ以上に思っている人には、できれば自分のパニック状態は見られたくないものです。

 そういうわけで、私とヒソップ父娘の三人で秘密通路を探検することになりました。




 第五十二話 秘密通路と無限階段



 リンデ君が見守る中、私とヒソップ父娘は滝壺に飛びこみ、水道管めがけて潜っていきました。滝壺の底につくと、水の流れに身を任せるだけで、穴に吸いこまれていきました。

 水道管を抜け、小さな段差を落ちると、地下川に出ました。水面よりやや高い所に歩道が見えます。

 梯子らしきものはなく、腕力のない女二人は水から上がれません。

 まずヒソップ博士が自力で水から上がって歩道に立ち、私とパイさんを引き上げました。三人ともずぶぬれです。

 リンデ君が言った通り、歩道の横の壁は黄緑色で、ほのかに光っていました。

「不思議な性質の石だなぁ」

 ヒソップ博士は、光る石のブロックをぺたぺた触っています。

「この光の感じ……」私は石を触ってみて、ふと思い出しました。「そんな、まさか……」

「どうかしたの?」

 パイさんはゴム袋の中からメモ帳を取りだし、さっそく記録をつけようとしています。

「これ、月蛍石です。故郷の大エルダー島にあるのと同じ」

「でも、プラムのピアスは光ってないじゃない」

 私は左耳のピアスに触れました。

「小さいものは月の光の力を借りないと輝きません。でも、結晶が大きくなると自ら光を放つんです。大エルダー島の山の中に、月蛍洞という洞窟があって、そこも同じように壁が光っています。ただ……」

 私はすべすべする石壁を指でなぞりました。

「ただ?」

「ここの石は人の手によって加工されています」

 私の動揺は筆舌しがたいものがありました。月蛍石はエルダー諸島にしかないと、古代の頃から言われてきたからです。

「月蛍洞って大きいの?」

「洞窟は広いですけど、こんなに純度の高い結晶を壁いっぱいにするほど石はありません」

 パイさんは腕組みしました。

「この通路を造るために、古代人がエルダーの石を堀り尽くしたか、そうでなければ……」

「論より証拠だ。先へ行くぞ」

 ヒソップ博士は一人ですたすた行ってしまいました。

 私とパイさんは仮説の話をやめ、博士の後についていきました。



 地下通路をしばらく行くと分岐点が近づいてきました。地下川は右に、歩道は左に、それぞれつづいています。

 地下川は、博士のコンパスを見る限りは、ペンステモン塔の噴水池に向かっていると思われました。

 私たち三人は戸惑うことなく、黄緑色に光る歩道をたどっていきました。

 地下通路の空気は常夏の地上とちがって、ひんやりしていて、かすかに向かってくる風も乾いていました。

「砂漠並みの湿度しかないな」

 ヒソップ博士はそう言うと、水筒の水を口にしました。

「そういえば、服がもう乾いてますね」

 私は言いました。

「コーカスの壁は、南方から迫る死の灰からアルニカ半島一帯を守っているという説もあるわ。もしこの秘密通路が、向こうの世界と直接つながっていたら……」

 パイさんの一言に、父親の肩がびくっとしました。

「おいおい、脅かすなよ」

「冗談よ。もし死の灰説が正しいなら、この街はとっくに滅びてる。市民はここの空気が溶けた水路の水を飲んでるから。仮に説が正しかったとしても、何千何万年もたって分解したってことよ」

「……」

 私とヒソップ博士は、顔を見合わせました。若干十歳の小さな学者の行く末が、楽しみでもあり、恐ろしくもありました。



 これといった罠も仕掛けもない単調な一本道は、どんどん南へ向かっていました。

 コンパスと歩測で地図を書いていたヒソップ博士は言いました。

「このままだと、コーカスの壁の真下に出るな」

 それから数分歩くと、地下道は終わっていました。上へ行く階段が見えます。

「やっぱり!」「そうか!」

 ヒソップ父娘は推測が正しかったことに、歓喜していました。

 私は疑問だったことを口にしました。

「でも、例の小窓がある所まで上るとなると、相当な体力が必要なのでは?」

「やっぱり……」「そうなのか……」

 父娘は揃ってうなだれました。

 ヒソップ博士は気を取り直して言いました。

「せめて一番下の小窓までは行かないと、死んでも死にきれん」

「疲れたら、癒してくれる?」

 パイさんは私に言いました。

「痛めた筋肉は少し癒せますが、体力が回復するわけではありませんよ?」

「充分充分。さあ行こう」

 


 十段上って踊り場、また十段上って踊り場……それを四回くり返すと、元の場所の真上にやってくるという、角張った螺旋階段。

 壁面で光っていた月蛍石はもうなく、互いの顔がやっと見えるほどの暗がりでした。はるか上空の、例の小窓と思われる場所から差しこむ日の光は、絶望の中によぎったかすかな希望を思わせました。

 私たち三人は、暗闇の恐怖を紛らわすためにしゃべりつづけていたのですが、やがて疲労のせいで口数が減っていきました。

 地下から数えて六十階分上ったところで、まずパイさんが根を上げました。

 私は彼女の脚の筋肉を癒そうとしました。

 ところがパイさんは、ヒソップ博士についていくようにと言って、施術を受けてくれません。最小限の荷物しかないのだから、とにかく時間が勝負なのだと。

 パイさんは踊り場に座って休み、吹き抜けから私と博士の様子を見守ることになりました。



 九十五階。今度はヒソップ博士のふくらはぎが痙攣を起こしました。小窓の光はまだずっと上です。

 博士は苦笑いして、踊り場に片膝をつきました。

「歳は取りたくないものだな」

 私は癒しの波動を博士の筋肉に送りました。彼は相当無理をしていたようで、脚のダメージはひどいものでした。

 私は正直に言いました。

「無事に帰っていただくには、ここで引き返すしかありません」

「そうか……無念だ」

 博士はうなだれました。

 少しして、彼は顔を上げました。

「それにしても、君は華奢なわりには頑丈な脚をしているんだな」

「貧乏性のおかげで、よく歩いたせいでしょう」

 私は二都山道や水晶古道の半分を、徒歩で渡ったことを伝えました。

「歩いたって!? 馬車も走らないようなあの難路をか?」

 博士は笑いました。

「冒険家になったほうが早いんじゃないのか?」

「もし男に生まれていたら、そうなのかもしれません」

 ヒソップ博士の顔から笑顔が消えました。

「今日だけでいい。私の願いを、聞いてくれないか?」

「私にできることならば」

「あそこまで行って、何かあるか、見てきてほしい」

 博士は吹き抜けの遥か上空にある、窓明かりを指さしました。

「わ、私が一人で行くんですか?」

「頼む!」

 博士は手帳とペンを私に押し付けました。

 癒神エキナスが、コーカスの壁と何らかの関わりを持っていたという証拠がなければ、私は断っていたでしょう。坂道と階段では訳が違います。

 私は六十階のパイさんと、九十五階のヒソップ博士に見守られながら、さらに上を目指しました。



 一三五階までくると、さすがの健脚も悲鳴を上げはじめました。

 でも、光のさす場所はもうすぐそこです。



 一五〇階。私はついに、目的の窓の正面に立ちました。

 窓には透明な板がはまっていて開くことはありません。材質はガラスではなく水晶のようです。

 窓の外には、見たことのない絶景が広がっていました。古都コーカスの街並みと北の湿原。西の海岸や東の熱帯雨林、遠くは世界の屋根パスク山脈の雪景まで見えます。私は今、地上に存在する建物の中で、一番高い場所にいるのです。

 私は時が経つのを忘れて景色に見入っていました。

「どうだい、そっちは!」

 博士の声が響いてきて、私はハッと正気に戻りました。

「す、すいません! これから調べます!」

 部屋の存在をほのめかすドアの類いは、どこにもありませんでした。壁があって階段が延々とつづいているだけです。

 がっかりした私は、最後に欲を出して、もう一階だけ上へ行きました。

「うっ!?」

 一五一階の踊り場で、私は足を止めました。

 骸骨の山です。大人の男性ばかり三人分。

 遺骸はただの抜け殻です。そこに魂はありません。しかし、私は礼儀として骸骨に一声かけると、肋骨のかけらを一本だけ拝借しました。

 すると、どこからか声がしました。

(それを持ち帰れば、下にいる父娘がいずれ同じ目に遭うだろう)

「ど、どなたですか?」

 私は辺りを見回しました。姿はありません。

(人類が進化して、この壁を乗り越えるだけの精神と肉体が整ったとき、多くの謎が解き明かされるだろう。だが、今はまだその時ではない)

「でも、私は嘘をつきたくありません」

(ならば、これから四十年の後に、下で待っている娘に見せるがよい)

「四十年! その頃私は、六十四……生きてないかもしれませんよ?」

(この地上へやってきた目的を果たすまでは、おまえは天には帰れない。仕事を怠れば、何百年と生きることになるだろう)

「そ、そんな……ドロドロに腐った肉体なんて、見せられない」

(先の忠告を忘れるな)

 謎の声はそれきり聞くことはありませんでした。

 私は懐からゴム袋を取り出すと、骨のかけらを入れ、また懐に戻しました。

「顔に出ちゃったらどうしよう……」

 私は言い訳を考えながら、とぼとぼと階段を下りていきました。



 帰り道、ヒソップ父娘に何度も問いつめられましたが、私は謎の声の言いつけを守り、嘘を貫き通しました。

 その日は、これまでの人生で最も長く感じた一日でした。




 第五十三話 立ちはだかる熱帯雨林



 コーカスの壁の調査が一段落し、この地での私の役目は終わったと感じていました。なにしろ、コーカスの人々は土地の霊力に守られていて、なかなか病気になりませんから私の出番はなく、退屈で仕方ないのです。このまま暇を持て余していると、ヒソップ父娘の専属助手にされてしまう恐れがあります。

 私は旅立ちを決意しました。

 地図を見ると、アルニカ半島南部のほとんどを熱帯雨林サグワーロが占めています。ジャングルの林道を東へ東へ行けば、カスターランドの南部、セントリーという村にたどり着けるはず、と思っていたのですが……。

 パイさん曰く「は? サグワーロに道なんてないけど? ああこれは、原住民のゼラ族とホック族のなわばりを点線で表してるだけよ」とのこと。

 勇気と体力と冒険用装備があれば渡れないこともないのですが、ゼラ族とホック族は大昔から仲が悪く、運良く西側のゼラ族の土地に入れたとしても、その時点でホック族は旅人を敵とみなすため、境界より東へ行くことは叶わないのです。

 そうなると、故郷エルダーへ帰るためには、ここからウォールズ国のオピアムまで引き返し、二都山道を渡らねばなりません。同じ道を何度も通るのがどうしても嫌だった私は、別のルートがないか探すことにしました。

 ほどなく、南ウォールズのボリジ——弾丸鉄道で私が寝過ごした駅です——から、パスク山脈の麓カイエンまで行き、パスクの山々を通って、ホーソーン川を下り、東海岸へ抜ける方法があることを知りました。

 ある日、ヒソップ博士にそのことを尋ねると、彼は笑いました。

「パスク地方の標高を知らないのかい? あそこはもう冬だよ。今シーズンの『風車リフト』の営業は終わってる。次は来年の春かな」

 早くても、あと半年くらい先のことです。

 パスク山脈一帯は、厳密にはウォールズ国パスク自治区と呼ばれていました。しかし、地域によってはそこだけで一国と数える人もいるくらい、俗世とはかけ離れた世界なのだそうです。

 パスクを通らねば、全国を旅したことにはならない。その気持ちは日に日に増していき、私をコーカスに釘付けにしました。




 第五十四話 登山家の悲劇



 新暦二〇五年 新春


 南国の強烈な日差しも、年始からしばらくの間はずいぶん和らぎます。そんなある日のこと。

 ヤーバ大学から、アルパイとペニーと名乗る二人の登山家が、ヒソップ博士の下へやってきました。熊を思わせるひげ面の二人は、博士の学友で、本職は地層などを研究する地学者です。

 ヒソップ宅にやってきた彼らを見たとき、私は悪い予感がしました。

 案の定、筋肉自慢の男たちは、コーカスの壁の無限階段を上るつもりでいるのです。

 私は部屋で談笑する学者たちに言いました。

「あの階段を上ってはいけません」

 ちぢれ髭のアルパイさんは言いました。

「トラップでもあるのかい?」

「いえ、何も……どこまで行っても何もありません」

「それは見てみないとわからない」

「でしょうね」

 男たちはぽかんとして顔を見合わせました。

 謎の声に忠告されたと言ったところで、目に見えるものしか信じない学者たちには、何の説得力もありません。早めに恐ろしい目にあって、引き返してくれることを、私は祈るだけでした。

 二人の登山家は、貴重な体験の機会を与えられたといって、興奮気味にヒソップ宅を出ていきました。



 二週間後。残念ながら、私の予感は的中しました。

 秘密通路から帰ってきたのは、アルパイさん一人。しかも、全身が凍傷にかかっていて、手足の指がいくつかなくなっていました。

 ヒソップ宅に担ぎこまれたアルパイさんは「朝起きたら、ペニーは死んでいた」とだけつぶやき、あとは怯えきった顔をしたまま、何も語ろうとしませんでした。

 私はベッドに横たわる男に寄り添うと、癒しの波動を送るべく、瞑想をはじめました。体だけでなく、心もひどく弱っていた彼を治すには、記憶の中も探る必要がありました。



 私はアルパイさんの背後に浮かんで、同じものを見ていました。

「何もないなんて、あの()、なんで嘘ついたんだ?」

 ひげ男は骸骨の山をあさり、ザックが一杯になるまでつめていきました。

「大発見を故郷(くに)に持ち帰って、名声を独り占めしたかったんだろうよ」

 ペニーさんも同じようにしています。

 作業が終わると、二人は階段を上りはじめました。

 登山のプロたちは一〇〇〇階をコールするまで、大して休みもとらずに上りきりました。

 一二〇〇階を超えてからは高地順化のため、一定の階までくると少し下り、また上って少し下り、といったことをくりかえすようになりました。

 パスクの高峰にも登ったことがある二人は、二〇〇〇階を超えてもまだ、上を目指していました。

 ここまで来ると、熱帯といえども零下何十度の世界です。ベテラン登山家二人はそれを予測していたらしく、防寒対策は怠っていませんでした。

 ところが、ペニーさんは二〇五〇階で張ったテントの中で、夜を越せずに凍死してしまったのです。原因は酸素不足で代謝が落ちたせいだと、昨夜までペニーさんだった魂は言っています。

 アルパイさんは「置き去りにしてすまない」といって泣きながら親友を弔うと、冷えきった階段をさらに上っていきました。

 二二〇〇階。男の視界が混濁してきました。酸欠のせいで意識が保てないのです。

 アルパイさんは力なく地団駄を踏むと、吹き抜けから上空を見上げました。

「なんだ、天井じゃないか。天井、だよな? でも、なんて遠いんだ……」

 アルパイさんの記憶はそこでふっつり途切れました。

 再び我に返ったときは、脚をひきずりながら地下通路を歩いていました。きっと、本能の力だけで帰ってきたのでしょう。



 私が瞑想から覚めると、アルパイさんも目を覚ましました。

「すまなかった。君が、正しかった」

 私は首を横にふりました。

「正しかったのは、あなた方かもしれません。私は人間の力をみくびっていました」

「だが、現代人の体格や装備じゃ到底無理だよ。頂上まではあとちょっとのはずだが、俺にはそれが永遠に感じた」

「そうですね。でも、うんと時が経てば、どうなるかわかりませんよ?」

「悔しいなぁ。その栄光を目の当たりにできる世代じゃないなんてさ」

「見られますよ。肉体を通してじゃなければ」

 アルパイさんは笑いました。

「二週間前だったら、完全に君をバカにしてたろう。不思議な体験だった。君はいったい何者なんだい?」

「私ですか? 私は、その、ええと……」

 急に自分のことが思い出せなくなり、私は焦りました。

「ゆ、癒師。そう、癒師でした」

「大丈夫かい?」

「ちょっと疲れただけです」

 本当はどこも疲れていないはずなのに、頭の中だけがなんだかモヤモヤしていました。




 第五十五話 剣の山と天空の路



 新暦二〇五年 春


 パスク地方の雪解けが進み、風車リフトの運転が再開した、というニュースが入りました。

 私はヒソップ父娘とリンデ君に別れを告げ、コーカスを後にしました。

 体調が回復したアルパイさんは、大学に戻りたいというので、ヤーバまでご一緒することになりました。

 牛車で五日かけてヨモまで行き、短い弾丸列車でヤーバへ。乗り換え時間が少ししかなく、アルパイさんとは駅のホームで別れました。

 ヤーバからは例の長大な弾丸列車で、国境のシスル川を越え、一気に南ウォールズのボリジまで戻ってきました。



 弾丸列車を下り、パスク方面のホームで待っていると、入線してきたのは、普通の蒸気機関車が牽引する普通の客車列車でした。

 駅員によると、ボリジからパスク山脈の玄関カイエンまで行く弾丸鉄道の支線は、勾配とカーブがきつく、爆発発車による惰性走行では運行困難なため、東岸鉄道から車両を借りている、とのことでした。

 ボリジを発車した列車は、大量の煙をまき散らし、あえぐようにして森の中を上っていきました。

 これといった眺望もなく座席で退屈していると、列車はまわりに人家もなにもない、カーパという小さな駅で長時間停車となりました。

 何事かと思って草だらけの野ざらしホームに出てみると、後ろから別の機関車がやってきて客車と連結し、煙の束が前後に二つとなりました。

 カーパを出た列車はしばらく行くと、行き止まりの信号場で停車し、進行方向が反対になりました。少し行くと別の信号場で止まり、また逆の方へ走りだしました。それを七回繰り返すと、ようやく坂が緩くなり、山麓の集落がちらほらと見えはじめました。

 高原の牧草地帯を少し走ると、終点のカイエン駅です。

 列車を下りてすぐ、私の目に飛び込んできたのは、剣のように尖った山々でした。人が住めそうな土地にはとても見えません。

 パスクの小さな国は、いったいどこにあるのでしょう。

 目を凝らすと、山麓から尖った山の頂に向けて、太いロープが張ってあるのが見えました。頂上では大きな風車がまわっていて、その動力で、人を乗せた座席を高地へ引き上げていくようです。

「ま、まさかあの山の頂が、パスク地方?」

 驚いてばかりいてもはじまりません。私は駅を出てすぐのところにある、風車リフトの山麓駅へ向かいました。



 山麓駅の丸太小屋に入ると、従業員らしき若い男が二人控えていました。一人は乗客を座席に乗せる係で、もう一人は大きながま口を首にかけた、受付係です。

 座席係は色白でほっそり。受付係は顔が雪焼けしていて胸板の厚そうな人です。

 受付の男は私を見ると、旧友に再会でもしたかのような顔をして、両手を広げました。

「も、もしかして、あなたは大陸をまわっているという旅の癒師?」

「はい、そうですが」

「僕はマーロウといいます。実は母が重い病に伏せっていまして、一度ヤーバの医者に見せたんですが、さじを投げられましてね。それで、もしよければ、上の実家まできて診てもらえると、ありがたいんですが……」

「か、構いませんけど……」

 忌避されることに慣れていた私は、積極的な人だとかえって気持ちが少し引けました。

「本当ですか? よかった! 実家の場所が場所なので、僕もご一緒します」

 マーロウさんは、事情を知る同僚の許しを得ると、チケットとお金が入った大がま口をその男に預けました。

 私とマーロウさんをそれぞれ乗せた一人乗りリフトは、冬枯れから緑を取り戻しつつある山肌の上空を、なめるようにして上っていきました。



 山頂の『〇番地駅』でリフトを降り、短いスロープを歩いて下ると、校庭くらいの広さの土地がありました。土地の中央部は主に畑で、避難小屋のような粗い石造りの平屋が、崖のそばを縁取るようにして立っています。

 ところで、自分の体について不思議なことが一つありました。ここパスク地方は二都山道のアイブライト峠よりも高い場所のはずですが、高山病の兆候が出ていないのです。旅をしている間に、見えない壁を一つ越えたのかもしれません。

 マーロウさんの後について石の集落をしばらく行くと、小さな鉄塔があり、そこから一本のロープが虚空に向かってのびているのが見えました。

 崖のそばまで行って辺りを見渡すと、ロープの行き先は、別の尖った山の中腹でした。

「これに乗ってください」

 マーロウさんは、先ほどのリフトをうんと簡単にしたようなものを指しました。

 滑車を頂いた懸垂棒に、足場となる鉄板を付けただけ、という謎の乗り物。

「あ、あの……」

「大丈夫。棒につかまっていれば落ちませんから」

 崖の対岸は霞むほど遠く、下界の谷底に至っては、高度差がありすぎて目標となるものがなく、距離感が狂ったまま『恐い』という本能しか湧いてきません。

「今までいろんなことをやらされましたけど、これはさすがに無理です。人間である前に、動物として、危険すぎると体が言ってます」

 雪焼けした男は頭をかきました。

「困ったな。実家のある山へ行く交通手段は、この『スライダー』しかないんですよ。二人乗りもできないし……。とにかく、僕が先にお手本を見せますから、よく観察して後からきてください」

「ち、ちょっと、マーロウさん?」

 男は片足を鉄板に乗せると、もう片方の足で崖を蹴り、天空の道を滑っていきました。

 しばらくして、対岸の崖からマーロウさんの声が小さく聞こえてきました。

「あと一時間すると、谷に霧がかかってしばらく通れなくなります! さぁ、勇気を出して!」

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 泣きながら謝る私は、いつしか地元の子供たちに遠巻きに囲まれていました。

 子供たちは私を笑っています。

 ところが一人だけ、真顔の少女がいました。彼女は私に近寄ってきて、言いました。

「マーロウ兄ちゃの母ちゃ、ほんとに具合わるいの。ええと、ながくてはんのし? 半年? っていわれたって」

 私の心の底で、カチリと何か切り替わる音がしました。

 マーロウさんのお手本通り、鉄板に左足を乗せ、右足で地を蹴っ……。

 足が滑った!?

 蹴り足を足場に戻すきっかけを失い、前のめりになった私はもう、生きた心地がしませんでした。

「ひゃあああああああ!!」

 宙に浮いた右足の靴が脱げて、谷底へ落ちていきました。

「ひっ!? た、高い!」

「下を見るな! 僕を見て!」

 私は声がするほうに目をやりました。

 マーロウさんや他の村人たちが、藁の化け物のようなものを引きずっています。

 私はハッとしました。そういえば降り方を習っていません。対岸の崖とロープを固定する鉄塔はもうすぐそこです。

「どうしよう! どうしよう!」

「手を放して、左へ飛べ!」

 そこには藁山が見えます。

「こわい! こわい!」

「放さなきゃ死ぬぞ!」

 私は懸垂棒から手を放すと同時に、残っていた左足で鉄板を蹴りました。

 ばりばり! もしゃ!

 気づくと私は、藁山の頂に大の字でうつ伏せていました。

 マーロウさんが駆けつけてきました。

「怪我は?」

「大丈夫です。すみません、皆さんにご迷惑をかけてしまって……」

「ご心配なく。今のが正しい降り方ですから」

 壊したと思っていたスライダーは、鉄塔の真ん中に空いた隙間にぴたりと収まっていました。

 ほっとした私は、そこで気を失ってしまいました。

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