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第六章 南ウォールズ

 第四十三話 幻想作家メリッサ



 新暦二〇四年 新春


 南ウォールズの中心都市マジョラムには、世界で最も古く最も大きな『クリスタニア図書館』があります。クリスタニアとは、大陸中部のヤロ湖から西の海へ注ぐクリスタ川以南——現南ウォールズと北ウォールズの一部——で栄えていた古代国家のことです。

 クリスタニア図書館には五つの棟があり、全体で五角形を作っています。棟一つだけでも大宮殿に匹敵するという、世界一の大きさ。膨大な蔵書もさることながら、貴重な歴史資料や稀覯本がたくさんあるということで、全国から大勢の人がやってきます。

 一日ではとてもまわりきれず、貸し出された本は市外に持ち出せないため、遠方から来る人々は宿代に悩まされました。

 高名な学者たちの熱心な呼びかけにより、今から三十年ほど前、六つ目の『宿舎棟』が中庭に新築されました。図書館を利用する人だけが格安で泊まれる、素泊まり専用の公営ホテルです。

 ウォールズの諺に『月に一度も大図書館を利用しない人は、マジョラム市民ではない』というのがあります。それを受けて、私は妙案をひねり出しました。

 雪の降る街をうろつくかなくても、図書館で見張っていれば、かなりの人の具合がわかるのではないか?

 というわけで、私はしばらくの間、大図書館内で過ごすことにしました。

 


 五つある棟のうち、私は文学の本が集まった『翡翠(ひすい)棟』に長居しています。

 他に『真珠棟』『瑪瑙(めのう)棟』『琥珀(こはく)棟』『瑠璃(るり)棟』とあるのですが、どこも専門書が中心で、一般市民の姿はあまり見かけません。

 なにしろ翡翠棟だけでも大宮殿一つ分ですから、かなりの人が出入りしています。それにもかかわらず、私が協力できそうな病人は、いつまでたっても現れませんでした。

 私は暇をつぶすため、メリッサという作家の幻想小説を閲覧コーナーで読みあさっていました。

 彼女は大陸の神話や歴史にまつわる物語をよく書いています。目に見えない存在や力についての造詣が深く、面白いだけでなく勉強にもなります。

 私は一冊千ページもある『クリスタニアの魔法』の第一巻を読み終えると、近くの書架まで行って二冊目を取り出そうとしました。

 背後を男の人が通ろうとしたので、私は道を開けようと背筋をのばしました。

 凍りつくような悪寒。

 私は分厚い本を取り落としました。

 通路を見渡しましたが、男はもういません。他の書架にまわっても、その人らしき気配の男は見かけませんでした。

 私は元の書架へ戻り、改めて第二巻を取り出しました。

 するとまた、一般の人と違うオーラを持った誰かが後ろを通ろうとします。

 私は正体をつきとめてやろうと、身を翻しました。

「あら、私の本じゃない。どう? 面白い? 率直な意見を聞かせて」

 四角い縁のメガネをかけた、三十代後半くらいの女性でした。

「あなたの本、といいますと?」

「ああそっか。外国の人じゃ、顔知ってるわけないわね。私はメリッサ、あなたが今持ってる本、書いた人」

「えっ? ええーーーっ!?」

 私の驚きは、図書館じゅうに響き渡りました。

 貸し出しカウンターにいる年配の女性司書が、ものすごい形相で私を睨んでいます。

「普通、そこまで驚く?」

「いえあの、私、メリッサさんのファンなんです! すすすぐ宿舎から本持ってきますから、サインいただけませんか?」

「それは構わないけど……」

 メリッサさんは私の黒衣をじろじろ見ています。次いで、左の耳たぶに注目しました。

「ちょっと見せて……これがエルダーの月蛍石? へぇ、こんな近くで見たの初めて。あなた、修行中の旅癒師よね?」

「よくご存知で」

「私、旅癒師にまつわる本も書いたのよ。残念ながらまったく売れなくて絶版になっちゃったけど」

「実在した人物のお話ですか?」

「そうよ。去勢した男の癒師っていうのが珍しくてね。名前はネトルっていうの」

「!」

 私はまた変な声が出そうになる前に、両手で口を塞ぎました。

「よく知ってるの?」

「い、いえ。男性の癒師というのに、びっくりして」

 私は本音を隠しました。メリッサさんはきっと、百年以上前に活動していた人物が当時の姿のまま生きているなんて、知らないはずです。それにしても、癒術界でさえつかめてないネトルの痕跡を、彼女はどうやって得たのでしょう。

「なるほど。癒師のあいだでも珍奇なエピソード、と。ちょっと待ってね」

 メリッサさんは懐から手帳を取り出し、さっとメモをとりました。

 手帳をしまうと、彼女はつづけました。

「ところで、えっと名前……」

「プラムです」

「プラムちゃんは、どこを旅してきたの?」

 私は故郷のエルダーを出て、アルニカ半島を東の国からぐるっと半周してきたことを短く語りました。

「それでそれで? いろいろ事件があったでしょう?」

 メリッサさんは子供のような目をして迫ってきました。

 私が話しはじめると、メガネの女作家は再び手帳を取り出し、二階の踊り場の向こうに見える喫茶室を指さしました。

「ぜひ、取材させて。今すぐ」

 憧れの作家に取材されるなんて、天にも昇る気持ちでした。とはいえ、本職は疎かにできません。私は感情をぐっとこらえて答えました。

「お、お気持ちはありがたいのですが、今は取材は受けられません。私はここへ仕事をしにきたんです。病んでいる人がいないか、見張っています」

 メリッサさんはクスっと笑いました。

「じゃあ、ここにいても無駄よ」

「なぜですか?」

「この雪と寒さの季節に、医者にも治せないような病人が、わざわざ本を借りに来るとは思えないわ。ちょっとマイナーな本だったら、探すのに一日がかりの大図書館によ?」

「そ、それもそうですね」

 病人の立場を考えていなかったなんて、なんという凡ミス。私は反省しきりでした。

「まぁ、タダで取材させろっていうのも、横暴よねぇ」

 メリッサさんは少し考えた後、つづけました。

「こう言ってはなんだけど、あなた向けの情報があるわ」

「お知り合いで、病んでいる方がいるんですか?」

「知り合いってほどでもないんだけどね。各地に埋もれているクリスタニアの伝承を探しているときのことよ。ここからちょっと内陸に入った、ブラッシュっていう山裾の農村で、ひどく痩せた女の子に出会ったわ」

 ラビと名乗る十六歳の少女は、村でも有名なオカルトマニアでした。彼女は自分のどんな小さな行いも、巡り巡って世の中に悪影響を及ぼしてしまうと言って、家に引きこもっていました。ラビさんは殺生を徹底してきらい、ついには水しか口にしなくなってしまったのでした。

 メリッサさんが少女に会ったのは、一ヶ月くらい前のことです。

「すぐに行かないと」

 私は荷物を取りに行こうと、宿舎へ通じる出口に足を向けました。

「私も行くわ」

 メリッサさんの一言に、私は足を止めました。

「取材、するんですか?」

「不謹慎だと言いたいのね?」

「……」

「ノンフィクションなら、構わないでしょ?」

 私は小さなことで感情的になっていた自分を、心の中で戒めました。著名な作家が味方になってくれれば、大陸人の癒師に対する誤解をとく礎を築けるかもしれないのです。

「一緒に、行きましょう」




 第四十四話 本にとりつかれた少女



 ブラッシュ村は、弾丸鉄道のマジョラム駅から路線馬車で半日ほど内陸へ走ったところにありました。

 山裾に広がる畑はすっかり雪をかぶり、遠い春を待っています。

 石造りの家が集まる村の中心部まできても、辺りはひっそりとしていて、人通りがありません。冬はマジョラムや南の都ヤーバなどへ、出稼ぎに行く人が多いのだそうです。

 ラビさんの家は、中心街から少し山へ入った斜面の途中にありました。停留所で馬車を下りた私とメリッサさんは、白く染まった段々畑を横目に、踏み固められた雪の坂道をぎしぎし上っていきました。

 三角屋根の家の玄関を叩くと、ちょっと太めの中年婦人が出てきました。ラビさんの母親ジニさんです。

「あら、メリッサ先生。また取材でいらしたの?」

「いいえ。今日はラビちゃんに会いにきました」

 ジニさんの顔から笑みが消えました。

「時間を無駄にするだけですよ。あの子はもう、生きる屍ですから」

 私は我慢ならず口を挟みました。

「あなたが諦めてしまったら、ラビさんは本当に死んでしまいますよ!」

「ええと……どちら様で?」

 困惑する母親に、メリッサさんは言いました。

「ラビちゃんを助けにきた、エルダーの癒師さんよ」

「まだ修行中ですけど……」

 私は心の内で身構えました。

 大陸で癒師を名乗れば、二人に一人は嫌な顔をするからです。

「まぁ! こんな辺鄙な村までわざわざ、すみません。どうぞお入りになって」

 かつてクリスタニアと呼ばれていた南ウォールズは、魔法発祥の地だけあって、癒術に理解を示す人々がたくさんいました。

 クリスタニアの魔法は主に攻撃や破壊を主体としていて、エルダーの癒術とは表裏の関係にありました。中世の時代、魔法は隆盛を誇っていましたが、やがて戦や陰謀に利用されるようになると正統な使い手が減り、衰退していきました。そしてついに、最後の大戦で勝利した東国カスターランドの王が、魔法使いを根絶やしにしました。

 カスターランドの歴史書には『ウォールズの最後の魔法使いたちは、第四次アルニカ大戦の火種を作った。それは、世間が混乱している隙に魔法を復興させ、邪悪な魔力をもって大陸を支配しようと企んでいたからだった』とあります。

 一方、メリッサさんが入手したウォールズの地下文書では『理屈っぽい東国王は、目に見える科学を好み、霊や魔法など見えない力をひどく恐れていた』とあります。

「当時のカスターランド王は大戦の終盤、永世中立を訴えていたエルダー諸島も脅威と見なし、あれこれと理由をでっちあげて、癒師を全員処刑するつもりだった。でも、これから出陣というとき、王族の一人に毒を盛られ、王は泡を吹いて意識を失った。発見が遅れて医者はお手上げというところに、名もなき癒師が通りかかり、王を死の淵から救った。王は出陣を取りやめ、エルダーの癒術を黙認することにした」

「へぇ、初めて知りました」

 大戦末期、エルダーが存亡の危機にあったことは学校で知りましたが、東国の王が手を引いた理由は公表されておらず、大きな謎を残したままでした。

「ま、あくまで一説だけどね」

 メリッサさんは、固く閉じられた部屋の前で、私に歴史の講義をしてくれました。

 呼びかけてもラビさんが出てこないので、私たちは作戦を変えたのです。

 すると、部屋のドアがほんの少しだけ開き、起伏のない声がしました。

「本物の王族が毒殺を企んだんじゃない。王族に化けた旧クリスタニアの魔導士が、毒の術を使って王を殺し、戦局を逆転させるつもりだったのよ」

「それも一説よね」

「事実よ」

 ひどく頬がこけた色白の少女はドアを開け、作り物のような瞳でメリッサさんを見つめました。

「あなたの中ではそうかもしれないけど……おっと、今日は議論しに来たんじゃなかった」

 ラビさんは私に目を向けました。

「誰?」

「魔導士じゃない方の人です」

「黒衣をまとい月蛍石を耳にした女は、天上人の末裔である」

「は?」

「と、『リリーの書』の第十二章に書いてあったわ。あなたは私とお仲間ね」

 リリーとは、東の海に沈んだとされる幻の超文明大陸、現在のリリー諸島のことです。メリッサさんもその大陸にまつわる話を書いていますが、時代設定は最初の癒師が現れるずっと前であり、ラビさんの説とは食い違っています。

 メリッサさんは何か言いたそうで、うずうずしていました。

 私は苦笑いを向けて気鋭の作家をなだめ、一人でラビさんの部屋に入りました。

 ベッドと机、小さな薪ストーブがあって……残りのスペースはすべて書棚で埋まっていました。十六歳の女の子らしい小物など一切ありません。本は魔法全書に、神話大全に、心霊実話集に、古代から中世の歴史書がずらり。

「そこしかないから、座って」

「ど、どうも」

 私はラビさんに促され、ベッドに腰掛けました。

「あの作家に聞いてきたんでしょ? 水しか飲まないって」

「お見通しでしたか」

 私は苦笑しました。

「仕方ないのよ。世界を滅ぼさないためだもの」

 ラビさんは立って本のページをめくりながら話しています。

「あなたが何か食べると、世界が滅ぶんですか?」

「そうよ。これに書いてある」

 私は一冊の本を渡されました。タイトルは『殺生の代償』とあります。

 この本によれば、『あなたが一匹の小魚を釣ると、オピアムの街が大火で滅ぶ』『あなたが一輪の花を摘むと、ヤロ湖が干上がって大地が枯れる』のだそうです。ちょっとした出来事が引き金となり、巡り巡って世界に大きな影響を及ぼすという、ある神秘家の学説です。

 私は本を閉じて言いました。

「あなたはこれを本気で信じているんですか?」

「私が普通の子だったら、バカにしてたでしょうね」

「と、いいますと?」

「ラーチランドの南、マーシュ村の大地震のこと、知ってる?」

「はい。私、ちょうどそこにいましたから」

「その地震、私が起こしたのよ」

「ま、まさか」

「おととしの秋、畑を歩いていてミミズを踏んだとき、嫌な予感がしたの。そしたら次の春、公民館の掲示板に大ニュースよ」

 遠方の災害の情報が、辺境の村に伝わるまでには、それなりに時間を必要としていました。

「そのときミミズを踏んだ人は、各地にたくさんいたのでは?」

「さかのぼってみると、その前の年は、追い払った虫が近くのたき火で焼け死ぬとパスクの火山が噴火したし、前の前の年は、防風林の若木を間違って折ったら、西の海で大嵐があったし……」

「……」

 私は何も言えませんでした。

「極めつけは、あなたよ」

「私?」

「私が起こした地震に遭った人がここに来ているのは、私の神なる(ごう)をよく理解して、後世に伝えるためなのよ。だから、それを記録するための作家も一緒なの」

「……」

 わずかな時間で筋を通してしまう、思考力の高さが厄介です。

 私は話の核心に迫ることにしました。

「つまりあなたは、このまま餓死しても構わない、というのですね?」

「……」

 返事がありません。

「私たち癒師には、死を望んでいる人を、助ける義理はありません」

「……」

「天界へ渡ったら、どうかお仲間の神にお伝えください。生きることに悩まねばならない地上で唯一の生き物、人間をもう少しだけお助けください、と」

 私は立ち上がると、部屋のドアへ向かいました。

「待って!」

「……」

 私は足を止めました。

「死にたくない……死にたくないよ……」ラビさんはベッドに泣き崩れました。「でも、どうしていいかわからないの。私の考えてることより、偉い人が本に書いたことのほうが、ずっと本当みたいなんだもの」

「やっと、本音を言ってくれましたね」

 私は引き返して、ラビさんのそばに座りました。

「一つ聞かせてください。あなたが本で学んだことが正しいとすれば、あなたは水も飲んではいけないし、息を吸うこともダメなのではないですか?」

 ラビさんは涙に濡れた顔を起こしました。

「どうして? 水や空気は生き物じゃないから大丈夫でしょ?」

「じめじめした部屋を放っておくと、どうなりますか?」

「カビが生える」

「そのカビはどこにいたと思いますか?」

「さぁ?」

「私たちは空気を吸うだけで、カビを胃液で殺しているのです。それは生きるためなので仕方ありません」

「目に見えないものがそこにあるなんて、信じられない」

「おや? 神や魔法や心霊現象は信じているのに、おかしな話ですね」

「そういえば……」

 ラビさんは難しい顔をして、黙ってしまいました。

 口で説明しても、ラビさんのようなタイプはすぐには変われません。

 私は少し思案した後、言いました。

「では、トランプはお持ちですか?」

「タロットならあるけど」

 ラビさんは机の引き出しを開け、タロットカードを取り出そうとして、顔をしかめました。

「捨てたと思ってたのに……」

 私はトランプの束を受け取ると、シャッフルして、表を伏せたまま一枚引きました。

「では質問です。これは何のカードでしょうか。書棚にあるすべての本を使っていいので、調べてみてください」

 ラビさんは私を睨みました。

「バカにしてるの?」

「いいえ、大真面目です。偉大な書き手なら、どんなことでも知っているかと思いまして」

「そんなの、わかるわけないでしょ?」

「でも、私はこの裏返したカードが何か知っています。なぜでしょう?」

「手品師だってできることよ」

「では、あなたがシャッフルして、お好きなカードを引いてください」

 ラビさんは言われた通りにしました。

 私はベッドの上に伏せられたカードを透視しました。

「それは『ハートの7』です」

 正解を知るラビさんは、不満そうに口をとがらせました。

「あなたは癒師だからできるのよ。天から与えられた特別な才能なんて、ずるいわ」

「ちょっと前まで、私もそう思ってました。特別な才能があるのだから、特別がんばらなくてはならないと。でも、最近は特別な人などいないと考えるようになりました」

「どういうこと?」

「やり方を教えますから、ラビさんも透視してみませんか?」

「できるわけないでしょ?」

「なぜ、はじめからそう決めつけるんですか?」

「……」

「できなかったとき、傷つくのが嫌だ」

「!」

 ラビさんは、持っていた残りのカードを床に投げつけました。

 抑えつけていた感情を解放しはじめたようです。良い傾向です。

「期限は十日間。成功したら、その日から少しずつ何か食べてください」

「しなかったら?」

「あなたの望みを一つだけ、何でも聞きましょう」

「死んでと言ったら、死ぬのね?」

「ええ、それが望みであれば」

「わかったわ。じゃあ、どうやるのか教えて」



 ラビさんは時間が経つのも忘れて透視に挑みました。

 透視の訓練をはじめてから九日間、たまたま当たった一回をのぞけば、すべてハズレでした。



 そして約束の十日目。

 ベッドの上に伏せた一枚のカード。

 緊張するラビさんに、私は一つだけアドバイスを送りました。

「できるのは当たり前だと思ってください」

「そんなこと言われても……」

「天に与えられた才能は人それぞれです。でも、カードを見透すくらいの力は、誰でも持っているんです。できないのは、できないと思い込んでいるからです」

「できるのは当たり前、できるのは当たり前……」

 声が小さくなっていき、やがて部屋は静かになりました。

 ラビさんはカードを見事言い当てました。

 私はさらに四枚のカードを伏せました。

「五回連続で当てたら、誰も偶然とは思わないでしょう」

 ラビさんは小さくうなずき、一枚ずつコールしながらめくっていきました。

 結果は、四枚ともハズレでした。

「そんなはずは……」

 私は肩を落としました。

 ラビさんを包むエネルギーを透視したところ、直感がスムーズに流れているとわかり、確実に当てられると感じたのですが……。

「残念だったわね」

 ラビさんは勝ち誇った顔で言いました。

「約束です。あなたの望みを言ってください」

 私は死を覚悟しました。

「望みは……」

「……」

 私は喉をならしました。

「もっと生きたい」

「えっ?」

「だから、どうしたらいいか言って」

「ラビさん……」

「はやく言って!」

「では、何か食べ物を口にしてください」

 ラビさんはスカートのポケットをまさぐると、ハンカチの包みを取り出しました。開くと乾燥ベリーが一山。

 少女は果実を一粒口にしました。

「本よりも、自分が感じた事の方が偉大だった」

「えっ?」

 直感が外れたのに、どうしてそう悟ったのでしょう?

「本当はね、全部当たってたの。嘘ついて、ごめんなさい」

「……わ、私をからかう余裕があるなら、もう大丈夫ですね」

 私は脱力して、ばふんとベッドに座りこみました。



 帰りの馬車の中で、メリッサさんは私に言いました。

「施術して、すごい能力を見られると思ったのにな」

「がっかりしましたか?」

「ちょっと、ね……」

「自分の力を信じてもらうことが一番大事なんです。能力を使って治療するのは、それが叶わないと判断したときです」

「私の知っている癒師とは、ちょっと違うわね」

「下手に能力があると、そこに頼ってしまいがちです。こちらが何もしなくても病気が治ってくれるなら、それにこしたことはありません」

「何もしなくても?」

「癒師や医師がいなくても、病気が治るなら、それが一番でしょう? 私はこの頃、そういうことについて考えています」

 メリッサさんの四角いメガネが光りました。

「あなたって、きっと……」

「はい?」

「帰ったら、すぐ取材させて! その前にサインも頂戴!」

「は、はぁ?」



 クリスタニア図書館に帰ってきました。

 患者の情報を提供してもらったお礼に、私はメリッサさんの取材を受けることにしました。

 翡翠棟の二階にある喫茶室。その隅を二人で陣取ると、さっそくメリッサさんの質問がはじまりました。

 私は今回の旅で行った施術のことを、順を追って話していきました。

 ジンセンでの黒死病患者のこと、クレインズの失夢症の少女、ホースチェス村で失った信用、マーシュ村で被災した人々への治療、ヘイゼル諸島で開いた診療所での多忙な日々などなど……そして話は、オピアムであった狂癒師事件にさしかかりました。

 そのとき、スーツを着た男がつかつかやってきて、メリッサさんに新聞の束を渡しました。

「先生、私をパシリにさせておいて、いきなり失踪はないでしょう?」

「ごめんごめん。急に取材の用が入っちゃってね」

 メリッサさんはいったん出無精になると、新聞一つ買うにも、立場の弱い人を徹底的に利用していました。

 出版社の担当がぷりぷりしながら帰っていくと、女作家は新聞を広げました。

 一面記事がこちらを向いています。

 私は見出しを読み、驚きました。

「メリッサさん。鬱病で自殺する人が、マジョラムで急激に増えているそうです」

「ラビちゃんもそうだったけど、この土地は本がありすぎるせいなのか、頭でっかちの子が多くってね。そんなに珍しいことじゃないのよ」

「でも、一週間で二百人はいくらなんでも多すぎます」

 メリッサさんは、ばっと新聞を折り返し、件の記事を読みました。

「これは聞き捨てならない事件ね」

「何か邪悪な気配を感じます」

 私たちは喫茶室を飛び出すと、図書館を後にし、マジョラムの市街地へ急ぎました。




 第四十五話 ネトルの絶望



 粉雪がちらつく中、マジョラムの街を行き来する人々は、どんよりと暗いオーラに包まれていました。

 大勢の人々が絶望感に苛まれるのは、戦争や政変、もしくは疫病が広まったときくらいのものでしょう。しかし、最近そのような事件があった気配はありません。

 私は直感しました。こんな不思議な現象を起こせるのは、人の魂に通じることのできる癒師しかいないと。癒師の才能を逆手にとって犯罪をくり返す、ネトルの仕業にちがいありません。

 私はネトルの気配を探そうとしましたが、こう人が多くては集中できません。それよりも、今にも自殺しかねない、市民を救わねばなりません。

 とはいえ、街の人のほとんどが鬱病にかかっているとしたら、いったい誰から癒せばいいのでしょう。

 私は人々の言動一つ一つに心を奪われてしまい、足取りがままなりません。

 メリッサさんは、私の肩をゆすって言いました。

「やめなさい。それじゃ、敵の思うツボよ」

「でも、早く癒してあげないと、今日にも首を吊るかもしれないんですよ?」

「ネトルは、あなたのようなまっとうな癒師に、絶望を味わわせたいのよ。どんなに癒しても無駄だってことをね。まずは、元凶を探し出すことが先決。いいわね?」

「は、はい」

 私は正気を取り戻し、メリッサさんに感心しきりでした。

 さすがは作家。ネトルについてのわずかな情報から、鋭い洞察を引き出してきます。

 ネトルを探すのはいいとしても、彼の予見能力は高く、私の及ぶところではありません。時間を与えれば与えるほど、こちらは後手を踏むことになるでしょう。

 私が悩んでいると、メリッサさんはハッとした顔で手を打ちました。

「私ら、誘い出されたんだわ!」

「ど、どういうことですか?」

「パシリにしてたあの担当、世界一広い建物の中で、私を探し当てるのに苦労したとは言ってない。私の行動パターンを知ってるなら、古文書のある『瑠璃棟』へ行くはずよ」

「まさか、彼はすでにネトルに操られていた?」

「一度に大勢の人間を陥れたいとすれば……私ならマジョラムの市街地か、そうでなければ……」

「クリスタニア図書館!」

 


 大図書館の翡翠棟。

 玄関の前で、私は言いました。

「メリッサさんはここに残ってください」

 女作家は不審そうな顔で言いました。

「気づかってくれるのはありがたいけど……。棟は他に四つもあるのよ。どうして、ネトルはここだと思うの?」

「前に一度、書架のところですれ違っているんです。彼の邪悪な気配が伝わってきます」

「その直感が正しいとしても、あなたがこれから突入しようという意図は、事前に予知されているんじゃないの?」

「作家の鋭い洞察が未来を変えてくれました。そうでなければ、ネトルはもうここにはいないはずです」

 メリッサさんはフッと笑いました。

「あなたもいい作家になれるわ」

「ど、どうも」

 私は照れ笑いを浮かべました。

 そしてすぐ顔を引き締め、言いました。

「もし何か異変を感じたら、中に入って、人々を落ち着かせてください」

「気をつけてね」

 私はうなずくと、翡翠棟に入りました。

 案内所の美女はいつもの笑顔です。一階を行き来する人々にもまだ異常は見られません。

 二階の踊り場を見上げると、黒いコートを羽織った初老の男が一人、下の空間に向かって両手を差し出しているのが目にとまりました。

 あれは癒師にしかできない、集団を癒すための導入所作です。それを逆手にとれば、人々を鬱状態にすることも可能です。

 私は踊り場に通じる階段を駆け上がると、黒ずくめの男に向かって叫びました。

「ネトル! そこまでです!」

 男はハッと我に返った顔をこちらに向けると、小さく笑いました。

「なるほど、大癒師アンジェリカが目をかけただけのことはある」

「私はまだ修行の身。学長に期待されるような器ではありません」

「ほう? まだ自分の正体がわかっていないのかね」

「正体?」

 私は自分の体を見下ろしました。

「フフ、君は少々大事にされすぎたようだな」

「それより、ユーカさんはどこですかっ!」

「彼女なら、ずっと前から中庭の宿舎で大人しくしているよ」

「嘘です。私だってその宿舎に泊まってるんですよ? そんなに近ければ、気配でわかります」

「あの娘も大したものだ。私に勝てぬと知るや、心の殻に閉じこもって鍵をかけおった。操れぬ代わりに、人質としては扱いやすくなったがな」

 私は一歩また一歩とネトルに近づいていきました。

「悪い事をして、過去の無念を晴らそうとするのは、もうやめてください」

「フン、そこまで知っていたか。しかし、救世主といえど、私の心の闇までは癒せまい」

「何度も言いますが、私はまだ修行中の癒師です。神業はなくとも、暗闇に小さな光を点すくらいのことはできます」

 ネトルは歪んだ微笑みを浮かべました。

「私の過去に関われば、君は必ず癒師として生きることに絶望する。純粋な癒し手であるが故に絶望するのだ」

 踊り場の下では、人々のざわめきが広がっていました。それはそうでしょう。二階の舞台でいきなり芝居じみた口論がはじまったのですから。

 そこへメリッサさんが入ってきて、苦笑いをふりまきました。

「ごめんなさいねぇ。私の友達、演劇の勉強しすぎて、たまーに現実との区別がつかなくなっちゃうんです。一時的なものですから、忘れてください」

 人々の関心は、踊り場から、地元の有名作家メリッサさんのほうへ向かいました。

 一階ホールの収拾がつくと、私とネトルは閲覧コーナーの隅まで行って席につき、瞑想に入りました。



 * * *



 新暦一〇四年(今から一〇〇年前)


 修行の旅を終えたネトルは、学校には戻らず、その後も大陸で旅をつづけました。エルダーでは目立たぬ存在だった彼ですが、大陸の辺境においては、癒しの天使として知られていました。

 五十歳を迎えた年のある日。ネトルは依頼を受け、貧しい農村に赴きました。

 村には重い疫病がひろまっていましたが、大きな能力を授かっていた彼はそれを一日で収めてしまいました。

 村人はネトルを神と崇め、大いに奉りました。

 しかし次の日、村に大きな竜巻がやってきて、人々は一人残らず死んでしまったのでした。

 あるときは地震、あるときはイナゴの大発生、またあるときは干ばつと、その年はどんなに人を癒しても無駄になることがつづきました。

 人を癒すことにいったいどれほどの意味があるのか、ネトルはわからなくなっていきました。

 田舎へ行けば、小さな病でも癒し手が足りず、人が死に……。

 都会へ行けば、大きな病にお金が足りず、人が死に……。

 迫害を受けた癒師は好機を失って、また人が死に……

 新しい薬が生まれると、また未知の病が起こり……。

 新しい癒術を編み出せば、それを妨害する現象が起こり……。

 どんなに医師や癒師が増えても、病がなくなることは決してありませんでした。

 人生に絶望したネトルは、何度も自殺を試みました。

 しかし、どうしても最後の一息が踏み切れません。

 そこで彼は、癒術界で禁忌とされていた忘却の術を、自分自身にかけたのです。

 術は成功し、ネトルは辛い記憶を失いました。

 同時に副作用で、老いることまで忘れてしまった彼は、それから術が解けるまでの百年間、同じ姿のままで長い長い空白の時を過ごしました。



 * * *



 瞑想から覚めたネトルは、私に言いました。

「どうかね? それでも君は癒師をつづけられるのか?」

「驚きました。私とあなたが、まったく同じ疑問にぶち当たっていたなんて」

「なんだと?」

「私はまさに、その答えを見つけるために、旅をしています」

「同じ疑問を持ったのなら、君も同じ運命をたどるだろう。無駄なことはやめておけ」

 そのとき、頭の頂が急にむずむずして、私は口もとが軽くなりました。

「自分が信じていることを諦めない。それが幸せになる、ただ一つの道です」

「……」

 男はまぶしそうに目を細め、顔を下に背けました。

「この子が旅を終えたとき、あなたの力が必要になるでしょう。迎えに行くまで、無念晴らしは控えてください」

 自分のことなのに、この子って……私はぼうっとしていて、意思が頭に伝わりません。

 ネトルはイスから立ち上がり、言いました。

「百万人殺そうと、無念など晴れんよ。ジンセンで待っている」




 第四十六話 ユーカの目覚め



 ネトルに捕まっていたユーカさんは、クリスタニア図書館の中庭にある、宿舎棟の一室にいました。

 ベッドに腰掛けたままじっとしている彼女は、外傷はなく顔色も悪くありませんでした。しかし、どんなに呼びかけても、白い壁を見つめたまま何の反応も示しません。

 一緒にきていたメリッサさんは言いました。

「精神病院で見たことあるわ、こういう人」

「……」

 私は人形と化したユーカさんの脇に座ると、メリッサさんを見つめました。

「ご、ごめん。今の取り消し」

「自分を守るためにやったことです。ユーカさんは悪くありません」

 メリッサさんは部屋のドアを閉じ、誰も入ってこないよう鍵をかけました。

 私は瞑想に入りました。



 気がつくと私は、薄暗い空間にぽつんと一つある、大きな球体の前に立っていました。

 ユーカさんの心の殻です。試しに叩いてみましたが、びくともしません。

 炎であぶっても、氷の矢を放っても、殻にはひび一つ入りませんでした。能力で上回るネトルでさえ打ち破れなかったのですから、まともな攻撃では通用しそうにありません。

 殻の結束を強めている何かを知る必要があります。

 私は殻に呼びかけました。

「ユーカさん! 私です、プラムです! ネトルの事件はひとまず収まりました。もう出てきても大丈夫ですよ?」

 応答はありません。

「ユーカさん! 敵はもう去ったんですよ!」

(敵はもう一人いるわ)

 心に直接、ユーカさんの声が響きました。

「そ、そんなはずは……」

(ネトルに捕まるまでは、プラム、あなただったわ)

「私が?」

(でも違っていた。本当の敵は、私自身だった)

「訳を、話していただけませんか?」

(癒術学校二年のとき、私はこっそり見てしまった。アンジェリカ学長とオークさんの密談を)

「……」

(プラム。あなたこそ、癒術界の希望の星だったのよ。学長は、あなたが一人前になるまでは、どんなことがあっても守ってほしいと、オークさんに言っていたわ)

「でも、オークさんは途中で私を監視するのをやめたんですよ?」

(その時点でもう、彼を超えていたのよ)

「そんなはずは……別れた後も失敗ばかりだったのに」

(失敗が必ずしも悪いこととは限らないわ。失敗して初めてわかる境地もある、ということよ)

「うれしいような、情けないような……。そ、そんなことより、ユーカさんの敵が自分自身というのは?」

(私はあなたに嫉妬していた。ドジばかりの劣等生がどうして選ばれたのか、理解できなかった。だから、なんとかして潰してやろうと思ったわ)

「……」

(でも、オピアムで私がどうしても癒せなかった拒食症の人を、実力で下回るあなたはすぐに治してみせた。そのときわかったのよ。大癒師アンジェリカ学長があなたに期待していたことが、何なのかをね。考える時間がほしいとき、ちょうどよくネトルが現れた。操られるのを嫌った私は、心の殻に引きこもり、自分と向きあう時間がたっぷり取れた、というわけよ)

「いろんな場所でいろんな人が、どうして私のことを、そんな大げさに持ち上げようとするのでしょう?」

(大げさと感じるのは、あなたが自分を低く見積もって、本当のことを知ろうとしないからよ。高位の魂に見合った自覚を持たなければ、真の力は発揮できないわ)

「今の私は、旅をつづけることで精一杯です」

(それでいいのよ。来るべきときが来ればわかるはずだから。ところで……)

 長い沈黙がつづきました。

「?」

(その……私のこと、許してくれる?)

 私は笑顔で答えました。

「もちろんですよ。あなたが必要です」

 すると、大きな球体の殻がばっと弾け、まばゆい光で何も見えなくなりました。



 ユーカさんと私は、それから冬が明けるまで、マジョラム市民にひろまっていた鬱病の治療で多忙な日々を送りました。




 第四十七話 南国へ



 新暦二〇四年 春


 春を迎えても、ネトルがもたらした鬱病の患者は数多く残っていました。数百人もの患者に対し、癒師は私とユーカさんの二人だけですから、どうしても時間がかかってしまいます。

 ネトル事件が収束して間もない頃は、病院へ行く人が多くを占めていました。しかし、感情を自分でコントロールできなくなる患者が多発し、医者への不信から二人の癒師のもとへ逃げてくるという事がつづきました。彼らは例外なく、強力な精神安定剤を服用していました。

 不安や絶望といった思考や感情は、もともと人間に備わっているものです。それを薬で調節しようすれば、自然の摂理に抗うことになり、失敗するのは必然といえました。しかし、医師たちはそれを認めようとせず、新しい薬を開発しようと躍起になっています。

 この事態を一刻でも早く収めるには、私の心の内奥に秘められた、まだはっきりしない『何か』を解き明かさねばなりません。

 旅の虫がうずきます。でも、すべての患者が完治するまでは、マジョラムを出られません。

「ほら、またぼうっとしてる」

 ユーカさんは私の脇腹を肘で小突きました。

「す、すみません。すみません」

 私はベッドに横たわる患者とユーカさん、交互にぺこぺこ頭を下げました。

 二人の癒師は、図書館の宿舎棟の一室を借り、精神の病を専門とする小さな診療所を開いていました。

「気持ちはわかるけどね。せめて卒業生の誰かが通りかかってくれると、仕事が早くなるんだけど」

 この春卒業したばかりの人はまだ東の国でしょうし、二年目以降の旅人は、北の都クレインズで雪解けを待っているか、南の都ヤーバで寒さをしのいでいるか、二大都市ジンセンとオピアムで忙しくしているかのいずれかで、中途半端な位置にあるマジョラムは袖にされがちでした。

 卒業といえば、癒術学校……ヘイゼル諸島で知り合った少女、プリムローズさんの入試の結果が気になって仕方ありません。私の旅は、計画ではちょうど今頃終わっているはずでした。やっぱり間に合わなかった……。

「ううう……」

 これから施術だというのに、涙があふれてきました。自分ではどうしようもありません。

「なにも、泣くことないでしょ?」

 ユーカさんはため息をつくと、ハンカチでごしごし私の頬をぬぐいました。

 そのときです。黒いローブをまとった美男が、ぬっと部屋に入ってきました。

「話はメリッサ先生に聞いている。二人だけで大変だったろう」

「オ……」

 私が口を開こうとすると、ユーカさんが大声で遮りました。

「オークさん! どこにいたんですかぁ。んもう、待ってたんだからぁ」

 ユーカさんは子供っぽく身をよじりました。

「すまない。ネトルを警戒するあまり、慎重になりすぎていた」

 私は改めて口を開きました。

「癒師が三人になれば、ずいぶん楽になりますね」

 すると、ユーカさんはぶすっとした顔で、私の脇腹を小突きました。

「何言ってんのよ。荷物まとめてさっさと出ていきなさいよ」

「え? だってさっきは、仕事が早くなるとか……」

 ユーカさんは私に耳打ちしました。

「バカね、そのくらい察しなさいよ」

 私はユーカさんの顔が赤くなっていくのを見て、やっとわかりました。

「その、トイレ……行ってきます」

 私は苦笑いを残して部屋を後にすると、トランク片手に大図書館から出ていきました。



 マジョラム駅から弾丸鉄道に乗った私は、ボリジという駅で降りるつもりでいました。

 ボリジ駅は、南都ヤーバへ向かう本線と、世界の屋根と呼ばれるパスク地方へ行く支線との分岐点です。

 しかしまったく、慣れとは恐ろしいものです。

 例の爆発発車する列車に怯えていたあの私が、いつの間にか眠ってしまい、ボリジ駅で下り損ねてしまったのです。

 ハッと飛び起きたとき、列車はすでにシスル川に架かるサンデュー大橋の上にいました。シスル川はパスク山脈を源流とする、アルニカ四大河の一つで、世界最古の文明が興った地としても有名です。

 橋を渡りきると、そこはもう南国カレンデュラの領地。

 引き返すのが面倒だったのか、旅を急いでいたのか、ともかく私は、そのまま南国の都ヤーバまで行ってしまいました。

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