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第四章 東西横断

 第三十話 二都山道



 私とプリムさんは、オピアム港で船を降りると、近くの停留所で待っていた路線馬車に乗りこみました。

 馬車は大陸第二を誇る都会の街並みを素通りして、ひと気の少ない郊外に出ました。

 大戦後に壊された古い城壁の跡『二ノ壁』の手前で、二人は馬車を下りました。二ノ壁は大昔からこの街の市境であり、街の基になった平野が尽きる所です。

 停留所から少し歩いて市境を越え、なだらかな坂を山裾の開けた所まで上っていくと、小さな集落が見えてきました。

 登山口近くの広場には、宿屋、旅の装備をそろえた道具屋、保存食でいっぱいの食品店、貸し馬屋などが立ち並んでいます。

 私は山道入口の道脇に里程標(マイルストーン)を見つけました。『二都山道・〇マース地点』と彫ってあります。

 ここから長い長い坂を上っていくと国境のアイブライト峠。カスターランド領に入り、坂を下っていくと王都ジンセンです。中継点のアイブライト峠まで、距離にして三百マース(一マース=約一キロ)、標高差にして四千ミルマース(ミル=千分の一の意)以上もあります。

 交通手段は馬か徒歩しかありません。馬といっても馬車ではありません。鞍の上に乗る馬のことです。

 二都山道は途中の宿場が少なく、昔から行き倒れの名所だったと聞いています。ときどき熊や大猪などが出るとか出ないとか……。

 乗馬経験のない私は馬小屋の前で、プリムさんに相談を持ちかけました。

「せめて上りだけでも馬に乗りたいのですが、『騎手兼護衛付きプラン』では、峠の頂で私の旅費が底をついてしまいます」

「あたし、馬乗れるよ?」

「本当ですか?」

「ローズ島の近くに、野生の馬ばっかりいる島あったでしょ? あそこで遊んでたら、乗れるようになっちゃった」

「た、助かった……」

 私は手を開くと、指先で数字を書き連ねていきました。

 国境を越えた後、下りは歩くとして、汽車代と船代が往復で……うぁ、それでもギリギリかも。

「最悪、ジンセンでバイトすればいいでしょ?」

「そ、それもそうですね」

 八つも下のプリムさんのほうが、よほどしっかりしています。

 受付小屋へ行って契約書にサインすると、私は葦毛の馬に乗るプリムさんの後ろにまたがりました。

「はい、行って」

 プリムさんが言うと、馬は歩き出しました。

「?」

 私は首を傾げました。しつけを受けた馬は、かかとでお腹を蹴って進ませるものだと思っていましたが……。

 話をしたくても、落馬への恐怖心が先立って、それどころではありません。それに、お尻が痛くならないよう、タイミングを合わせるのに必死でした。

 しばらくの間は、何を話しかけられても生返事。

 見晴らしのいいところまで坂を上っていくと、プリムさんは再び馬に話かけました。

「そこの白い花の生えてる道端で止まって」

 葦毛の馬は言葉に従いました。

 プリムさんは手綱を引いていません。

 馬を下り、オピアムの遠景を眺めながら、私は質問しました。

「動物と話せるんですか?」

「ううん」プリムさんは首を横にふります。「こうしたいとか、相手がどうしたいとかは、何となく伝わるけど」

「では、今、彼はどう思っているんでしょうね?」

「彼なんて言ったら失礼だよ」

「お、お仲間でしたか。ごめんなさい」

 私は草を食む馬に頭を下げました。

「まぁ、見てればわかるよ」

 馬は小一時間ほど草を食べつづけ、それが終わると大きなフンをし、プリムさんの下へやってきました。

 少女は馬の顔をなでながら言いました。

「ここで休むのはもう飽きたってさ」

 葦毛の馬は嫌がる素振り一つ見せず、私たちを高い所へ運んでいきました。



 日が暮れる少し前、第一の宿場がある集落に着きました。今夜はここで一泊です。

 宿場で馬の世話係をしている初老の男は、しきりに感心していました。二人を乗せて坂を上ってきた馬が全然疲れていないと言うのです。

 私とプリムさんは、大きな丸太小屋を横に四つに仕切った部屋のうち、角の一室に入りました。

 二人がそれぞれのベッドに寝転がると、プリムさんは言いました。

「さっきの話さ、別に難しいことじゃないよ。よく見てればだいたいわかるし」

「よく見ていれば……ですか」

 私は今日のことで、たくさん考えさせられました。生まれもった透視の力がありながら、動物が何を思っているのか、私には一つもわかりません。一方、プリムさんにとって動物と通じ合うことは日常なのです。

 私はプリムさんと出会ってから、自分をはじめとするエルダー人だけが特別な存在ではないような気がしてきました。

 もし、この世の誰もが特別だったとしたら……たら……ら……。



「はれ?」

 窓からさす光に、私は目を細めました。どうやら、考えがまとまる前に眠ってしまったようです。

 プリムさんはすでに身支度を終え、部屋の玄関を開けて待っていました。

 葦毛の馬は鞍をつけて、すぐそこまで来ています。

(あのこ)がその気になってるうちに行かないと、余分に泊まることになるよ?」

「ど、どうして起こしてくれなかったんですか?」

「怒鳴って、ビンタして、借りてきた蒸しタオルをぶっかけたんだけど、それでも起きないし」

 慌てて鏡を見ると、私の顔は腫れ上がっていました。ヒリヒリすると思っていた胸も真っ赤です。

 旅人や宿の人にクスクス笑われる中、私はプリムさんと共に馬にまたがり、集落を出発しました。

 しばらく坂を行くと、プリムさんは小さくふり返って言いました。

「ごめん」

「いえ、起きられない私も悪いです。ただ、私も一応、年頃の女の子だということをお忘れなく」

 プリムさんが癒術学校に入学さえできれば、しめたもの……そう考えていた私が甘かった。

 彼女からは『見るとは何か』を教わる代わりに、私からは集団生活で気をつけるべきことを教えるようにしました。人は皆、教師であると同時に生徒であると、アンジェリカ学長はおっしゃっていました。その意味が少しずつわかってきたような気がします。

 第二、第三の宿場までは、背の高い木々の谷間をひたすら蛇行するだけの、単調な行程でした。



 山に入って四日目。

 樹木の高さはすっかり低くなり、ついには草原となりました。平地では見られない小さな花々が、あたり一面に咲き誇っています。

 高原のお花畑を過ぎて尾根道を少し行くと、分かれ道がありました。

 右に曲がるとヤロ湖方面、まっすぐ行くと目的地アイブライト峠です。

 ヤロ湖といえば、バーバ・ヤロと呼ばれる水龍の伝説が有名です。目撃情報は多数あるのですが、地底人と同様、公の調査陣の前に現れたことは一度もく、神の遣いとか、ただの作り話とか、昔からさまざまな説が飛び交っています。

 あの世へ還るまでに一度は見ておきたい、神秘の湖。旅人の魂が揺らぎます。でも、今回ばかりは自分の気持ちに蓋をして、ヘイゼルの宝をエルダーに送り届けなければなりません。

 私は気を引き締めるため、胸いっぱいに息を吸った……つもりでした。

 なぜだか、息が苦しく感じます。

「空気が……薄い? ウッ!?」

 額から側頭にかけてズキズキと痛くなってきて、吐き気も出てきました。我慢しようと力めば力むほど、症状はひどくなっていきます。

 しばらく唸っていると、手綱をもつプリムさんが心配そうにふり返りました。

「大丈夫?」

「す、すみません。高山病にかかってしまいました」

「癒師なのに、そのくらい自分で治せないの?」

「あぅ……」

 痛いところをつかれました。癒術の基本は、まず自分で自分を癒すことなのですが、これが案外できる人が少ないのです。ナルシストの気がある癒師はまず病気にかからないといいます。となると、私は自己愛が足りないのかもしれません。

 考えようとすると症状はさらに悪くなり、私はプリムさんに答えを返せないまま、もの言わぬお荷物となってしまいました。

 夕方になると山に霧がかかってきて、進み具合がわからず、時間が止まってしまったかのような錯覚に苦しみました。

 視界がほとんどない中、峠の頂を示す石碑の前で、馬は足を止めました。

 私は滑り落ちるようにして馬から下りると、先に立っていたプリムさんにもたれかかりました。

「ほら、これが有名なアイブライト峠だよ」

 プリムさんは石碑を指さします。

 私はこの世の見納めに来たお婆さんのような声で言いました。

「そ、そうですねぇ……」

 夕暮れの雲海でも見られれば元気も湧いてくるのでしょうが、こう真っ白では苦労して上ってきた甲斐がありません。

 いけない、私はここへ観光に来たわけではないのです。早く指定の宿に入って体を休めないと……。

 私はプリムさんから離れたものの、十歩も行けずにひざから崩れ、意識が遠のいていきました。

「先生! 大丈夫? せんせ……」




 第三十一話 アイブライト峠の戦い



 アイブライト峠は、古代の頃から天下を分ける戦略上の大拠点で、ここを取れば大陸(アルニカ半島)を制すると言われてきました。二百年ほど前の最後の大戦では、東軍カスターランドが西軍ウォールズを打ち破り、半島統一を決定づけたのでした。

 アイブライト地区は大昔から開かれた高地で、戦のときは基地として、平和な時代には東西の国を結ぶ中継所として栄えていました。



 私は典型的な高山病にかかっていました。

 気を失って、山小屋風の宿の一室に運ばれた後、まる二日間ベッドから動けずじまい。

 窓の外を見ると、峠の宿場村を訪れた人々が行き来していて、活気がありました。

 一方、プリムさんは食事が済んでやる事がなくなるたび、私のそばにきて癒術の真似事をしました。

「むん! ていっ! おりゃ!」

 少女は、私の痛む頭に両手をかざし息んでいます。

「あー、そうじゃなくて……クッ!?」

 助言したくても、考えると頭が割れるように痛み、言葉が継げません。

 プリムさんは肩を落としました。

「やっぱりエルダーの人じゃないと、ダメなのかな?」

「はくっ……ひうふ……」

 自信をなくしては大変と、口を開いたのですが、声が出ません。

 そのとき、部屋のドアが開き、ひんやりする風とともに一人の女が入ってきました。

「癒術はね、格闘技の気合いとは違うのよ」

 金髪の天然カールに太い白銀縁メガネ、ゴシックロリータ風の黒衣、首筋や手首に巻きつけた貴石(パワーストーン)の数々……校則を破らずによくもここまで目立つ格好ができると、当時は感心したものです。

「ユ、ユーカさん?」

 彼女は癒術学校を主席で卒業した、エルダーの期待の星です。

 ユーカさんは大エルダー島南部のペリウィン出身、私は北部のメドウ出身。毎年秀才を輩出する南部と、稀に大癒師を生みだす北部は、常に比較される運命にありました。在学中、私を含め北部勢の成績は芳しくなく、南部のお姫様はいつも勝ち誇っていました。

 ユーカさんとは、北の都クレインズの駅で一度すれ違っていますが、こんなところでまた出会うとは……。

「ド素人に施術させるなんて、あなた、そこまで堕ちちゃったワケ?」

 ユーカさんは笑いました。

「なによ、あんた!」

 プリムさんは私をかばうように両手を広げました。

「だいたいその子、エルダー人じゃないでしょ? 期待なんかさせて、罪深い人だわ」

「……」

 私は口を結んで耐えました。それについては、まだ大きなことは言えません。

「病人を責めて消耗させるなんて、あんた、それでも癒師?」

 プリムさんの一言で、自信に満ちあふれていた優等生の顔色が変わりました。

「む……なかなか言うわね」

 ユーカさんはため息をつくと、少女がいない方のベッドサイドに歩んで、私の頭に手をかざしました。

 地底の濃密な空気が送られてくるイメージが脳裏をよぎり、私はほどなく楽になりました。

「さすがです」

 持っている能力はやはり、同世代では一番だと思いました。

「当然でしょ。アンジェリカ学長以来の大癒師になるのは私だもの」

 プリムさんは鼻を鳴らして言いました。

「あたしはプラム先生の方が全然上だと思うけど」

「なんですって?」ユーカさんは額に青筋を立てたものの、声を低めて言いました。「能力の差も見破れないようじゃ、やっぱりセンスないわね」

「あたしは、人間としての総合力のことを言ってんの」

「曖昧な要素なんか持ちだしても、説得力ないわ!」

 譲ることを知らない二人の険悪なムード。

 私は耐えきれず、話題を逸らすことにしました。

「あ、あの、ユーカさんはクレインズから直接ここへ来たのですか?」

「そうよ。ジンセンはもう済んだから、次はオピアムね」

 地理の話になると、女たちは落ち着きを取り戻しました。

 そう思ったのもつかの間。

 ユーカさんの顔がみるみるうちに紅潮していきます。

 そして、私を指さしました。

「あなた、嘘ついたでしょ!」

「な、なんのことですか?」

「とぼけないで! 雪獅子とコンタクトを取ったって話よ」

「あれは本当です」

「私でさえ無視されたんだから、あなたのような鈍臭い癒師なんかには、近づくわけがないわ」

「鈍臭いのは否定しませんが、会って話したのは事実です」

「フン。そこまで空言を通すつもりなら、一つ、私と勝負しなさい!」

「勝負、とは?」

「アイブライト峠の宿場には、あなたのように高山病で横になっている患者がたくさんいるわ。で、今日中に一人でも多く癒した方が勝ち。負けた方は相手の主張に従うこと。いいわね?」

「私、競争なんてしたくありません。癒師の本分からも外れています」

「あそう。言いたくなかったけど、仕方ないわね。私、まだ報酬を受け取ってないんだけど?」

 ユーカさんは右手を差し出しました。

「うっ……」

 修行中の癒師は一般市民の家を渡り歩き、治療代のかわりに一宿一飯の報酬をいただくわけですが、癒師同士の場合については、こういった決まり事が存在しません。

 旅費はギリギリ、手持ちの食料はわずかで、下着もボロばかり。癒術書も手放してしまいました。

「それがあなたへの報酬だと、おっしゃるのでしたら……」

 私は仕方なく、ユーカさんの挑戦を受けることにしました。



 宿場村には、高山病の患者が十一人いました。

 結果は、ユーカさんが八人、私が三人を癒しました。

 私が北国の森で雪獅子と話したという事実は、これで公には無効となり、今後は誰にも語れなくなってしまいました。

 高笑いを残してオピアムへ向かう、馬上のユーカさん。

 私とプリムさんは黙ってそれを見送りました。

 違反すれすれのゴスロリ黒衣が坂の下に見えなくなると、プリムさんは地団駄を踏みました。

「数を稼いだからなんだっていうのさ!」

 私は言いました。

「ある意味、それは重要なことですよ。ユーカさんはきっと、一人で多くの人口をカバーできる癒師になるでしょう」

「だけどさ、それだけで癒師として上か下かなんて、決めつけるのはおかしいよ。悔しくないの?」

「まだうまく言えませんが、私が望んでいることは、ユーカさんとは違うんです。だから悔しいとか、そういう感情は湧いてきません」

 たとえ、たった一人で一万人の健康を支えられる癒師がいたとしても、通用するのは人が密集する都会だけです。小さな村や集落は、数が少ないからと見捨ててもいいのでしょうか。とはいえ、すべての地域に人を送るとなると、全然数が足りません。

 私はそこに、医術や癒術の限界を感じていました。

 もっといい方法が、きっとあるはずなのです。




 第三十二話 小鳥から一言



 私とプリムさんはアイブライト峠の頂を出発しました。

 旅費を節約するため、下りは徒歩です。

 二都山道の終点、ジンセン郊外までは約三百マース(一マース=約一キロ)の道程。整備された林道を下っていくだけとはいえ、間に宿場は三つしかありません。普通は馬で行くところを歩くわけですから、かなりの強行軍です。

 私とプリムさんは無駄口をはさむことなく、距離を稼ぐことに集中しました。

 ひたすら早く歩くだけという作業は退屈です。下り道にもかかわらず、二人はすぐに疲れを訴えるようになりました。

 行程の半分、第二の宿場まで来たとき、私もプリムさんも疲労でダウンし、回復のために二泊することになってしまいました。肉体疲労のためではありません。気力が萎えてしまったのです。

 私たちはそこで悟りました。

 楽しくなければ、何事も続かないのだと。

 残り半分の行程は、たとえ野宿することになっても、自分たちのペースで歩こうと決めました。



 第二の宿場を出発すると、特にプリムさんに変化が見られました。

 呼吸を一つするたびに顔から疲労の色が消え、森の微かな音にも耳を傾けるようになったのです。

 同じような世界を見ているはずなのに、馬や早足で通り過ぎたときと、ゆっくり歩いている今とでは、感じるものの総量が全然違っていました。

 これが旅の醍醐味、引いては人生の醍醐味なのでしょうか?

 などと考えているとき、前を歩くプリムさんに不思議なことが起こりました。

 方々から小鳥がやってきて、肩や頭の上で休み、何かブツブツ言っては、また飛んでいくのです。

 残念ながら、私の肩には一羽もとまってくれません。プリムさんの方から、こちらをじっと見るだけです。

 私が落ちこんでいると、プリムさんは笑いました。

「おそれ多くて、近寄りがたいんだってさ」

 動物がそこまで複雑な感情を持っているかどうか、私にはわかりません。でも、馬と通じていたプリムさんの言うことですから、軽視はできません。

 半端者の私に対して、おそれ多いだなんて……。

 あの小鳥たちは一体どういうつもりなのでしょう。




 第三十三話 再会を誓う



 私とプリムさんは二都山道を踏破して無事、王都ジンセンにたどり着きました。

 街外れのホテルに一泊した後、癒術学校の先輩ピオニーさんのアパートを訪ねました。しかし、そこにはもう別の人が住んでいて、先輩の行方もわかりませんでした。

 影の守護癒師オークさんの導きで留置場を脱走したのが、二年前の春。時効になっているとは到底思えません。

 長居は無用、というわけで、二人はすぐにジンセン駅へ向かいました。

 汽車に揺られて南へ下ること約半日、深夜のマグワート駅に到着。駅前に宿を見つけ、私たちはベッドに潜りこみました。



 翌朝、私とプリムさんはマグワート港の旅客ターミナルに入りました。

 ここからクラリー港行きの船に乗れば、いよいよ私の故郷、大エルダー島です。

 私は二人分のチケットを買おうと、窓口の列に並びました。

 すると、プリムさんは私の手を引き、首を横にふりました。

「ここまで送ってくれてありがと。あとは一人でやるから」

「一人でって……入試までまだ半年もあるんですよ? 寮に入るまでの間、下宿するところも決めなきゃいけないし……」

「それなら大丈夫。プラム先生の実家を探してそこに転がりこむから」

「ちゃっかりしてますね」

 でも、私の旅立ちの日に、寂しくなると泣いていた両親は喜ぶかも……。

「先生は自分の旅をつづけて」

「気を遣っていただけるのはうれしいですけど、本当に一人で大丈夫ですか?」

「先生の一人旅よりは危なっかしくないと思う」

「ひ、ひどい……」

 頭ごなしに否定できないのが、もどかしいです。

「じゃあ、ちょっと待っててください」

 私は物書き台のところへ行って、両親とアンジェリカ学長に宛てて、それぞれ手紙を書きました。

 プリムさんは手紙を受け取ると、言いました。

「学長に書いた方ってさ、入試で有利になる?」

「……」

 私は黙って首を横にふりました。

「だよね」

 少女は苦笑いしました。

 次の入試は新暦二〇四年、つまり来年の春です。私の長い旅もそこで終わるはずですが、予定より遅れていて、間に合うかどうか微妙なところです。

 私たちは一つの誓いを交わしました。

「次に会うときは、癒術学校の在学生と……」とプリムさん。

「正式な癒師として」と私。

 抱擁を交わすと、プリムさんは一人で改札口の向こうへ消えていきました。

 娘を遠方に送り出す親の気分なのか、急に一人にされて寂しくなったのか。

 私は船のいなくなった波止場に立って、しばらくの間めそめそ泣いていました。




 第三十四話 毒の細道



 さて、旅のつづきです。

 港からマグワート駅に戻ってきた私は、ジンセンまでの切符を買おうと、窓口の列に近づきました。

 すると、くたびれたジャケットを着た青年がやってきて、私に言いました。

「あんた、旅の癒師だろ? 島に帰るところかい?」

「いえ、ちょっと事情があって立ち寄っただけです。これから旅に復帰するところです」

「そいつは丁度よかった。旅立ちのシーズンを外しちまってどうなることか思っていたんだが……帰りじゃないんなら、気兼ねなく頼める」

「あ、あの、いったい何のお話ですか?」

「こっち来な」

 私はランサスと名乗る男についていきました。

 急行列車が出て、人の少なくなった待合室。

 その隅までくると、ランサスさんは言いました。

「ヤロ湖の畔で水晶を採るつもりなんだが、まともに行くと金がかかるだろ?」

「は、はぁ」

 たしかに、マグワートからヤロ湖まで行くとなると、鉄道で北上してジンセンまで行き、二都山道を馬で上ってアイブライト峠を通り、分かれ道をまっすぐ西には行かず、水晶古道を南下していかなくてはなりません。交通費と宿泊費だけでも結構な額になります。

「そこでだ。毒の細道を使いたい」

「!」

 私は思わず後ずさりました。

 毒の細道とは、東の港町マグワートと半島中部の巨大な水瓶ヤロ湖を結ぶ、一本道のことです。

 地図上ではたしかに最短ルートなのですが、道の周辺は猛毒をもった虫や蛇、ウルシの仲間などが容赦なく人を襲う、恐ろしいところなのです。二百年前の大戦中は軍事作戦で使われ、多くの兵士が毒にやられて命を落としました。今では通る人など滅多にいないため、失われた山道とも呼ばれています。

「あんたが癒師と見込んでのことだ。俺が言いたいことは、わかるよな?」

「それは、まぁ」

 毒にやられたときのために医師を雇えば、やはりお金がかかります。解毒剤だけでもかなりの高額。一方、癒師ならタダ同然という訳です。

「報酬のことは知っている。馬と食料とテントは確保してある。あとは、あんた次第だ」

 無遠慮な依頼に、私は少しムッとしていました。まだ病気になっていない人なら、一発拒否でも、癒師の掟を破ったことにはなりません。でも、ヤロ湖までタダ同然で行けるというのは、少し考える余地があります。

 私は念のため、財布を取り出して中身をたしかめました。

「あ、あれ?」

 何度数えても、旅の復帰点オピアムまで行ける額ではありません。計算違いをしていました。せっかくプリムさんが気を遣ってくれて、船の復路代が浮いたというのに、それでもまだ足りないのです。

 ランサスさんは歪んだ微笑を見せました。

「バイトなんかして時間を無駄にしたくないよなぁ?」

 しばらく唸った後、私は白旗を揚げました。

「で、では、行きましょうか」



 私とランサスさんは駅を出ると、線路沿いの道をしばらく歩きました。

 南へ向かっていると途中で気づいた私は、首を傾げました。東岸鉄道はマグワートが南の起点、あとは北へのびていくだけのはずです。この線路はいったい……。

 街外れまでくると、石造りの家並みが姿を消し、雑木林が広がって行き止まりでした。

 不安になってきた私は、前を歩くランサスさんに言いました。

「あの、どこへ連れていくつもりなんですか?」

「すぐそこさ」

 ランサスさんは笹をかき分け、林の中へ入っていきました。

 襲われたらどうしよう……私はトランクを持っていない右手で胸もとを押さえました。

 ともかく後について少し行くと、林を抜けて、赤茶けた石がきれいに積んである場所に出ました。

 かすかにカーブしているレールが二本……。

「ここは?」

「まあ、待ってなって。あと五分もすれば来るはずだ」

 やがて、右手から蒸気機関車がやってきて、空の石炭車が何十両もごうごうと通り過ぎていきました。速度はせいぜい人が走る程度です。

 貨物列車の最後尾は車掌車。狭いデッキに立つ初老の男が、こちらに向かって手を挙げました。

 ランサスさんは列車に合わせて走りだすと、車掌車の端に飛び乗りました。

「何してる! あんたもだよ」

「えっ? あ!」

 私はあわてて列車を追いかけました。

 枕木と砂利の凹凸に足をとられる上に、トランクが邪魔で、なかなか追いつけません。

 トランクを男に向かって放り投げ、軽くなった私はやっと追いつき、車掌車のデッキに上がることができました。

「ハァハァ……なんなんですか、もう!」

 ランサスさんはトランクを私に返すと、笑いました。

「毒の細道の入口は、街からはちょっとばかり遠い。炭坑線沿いにあるのさ」

 マグワートから南へのびていた謎の路線は、南部で採れる石炭を運び出すための、貨物専用線でした。

「毒の細道だって? 気でも狂ったのか?」

 煤けた顔の車掌は青年に言いました。

「彼女の黒衣を見てわからないか?」

「ハハーン、探していた恋人がやっと見つかったってワケかい」

 私はすかさず怒鳴りました。

「そんなんじゃありません!」

「本気にするなよ。俺の本当の恋人は、こいつさ」

 ランサスさんは懐から、李くらいの大きさの水晶を取り出して、私に見せました。

「すごい……」

 こんなに大きなヤロ水晶を見たのは、生まれて初めてです。

 透きとおった石の中に青い光の粒が封じ込まれた、世にも珍しい宝石。

「食ってくのに全部売っちまって、これが最後の一個さ。何年か前までは、場所さえ知っていればなんとか採れたんだが、油断してたよ。今じゃ湖畔にはもう一粒も残っていない」

 ランサスさんは肩を落としました。

「では、なぜ危険を冒してまでヤロ湖へ?」

「俺はジンセン大学の図書館に通って、ヤロ湖の地質について勉強した。結論は、ヤロ水晶は湖の底にもあるってことだ」

「でも私、ヤロ湖はとても深い湖だって聞いていますけど……」

「その通り。そこで俺は、空気を圧縮して溜めておく鉄の器を開発した」

「……」

 信じがたい話でした。

 人類がまだ、素潜り以外の方法を知らない時代です。宝石に取りつかれた男の執念は、科学をまた一歩、前に進めたのでした。

 ランサスさんは目的地に着くまでの間、貴石についての蘊蓄を語りました。ヤロ水晶は普通の水晶と違って非常に脆く、落とすと中の青い粒のところで割れてしまうそうです。昔から知られている石ですが、完全な大きさで残っているものは少なく、価値は時間と共に高まるとのことでした。

 話が終わったところで、ランサスさんは「着いたぜ」といって車掌車から飛び降り、山麓の方に向かって草原を歩いていきました。

 私は車掌に固い微笑みを向けると、青年の後につづきました。



 ランサスさんは、牧場の中を一人でどんどん行ってしまいました。

 遮るものがないため、見失うことはなかったのですが、私はいつまでたっても距離を詰められませんでした。

 やがて遠くの方に、家畜小屋の並びが見えてきました。

 先に着いたランサスさんは、麦わら帽子の男と親しげに話をしています。男たちのそばには、背中に荷物を満載した、黒くて大きな馬がたたずんでいました。

 私が家畜小屋の敷地にたどり着くと、ランサスさんは馬を引き連れてこちらへやってきました。

「潜水器具はかさばるんでね。俺の馬と一緒に置かせてもらっていたのさ」

 なるほど、一人では持てないほどの装備が必要なら、近道したくなるのもうなずけます。

 カスターランド南部産の黒馬は、普通の馬の倍以上の体重を誇る巨漢で、スタミナ抜群、大抵のことには驚かない図太い神経をもち、毒への耐性もあるという、難路にはうってつけの旅仲間です。

 私とランサスさんを乗せた黒馬は、農道を通って山の麓まで行くと、草で埋もれかかった山道をのしのし上っていきました。

 九曲がりと呼ばれる最初の急坂を乗り越えたとき、手綱を握るランサスさんは言いました。

「こっからが本番だ。毒虫と山ウルシには気をつけろよ。蛇は馬上なら問題ない」

 私はランサスさんから渡された、きめの細かい網を、頭からすっぽりかぶりました。ツーンとする臭いが鼻を突きます。虫が嫌う薬草の絞り汁を塗ったのでしょう。短時間ならそれでいいのですが、一日中となると、人間でも参ってしまいそうです。

 一つ目の山の頂までやってくると、木々が開けて、右手にマグワート湾と東の海が広がりました。

 私たちはそこでいったん馬を下り、昼食を取ることにしました。しかし、かぶった網と臭いはそのままで、蛇を警戒して座ることもできず、パンを口にしてもチーズをかじっても、味などわかりませんでした。

 それから日没まで尾根道を行って、一日目は何事もなく終わり、私たちは一人用のテントをそれぞれ張って野宿しました。



 二日目の朝。

 先に目覚めた私は、テントをたたんで、ランサスさんの起床を待っていました。ところが、いつまでたっても彼は外に出てきません。

 嫌な予感がしたので中をのぞくと、ランサスさんは紫色の顔をして苦しんでいました。

 テントの底にところどころ穴があいています。山ネズミに食い破られ、その隙間から入ってきた毒蛇に噛まれたのでしょうか。

 私はランサスさんをテントの外に引っぱり出すと、患部の左腕に手をかざして瞑想に入り、体内に広がっていく毒を追いかけました。枝分かれする血管を全部カバーすることはできないと感じた私は、動脈のある一カ所で待ち構え、やってくる黒い魔物を次々と炎で焼き、浄化していきました。

 やがてランサスさんは、小さな噛み傷を残しただけで、何事もなかったかのように回復しました。

「ハハ、俺は癒師を『信じる派』で良かったよ」

 立ち上がったランサスさんの顔にはまだ、恐怖の色が残っています。

「引き返しましょうか?」

「俺は潜水のほうが恐いね。語り尽くされた古道と違って、何が起きるかわからないからな。あんたこそ、いいのか?」

「今回の依頼は、運命だと思っています。偶然とは思えない出来事が重なっているんです」

 もしプリムさんと共に故郷エルダーに渡っていたら、マグワートに着く日時がちがっていたら、寝坊の私がいつもより早く目覚めなかったら……。

「じゃあ、俺が湖の底のヤロ水晶を発見するのも、また運命ってことだ。運がよけりゃ、バーバ・ヤロにも出遭ったりしてな」

 ランサスさんは上機嫌で馬に乗りました。

「バーバ・ヤロの水龍伝説は作り話だと、私は聞いているんですけど」

 私は青年の後ろにまたがりました。

 馬が歩き出すと、ランサスさんは言いました。

「エルダーの癒師様からそんなお言葉が出るとは、意外だったぜ。あんたは見えないものでも、在ると信じるタチだろう?」

「それは、そうですが……実際に直感を得たわけではないので、今は何ともいえません」

「古代のある時期、大陸は乾燥しきっていた。普段はありふれていて何とも思わない天の恵みも、生き死にがかかってくると、大きな存在に感じてくる。水が貴重だ、つまり大きな存在だと思っている奴には、水の神が見えていたはずだ」

「……」

 私は男の背中をぽかんと見つめました。まるで癒術学校の先生みたいなことを言うからです。

 ランサスさんはふり返って私の顔を見ると、笑いました。

「そんな目で見るなよ。ヤロ湖のことは徹底的に調べたって、言わなかったか? やってるうちに、水晶のこととは別に、水龍をこの目で見たくなっちまったのさ」

「……」

 危うい人生を渡り歩くランサスさんは、何かのきっかけさえあれば、光の当たる場所に出られるのではと、そのとき強く感じました。

 二日目はランサスさんにとって災難がつづきました。特製の網をかぶっていたからいいものの、何百という毒虫に囲まれて迷惑そうでした。私のほうは全然無事です。

 毒の細道の生き物は、ヤロ湖という大いなる巣を守るため、人間のエゴを感じ捉えるよう進化してきた……そんな気がしてなりませんでした。



 三日目はヤロ湖を源とする清流、クォー川に沿って行きました。

 この日は霧が濃く、崖下の川に何度か落ちそうになり、朝から冷や汗が止まりません。

 川を離れてしばらく坂を上ると、絶壁の下をくり抜いた手掘りのトンネルが現れました。

 それまで何事にも動じなかった黒馬が、行くのをためらっています。

 私とランサスさんは馬を下り、トンネル内の調査に繰り出しました。

 暗闇に入ってまもなく、私は悲鳴を上げました。

 そこは昨日ランサスさんを襲った、毒蛇の巣窟だったのです。

 トンネルは、馬に乗って通ろうとすると頭すれすれ。天井に張りついている小蛇の群れが邪魔です。かといって下を歩けば、地をはう大蛇たちの攻撃を受けるでしょう。

 シャーという威嚇の音がそこらじゅうで鳴り響きます。

 私たちは急いで外へ逃げました。

「まいったな」

 ランサスさんは頭をかきました。

「このトンネルはもう、彼らのものになってしまったようですね」

「いや、奴らがしばらく来ていないせいだろう」

「奴らとは?」

 青年はためらいがちに言いました。

「癒師に聞かれると、マズいんだがな」

「殺しに関わることでなければ、口外しません」

「そういうことでもないんだが……その、毒と薬は紙一重って話は、知っているな?」

「はい。濃いか薄いかによって、どちらにもなりますね」

「蛇の毒の中には、薄めるといい薬になるものがある。その原料になる蛇を、ここら辺りで大量に狩っている連中がいるって話だ」

「その蛇の皮や肉は、どうなりますか?」

「皮は脆くて鞄には使えない。肉もマズくて食用にはならない。要するに毒以外は全部捨てている」

「なんてことを……」

 私は怒りがこみ上げてきて、両拳をぐっと握りました。

「ほうら、だから言いたくなかったんだ。今さら進むのが嫌になったなんて言うなよ?」

「ご心配なく。その話は、私たちの契約とは関係ありませんから」

「こわいこわい」

 ランサスさんはわざとらしく身震いしました。

 そのとき、トンネルの奧から、宙に浮いた赤い炎が四つ五つと近づいてきました。

 蛇たちの威嚇音がしばらくつづきました。

 そして沈黙。

「おいでなすったな。これも運命ってヤツかね」

 ランサスさんは上機嫌で言いました。

 ほどなく、甲冑のような服を着た者が五人、表に現れました。  

 甲冑衆は蛇がたくさん詰まったカゴを背負っています。

「助かったぜ。もう通れるんだろ?」

 ランサスさんの問いに、甲冑衆の一人は親指を立てて、後ろの暗闇をさしました。

 五人組は一言も発せず、私たちの前を通り過ぎ、坂を下りていきます。

「待ってください!」

 私が大声を上げると、五人はぴたりと足を止めました。

「それだけ採れば充分でしょう?」

「……」

 五人は互いに顔を見合わせています。

「乱獲すれば、苦しむのはあなたたちなんですよ? 蛇がいなくなるだけじゃない。彼らが補食していた小さな生き物が爆発的に増えれば、山の植物が食い荒らされ、枯れてしまうかもしれないんです」

 列の最後にいた甲冑人が、くぐもった声で言いました。

「君は病気に苦しんでいる多くの人々を見殺しにしてもいいと、言いたいのかね?」

「それは人間中心の考え方です! こんなことをくり返せば、大地はやがて荒れ果ててしまうでしょう。人は砂漠だけでは生きていけません」

「なるほど一理ある。では、こうしよう。君は今から都へ行って、五千の患者の息の根を止めてくればいい。依頼がなくなれば、我々も仕事を変えざるを得ない」

「……」

 私は歯噛みして下を向きました。

「どうした? 人間より、獣や草木のほうが大事なのだろう?」

「そうは……言ってません」

 涙があふれ、靴がぽつぽつと濡れていきます。

「エルダーの聖人殿、五千の命を救う仕事をつづけても、よろしいかな?」

「……」

 私は小さくうなずきました。

 甲冑衆が霧の中へ消えていった後、私は強烈な使命感に襲われました。

 人も獣も、誰も苦しまない方法が必ずある。私は今回の旅で、その光明をわずかでも見つけ出さなければならない。



 蛇のいなくなったトンネルを抜けると、霧が急に晴れて青空が広がりました。

 憂鬱なときの青色は、かえって気持ちが低迷します。

 手綱を握るランサスさんは言いました。

「そう腐るなって。ほら、旅路の霧は吉事の兆し、って昔から言うだろ?」

「聞いたことありませんけど?」

「霧が下りるとせっかくの景色が見れなくてがっかりだが、その後は案外いい事があるのさ。俺の田舎に伝わる諺だ。たしか……そう、エキナスっていう女神が出てくる古い神話から取ったものだって、婆ちゃんが言ってたっけな」

「エキナス!?」

 ランサスさんは驚いて、黒馬の長いたてがみに顔を突っこみました。

「ばっ、バカ! 急にでかい声だすなって!」

「す、すみません。その女神は、私たちの癒術の始祖なんですよ。実在した人です」

「そうかいそうかい。なら、なおさら聞き分けなきゃあな」

「エキナス様……」

 私は古代の癒神の旅路に思いを馳せました。

 深い瞑想に入ってしまったせいか、正気に戻ったときはもう夕方でした。

 目の前に、赤く染まった湖が広がっています。

 ランサスさんはため息をつくと、言いました。

「ったく、極楽の世界へ逝っちまったのかと思ったぜ」

「私、そんな顔してました?」

「ああ、イったときの顔だった」

 男は悩ましげな顔をして背筋を反らせました。

「いやらしい嘘はやめてください」

「ちぇ、イジり甲斐のない女だな。で、そこにあるのがヤロ湖だ」

 さざ波が押し寄せる浜辺には、銃を交差させた銅碑が立っていました。

「古戦場?」

「そうよ。ここは最後の大戦で、カスターランド軍の陽動部隊とウォールズの本隊が激突したところだ」

「陽動部隊の多くの兵士は敵の攻撃ではなく、逃げこんだ細道の、蛇や虫の毒で亡くなった」

「地元の奴でも忘れかかっていることを、よく知ってるな」

「ある方の前世を垣間見たときに知りました」

「へぇ、じゃあ俺の前世も見てくれるかい?」

「たぶん、あなたは前世療法中にカルマを解消し、その後改心して、裏稼業を辞めることになると思いますけど?」

「ゲッ! ならいいや」

 私たちの契約はここまででしたが、ランサスさんはこの先にある『水晶の浜』まで、夜通しで私を送ってくれました。

 水晶の浜といってもそれは昔の話。今では名前だけが残った、ただの白い砂浜でした。

 明け方の薄明かりのもと、私は馬を下り、ランサスさんに別れを告げました。

 彼はこの浜辺から湖に潜る予定。私はこの先につづく『水晶古道』を、二都山道と合流する地点目指して歩くつもりです。

 日が昇ってきて、地図が見られるようになると、私は自分の甘さを呪いました。

 ここから二都山道まで、二百マース(一マース=約一キロ)ですって? 標高差も中ぐらいの山一つ分はあります。

 そのときふと、道脇の林の縁に、石造りの古びた小屋を見つけました。扉はなく中身は空で、遺跡化した中世の物置といった感じです。

 難路だらけの山岳行に疲れていた私は、そこで一眠りすることにしました。




 第三十五話 水龍現る



 石小屋での仮眠から目覚めたとき、私は辺りの異変に気がつきました。眠りを妨げていた鳥や虫の声がしないのです。風も止んでいて、木の葉がかすれる音もありません。

 小屋の外に出てみると、曇天の下に、宝石のように青く輝く湖が広がっていました。

 目をこすったり、頬をつねったりしていると、遠くの方で叫び声が上がりました。

「ちくしょう! 放しやがれ!」

「ランサスさん?」

 私は声がする方へ走りました。

 ときどき男のもがく声が聞こえるのですが、浜辺や湖には誰もいません。

「こっちだこっち。上を見ろ」

 顔を上げると、宙に浮いたまま身をよじるランサスさんの姿がありました。

「そ、そんなところで何をしてるんですかっ!」

「何をって、これが見えないのか?」

「これ?」

「水龍が俺をくわえているだろうが!」

「あ、そうか……」

 私はまだ仕事のスイッチが入っておらず、目から入ってくる情報だけに頼っていました。誰かに施術をするつもりで、透視の力を使ってみます。

 すると、ガラス細工のように透きとおった怪物の姿があらわになりました。長い首はまるで白鳥か鶴のようですが、顔は肉食の爬虫類。大昔に滅んだといわれる恐竜の想像画に少し似ています。

ランサスさんは今にも食べられてしまいそうです。

(そこの娘。お前には一度会った覚えがあるぞ)

 水龍は心に直接話しかけてきました。

「あ、あの、私は初めてだと思うんですけど」

(無理もない。何千年も前の話だ)

 前世の私のことを言っているのでしょうか?

 水龍はランサスさんを砂浜に放り投げると、話をつづけました。

(湖の中の水晶は渡せん。これは、私が生き続けるための糧なのだ)

「奴と何を話してる?」

 ランサスさんは肩を押さえながら私に言いました。

 そのとき、圧縮されたイメージの塊が私の中に送られてきました。

 内容を頭の中でまとめた私は、ランサスさんに言いました。

「水龍様は湖の中の水晶を食べることで、命をつないでいます。そうしなければ、この湖は干上がってしまうそうです。陸にあった分は採らせてやったけれど、もう人間に与える分はないのだと、言っています」

「その話を信じろってのかよ」

「私の癒術を信じたのなら、そうしてください」

「なんてこった……」

 ランサスさんはうつむきました。

 神秘の力を見せて脅かすことで、ヤロ水晶の乱獲を食い止めるのはいいとしても……私には疑問が一つありました。

「ヤロ湖はとても広くて深い湖です。でも、あなたの長い寿命の間に、いずれ水晶は尽きてしまうのではないでしょうか?」

 水龍バーバ・ヤロは目を細め、笑ったような顔になりました。

(その心配は無用だ。今から二千年の後に、辺りの火山が大噴火して、地下深くに眠っていた水晶が湖に流れこんでくるのでな)

「だ、大噴火……そのとき人や動植物たちは大丈夫なのですか?」

(火山から噴き出した灰が数百年の間、天を覆うであろう。地上の生物の多くは滅ぶ。だが、一万年もすれば元通りになる。大したことではない)

「……」

 私は背筋に冷たいものを感じ、震えていました。

「噴火がどうしたって?」

 ランサスさんの問いに、私は聞いた通りのことを伝えました。

 男はあきれ顔で砂の上に座りこみました。

「大したことないって……そりゃあ、神様スケールから見れば、人類が滅ぼうと何だろうと、どうってことないんだろうけどよ……」

 水龍は話をつづけました。

(ただし、私がその日まで健在であればだ)

「どういうことですか?」

(湖に流れこんでくる川の一つが、ひどく(けが)れている。このままでは私の体は百年と保つまい。原因はその男が知っている)

 私が水龍の言葉を通訳すると、ランサスさんは立ち上がりました。

「湖の東を囲んでいる山脈の中に、水銀鉱山がある。前からきな臭いと思っていたが、まさか有毒排水をこっそり川に垂れ流していたとはな」

「なんとかならないのでしょうか?」

「簡単さ。俺が新聞社にタレこめばいい。ヤロ湖から流れ出す川は、東西の国の水道や農業を大昔から支えてきたからな。百万人の水が汚染されてるとなると、こりゃ世紀の大スクープだぜ!」

「ところでランサスさん、今後のお仕事のほうは……」

「残った安物石をかき集めたって食っちゃいけない。情報料をごっそりいただいて、ジンセンかオピアムで投資でもやるさ」

「人々の存亡はランサスさんの一手にかかっています。よろしくお願いしますね」

 私はランサスさんの手を取り、ぐっと握りしめました。

 男は顔を赤くして手を振りほどきました。

「余計なプレッシャーかけんな」

 ランサスさんは湖畔の林のほうから自分の黒馬を引いてくると、背中にまたがり、水晶古道を北の方へ駆けていきました。

 男の姿が見えなくなると、私は水龍と向き合い、施術をさせてほしいと申し出ました。

 水龍は黙ったまま長い首を突きだし、砂浜に頭を置きました。

 私は自分の背よりも高い、透きとおった顔に手をかざし、瞑想に入りました。

 一定の形をとらない銀色をした液状の怪物は、これまでの中で一番の難敵でした。焼いたり凍らせたりしても、すぐに勢いを盛り返し、四方八方から私を取りこもうとします。

 このままではジリ貧しかない。そう思ったとき、外部から衝撃を受けて、私は我に返りました。

「魚?」

 私の手の中で、黒っぽい魚が跳ねていました。

 顔がひんやりすると思って触ると、濡れていました。訳は知りませんが、きっと私にぶつかってきたのでしょう。

 水に浸すと、魚はすごい速さで仲間のもとへ帰っていきました。

 湖は水銀で汚染されているのに、元気な魚もいるのか……そう思ったとき、頭の中に閃光が走りました。

 私は湖にざぶざぶ入っていって、魚のエサの一つであろう水草を手にし、中の状態を透視してみました。水銀の怪物はたしかにいますが、黒っぽいベールに包まれて、大人しくしています。

「これだ!」

 私は水草を少しかじって、中に含まれているものを体に覚えさせました。

 水龍のところへ戻って、もう一度施術です。

 瞑想して水龍の魂とつながり、液状怪物と再び対峙しました。

 私は口の中から黒い網を吐き出し、銀色のドロドロした相手を包んでいきました。

 怪物はしばらく暴れていましたが、やがて大人しくなりました。

(見事だった)

 水龍は瞑想からまだ覚めていない私の心に話しかけてきました。

(おまえには特別に、私の記憶を見せてやろう)

 すると、湖ができあがった数億年前から近代に至るまでの主な出来事が、紙芝居のように移り変わっていきました。

 化石でしか見たことのない恐竜の繁栄と隕石落下による絶滅、何度も訪れる氷河期、ほ乳類の繁栄、雨が降らず湖が干上がりそうになってまた大量絶滅、天から下りてくる頭の大きい人々、科学文明が発達しすぎて自ら絶滅、猿から進化した人類の誕生、くり返される戦争、そしてまた科学文明が発達して……。

 あまりの恐ろしさに、私は我に返りました。

「人類は、滅ぶしかないのでしょうか?」

 施術を終えて生気を取り戻した水龍は、ぐいと首をもたげました。

(それはまだ誰にもわからぬ。だが、おまえは食い止める方法を知っている)

「私が? 政治家でもなければ、お金持ちでもない、まだ正式な癒師にさえなっていない、私がですか?」

(おまえは肩書きや権力などにはこだわっていない。自分の思うがまま生きれば、それで役目は果たされる。旅をつづけよ)

 水龍は口の中から、大きなヤロ水晶の玉を吐き出しました。

 施術に対する報酬……だとすれば、あまりに大げさです。

 私は拾って砂を払うと、言いました。

「これはあなたの生命の素じゃないですか。私には受け取れません」

(金のことで心を煩っている場合でもなかろう)

 私の貧乏性など、水の神にはすっかりお見通しでした。

 私は水晶玉に額をつけて礼拝(らいはい)しました。

「必ず、世のために役立てると誓います」

 水龍は目でうなずくと、湖へ帰っていきました。

 



 第三十六話 オピアムへ



 私はヤロ湖沿いの水晶古道を、徒歩で北上していきました。沿道に集落は数えるほどしかなく、釣り用の小舟は持っていても馬はないという家ばかり。

 だらだら続く荒れた坂道を登ること三日。湖から西へ流れるクリスタ川の入口で、ちょっとした山村に出くわしました。

 沿道の菜園で働いていた壮年の婦人に馬のことを聞くと、いるにはいるが、全部個人のもので、送迎の営業はしていないとのこと。

 私は残りの旅費を全部はたいて交渉しました。

 すると婦人は顔色を変え、畑にいた三十歳くらいの息子を急いで呼んできました。

 二人を乗せた馬は、坂を上って二都山道との分岐点へ、そして高原を東へ行って、およそ半日でアイブライト峠にたどり着きました。

 馬を下りた私は、持っていたお金をすべて馬主の青年に渡しました。

 寡黙な青年はぎこちなく微笑んで、今日の宿代分だけ私に返すと、夕日が沈む方へ帰っていきました。

 私は感謝の思いを胸に青年の背中を見送ると、近くの宿を訪ね、そこに一泊することにしました。



 翌朝、宿を出た私は村の西側、ウォールズ国領を歩いていきました。

 国境にまたがるアイブライト村は、昔から交易のさかんな所で、ランサスさんの話によれば、平時は宝石の取引も行われているとのことでした。

 円柱形の古い砦を改造した警察署の隣に、平屋の宝石取引所がありました。

 ドアを開けて中に入ると、木製のカウンターが一つあり、派手な指輪をいくつもはめた、ごつい体の中年男が立っていました。開店してまもないせいか、他にお客はいません。

 男は私を見るなり、不機嫌そうな顔で言いました。

「喫茶店なら三軒隣だ」

「いえ、その……私は石を売りに来たんですけど」

 男は頭をかいて笑顔を見せました。

「ああ、すまんすまん。店の(なり)が似ているんで、女の客にはよく間違えられるんだ」

 私は店主に促されてイスに座ると、トランクを開け、手に余る大きさの水晶玉を取り出しました。

 男は眉を段にして石を見つめています。

「お客さん、それ、どこで手に入れた?」

 私は用意していた答えを口にしました。

「先日、難病に苦しんでいた、さる高貴な方に施術をさせていただいたのですが、報酬としてどうしても受け取ってほしいと、おっしゃるものですから……」

「なるほどねぇ。では拝見」

 男はルーペを取り出し、青い光の景色が入ったヤロ水晶を調べはじめました。

 本物とわかっているはずなのに、なぜだかドキドキして仕方ありません。嘘をついたという罪悪感のせいでしょうか。

 男は石の観察をつづけながら、言いました。

「取引所なら、ジンセンやオピアムにもあったろうに。なんでまた、こんな山の上なんかを選んだんだ?」

「そ、それは……」想定外の質問に私はどぎまぎしました。「ジンセンから上ってくる途中の、宿場でのことでしたから」

 店主は水晶をカウンターに置くと、強ばった顔を私に向けました。

「お客さん、そりゃあ……」

「は、はひっ」

 嘘がバレた……私は生きた心地がしませんでした。

「そりゃあ大変だったなぁ」

「はいっ! それはもう!」

 私は繕った笑顔が引きつらないようにと必死でした。

 代金を受け取って店を出ると、私は戻らなくなった顔を両手でほぐさねばなりませんでした。

 最高級ランクと鑑定を受けたヤロ水晶の対価は、私の旅費の心配を一気に解消してくれるものでした。

 二都山道を馬で下ること三日。私はようやく、旅の復帰点であるウォールズの都、オピアムに帰ってきました。

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