第三章 北ウォールズ(前編)
第二十一話 鉱山の町
帆船は瘤のように突き出た山がちな半島を、まる一日かけて迂回し、小さな湾の奥に控えるディル港へ渡りました。
北ウォールズの北西に位置するディル町は、鉱石の積み出し港として古くから知られていました。湾にそそぐダンデ川を東へしばらく遡っていくと、ウォールズ国最大を誇るアスペン鉱山があります。そこは金銀銅から鉄鉱石、宝石の類まで、あらゆる石がとれるそうです。
私はディル港の旅客待合所で、壁に貼ってある大地図を見ながら一人でうなっていました。
ここディルから、ウォールズの都オピアムへ行くルートは二つ。アスペン鉱山を通ってチコリ砂漠を南へ下る陸路と、全長五百マース(一マース=約一キロ)もある『長蛇の断崖』を船で迂回する海路です。
鉱山はともかく、砂漠越えというのは、いかがなものでしょうか。一方、船旅の連続というのも、私の胃腸や精神衛生にはよろしくありません。
「うーん」
斜めに地図を見ても、答えは出てきません。
やがて、港の職員がやってきて梯子をたてかけ、大地図に張り紙をしていきました。
『ディル・オピアム航路は現在、海賊出没のため欠航中』
「か、海賊……」
私にはもう、オークさんのような影の守護者はついていません。海の上で危険を察知しても、逃げようがない。
欠航が一時的なものだとすれば、他の場所をまわっている間に解決するかもしれません。私はアスペン鉱山を目指すことにしました。
ディルとアスペンの間は、一時間に一本の割合で路線馬車が走っていました。
四頭立ての馬車に乗り、ダンデ川を右手に見ながら緩い坂道を上っていくと、鉱石を満載した船が川を下っていくのを何度か見かけました。
まっすぐな川にまっすぐな道。ときどき通る船。
単調な景色がつづいたせいか、私は睡魔に耐えきれず、その後の記憶が定かではありません。
ハッと目覚めるともう、馬車は山あいの町の石畳を走っていました。
古びた石造りの建物が密集していて、街は街、山は山といった風にはっきり分かれています。
終点の停留所は郵便局の前でした。客が降りて馬車が空になると、今度は小包を抱えた人がやってきて、客車に次々と載せていきます。最後に、局員が鳩の紋章のプレートをドアに付けると、馬車は来た道を帰っていきました。
長い間、辺境をまわっていたせいでしょうか。大きな街では珍しくもない郵便馬車に郷愁のようなものを感じてしまいました。
すると今度は、お腹が鳴りました。街で情報を集めるつもりだったのですが……。
私はたまらず近くのレストランに駆けこみました。
顔から何から煤で汚れた男が四人と、スーツ姿で打ち合わせをしている男が四人、カウンターには派手な化粧をした眠たげな女がちらほら。街から鉱山まで歩いて二十分もないというのに、思ったほどには関係者がいません。
店の隅の四人がけに一人座って聞き耳を立てていると、事情が少しわかってきました。どうやら、鉱夫の多くは現場でランチをとる主義のようです。レストランに来ている煤がちな男は若者ばかりでした。
私はチーズトーストをかじりながら、さらに耳を澄ませました。
鉱夫たちの会話が聞こえてきます。
「おまえは大丈夫なのか?」
「何が?」
「アレだよ、この頃流行っているっていう」
「アレって……皮が紫になっちまう、アレか? 俺の持ち場の連中は誰もなってねぇけど?」
「俺んとこはもう、四人かかった」
「マジか? 医者は何て言ってる?」
「皮膚の炎症だとよ。坑内の水か空気が汚染されてるんじゃないかって」
「カゴの鳥はピンピンしてるじゃねぇか。ショボい計器より信頼できる」
「そう言ったらしいんだがな。ピーナッツバターみたいな軟膏出すだけで、もっとよく調べろの一点張りよ」
「薬は効いてんのか?」
「さっぱりだな。おまけに一人は熱出して寝込んじまった」
「オピアムの病院に送ったほうがいいかもな」
「うちの会社にそんな金があると思うか?」
「あるとこにはあると思うね。本社の重役どもの懐中時計、見た事あるか?」
「いいや」
「機会があったらフタをよく見てみろ。あれって、ヤロ水晶だぜ」
「なんだと! ちくしょう、こんな会社さっさと辞めてやる!」
「バーカ。高校落ちた奴なんか、他で雇ってくれるわけねぇだろ」
「てめぇもだろうが。ケッ、今夜は飲むからな」
「ヘイヘイ」
私は食後のコーヒーを飲み干すと、店を出ました。
昼間はひっそりとした、酒場だらけの街を歩きながら、鉱夫たちの会話を思い出していました。
鉱山や炭坑では、坑内の空気が安全かどうか調べるために、小鳥を飼うという話は聞いたことがあります。魂のレベルで見れば、人や動植物に違いはないのだから、誰だろうと犠牲を強いてはならない……そう教わってきた私にとっては心苦しい話ですが、それはひとまず置いといて、今考えるべきなのは、謎の皮膚病のことです。
私は病院があるという、街外れまで歩いていきました。
石畳の道は病院の前までで、その先からは砂利の坂道。蛇行していった先に鉱山があります。
『アスペン労災病院』はまるで、怪我したり病気になることが前提で立てられたかのようで、私は気分が重くなりました。病院がなければ困るのはわかっていますが、病気にならない方法を考えるのが第一だと思うのです。
赤レンガ造りの病院の玄関に立ったとき、私はふと記憶をたどりました。ここ北ウォールズの人々は大戦で敗れた後、東国カスターランドの科学主義の影響を受けたため、学のある人ほど癒術を嫌う傾向があると聞いています。
医者との口ゲンカはもう懲りています。何かいい方法は……と考えているとき、病院の斜め向かいに古本屋を見つけました。さっそく中に入り、窓際に並んだ売れ筋本を物色するフリをして、患者が出てくるのを見張ることにしました。
古本といっても、アスペンのような山奥では本自体が貴重品のため、値段は思ったほど落ちていません。
分厚い背表紙が並んでいる中に、知っている作家の名前を見つけました。手にとって最後のページを見ると、作家のプロフィールがありました。
「メリッサさんって、南ウォールズの人だったのか」
ウォールズは縦に長い国。同じウォールズでも、北の端から南部まで行くとなると、かなりの大旅行です。
本の内容は、大陸——アルニカ半島——の中心にたたずむ大きな湖に棲んでいるという、水龍の伝説をもとにした幻想小説でした。読みたいけれど、ここで買ってしまうと、都のオピアムまで旅費が足りるか怪しくなってきます。でも、新品で買ったらもっと高いし……。
無駄と知りつつ、何とかならないものかと唸っていると、通りに人の気配が。
鉱夫らしき男が一人歩いています。病院から出てきた人かどうかはわかりません。
「ああもう、何やってるんだか……」
本の魔力に引きこまれ、危うく仕事を忘れるところでした。
私は古本屋を出ると、煤けた作業着の男の後をつけました。
男は大きな瓶を手にしています。中身は……ピーナッツバター?
私はほっと胸を撫で下ろしました。たぶんあれが噂の軟膏薬で、彼は病院の帰りです。仕事も早退きしたのでしょう。
走っていって声をかけると、無精髭の男はニヤけた顔で言いました。
「フフン、外国の若い女も悪くねぇな」
「いや、あの、ですから、私は癒師をしておりまして、あなたの健康のことが心配で……」
「わかってる。わかってるって。島の男じゃ飽き足らなくなって、こっちまで流れてきたんだろう?」
「もう、いいです! 失礼しました!」
「待てよ」
男は私の肩をつかみました。
私はそれを振り払おうとして、すぐやめました。
肉の厚い手が震えています。アルコールのせいではありません。
男は私を路地へ引っ張っていくと、ダガーと名乗りました。
「なぜ俺が心配なんだ?」
「鉱夫を襲った皮膚病の話を街で耳にしました。あなたはその治療薬とされる軟膏を持っています。それに……」
「それに?」
「……」
私は透視を使って、男の体をざっと診察しました。
「なんだよ。もうホレちまったか?」
「あなたは今すぐ手を打たなければ、命を落とすかもしれません」
ダガーさんの顔から笑みが消えました。
「癒師ってのは、人の顔見ただけで悪いかどうかわかんのか? 嘘くせぇな」
「では、労災病院の医者を信じますか?」
男は腕組みして、しばらく考えていました。
「いいだろう。うちへ来な」
「そ、それはちょっと……」
「なんにもしねぇよ。これに罹ってから、おっ勃たなくなっちまったからな」
「はぅ」
私は火照った顔をさすりつつ、ダガーさんの後をついていきました。
ダガーさんの家は、鉱山会社の社宅の二階にありました。
彼は公休だった同僚二人を部屋に呼ぶと、公開施術を求めてきました。
「あなたさえよければ構いませんが……。皮膚の状態を見たいので、まずは服を脱いでください」
「フフン、積極的な女は嫌いじゃねぇぜ」
「命綱を絶ちたいなら、お手伝いしますけど?」
私は帰る仕草を見せました。
「あっ、悪かった! もうしません、先生」
そう言うと、ダガーさんは瞬き一つの間にパンツ一丁となりました。
「こ、これは……」
噂の通り、肌が紫色に染まっていました。首から下、特に上半身がひどく、背中などはまるで派手な入れ墨のようです。
「知ってるって顔だな」
「癒術書にある『紫皮病』によく似ています。ともかく、ベッドで横になってください」
ダガーさんは私の指示に従いました。
「で、原因は何なんだ?」
「施術が終わったら、お話しします」
私はベッドサイドに立ち、瞑想をはじめました。
ダガーさんの病魔が私のイメージの中に入ってきます。鎌首をもたげた大蛇が無差別に毒霧を吐き出していました。
私は手の中に聖水が入った瓶を現し、栓を抜いて大蛇に投げつけました。聖水は自ら霧散して大蛇をとりまき、あっという間に塩の山に変えました。
浄化成功です。この病は病魔自体の強さよりも、時間が勝負なのです。ある時期を境に大蛇は強固な鱗を身にまとってしまうため、発見が少しでも遅れると、何をしても勝ち目はありません。
我に返った私は、大きく息を一つ吐きました。
「これでもう大丈夫です」
ダガーさんは上半身を起こして体を見ています。
「何も変わってねぇぞ」
「病の種は取り除きました。体調は一週間くらいで回復するはずですが、皮膚の色が元通りになるまでにはひと月かかります。少しの間、我慢してください」
「って言われてもなぁ」
ダガーさんは同僚二人に目線を送ります。
男たちは肌のグロテスクさに恐怖を覚えた様子で、ただただ苦笑いを返すだけでした。
「本来なら、皮膚が元通りになるまで見守りたいところですが、あいにく旅の資金が底をつきかけていまして、その、何と言いますか……」
「そんなに怖がるなよ。あいにく女には困ってないんでね」
「そ、そうでしたか……」
「それより原因だ。事によっちゃあ、空き部屋を貸してやってもいい。俺の権限でな」
ダガーさんは社宅のボス的な存在のようです。
「その昔、見るたびに色が変わる奇石を身につけた人が、もれなく紫皮病になったという記録があります。その後、謎の奇石は『呪われた石』とされ、採掘場所には誰も近づかなくなったそうです」
「なんだと?」
ダガーさんの顔が強ばりました。
「度重なる戦のせいで、大陸では歴史書の多くが燃えてしまったと聞きます。エルダー諸島にはそれらの写本の一部が伝わっています」
「アスペン鉱山は、最後の大戦の後に発見された新しい山のはずだが……」
「千年あれば、自然は山を元通りにできます」
「ってことは、俺たちの部門がたまに掘り当てる、玉虫色の石ってのは……」
「すぐにやめさせないと!」
私は服を着直したダガーさんと一緒に社宅を飛び出しました。
第二十二話 毒の光
「ばかばかしい。おまえほどの男が、魔女の言いなりになるとはな」
鉱山長は大笑いしました。かつて現場で苦労した人なのでしょう、顔に古い火傷の跡が目立ちます。
「俺一人ならそうかもしれねぇが、倒れた奴は全員、同じ部門なんスよ」
ダガーさんはそう言うと、上半身裸になって肌の紫色を見せました。
「や、やめろ。見苦しい。辞めたけりゃいつでも言え。代わりはいくらでもいるからな」
「そうしたい所だが、今はまだ無理っスね。あの原石を加工した奴も、売った奴も買った奴も、石の呪いにやられちまう。はやくしねぇと、オピアムの街はパニックになっちまいますぜ?」
「フン、なかなか昇進できねぇから、辞めちまう前に会社に一泡ふかそうってんだろう? 俺は騙されんからな。おまえはたった今、クビだ!」
「忠告はしたぜ。サツに見つかってムショにぶちこまれても、知らねぇからな」
「早く出ていけ! そこの魔女もだ!」
鉱山長は、事務所のドア横に控えていた私を指さしました。
そのとき、ドアがバァンと開いて、男が駆けこんできました。
「ボス! 西地区の社員が一人、死んじまいました!」
「事故か?」
「いえ、皮膚病にかかった連中の一人です。医者は死ぬような病気じゃないって、驚いてましたが」
「……」
鉱山長は、服を着直した無精髭の男をちらと見ました。
ダガーさんは肩をすくめます。
「だーから言ったじゃねぇか」
「ク、クビは撤回だ。現場へ行って、部下を止めてこい」
「あァ? 誰に向かってものを言ってる」
鉱山長は視線を落とし、力なく言いました。
「すまなかった」
「もう一声欲しいね」
「その仕事が終わったら、昇進を約束しよう」
「じゃ、行きましょうか、先生」
ダガーさんは私に言うと、事務所を出ていきました。
私は追いかけていって、彼の腕をつかまえました。
「仲間が亡くなったというのに、あなたって人は……」
「俺がトップになれば、下っ端どもにもっと楽な暮らしをさせてやれる。悪いが、さっきのは見なかったことにしてくれ」
「……」
言い返す言葉をいくつか用意していたのに、どれも役に立たなくなってしまいました。
「と、とにかく、急ぎましょう」
ダガーさんの一声で、件の現場の作業は中止され、鉱夫たちが穴からぞろぞろ出てきました。
今日の玉虫石の収穫は、大人の猪くらいの原石が一個だけでした。他の石とは別に、猫車(手押しの一輪車)にぽつんと載っています。
「先生は、石も診れるのかい?」
ダガーさんは言いました。
「石の声は生き物に比べると小さいので、何ともいえません。とにかくやってみます」
私は猫車に近づいていって、遠巻きに手をかざし、透視してみました。
「うっ!?」
私は思わず身を引き、石を診るのを止めました。あと一歩踏みこんでいたら、邪悪な波動に体を侵されていたに違いありません。
「で、どうなんだ?」
「毒の光が見えました。ダガーさんを診たときの魔物より強力です。歴史書にある呪いの石かどうかはわかりませんが……」
ダガーさんはうなずくと、部下たちに事情を話しました。
「……というわけで、あの石に一度でも関わった奴は全員、ここにおられるプラム先生に診てもらえ。死にたい奴は帰っていいぜ」
事務所の応接室に並んだのは十五人。
一刻を争うため、その日は徹夜で施術をつづけました。
一週間後。
ダガーさんの体調はすっかりよくなり、皮膚の色も少し戻ってきました。
彼の部下は、幸い誰も手遅れにならずに済みました。
一方、施術で力を使い切った私は、社宅の空き部屋で横になったまま、しばらく動けませんでした。
ダガーさんが行きつけのバーから奪ってきたという、ジャンクフードは丁重にお断りをして、彼の部下のフィアンセに作っていただいた、ウォールズ粥——リゾットのようなもの——を食して、どうにか回復を果たしました。
ダガーさんの部屋に赴き、今後の養生について話し合っていると、鉱山長の使いの男がやってきました。
話を聞いた私とダガーさんは、さっそく山の事務所に出向きました。
ドアを開けると、奥のボス用デスクに見知らぬ男が座っていました。
鉱山長は緊張した面持ちで、男の前に突っ立っています。
「社長だ」
ダガーさんは私に耳打ちしました。
まだ三十代半ばくらいの青年ですが、三代目と聞いていたので、驚きはしませんでした。
「君か、プラムという魔……癒師は」
スーツ姿の男はこちらを見ず、口ひげをいじってばかりです。
「紫皮病の患者がおりましたので、現場監督の許可のもと、施術をさせていただきました」
「あの坑道は閉鎖するしかないようだな」
「ありがとうございます。賢明なご判断です」
「おかげで、大損だ」
「は?」
「あそこは例の奇石だけではない。質のいい金銀が大量に採れるのだ。この損失を、どうしてくれる?」
「……と、申されましても」
言っている意味がよくわかりません。
鉱山長はハンカチで汗をふくと、私に言いました。
「このままでは会社の支援者に申し訳が立たない。できることなら閉鎖はしたくないんだ」
「?」
「まだわからないか? 例の玉虫石の危険性を証明しろと、社長はおっしゃっているのだ」
「癒術でわかったことを科学的に証明せよ、ということですか?」
社長は目でうなずきました。
癒術はそもそも人知を超えた分野です。雷を受ける避雷針のように、天から下りてくる不思議な力を、私たちは受け取っているにすぎません。自分の頭で考えて発する力ではないのです。
「それは……」
私はうつむきました。
「できないなら、閉鎖は中止だ。我が社は、虚言で作業を妨害したプラム癒師に、一週間分の損害賠償を求める。人の代わりはいくらでもいるが、失った利益は戻ってこないからな」
「そ、そんな……」
「やるしか……ねぇだろ」
さすがのダガーさんも肩を落としていました。社長がここまで冷酷な男だとは思っていなかったようです。
「考える時間を少し、ください」
私は社長の許可を得ると、一人で事務所を出ました。
少し歩くと、レンガ造りの通洞口があります。
私はそこを見つめながら考えました。
紫皮病にかかった鉱夫たちが証言したとしても、あの社長を見る限り、信じてもらえるとは思えません。毒の光を測る計器があればいいのですが、現代の科学はまだそこまで来ていません。となると、因果関係を示すには、社長の目の前で、新たに誰かを犠牲にする他ありません。人間を使うわけにはいかないし、植物や虫では納得していただけないでしょう。さて、どうしたものか。
そのとき、通洞口から鳥かごを持った男が出てきました。
ブツブツ口ごもっていた白い小鳥は、日の光を浴びると元気に鳴きはじめました。
私は事務所に戻ると、社長に言いました。
「先日採掘した玉虫石のそばに小鳥を置き、ご自分の目で経過をたしかめてください」
「ふむ、よかろう。しかし、鳥は羽毛に包まれているぞ?」
「元をたどれば、人も鳥も同じです。皮膚に出るなら羽に出てもおかしくありません」
「ばかなことを。人は神から生まれたのだ。獣と一緒にするな」
大陸ではまだ古い宗教の教えが根強く残っており、人間を特別視する人が少なくありません。
「社長は人間で実験せよと、おっしゃりたいのですか?」
「そうは言ってない。羽は羽だ。皮膚ではない」
「では、お腹の毛をかきわけてみたらいかがでしょう?」
口ひげの青年社長は眉をひそめました。
「感染しないのか?」
「疫病とは違います。石に近づいた者だけが、害を受けるのです。そうでなければ、この鉱山はおろか、アスペンの町は今頃大変なことになっているはずです」
社長は納得し、さっそく実証実験がはじまりました。
玉虫石の原石は、空にした物置小屋に安置しました。
ダガーさんは、石に近づきすぎないよう気をつけながら、小鳥が入った鳥カゴを台の上に置きました。天候が悪くならない限り、小屋の扉は開けたままです。
私と社長とダガーさんは、それから毎日決まった時間に、三人一緒で鳥の様子を見に行きました。
三日後、白かった小鳥の羽に変化が現れました。
社長は「まだわからん」といって、実験を継続させました。
一週間後、羽の半分が紫色に染まりました。体が小さい分、進行も早いようです。このままでは鳥の命が危険です。
私は小屋の前で、社長に詰め寄りました。
「もうわかっていただけたと思います。小鳥は明らかに紫皮病です」
社長は表情を変えずに言いました。
「しかし、まだ生きている。回復しないとは言い切れん」
「エサがあまり減っていません。それに、鳴くことも少なくなりました。実験を中止してください」
「では、君の負けということで、いいかね?」
「そんな……」
一週間分の金銀の損害賠償など、古本一冊で騒いでいる旅人には到底払える額ではありません。
「社長。勝ちとか負けとか、そりゃ大人げねぇスよ」
ダガーさんは言いました。
「次期鉱山長のポストを狙っているおまえに、そんなことを言う資格があるのか?」
「……」
ダガーさんは横を向いて、小さく舌打ちしました。
「今日の視察はこれまで。また明日だ」
社長は街の別荘に帰り、ダガーさんも持ち場に戻っていきました。
その日の晩。
私は星空の下、小屋の前に一人座って考えていました。
小鳥を救うチャンスは今しかありません。しかし、実験を止めれば採掘が再開され、さらに多くの犠牲者が出るでしょう。
「ああ、私はどうすれば……」
頭を抱えていると、どこからか声がしました。
(悩む必要はありません)
「えっ? 誰?」
(あなたも私も、彼らを助けることになっていた。それは、はじめから決まっていたのです)
「そ、そんな……なにもかも運命なのですか?」
(予定になかった出来事なら変えることができます。ですが、今回のことについては、あなたも私も、生まれる前に計画していたのです)
「あなたは、神様なのですか?」
(万物が神であると、教わりませんでしたか?)
「理屈では習いましたけど……まだ、わかったつもりの段階です」
(では今こそ、自分も神であると実感するときです。直感で決めたことを信じなさい)
「それでは鳥の命が……」
(鳥かごの中は退屈でたまりません。葉っぱをかじることもできない。ああ、早く『あちら』へ帰って、自由に飛びまわりたい)
「ま、まさかあなたは……」
私はあわてて事務所へ走り、ランタンを引っつかんできて、小屋の中を照らしました。
カゴの中の小鳥は、息絶えていました。
「そんな、そんな……」
悩んでいたせいで、小鳥を救うチャンスをのがしてしまった! カゴを持ち出して逃げることもできたはず。いや、それでは人々の命が……。
「うあああああ!」
私は夜が明け、早番の鉱夫たちが出勤してくるまで、泣いていました。
朝のサイレンが鳴りました。
社長とダガーさんが物置小屋にやってきて、小鳥の様子を調べました。
社長は動かなくなった小鳥をカゴに戻すと、私に言いました。
「君の言ったことを、信じよう」
「……」
私は膝を抱えて地べたに座っていました。今は何も受けつけられません。
「ダガー、あの坑道は完全閉鎖だ。鉱山長に伝えてこい」
社長の命に、ダガーさんはうなずくと、事務所へ駆けていきました。
スーツ姿の青年は、私の手をとって立たせると、言いました。
「何をそんなに悲しんでいる。勝ったのは君だ」
「小鳥は、どんなことがあろうと、ギリギリのところで助けるつもりでした。私の考えが甘かった……」
「これだから女は……」社長はため息をつきました。「たかが小鳥一羽じゃないか」
「!」
私は言い返そうと睨んで、すぐやめました。
会社の利益のためなら、人を捨て駒にするような男です。いつか報いがくるでしょうけれど、もう私の物語には関わってほしくありません。
「犠牲者が一人と一羽で済んだのは、不幸中の幸いでした。どうか丁重に弔ってあげてください。では、私はこれで」
湧いてきた涙を見られぬよう、私はさっと背を向け、街へ通じる砂利の坂を下っていきました。
第二十三話 砂漠の民
アスペンの町を出た私は、何も考えることができず、気がつけば道なりにふらふら歩いていました。
人が踏み固めた程度の道が、草原の間をどこまでも縫っています。足下ばかり見て歩いていたせいで、見知らぬ場所に迷いこんでしまいました。
小鳥といえど、救えるものも救えない癒師なんて、このまま行き倒れになったほうがいい。正気を取り戻してからも、そんな投げやりな気分で、あてのない徒歩の旅をつづけました。
しばらく行くと草原が終わり、小高い山のふもとに出ました。細い道は山のほうへつづいています。
「フン、このくらい」
私はトランクの持ち手を変えて、歩みだしました。
山道を三分の一も登らないうちに、息が切れてしまい、私はトランクの上に腰をおろしました。
ハイキングには向かない装備なのはわかっています。でも、このくらいの山は中学生のときにさんざん登ったので、慣れているはずなのです。
私は水筒の残りを飲み干すと、トランクを持ち、再び頂をめざしました。
「ゼ、ハ、ゼ、ハ……な、なんで、こんなにきついのかしら?」
同じ重さの荷物でも、背負うのと手に持つのとでは大違い。それに気づいたのは、山の頂にある境界石柱にトランクを立てかけたときでした。
「境界? アスペンの先に町なんて……」
地図を開くと、南に下っていたことがわかりました。
この先にはゲンティアという村があり、さらに行くとチコリ砂漠——チコリ盆地ともいいます——に出るようです。
顔を上げて遠くを見渡すと、たしかに黄土色の絨毯が広がっていました。あの砂漠を三百マース(一マース=約一キロ)行って、また山を越えるとサウスチコリの村。そこまで行けば、西の都オピアムはもう目と鼻の先です。
地図の上では簡単に見えます。でも、落ちついて考えてみると、砂漠には日陰もなければ水場の保証もありません。
「やっぱり引き返そうかな……」
そこでふと、ある先輩癒師の旅行記の一文を思い出しました。
『砂漠地帯には隊商がいて、言い値のお金を出せば、都まで運んでくれるというが……』
お日様は西に傾きはじめていました。水筒に手をのばすと、もう空だったと気づき、がっかりしてトランクに放りこみました。
「急がなければ」
私は早足で坂を下っていきました。
「ハァハァ……」
頭がもうろうとして、今どこを歩いているのかわかりません。空はすっかり暗くなり、星が見えはじめています。
水がない上に急いでしまったせいで、喉はカラカラ、膝はガクガク。ガレ場で何度も足を滑らせ、あちこち擦り傷だらけです。木の葉をしぼって水分を得ようにも、この辺りはもう砂漠がせまっていて、枯れた草木しかありません。
私はこれ以上歩くことができず、トランクを持ったままその場にへたりこんでしまいました。
「自分可愛さに、小鳥を救えなかったんだもの。当然の報いですよね?」
星々はなにも答えてくれません。
たとえ鉱山の主が採掘を強行したとしても、私が身を粉にして働けば、鉱夫たちのことは何とかなったかもしれません。耐えていれば、他の癒師が聞きつけて助けてくれたかもしれない。あの社長が何かの事件で失墜して、鉱山そのものが閉鎖になったかもしれない。
私はまだ起こってもいない悪いことを、当然のように決めつけ、目の前の命を疎かにしたのです。
「お父さんお母さん、アンジェリカ学長。帰れなくて、ごめんなさい」
私は乾いた土の上で仰向けとなり、目をつむりました。
そこは一面の花畑でした。
花は色も形も一つとして同じものはなく、それでいて知らないものばかり。辺りはどんなに目をこらしてみても、山も道も建物もなく、人の姿もありません。
ついに私も、あの世へ還ってきてしまった……。
いえ、ちょっと待ってください。
正確には、肉体を持たない進化した魂たちがあの世へ連れていってくれる前の、待合所のようなところだったと思います。地上で愛した自然物に囲まれると、癒術学校で学んだ記憶があります。
(そこで何をしているのですか?)
どこからか女の声がしました。
「私はたぶん、砂漠の近くで命尽きて、ここへやってきたのだと思います」
(目の前の命を疎かにして?)
「そうです。私はきっとその報いを受けたのでしょう」
(報い……報いとはいったい何でしょう?)
「手を下したことには、必ず責任を取らねばならないと教わりました」
(あなたはもう充分責任を果たしたではありませんか)
「いいえ、私は……」
(数千という命を脅かす可能性を絶ったのです。それ以上に何を望むのです?)
「……」
(あなたが思い煩ってきた一連のことは、あなたが犯した最大の過ちに比べれば、些細なことです)
「些細だなんて……あれ以上の過ちなんてありません」
(あなたは目の前の命を疎かにしましたね?)
「あ、あの、失礼ですが、話が振り出しに戻ってますけど」
(鳥のことを言っているのではありません。もっと近くにあります)
「もっと、近く?」
さらに質問しようとしたとき、辺りが霧に包まれ、何も見えなくなってしまいました。
(私の役目はここまでです。あとのことは、彼らに託します)
「ち、ちょっと待ってください! もっと教えてください! 彼らって誰ですか?」
声はそれっきり、聞こえなくなりました。
やがて霧が晴れてくると、はるか下に海が広がっていました。
「た、高い……」
言っている間に、青い平面はどんどんせまってきます。
「私、落ち……わあああああ!」
「わあああああ!」
私は叫びながら目を覚ましました。
「きゃ!」
女の声がしたかと思うと、額めがけて顔がせまってきました。
ゴン!
私も相手も、額をおさえてしばらく唸っていました。
「急に叫ぶんだもん。滑っちゃったじゃない」
赤いバンダナをかぶった彫りの深い顔の女性は、シャスタと名乗りました。見たところ、歳は私と同じくらいです。
「ご、ごめんなさい。私は……」
「プラム。エルダーの癒師さんね」
「えっ?」
「悪いけど、トランクの中身、調べさせてもらったよ。一応、決まりだからね」
「は、はぁ」
「あれ? その顔は、なんも知らないでゲンティアに来ようとしてた?」
「ゲンティア……ああ、そうか私……」
記憶が蘇ってきて、私は正気を取り戻し、あわててお礼の言葉を継ぎました。
シャスタさんは砂漠の隊商の一員で、平時は村まわりの警備を担当していました。彼女は夜の巡回中、荒野に行き倒れていた私を見つけ、背負って帰ってきた、というわけでした。
シャスタさんは、猫のように目を細めて言いました。
「っていうかさ、あんた、可愛いパンツはいてるのね。あたしに売ってくれない?」
「え、いや、あの……」
どぎまぎしていると、部屋の戸口で男の声がしました。
「病んでいる者を相手に取引するなと、長老に怒られたばかりだろうが」
「あたしがはくんだけど? 悪い?」
「な、ならいいがな……」
男は赤い顔をして去っていきました。
「ウブでしょ? ああ見えても許嫁なのよ」
嬉しそうな顔のシャスタさんについつい絆され、私はピンクのを一枚だけ差し上げました。
シャスタさんの部屋で一日休んだ後、村の長老が呼んでいると聞き、私はあわてて身支度しました。
家の外に出てみると、日干しレンガ造りの四角い家が密集して立ち並んでいました。建物はどれも同じに見えてしまい、誰かの案内がないと迷子になってしまいそうです。
「あたしらがちっこい島の区別がつかないのと、大して変わんないよ」
シャスタさんは笑うと、長老の家まで付き添ってくれました。
朝早いせいか、夜に冷えきった大地がまだ暖まっていなくて、寒いくらいです。日が高くなって暑くなると仕事にならないため、村人は荷物の出し入れや、旅人の案内、ランダ——ラクダの仲間——の世話に忙しそうです。
地元の人は一人残らずバンダナをしていました。珍しげに見ていると「村の掟だからね。正装みたいなものさ」とシャスタさんが解説してくれました。仕事の内容によって色が違うそうです。
長老の家は村で唯一の三階建てでした。
さすがは権力者、というのは私の浅はかな先入観でした。一階と二階は役場や議事室などの政務部署がひしめいていて、自宅は三階だけです。
私は複雑な模様の絨毯を敷いただけの、何もない応接間に通されました。
奥であぐらをかく老人に促され、同じようにして座り、向かい合いました。
シャスタさんは「外で待ってるから」と言って、下へ降りていきました。
縮れたあごひげをした長老も掟にもれず、紫色のバンダナをかぶっています。
長老はラークスと名乗ると、言いました。
「エルダーの癒師よ、ここはおまえたちのような人種が来る場所ではない」
「……」
いきなりのお咎めに、私は少しムッとしました。
「知っての通り、チコリ砂漠は主役の座を海に譲ったとはいえ、ディルやアスペンと西の都を結ぶ道の一つである。しかしな、文明が発達した今となっても、地上で最も困難な道の一つでもあるのだ」
「旅に困難はつきものだと思います」
「自分の命を危うくするような者が、他人の命など救えるだろうか?」
「過酷な土地にも病んでいる人はいます。癒師は場所を選びません」
「そんな心構えでは、おまえはあの砂漠で命を落とす。ディルへ引き返すがいい」
「海路は今、海賊のせいで閉ざされています。どうか行かせてください」
老人は目を細めました。
「何をそんなに急いでいる」
「……」
「まあよい。では、行ってたしかめるがいい。おまえの遺骨は粉にして、故郷の島へ送ってやろう」
「あ、ありがとうございます」
私は顔を引きつらせて立ち上がると、応接室を後にしました。
第二十四話 砂嵐
シャスタさんの隊商が、砂漠の南の村サウスチコリへ向けて出発するというので、私はそこに混ぜていただきました。
ゲンティアを後にしてから三日間、空はずっと雲っていて、日中でも気温が上がりません。
私は三つも瘤があるランダ——ラクダの仲間——の上で震えていました。
冷涼な土地に生まれ育って、寒さは苦にしない自信はあったのですが、夜の防寒用ローブを借りてもいっこうに体が温まらず、歯がカチカチなってしまいます。
「こ、これでは、北国の冬のほうがマシです」
シャスタさんは私の前でランダを操りながら笑っています。
「乾いた空気って、糸のすき間も通るらしいからねぇ。あたしはもう慣れたけど」
そのとき、隊商の列の先頭にいる男が口笛を鳴らしました。
一行はいっせいに歩みを止めました。
しばらく待っていると、前の方から短い暗号のような伝言がまわってきて、シャスタさんの番となりました。
「チッ、ついてないね」
シャスタさんはランダを降りると、後ろへ行って伝言をまわし、また戻ってきました。
「あの、何か問題でも?」
「砂嵐だよ。あの丘を越えたところ。チコリ砂漠の風は、あたしらでも完全には読めない。引き返すよ」
「……」
私はため息をつきました。
「がっかりしないの。この先のオアシスより向こうで嵐に遭ったら、風よけがなくて、あっという間に砂の下じきだよ」
オアシスといっても、湧水がちょろちょろ出るだけの小さな緑地。隊商を何日も留めてくれるような設備はありません。
隊商の長は砂嵐に追いつかれぬよう強行軍を決断。
一行は三日の距離を二日で戻りました。
チコリ砂漠から引き返してきて一週間、嵐がおさまる気配がありません。
シャスタさんの家で出発を待っていた私は、再び長老に呼びだされました。
前回と同じように、私たちは何もない応接室であぐらをかいて向き合っています。
ラークス長老は、私の顔をしばらく見つめた後、言いました。
「エルダーの癒師よ。どうやらおまえは、並々ならぬ使命を背負っているようだな。会ってすぐに見抜けなかったとは、私も耄碌した」
「……」
私は首を傾げました。癒師なりの使命はあると思いますが、他の人とそう差があるとは思えません。
「わからぬか。一度目は、広い荒野に行き倒れているところをシャスタに拾われた。二度目は砂嵐だ」
「……」
私は不満げに長老を見つめました。
「むしろ神に行く手を阻まれたというのに、なぜそんなことを言う、と思っているな? 私はここ五十年、毎日天候を見てきた。先人の記録三百巻にも目を通した。この時期に限って言えば、砂嵐など一度たりとも起きていないのだ」
「天気は気まぐれですし、たまたまそうなったのでは?」
「世の中に偶然などない。その証拠に一つ教えてやろう。砂嵐がはじまった日、サウスチコリから北上していた隊が全滅したと、今日になって山鳩の便りが入った。地面が大きく陥没したそうだ」
チコリ砂漠はできてからまだ数千年しかたっておらず、大昔は海だったという伝承が、ゲンティア村にはいくつか残っています。
「私を死なせないために、シャスタさんは導かれ、さらに砂嵐まで起こったというのですか?」
「私の忠告を聞いて、ディルへ戻っていれば、嵐は起こらなかったろう」
「仮にそうだったとしたら、シャスタさんたちが死んでいたかもしれない」
「そうであろうな」
「私には信じられません」
「いずれわかるようになる。おまえの旅の計画を当ててやろう。最初はチコリ砂漠を越えるつもりなどなかった。アスペンとディルで、船便が復活するまでの時間をつぶすつもりだった。違うか?」
「お、おっしゃる通りです」
私は驚きを隠せませんでした。旅の手記には鍵がついています。トランクを開けられたとしても、誰にも読まれないはずです。
「直感は常に正しいものだ。では、おまえの霊感を曇らせたのは何だったか」
そこまで見透かされては黙っているわけにはいきません。私は鉱山で小鳥を見殺しにした話をしました。
ラークス老人は微笑んで言いました。
「その小鳥が生まれた目的は、鉱山に集まった人間を毒の光から守ることであった」
「!」
私はハッとして思い出しました。小鳥が死んでしまった晩、心に直接話しかけてきた不思議な声のことを。
「小鳥の運命を受け入れられず、感傷的になったおまえは、自分を責め、痛めつけることで埋め合わせをしようとした。その結果が、あの行き倒れだ」
「……」
「一体それで、誰が救われるというのか」
「……」
「この世で一番身近な命を疎かにする者が、果たして他人の命など救えるだろうか」
「この世で一番、身近な、命……」
私は左胸をそっと押さえました。
「知った者の死は悲しいものだが、それを深刻に受け止めすぎるあまり、自分で自分を苦しめるのは、もっと悲しいことだ。まず己を大事にすることを覚えなさい。他人を癒すのはそれからだよ」
「長老様……」
私はシャスタさんが迎えにくるまでずっと、幼子のように泣いていました。
翌朝、私はシャスタさんと共に、砂嵐の吹きすさぶゲンティア村を後にしました。
北の小山を登っていき、頂の境界石柱を過ぎた頃には、嘘のように風がやんでいました。
私は驚いて、来た道をふり返りました。下界はまだ黄土色の霧に包まれています。
「この辺りの風は独特なんだよ。おかげで山が低くても、アスペンは緑がいっぱいというわけさ」
シャスタさんはハッとした顔で、言葉を継ぎました。
「ご、ごめん。あの街の話はタブーだったっけね」
「いいえ、もう大丈夫です。私は輪廻転生を信じているくせに、くよくよしすぎるんです」
「長老みたいにドライすぎるのも、あたしは嫌だけどね。なんていうかさ、あんたはきっと、架け橋なんだよ」
「架け橋?」
「聖人は真理ってやつを語るけど、なんか難しくってさ。あたしらみたいな俗物には、間に立ってくれる人が必要なんだ。そういう人のほうが貴重だと思うけどね」
「は、はぁ」
少しでも優れた癒師になりたいと修行している私には、まだピンとこない話でした。
山を下り、草原をしばらく行くと、アスペンの街です。郵便局前にある路線馬車の停留所まで、シャスタさんは送ってくれました。
ちょうど馬車がきています。私はトランクを片手に客車へ駆けこみました。
すぐに出発するかと思いきや、四頭の馬たちがむずかって馭者を困らせています。
シャスタさんはそれを見て笑うと、窓を開けて顔を出した私に言いました。
「あんたのおかげで、あたしがまだ生きてるって話、信じるよ」
「シャスタさん……」
「ほら、話は終わったよ。邪魔して悪かったね」
彼女が馬に呼びかけると、不思議なことに、四頭とも大人しくなりました。
「何かあったら、都の中央郵便局に局留めで手紙を送ってください。すぐに飛んで行きますから」
「いいのいいの。ピンクのフリフリパンツ譲ってくれただけで、充分」
「ちょ……」
やめてくださいと言おうとしたとき、馬車が出てしまいました。
客車に乗り合わせた人々は、私を見るたびにクスクス笑います。ディルの港まで半日この状態が続くかと思うと、別れの感傷に浸ってなどいられません。
シャスタさん……ありがとう。
夕方、港町ディルに着きました。
私はさっそく港の旅客待合所に行って、情報を求めました。
ディル・オピアム航路は、昨日から復活していました。
私が砂漠越えを諦めたのも、昨日。
「こんなに都合のいいことって……」
自分のことが、少し恐ろしくなってきました。
航路は週に二便で、今日と明日は船がありません。
私は明後日まで、近所の宿に身を置くことにしました。
第二十五話 定期船マレイン号の災難
四本マストの大型帆船『マレイン号』は、正午定刻にディル港を出発しました。
デッキや船室の人々は、この日を待っていたといわんばかりの賑わいです。席がないと騒いでいる人がいるところ見ると、おそらく乗客は定員の三百名を越えていることでしょう。
私は今度こそ、酔い止めの生薬を忘れずに買い、一安心です。とはいえ、田舎で育った私は、人にも酔ってしまう質。混雑した船室にはできるだけ入らないよう努め、寝る時以外は、デッキで海を見ていることにしました。
出航して二時間ほどすると、左手に大きな断崖が姿を現しました。崖は南に向かって見えなくなるまでのびています。地図を見ると『長蛇の断崖』とあり、遥かオピアム近郊まで実に五百マース(一マース=約一キロ)も続いていました。断崖は峻険な北ウォールズ山地の西麓にあり、その山々を越えた先にチコリ砂漠が広がっています。
デッキの欄干にもたれて景色に見とれていると、後ろにいた誰かが私の肩を叩きました。
「よう」
ふり返ると、見覚えのある無精髭の男。
「ダガーさん!」
男は照れくさそうにうつむきました。
「やっぱあんたか。初日の便で行っちまったかと思ってたぜ」
「オピアムに行かれるのですか?」
「ああ。石堀りはもうやめた。仲間を連れて会社を興す。俺は人に使われるタイプじゃねぇと、例の事件でやっと気づいたのさ」
「私はゲンティアを目前に行き倒れ、そのあとチコリ砂漠で砂嵐に遭ってきました」
「マジかよ。俺より冒険してんじゃねぇか」
二人は笑い合いました。
しばしの沈黙の後、ダガーさんは私の顔をじっと見つめました。
「な、なんですか?」
「鉱山にいたときと、変わったよな」
「そうですか?」
「ああ。なんとなくな」
「どこらへんが?」
「ん? あー、そうだな」ダガーさんは視線を下げていきます。「乳が丸くなった」
「もう!」
下ネタにさえ走らなければ、いい人なんですが……。
「話は変わるが、あんた、武器は持ってきたか?」
「まさか。私はこれでも癒師の端くれですよ?」
「そうか。じゃあ……」ダガーさんは背嚢から何かを取り出しました。「これを渡しておく」
革のサックに収まった小さめのナイフ。持ち手を引くと諸刃が光りました。
「人を傷つけるものなんて、どうして……」
「護身用だ。海賊の話は聞いているだろう? 出たり引っこんだりよくわからねぇ連中だが、満腹の虎とちがって、人間ってのは気まぐれだからな」
「私には必要ありません。もし襲われたら、運命を受け入れます」
「それじゃダメなんだ」ダガーさんは私の肩にぶ厚い手を置きました。「あんたが死んじまうと、救えるもんも救えねぇ奴が増えちまって、あの世が混雑すんだよ」
「で、でも……」
「プロ用のナイフは、持っているだけで威嚇になる。それで救える命もある。リンゴの皮だって剥けるしな」
諸刃では皮むきには向かないのでは? それはともかく、戦わずして悪漢を遠ざける術も長旅には必要です。
私はナイフを受け取ることにしました。
「そう硬くなるな。念のためだ」
ダガーさんは小さく笑うと、船室の方へ去っていきました。
翌朝、私は朝日が山の頂を照らすと同時に船室を飛び出し、外の空気を胸いっぱいに吸いこみました。船室はお酒臭くて、酔い止めも半分しか効きません。
マレイン号は昨日と同様、長蛇の断崖にそって航行中です。
変わったことといえば、崖の色が青っぽくなったくらいでしょうか。この辺は『青壁』と呼ばれており、古代の海戦場だったところです。
「そうだ、青壁といえば……」
私はこの近くに島があることを思い出しました。
地図を広げてみると、旧跡青壁の西、二百マース(一マース=約一キロ)のところに、ヘイゼル諸島というのがあります。最も大きなのがロック島、次いでローズ島、その他小島が数百点在しています。
船の位置がわかって地図を閉じたとき、マストの上から男の絶叫があがりました。
「バーベイン号だ! 右舷水平線上に海賊船を発見! 数は三!」
白い制服に白い制帽の男が船室から飛び出してきて、マストを見上げました。
「間違いないか!」
「俺を誰だと思ってるんです!」
「海の虎め、満腹したんじゃなかったのか?」船長は歯ぎしりして悔しがると、そばにいた大柄な男に言いました。「副長! 風はどうか?」
「芳しくありません。この巨体で逃げ切るのは困難かと」
「船員をただちに武装させろ!」
警鐘が鳴り、デッキにいる乗客に避難指示が出ました。
私は人でいっぱいの船室に入ると、ドアについた丸い窓から外の様子をうかがいました。
マレイン号よりひとまわり小さな黒塗りの帆船が左右に現れたかと思うと、海賊たちはバネ仕掛けの跳躍台を蹴って宙を舞い、続々とデッキに乗りこんできました。
客船の船員たちは矢を射かける間も与えられず、武器を捨てて両手を挙げるしかありませんでした。
「奴らは接近戦の王者だ。距離を詰められたら、勝ち目はねぇ」
気づくとダガーさんがそばに立っていました。
私は海賊の行動を不審に思っていました。
「もっと血を見るかと思ったのですが……」
海賊たちは、武器を捨てた者にはそれ以上攻撃を加えようとしないのです。
「奴らは人殺しの享楽主義者とは少しちがう。欲しいのは物資だけだ。戦いがすんだらあとは船長次第だぜ」
デッキの上が静かになると、ハーフパンツに革ベスト一丁という出で立ちの、背の高い男が最後に現れました。
日に焼けた短髪の青年は大声で言いました。
「この船に、船医が乗っているはずだ! すぐに連れてこい!」
船長が男の前に出ていって言いました。
「船医に何の用だ」
「俺に質問するな」
男の一睨みで話がつきました。
船医がやってくるまでの間、ベスト男の部下たちは、左右の黒帆船に板を渡し、『オピアム行き』と書かれた青果や酒入りの木箱などを、次々と運んでいきました。
海賊の頭領は要求をつづけました。
「シロチを載んでいるのは知っている。薬草と一緒に全部持ってこい」
「そんなものを盗ってどうしようというのだ?」
「俺に質問するなと言ったはずだ」
頭領は短剣を振りかざしました。
船長が指示すると、副長以下数名の男が、船倉へ通じる階段を下っていきました。
一方、船室のドアに張りつくダガーさんは、訝しげな顔で私に訊きました。
「シロチって何だよ」
「酸化亜鉛の俗称で、簡単にいえば、皮膚薬です。用途は傷や湿疹などでしょう。鉱山で原石が採れるはずですけど、知りませんでした?」
「う、うるせぇな。持ち場の石以外は詳しくねぇんだよ」
いつまでたっても船医がやってこないので、頭領はだんだん苛ついてきました。
「船医はどうした!」
すると、混雑した船室内がざわつきはじめました。ここはいわゆる雑魚寝部屋と呼ばれる二等室で、寝転がるための床があるだけの空間です。
ひそひそ話が伝わってきて、私の耳にも入りました。どうやら船医は、この部屋の隅で具合の悪くなった子供を診ている最中のようです。
「フン、そこか」
頭領がこちらへ近づいてきます。
私とダガーさんはさっと身を引きました。
バァンとドアを開けると、ベスト男は人々をかき分け、見つけ出した白衣の中年男を引っ立てていきます。
医者はたくましい腕に捕まったまま、もがいています。
「も、もう少し待ってくれ! あの子は虫垂炎なんだ。せめて鎮痛剤だけでも!」
「チュースイエン?」
「いわゆる盲腸だ」
「んなもん、気合いで治せ。俺はそうしたぜ?」
「まだ子供なんだ。精神論なんか通用するはずないだろう?」
「ぬるい事言ってんじゃねぇ! オピアムまでこっから一日だろうが。そんくらい我慢しろってんだ」
私は頭領の態度に我慢ならず、トランクを開け、内ポケットにそっと手をのばしました。
それを見たダガーさんは、ひそひそ声ながらも、鬼のような顔で止めようとします。
私は「トランクを見ていてください」と小さく言うと、サックから諸刃のナイフを抜き、頭領に近づいていきました。
「なんだ? てめぇは」
頭領は医者を放すと、手ぶらのまま私に近寄ってきました。
「虫垂炎は下手をすると命取りになることもあります。船医はこの船から離れるべきではありません」
「可愛い顔して、俺に説教しようってのかい?」
男は鼻で笑うと、素早い手刀で私の手首を狙いました。
私はそれをかわし、男の鼻柱にナイフの切っ先を突きつけます。
「な!?」頭領は前のめりのまま固まりました。「て、てめぇ……何者だ。誰に習った?」
「……」
私も自分に問いたい気分でした。なぜか体が反応してしまったのです。
あああ、口も勝手に動いて……。
「私はエルダーの癒師プラム。船医の代わりに、私を連れていけばいい」
「癒師だと? 祈りで病気が治んなら、世話ねぇぜ」
「私を連れていきなさい」
ナイフを持つ手に、凍りつくような錯覚をおぼえました。
すると、相手の顔も真っ青に……。
頭領は掠れた声で言いました。
「い、いいだろう。ついて来な」
二人が通路を行くと、人々は固唾をのんでそれを見守りました。
出口のそばにいたダガーさんが、私にトランクを返す瞬間、小声で言いました。
「忠告を忘れたのか? あんたが殺されちまったら……」
「彼らに私は殺せません」
「なぜわかる?」
それには答えず、私は微笑みを返しました。
「オピアムでの起業、がんばってくださいね」
ベスト男の後について船室を出ると、左舷の渡し板を歩き、頭領の帆船『バーベイン号』に乗りこみました。
出発を待っていた海賊たちが、いやらしい目つきで笑っています。
頭領は男たちを見渡して言いました。
「見た目で判断すると痛い目にあうぜ。この先生はな、俺の拳法をかわした、世界で初の女だ」
男たちは笑顔のまま固まると、逃げるようにして自分の仕事へ戻っていきました。
もう一度やれと言われてもきっとできないでしょう。
あのときは、自分のようで、自分ではなかった……。
こうして私は、海賊と共にヘイゼル諸島へ渡ることになりました。
第二十六話 ロックローズ兄妹と海賊の島
三隻の黒い帆船は、岩礁だらけの海域を悠々と走っていきました。
私は船長室に通され、ベスト一丁の頭領と二人きりとなりました。
部屋は想像していた感じとちがい、書斎と応接間がセットになっただけの地味なものでした。
机に向かい海図を見ていた頭領は、私に長ソファに座るよう促しました。
「きらびやかな部屋で、酒ばっか飲んでると思ったか?」
頭領は横顔のまま言いました。
「えっ?」
男は顔を上げ、私を見つめました。
「それは大戦前、北や南の海で暴れていた連中のことさ。俺はロックローズ三世、ヘイゼルの総統だ」
総統……その肩書きに私は疑問を覚えました。総統とは、国政軍事を一手にする一国の主のことです。
「あの、私の記憶が正しければですけど、ヘイゼル諸島は二百年前の大戦後、ウォールズ国に併合されて……」
「言うな! 俺たちはそんなもん認めてねぇ。実際、ウォールズの腰抜けどもは、とっくに諦めてるしな」
ロックローズさんの話によると、併合の話は戦勝国のカスターランド王が勝手に決めたことなのだとか。一方、ヘイゼル側は、船の墓場ともいえる岩礁群を活かして激しく抵抗したため、一度も上陸を許していません。ただ、彼らに世間の認識を覆すだけの力はなく、名目上はウォールズ国ヘイゼル自治区となっていたのでした。
「自警隊はやってこないのですか? 海賊被害の訴えを無視できるとは思えませんが」
「親父……ロックローズ二世の頃は、たまに戦を仕掛けてきたらしいがな。ウスノロどもは最近ようやく、自分のマヌケっぷりがわかったらしい」
意訳すると『ウォールズ隊は最近ようやく、自前の戦力で平定するには地理的条件が悪すぎることを理解したらしい』だと思います。
現状では、ヘイゼル諸島は独立した地域と見ていいようです。
海賊たちが定期船マレイン号から持ち出したのは、食品、生活用品、医薬品、それに治療のできる人材——つまり船医の身代わりとなった私——です。金目の物にはほとんど手を出していません。
実用重視の船室といい、軽装の男たちといい、彼らは好きでこの仕事をしているとは、私には思えませんでした。
ロックローズさんは肘かけに寄りかかって、私を見つめました。
「なんか、不満そうだな」
「事情はあるのでしょうが、それは問わないことにします。私は私の仕事をするだけです」
「人の命を救う人間が、人殺しを助けていいのかよ」
「人を殺すかどうかは、私の問題ではありません」
「へぇ、言うじゃねぇか」男は真顔から一転、ニヤけた顔で言いました。「ま、これから死ぬまでよろしく頼むぜ、先生」
「私を島から出さないつもりですか?」
総統は女っぽい目つきをして、私の口真似をしました。
「事情はあるのでしょうがぁ、それは問わないことにしますぅ」
「……」
島の事情について、私の予感が正しければ、彼の言う通りになるかもしれません。
私の人生を賭けた旅は、志半ばで終わってしまうのでしょうか。
夕方、三隻の黒い帆船はロック島の東港に到着しました。
篝火をたいて待っていた島民は、木箱を満載した船を見て、歓声を上げました。
渡し板が下ろされると、ロックローズさんは私を連れて、岩を四角く削った天然の波止場に降り立ちました。
総統は群衆に向かって声を張りました。
「紹介する。極東の島エルダーからやってきた、癒師のプラム先生だ!」
辺りは一瞬にして静かになりました。
海鳥たちが、上空で旋回しながらにゃあにゃあ笑っています。
人々はひそひそ声で相談をはじめました。
「言いてぇことはわかる。だが、先生は大陸の医者以上の存在だと、俺は確信している」
「理由を聞かせてもらおうか」
群衆の端にいる、総統によく似た初老の男は言いました。
「毒も呪いも効かねえこの俺が、動けなかった。先生がその気なら、俺は死んでいた」
「なるほど。信用しよう」
男は別の船が止まっている方へ去っていきました。
人々のささやきが聞こえてきます。
「シニアさんが……」「二世が……」「ローズ島の長が……」「親父さんが……」
二人の間柄はなんとなくわかりました。それにしても、さっきのピリピリした空気は一体なんだったのでしょう。
総統は言いました。
「獲物を分けるのは明日だ。今夜は存分にやってくれ!」
島民が盛り上がる中、ロックローズさんは私と近習の者たちを連れて、暗くなってきた坂道を上っていきました。
人の姿がまばらになると、ロックローズさんは色のない表情でつぶやきました。
「気にするな。王座に長くいた奴ってのは、何かと面倒くせぇのさ」
ヘイゼル諸島の中心、ロック島に渡った翌日の朝。
私は重大な事実を知らされました。
薄々感づいていた通り、この島は無医村だったのです。最大の島でさえそうなのですから、北にあるローズ島や、他の島々も同じことでした。
私は癒師の掟に従い、はじめは病人がいる家を渡り歩くつもりでいました。しかし、それでは急患や他島の人々には対応できません。
東港の近くに空き家が一軒あり、そこを下宿兼診療所として使わせていただくことになりました。
施術用ベッドさえあればすぐにでも開業できるのですが、ロックローズさんの話によれば、藁葺き屋根に穴があいていたり、部屋が荒れ放題だったりと問題が多く、掃除や改修などで少し時間がかかりそうだとのこと。
力仕事は男の方にお任せして、私は島を歩いて一回りしてみることにしました。
ロック島は高い崖に囲まれた天然の要害で、船がつけられる港は東西に一つずつしかありません。それでも島民は漁業を中心に生計を立てていました。海賊船の荒くれ者たちも、普段は漁師をしています。
内陸の方は、中心に低い山が一つあって、麓のなだらかな場所のほとんどが農地になっていました。赤みがかった土は痩せていて、採れる作物は限られていました。
島には貨幣が存在せず、物々交換が成り立っていました。宝石や金塊などはどこにもありません。
海賊の島といっても、実際は吹けば飛びそうな老朽化した家ばかりの、時代に取り残された土地でした。
私は島をまわってみて確信しました。彼らが『ときどき』海賊をやる理由はただ一つ。あと一歩のところで自給自足ができないからです。島人は結束が強く、人口が大陸へ流出するなどあり得ないとのこと。そうかといって、全島民を養ってくれるだけの天の恵みはありません。ウォールズ国と和平を交わし、貿易を行うのが得策なのでしょうが、被災地でのウォールズ自警隊の態度を見てきた私としては、その道も険しいように思いました。
二日がかりでゆっくり島を一周し、明日から診療所となる家に帰ってきました。
私は暮れかかった日を背に、深いため息をつきました。
「私、この島から逃げられないかもしれない」
「あ、帰ってきた」
子供っぽい声を耳にして、私は顔を上げました。
改修が終わった平屋の家の前に、女の子が一人立っています。
「えっと……」
私は首を傾げました。
おとといの晩、島のどこかで見た気がするのですが、疲れていたせいか記憶が曖昧です。
「あれー、忘れちゃったの? ひどいなぁ」
「ご、ごめんなさい」
「プリムローズ」
少女は自分の顔を指さしています。
「あっ!」
思い出しました。ロックローズ邸に泊まったときに、二度も会っているじゃないですか。なんとも恥ずかしい限りです。
彼女は総統ロックローズ三世の妹さんで、たしか十四歳……そうです、お兄さんとずいぶん歳が離れていると、驚いたものです。
青いエプロンドレスを着た栗毛の少女は言いました。
「一人じゃ大変だろうと思って、手伝いにきたの」
「開業は明日ですよ?」
「うん。なんか待ちきれなくて」
「とてもありがたいんですけど、学校の方はいいんですか?」
「ガッコウ? なにそれ、おいしいもの?」
プリムさん(通称)の話によると、ヘイゼル諸島に学校はなく、子供は親に読み書きを教わるのだそうです。教養は生きていくための最低限でよく、大事なのは人間として大きくなることや、仕事の腕を磨くこと、というのが古くからの島の教育方針です。
「では、プリムさんには受付の仕事を……」
「先生は治療に専念してて。受付とか、書類とか、身の回りのお世話とか、薬の調達なんかは全部あたしがやるから」
「そんなに無理をさせるわけには……」
「あたしが何も知らないと思ってるの? ローズ島の薬草採りの爺ちゃんこの間死んじゃったし、跡継ぎいないし、ヘイゼルで病気を治せるのは、もう先生しかいないんだよ?」
「……」
私は突然、ものすごいプレッシャーに襲われました。
北の最果ての村で診療所を開いた私は、自分の知識と能力を過信し、人々の信頼を完全に失ってしまった。逃げ道のないこの島で、それをくり返すわけにはいかないのです。
「大丈夫? 息してる?」
「プハッ……で、ではその、事務関係はすべてお任せしますね」
第二十七話 大車輪の日々とローズ島
新暦二〇三年 夏
ロック島で診療所を開くことになった私は、月日が経つのも忘れて施術に励み、気がつけば夏が来ていました。
聴診器もなければ薬草も滅多に使わない、患部にただ手をかざしているだけの癒術に、はじめは皆さん半信半疑でした。快癒した人が施術のことを近所の人に話すにつれて、私への信頼は高まっていき、今では朝の開院前に行列ができるほどでした。
幸い、島の人々の中には、私の手に負えない病気はほとんどありませんでした。彼らは貧しい暮らしをしていながら、心は大陸の人々より満たされていたのです。病気の多くは心の葛藤が引き起こす、というのが癒術の見方ですが、改めてそれが真理であることを実感しました。
ただ、外科手術が必要な怪我や骨折などは、癒術での治療は難しく、人々は民間療法に頼らざるを得ません。重症の患者については、どうしても腕のいい医者が欲しいところでした。
そんなある日。診療時間の終わりに、ロックローズさんがやってきて言いました。
「カポックのことなんだけどよ」
その男は海賊船の旗艦バーベイン号の乗組員で、剣術に長けた主力戦闘員の一人です。カポックさんはある嵐の日、港の船を守ろうとして海に落ち、海岸の岩に体をぶつけて大怪我をしました。
「脚が腐ってしまう前に切断しなければ、命が危なくなります」
「同じことを聞きに来たんじゃねぇ!」
ロックローズさんは私につかみかかりました。
「お兄ちゃん!」
机に向かっていたプリムさんが、ふり返って怒鳴りました。彼女は施術記録の整理をしている途中でした。
男は舌打ちすると、手を放しました。
プリムさんはつづけました。
「先生だって万能の神様じゃないんだからさ」
「わかってる……」
男は歯がみすると、壁の板を殴ろうとして寸止めし、改めて小突きました。
ロックローズさんの気持ちは痛いほどわかります。もしもここが大都市オピアムで、カポックさんがウォールズ人なら、脚を切らずに済むはずなのです。
私も本当は諦めたくありませんでした。何かいい方法はないかと毎日頭をひねっていたのですが、アイデアが浮かびません。
三人はしばらく黙っていました。
ふと、診療所全体が小さく揺れました。
「あ、地震」
プリムさんは言いました。
ヘイゼル諸島は年に何度か地震があるそうですが、被害が出るような揺れに至ったことはないとのこと。
地震、地震か……あっ!
「そうだ、マーシュ村のオーレン先生なら……」
「マーシュ村ぁ? あんなクソ田舎、死に損ないしか住んでねぇだろうが」
「お兄ちゃん!」
妹が立ち上がると、兄は両手を小さく挙げました。
「わかったわかった。総統らしくすりゃいいんだろ? で、そのマーレン先生ってのは、腕は確かなのか?」
私は咳払いしました。
「オーレン先生ですっ。去年の秋、マーシュ村で大地震があったのですが、彼はそのとき外科手術で英雄的な活躍をしたんです。自分ではオピアムの医師に劣ると言ってましたけど、私はそうは思いません」
ロックローズさんは腕組みしました。
「ラーチのマーシュ村か。風さえよければ、二日もかからないが……」
プリムさんが言葉を継ぎました。
「船見て海賊って思われたら、誰も助けてくれないよ?」
「そんなもん、脅かしゃ何とかなるだろ?」
妹は両手で机を叩きました。
「いつから本物の海賊に成り下がったワケ?」
今度は兄も引きません。
「時間がねぇんだよ! 他にどうしろってんだ!」
ロックローズ兄妹は話し合いをつづけました。
やがて、ウォールズの漁師のフリをして漁船で行けばバレない、ということで意見が一致しました。
万が一にも拒否されたら大変です。
私はオーレン先生に宛てて一筆したためました。
それから一週間後。
ロックローズさんは包帯まみれの部下を連れて、マーシュ村から帰ってきました。
手術は成功。カポックさんはしばらく療養すれば、歩けるようになるとのことでした。
ロックローズさんは、東港まで出迎えにきた私に、一通の手紙を渡しました。
オーレン先生からでした。
『ヘイゼルの海賊を手なずけるとは、大したものだ。手術が必要ならいつでもこちらへよこしなさい』
「で、なんだって?」
ロックローズさんは手紙を覗きこもうとします。
私は読み終えたフリをして、さっと便せんにしまいました。
「いえ、その……今後、難しい手術はオーレン先生が引き受けてくれるそうです」
「マジか!」
様子を見にきた人々から歓声が上がりました。
私は次から次へと握手を求められました。
「島の英雄だ」「いえ女神様よ」「ババにも拝ませておくれ」
悪い気分ではありません。でも、調子に乗って失敗したことがすぐに頭をよぎり、私は顔を激しく振って自分を戒めました。
「わ、私が治したわけじゃないんですよっ! 偉大なのはオーレン先生ですっ!」
謙虚な態度をとったせいで、私の人望はさらに高まり、ますます島から出づらくなってしまいました。
運がないと落ちこんでいたある日。私は患者の一団から、休暇を取るよう言い渡されました。
一度は断ったのですが、「あんたが倒れたら、わしらはどうなるんじゃ」と聞き入れてもらえません。仕方なく、次の日から三日間だけ診療所を閉めることにしました。
その日の仕事が終わると、助手のプリムさんは言いました。
「休暇の間は何するの?」
「そうですね……癒術書でも読もうかな」
「なにそれ! ちょっとくらい仕事から離れなさいよ」
「勉強してないと、何か不安で……」
島民の期待が大きくなるにつれて、私はミスを恐れ、仕事のことばかり考えるようになっていました。
プリムさんはお手製の手帳を見て、言いました。
「実を言うとね、先生の施術の効果がちょっとずつだけど落ちてる」
「えっ? そんな……」
「最近、散歩もしてないでしょ?」
「は、はい……すべての患者さんを把握しようと思うと、頭の中がどうにも忙しくて」
「このままじゃ、先生、ダメになるよ」
「……」
「よしっ。じゃあ休みの間は、ローズ島であたしと遠足ね」
「でも、その、できれば私はあの本を……」
「はい読書禁止ぃ!」プリムさんは机の上の癒術書を取り上げ、自分のカバンにしまいました。「もう決定だからね。明日の朝、西港の桟橋に集合」
「は、はぁ……」
……という訳で、私とプリムさんは今、ローズ島に来ています。
単帆の小舟でロック島を出て、北北西に三時間ほど行ったところに、ロック島をぐっと圧縮したような小島があります。
集落のほとんどは海岸沿いで、住民は老人ばかり。
プリムさんの話では、老いて働けなくなった人の大半がここローズ島に送られるのだそうです。それは昔からある掟で、総統の父、ロックローズ二世——現ローズ島の長——も例外ではありませんでした。ロック島の若い民が効率よく働くには、それしかないのだと、ローズ島民でさえ認めているのですが、私には理解しがたいことでした。
難しい顔をしていると、すぐプリムさんに怒られます。
私は気分を変えるため、山に登ってみたいと申し出ました。
プリムさんは表情を変えずに言いました。
「ま、ローズ島で遠足って言ったら、トール山しかないけどね」
トール山とは、ローズ島の中心にそびえる低い山のことです。古くから山道が整備されていて、子供でも登ることができます。
私たちは登山口を見つけると、山林の中へ入っていきました。
木々が茂って見晴らしの悪い、山の中腹。
まだ半分も来ていないというのに、私は両手を膝につけて、ゼイゼイ言っていました。
プリムさんはあきれ顔で言いました。
「先生……運動不足もほどほどにしてよ」
「み、水……」
私は水筒の水を、がまんできずに飲み干します。
たぷんたぷんになったお腹は、そのあと山頂に着くまで、私を苦しめつづけました。
トール山の頂は草原になっていて、どこを向いても海や島々が見える、すばらしい展望所です。
野原の中心には、古びた石の塔が立っていました。正確には塔というより、らせん状階段に取り巻かれた野ざらしの円柱台というべきでしょうか。
プリムさんは、階段を上りながら言いました。
「これは北の見張り台。今はほとんど使ってないけど」
この台は、今から千年ほど前に隆盛を誇っていた、北方民族の動きを監視するために立てられたのだそうです。
見張り台の上に立った私たちは、しばらくの間、黙って水平線の彼方を見つめていました。
どこまでも続く青い海と空。
この海域で千年以上もの間、赤い血が流されてきたなんて、私には信じがたい話でした。
ふと、私は西の方を向いてつぶやきました。
「あっちに一つでも実り豊かな島があれば、海賊なんかしないで平和に暮らせるのに」
プリムさんはため息をつきました。
「そりゃそうだけどさ。ヘイゼルの島々より西には何もないよ。暗黙海流があるだけ」
目を凝らすと、西の海だけ黒ずんでいて、潮の流れが他とちがっているように見えます。暗黙海流は流れが激しすぎて、どんな船も沈めてしまうため、誰も近づかなくなったとのこと。水平線の向こうは、地図上でも未踏地とされていました。
見張り台を下りた私たちは、海がよく見える崖の近くに敷物を広げ、昼食のパンを口にしました。
私の水筒はすでに空。口が渇いてパンをうまく飲みこめず、またプリムさんに小言をいわれてしまいました。
「あたしの残りあげるから」
私はプリムさんの水筒を受け取りました。
「ふ、ふみまへん……はー、窒息するかと思いました」
「ったく、どっちが先生なんだかねー」
「あぅ……」
まったくです。彼女がエルダー生まれで、癒師の素質を持っていたらと、どれほど思ったかわかりません。
「でも、施術中の先生はまるで別人。カッコイイし、体が光って見えるし、まるで天使みたい」
「えっ? 今なんと?」
「セッカク……じゃなくて、錯覚よ」
プリムさんは笑いました。
彼女は私が貸した手のひらサイズの辞書を毎日見て、語彙を増やそうとしていました。
「本当に錯覚でしょうか?」
プリムさんはよそ見していて聞いていませんでした。
「そうだ! 先生、あれ」
「あれ、とは?」
のばした指の先をたどっていくと、古びて黒ずんだ石柱らしきものがありました。
「大昔から刺さってる石でさ、何か字が彫ってあるんだけど、誰も読めないんだ。外国からきた先生なら、わかるかなと思って」
「……」
その石が目に入ったとたん、私は時間が止まってしまったような感じを覚え、気がついたときにはもう石柱の前に立っていました。
「ねぇ、先生、急にどうしたの? ねぇってば!」
プリムさんが追いかけてきました。
「えっ? あれ、私いつの間に?」
「変だよ先生。いつも変だけど、もっと変」
「そこまで言わなくても……」
「で、どうなの? 読めそう?」
プリムさんを相手にしていると、落ちこんでいる暇がありません。
私は石柱に彫ってある文字を、順に目で追っていきました。
「……こ、これは!」
ラーチランドの北の果て、コホシュ岬で見たのと、そっくりな内容の碑文です。
「お墓? 宝のありか? なんなの?」
「ご存知かどうかわかりませんが、これは私たちエルダー人の神、癒神エキナスがこの土地を訪れたことを記したものです」
「神様が? なーんだ、作り話か」
プリムさんは肩を落としました。
「いえ、実在した人物です。彼女なくして、エルダー人も癒術も存在し得ません」
遙か昔、癒術の祖として活躍した聖女について、私は少し語りました。
「ふーん。でも、ここに来たってだけの記録でしょ。そんなに驚くほどのことなの?」
プリムさんにはわからないでしょうけれど、エルダー人で癒師の端くれの、私にとっては重大事件。胸の高鳴りが止まりません。
私はコホシュ岬で見つけた石碑についても話しました。
少女はまだ納得いかないようです。
「そのエキナス様って人と同じ場所に来たのが、そんなにすごいことなの?」
「だって、世界は広いのに、こんな辺鄙なところで一致する可能性なんて……」
言いかけて、私は口を手で隠しました。
「ヘンピってなぁに?」
「い、いえ、なんでもありません」
「帰ったら、辞書で調べよっと」
「ああ、それだけは!」
弱みを握られた私は、それからロック島へ帰るまで、ずっとプリムさんの言いなりでした。
誰もいない海岸で素っ裸になって泳いだり……。
近所の老人たちにすっかり見られてしまい、私は何度も奇声を上げました。
星空の下で蚊に刺されながら野宿したり……。
なぜ、私ばかりが刺されるのでしょう。納得がいきません。
暇を持て余している老人たちの前で、私の故郷の歌や踊りを披露させられたり……。
音痴なのわかってるくせに、三度もアンコールするなんて!
ロック島の診療所に着いた頃にはヘトヘトで、一声も出ませんでした。
肉体の疲れとは裏腹に、私の心の影はすっかり消えていました。
プリムさん……あなたこそ不思議な人です。
第二十八話 決意
私はヘイゼル諸島でただ一人の癒し手として、人々の期待を一身に背負っていました。経験と信用を重ねていくうち、私の施術の力は高まり、診療所にやってくる患者のほとんどが健康を取り戻しました。
また、プリムさんと協力して記録を徹底的にとり、誰のどこが悪いのかすべて把握しました。
患者たちの話によると、私の人気は稼ぎ頭のロックローズさんと二分するほどだとか。
つまり、私は生涯この島でやっていけるだけの実力、スタッフ、資料、そして名声を得たのです。
しかし……しかしです。
このままでは、いつまでたっても正式な癒師になるための試験を受けられません。
肩書きなんてただの飾り、島の人々は優しいし、ライバルのいない就職先が見つかってよかったじゃない、などと思ったこともあります。でも、自分の本当の望みはなんだろうと考えたとき、私はいつの間にか、東の果ての島々に思いを馳せていました。
私の腹は決まりました。島を出るなら今しかありません。
晩夏のある日、私はロックローズ邸を訪ねました。
船底のような形をした藁葺き屋根の大きな家。玄関に現れたプリムさんについて囲炉裏のある土間を行き、板張りの階段を上がると、ロックローズ総統の書斎空間——仕切り壁もドアもないので部屋とは言い難いです——がありました。
大きな机のバックに、アルニカ半島の特大地図。
ロックローズさんは極東の島々に見入っていました。
「話はプリムから聞いている」
革ベスト一丁の男は背を向けたまま言いました。
重い沈黙がつづき、私とプリムさんは顔を見合わせました。
やがてロックローズさんはふり返り、血走った目を私に向けました。
「エルダーは癒師で溢れかえっているんだろ? 一人ぐらいこっちによこしたって罰は当たらないんじゃねぇのか?」
たしかに、癒術学校を出た癒師のほとんどは、旅が終わると地元に残ります。癒師は一度の施術でもかなりの精神力を費やすため、一人で集落一つ受け持つのがやっとです(私の場合は働き過ぎです)。十年単位で見たとき、引退する人や亡くなる人と、新たに癒師になる人の出入りが同じくらいなので、多すぎるということはないのです。
「中途半端な癒師のままではいたくないんです。旅をつづけさせてください」
「俺たちは、今のあんたで間に合ってる」
「……」
「あんたは自分から進んで、このヘイゼルにやってきた。違うか?」
男は勝ち誇った顔で言いました。
「それは、あなた方が急患を診ている船医を強奪しようとしたから、私が身代わりになっただけです。海賊行為を認めたわけではありません」
「海賊のもとに下ったからには、海賊の掟に従ってもらう。島から出ることは許さん。軍事機密が漏れると厄介なんでな」
プリムさんは兄を睨みつけました。
「お兄ちゃん! 先生は船のことなんか知らないじゃない」
「ローズ島の見張り台に連れていったな? あれでも一応、機密事項だ」
「あ……」
妹はしまったという顔をして、うつむきました。
「そういうわけで先生、悪いが死ぬまでこの島の治療人だ。その代わり、島の中じゃあ不自由はさせねぇ。必要なものがあれば俺に言えばいい」
「ウォールズの人を犠牲にしてまで、治療したいとは思いません!」
「仕方ねぇんだ。生きるためだ」
「では、私は私の人生を生きるために、この島を出て行きます」
ロックローズさんは腰に隠していた銃を私に向けました。
「あんたの人生はもう、あんただけのものじゃねぇんだよ」
「私の話は終わりました。今日はこれで失礼します」
私は踵をめぐらし、階段の方へ歩みました。
銃声。
銃弾は私の右肩をかすめ、壁の板に穴をあけました。
私は総統に背を向けたまま言いました。
「私を殺して得になることがあるなら、そうしてください」
「いい根性してやがる」ロックローズさんは笑いました。「だがな、あんたに貸す船はないぜ。大陸の一番近い港まで、早船でもまる一日以上かかる。泳いでいくか?」
「ローズ島の長、ロックローズ二世は、何かあったときは自分の船を貸すと、約束してくれました」
「親父の野郎……なら、そいつを殺せば手詰まりだな」
「お兄ちゃん、いい加減にして!」
張り手の音に、私は思わずふり返ってしまいました。
プリムさんは、兄の胸を殴りながら泣いていました。
ロックローズさんは妹を抱き寄せると、沈んだ声で言いました。
「あんたがいなくなったら、俺たちはどうすりゃいいんだよ。素人の荒療治なんか、もう見たくねぇ」
「……」
私はそのことで、ずっと心を痛めていました。
東のエルダー諸島と西のヘイゼル諸島、見た目は同じような島々なのに、一方は何かあっても必ず地域の癒師が来てくれますが、もう一方は子供の風邪一つ治すにも大騒ぎです。
貧富の問題はともかく、せめて健康な体を保つ権利くらい、公平にならないものでしょうか。
私は癒師のあり方に大きな疑問を抱きはじめました。
どうしてエルダーの癒師は、旅を終え正式な癒師となった後は、平和な島に閉じこもっているのでしょう? 生まれ育った土地が大事なのはわかります。でも、大陸にはもっと困っている人が大勢いるのです。『故郷だけは特別』という考えは、間違っているような気がしてなりません。
私はまだ旅を完結させることしか考えられないし、故郷に帰っても、先輩癒師たちの重い腰を上げさせるには時間がかかりそうですし、いったいどうしたらいいのでしょう。
立ち尽くしたまま悩んでいると、プリムさんが兄から離れて言いました。
「あたしじゃ、ダメかな?」
「えっ?」
「たしか、中学校出た歳の人は受験できるんだよね? エルダーの癒術学校って」
プリムさんはもうすぐ十五歳、来春の受験者と同世代です。
「それは、そうですけど……」
学歴は関係ありませんし、助手としての働きぶりを見る限り、治療人としての適性はトップクラスでしょう。でも、それだけではダメなのです。
合格するためには、アンジェリカ学長との面接で、癒師としての潜在能力があることを認めてもらわなくてはなりません。残念ながらこればかりは、努力で勝ち取れるものではありません。癒神エキナスの血筋であるエルダー人ならほぼ間違いありませんが、島外の出身者で合格した人は、歴史上にも数えるほどしかいません。
血筋と才能の関係については、この兄妹に何度か話したはずなのですが、プリムさんは引こうとしません。
「あたし、先生みたいな癒師になりたいの。やってみなきゃわからないでしょ? ね、エルダーに連れてってよ」
「あっ……」
今、私の中に、言葉にできない『気づき』が駆け巡りました。それはあまりにも情報量が大きく、全部説明しようとすると、分厚い本が一冊書けてしまいそうです。
とにかく旅を可能な限り早く完結させる、というこれまでの考えを、私は一瞬で改めました。
「わかりました。では、これから一緒にエルダーへ参りましょう」
「ほんと? やったぁ!」
プリムさんは拳を突き上げ、飛び跳ねました。
私はロックローズさんに言いました。
「その代わり、プリムさんをお送りした後、旅は続けさせてください」
総統は困りきった顔で言いました。
「余所もんは万が一にも受からないんだろ? それじゃ賭けにならねぇよ」
「もしプリムさんが不合格だったら、そのときこそ、私はこのロック島に永住すると約束します。証人は……」
私は喜びに浸っているプリムさんに視線を送りました。
ロックローズさんは苦笑いしました。
「あんた……バカだろ?」
「私がこの大博打に負けたら、あなたの望み通りになるんですよ? もっと喜んだらどうですか?」
「……」
兄はあどけない顔の妹に、黙って視線を送りました。
「とにかく、合格するように祈りましょう」
「万が一合格すると、どうなるんだ?」
「卒業まで最低五年かかります。本当は修行の旅も二年くらい必要なのですが、プリムさんはきっとまっすぐ帰ってくるでしょうね。彼女の帰郷までは何とか持ちこたえてくださいと、島の皆さんにはお伝えください」
「五年か……けっこう長いな」
「そうですね。では、ちょっとそこで待っててください」
私は階段を下りていくと、一階に置いておいたトランクを開けて分厚い本を一冊取り出し、また二階に戻ってきました。
「この癒術書をあなたに預けていきます。各論に、素人でも扱える伝統療法のことがたくさん載っていますので、それだけでもかなり使えると思います」
ロックローズさんは一度ためらってから本を受け取ると、言いました。
「これは癒師の命みたいなもんだろう? いいのかよ」
「癒神エキナスは最後のページで、本書に記してあることがすべてではないと語っています。私は自分の直感を信じて、もっと実践的な施術法や、癒術そのものの発展についての研究をしていきたいと思います。だからそれはもう、必要ありません」
男は呵々と笑いました。
「参った参った。俺の負けだ。何よりも、妹の合格を信じることにするぜ」
第二十九話 二人旅のはじまり
私とプリムローズさんを乗せた海賊船バーベイン号は、大陸をめざして東へ進んでいきました。
ある地点まで行くと、ロックローズさんは帆と錨を下ろして船を止めさせました。
ここで、女二人は脱出用ボートに乗り換えました。遭難者を装うためです。
ロックローズさんは帆船の縁まできて、妹を見下ろしました。
「今度会うときは、二十歳ってわけだ」
「十五かもよ?」
「どっちだっていい。無事に帰ってこい」
「現地の人とデキちゃったら、ごめんね」
プリムさんはお腹が膨らんだ手振りをしました。
「な!」
兄は怪獣のような顔で絶句しました。
妹はたまらず吹き出しました。
「冗談冗談。みんなから預かった学費を無駄にするわけないでしょ?」
ヘイゼル諸島には貨幣が存在しません。沈没船に積んであった金目のものを命がけで引き揚げ、それを大陸の闇市で売りさばき、ようやく学費をひねり出したのでした。
私が櫂を漕ぎだすと、ボートは帆船から離れていきました。
ロックローズ兄妹は、お互いが見えなくなるまで、ずっと見つめ合っていました。
二人を乗せたボートは、定期船航路と思しき海域までやってきました。
北の方から大きな帆船が近づいてきます。
定期船のおおよその通過時刻、風や潮の流れ、なにもかもロックローズさんの読んだ通りでした。これでは、襲われた船が逃げ切れないのも無理はありません。
おっと、感心している場合ではありません。ここからは役者としての才能が試されます。
私とプリムさんは、穴のあいた手桶を使って互いに海水を掛けあい、びしょ濡れになりました。知り合いの漁船に乗ってディル港まで行こうとしたけれど、昨日の嵐のせいで遭難してしまった、という設定です。手桶は海に放って沈めました。
遭難者を見つけた帆船『スカル号』の船員たちは、帆と錨を下ろして船を止めると、大慌てで救助活動に走りました。スカル号はアスペン鉱山で採れた石を運ぶ運搬船。私の顔は割れていないはずです。
デッキに上げてもらうと、私は細い目をした大人しげな船長に事情を話しました。
船長は二つ返事で、オピアムまで送ると約束してくれました。
空いていた船室に通されて二人きりになると、私たちは顔を見合わせました。
「なんだか上手く行き過ぎて、恐いです」
私が言うと、プリムさんは笑いました。
「あの船長、先生のことばっか見てたよ? 好みなんだよ、きっと」
「そんな……急に好みとか言われても」
私はもじもじしました。
「へぇ、あんな年増がタイプなの?」
「いえ全然」
私はきっぱり言いました。
一度火がついたら、年頃の女の子は止められません。それからしばらく、どんな男性がタイプなのか、どんな恋愛をしてきたのか、私は質問攻めに遭いました。
「癒術学校は原則、全寮制の女子校ですから、恋愛といっても中学までの話です」
「なーんだ、つまんないの。あ、じゃあ、旅先で癒したイケメンの患者と一晩、とか……」
「プリムさんっ!」
少女は舌を出して、頭をかきました。
「あーあ。もし受かっても、五年間も女の腐った顔とつき合わなきゃいけないなんて、暗すぎる青春だわ」
「言葉遣いに気をつけてください。ここはもうあなたの故郷ではありません。授業は始まっているんですよ?」
「はぁい」
学校に通ったことのない少女が、いきなり高校並みの環境に飛びこんでいったら、どうなってしまうのでしょう。私は心配でなりませんでした。
話が途切れて二人が口を閉じたとき、ドアをノックする音がありました。
入ってきたのは、白衣の中年男。
私は首を傾げました。この人、どこかで見覚えが……。
「あれ? 君はたしか、マレイン号で海賊にさらわれた……」
「あっ!」
私は思わず口に手を当てました。
彼は定期客船マレイン号の船医だった人です。
「島で海賊にこき使われていないかと、心配していたんだ」
「あ、えっと、その……」
どうしよう。言い訳が思いつきません。まさかこんなところで顔見知りに出会うなんて想定外。
「こき使ってなんかいないよ。自分で診療所開いて、島の人ほとんど治して、今じゃ英雄なんだから」
プリムさんは言いました。
「!」
私は空いた口が塞がりません。ああ、プリムさん、なんてことを……。
「君はいったい……」
船医の問いに、少女は小さな胸を張りました。
「ロックローズ三世の妹、プリムローズよ」
「!」
船医は少女を見つめたまましばらく固まっていました。
やがて、堰を切ったように笑い出しました。
「アッハッハ! そうかそうか、そりゃ傑作だ!」
「本当だってば!」
船医は私に言いました。
「君は楽しい妹さんを持って、幸せだねぇ」
「は、はぁ……」
私は居たたまれず、下を向くしかありませんでした。
たしかに、ロックローズ三世の荒ぶった風貌から、この美少女との血縁を想像することは難しいでしょうけれど。
「私はあの事件の後、スカル号に移ったんだ。君の勇気には感謝している。虫垂炎の少年は無事に、オピアムの病院へ送り届けたよ」
そう言ってからまもなく、船医は船長に呼ばれて部屋を出ていき、二度と顔を合わせることはありませんでした。