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第二章 ラーチランド

 第九話 アグリモニーの戦争祭



 新暦二〇一年 夏


 ジンセンを出た急行列車は、東海岸沿いの平坦な土地を八時間かけて走り、ベスルートという駅に止まりました。ベスルートは、東国カスターランドと北国ラーチランドの国境近くにある、古い街です。

 本来ならこの街にも立ち寄る予定だったのですが、今の私は指名手配されてもおかしくない身。とにかく今日中に国境を越えなければなりません。

 旧暦時代、つまり最後の戦争より前であれば、旅券の確認が必須でしたが、半島が統一されてからは必要なくなりました。生まれる時代を間違えなくてよかったと、私は胸をなでおろします。

 ベスルートでは、蒸気機関車が燃料補給を行うため、停車時間が長くなります。

 私は四人がけの開放型個室で一人イライラしながら発車を待っていました。この枠にいた乗客が前の駅で降りて、見えざるプレッシャーが減ったことだけが救いです。

 そう思っていたら、派手な模様の頭巾をしたお婆さんが一人、私の向かいに腰掛けました。彼女は私を一目見るや、この土地に不慣れな旅人と見破り、ベスルート近辺にまつわる話をはじめました。

「この辺りは大昔から戦が絶えなくてね。窓の外をのぞいてごらん。そっちじゃない、前の方さ」

 窓を開けて線路をたどっていくと、トンネルが見えます。普通それは山越えを楽にするためのものですが、あそこにあるのは、東西に果てしなく延びた石造りの城壁を通り抜けるためのものでした。

 お婆さんは得意げな顔でつづけます。

「そう、あれが築いてから一度も破られなかったっていう、千年長城さ」

 破られなかった? 私は小首をかしげます。

「穴のことかい? ラーチランドはね、戦で負けたわけじゃない。飯が足りなかったのさ。不作つづきでね」

 二百年前の最後の戦争で、カスターランド勢は堅固な要塞を前に苦しみましたが、北のラーチランドはそれ以上に兵糧が足りず、国民は餓死寸前まで追いこまれました。西の大国ウォールズが敗れ、西南同盟を組んでいた南国カレンデュラも無血降伏したと聞いて、ラーチランド王はやむを得ず統一を認めたのでした。

 千年長城はその名の通り、千年間で一度も落ちなかった、ラーチランド国民の誇りです。手前のベスルートは当時、カスターランドの前線基地があり、長城の本拠があるアグリモニーに劣らぬ要塞都市を築いていましたが、今は解体されて、街も活気を失っていました。

「近代化もいいけどさ、こう寂れるくらいなら、アグリモニーみたいに遺跡を残しゃあよかったんだよ。少なくとも、あんたみたいな暇人がお金を落としてくれるからね」

「そ、そうですね」

 私はひきつった顔で笑うしかありませんでした。

 近代化の恩恵をこうむったのは王都ジンセンやマグワートなどの中核都市だけで、防壁や補給の役目を終えた地方都市は人が減っていく一方でした。

 地図を見ると、ベスルートや長城の東端は海岸沿いにあります。船では行けないのかしらと思っていると、お婆さんはまだ聞いてもいないのに答えてくれました。

「そのつぶつぶはリリー諸島。人は住んでないよ。最初の神話より前の時代には、そこに一つのでっかい島があって、今より遥かに進んだ世界があったそうな」

「へぇ」

「って、頭のイカれた作家が書いてたけどね」

「うぇ」

 私はがくりと頭をたれました。

 作家はメリッサという名の女性で、物語を書くのが盛んな西国ウォールズの人です。

 それはともかく、リリー諸島の海域は、船の竜骨が触れるほど底が浅くて潮の流れも複雑、さらに東には北極海流という、一度乗ってしまったら北の果ての永久氷原まで流されてしまう恐ろしい大渦があります。そういう訳で、この辺りの海路はないに等しいのでした。



 汽笛が鳴り、列車は再び動きだしました。お婆さんは話し疲れたのか、眠そうな目で一点を見つめています。

 窓の外に目をやると、長城の壁がどんどん迫ってきました。

 そして真っ暗……と思ったらもう、壁の反対側に出ていました。横には果てしない千年長城も、厚さはそんなものです。

 期待しすぎて拍子抜けしたのもつかの間でした。よく景色を見ると、お菓子屋さんを思わせるカラフルな壁の家が、こちらでは当たり前のように立ち並んでいます。

 そうか、国境を越えたんだ……。

 感慨が広がりすぎて、体がむずがゆいくらいでした。

 国際警察は麻薬組織や革命家の撲滅に手こずっていますから、私のような小娘にかまっている暇などありません。今回の不運については乗り切ったといっていいでしょう。

 ほどなく列車は、アグリモニー駅のプラットホームに入りました。ピオニー先輩がくれたチケットはここまでです。私はトランクを持ち、眠っているお婆さんに小さくお礼を言って、列車を後にしました。

 駅のトイレでいつもの黒衣に着替え、玄関を出ると、いきなり大通りがあって、その果てに要塞都市アグリモニーの東門がありました。

 駅前に案内板があります。ここで少し予習することにします。

 アグリモニーはラーチランド第二の都市。といっても人口は三万足らず。街をまるく囲んだ城壁の高さは他の要塞の二倍もあり、大陸随一を誇ります。城門は東西南北に一つずつ。戦時に門を守っていた鋼鉄の扉は取り除かれており、行き来は自由にできるようです。

 東門通りの左右には、商店や宿が隙間なく立ち並んでいます。人通りは多いのですが、皆さん城門へ直行で、店に立ち寄る姿はありません。どこも閉まっているようなのです。

 日はまだ高いし、観光客相手なら週末の七曜日は書き入れ時のはず。いったいどうしたのだろうと、様子をうかがいながら歩いていると、一軒だけパン屋が開いていることに気がつきました。

 小腹がすいていたので、中に入ってみると、いい匂いがしてきました。でも、棚はがらんとしていて、商品がほとんどありません。

 長い棒にイボをたくさんつけたようなパンが売れ残っているのが目につきました。

 乾いていてすごく硬い。おやつというより保存食ですね。でも安いし、背に小腹は変えられません。

 代金を払うと、店員の若い女の子はニヤニヤしながらも何も言わず、パンを裸のまま私に手渡しました。ジンセンでは、店の名前が刺繍してある薄い布袋——割引会員証と宣伝を兼ねたもの——をくれたのですが、ここでは習慣が違うようです。

 店を出た私は、右手に長棒パン左手にトランクという妙な格好で、東門のほうへ歩いていきました。

 なんだか恥ずかしい。でも、通行人は誰も気にしていません。それが逆に気になって仕方ありません。土地が違うと、こうも文化が違うものなのでしょうか。浮いてしまってまた捕まることにならないよう、変わっている点はなるべく記録していこうと心に念じました。



 大人の背の三倍はある大きな門をくぐると、狭く入り組んだ街がありました。ここアグリモニーの東地区は、かつて下層市民街だったところです。

 案内板を見ると、外縁を一周する太い馬車道から点線印の小道まで、現在地から幾筋にも枝分かれしており、どこへ向かっていいのか見当がつきません。

 きれいな円をした要塞都市の中心に、城の絵が描いてあります。城址とあるので、戦争の後に解体されてしまったのでしょう。私はまずその遺跡を見て、それから今日の宿を決めることにしました。

 核となる城址公園のまわりには、区画整理された官庁街と高級住宅街——旧上層民地区——があります。迷うことなくそこへたどり着くには、外縁通りをまわって反対側、西地区から入るしかなさそうですが、それでは日が暮れてしまいます。

 迷っても人に聞けばいい。私は軽い気持ちで、古い建物がひしめく東地区の近道を歩いていきました。



 枯れた水路に落ちた小人のような気分を味わいながら、建物と建物の間の狭い道を行くこと十分もしないうちに、もう迷ってしまいました。地図は持っているのですが、視界が道なりで目立つ店もないため、どこに立っているのかまったくわからないのです。道を聞こうにも、人の気配がありません。最初に見かけた人に話しかけようと思いながら、さらにジグザグ歩いていくと、小さな広場が見えてきました。

 噴水の囲いに、少年たちが並んで座って談笑しています。

 私は安堵を求めるあまり、小走りになって路地から抜け出しました。

 そのときです。

「あっ、カスター軍の生き残りがいやがった!」

 そばかす顔の少年が私を指さします。

「えっ? 私?」

「やべぇ、女戦士だぜ」

 太った少年が身構えます。左手にはふっくらして焦げ目のある盾。あれはひょっとして……。

「いや、私は……」

「こん棒しか持ってないぞ。手負いの補給兵だ。押せば勝てる」

 おかっぱ頭のメガネ少年が、キツネ色をしたサーベルの切っ先を私に向けました。

「こん棒? ハッ!?」

 私は手にしていたイボつきのパンに目をやりました。これを持っていると敵とみなされるのでしょうか?

「突撃ぃ!」

 そばかす少年の号令とともに五、六人の子供たちが、いっせいに襲いかかってきました。

 私はこん棒パンを手放し、頭を抱えてうずくまりました。

 少年たちは容赦なしです。

「や、やめてくださ……痛っ!」

 香ばしい匂いに包まれながら、私は硬いパンの打撃を受けつづけました。

「おっ? ここでもやってるねぇ」

 包囲の隙間から声の主を探すと、長いひげをたくわえた絵描き風の老人が通りがかっていました。

「た、助け……もごっ!」

 開けた口の中にサーベルパンが突き刺さり、私は涙を流して何度もむせました。

 少年たちは勝ちどきの声を上げると、さらなる敵を求めて、広場に散っていきました。

「ハッハッハ、災難だったねぇ」

「あれはいったい……」

 私は立ち上がり、大事な保存食であるこん棒パンのホコリを払ってトランクにしまいました。

 ひげの老人は私の様子を見て、旅人だと気づいたようでした。

「なんだ、知らずにやられっぱなしだったのかね? ラーチパン戦争祭だよ」

「戦争祭? ベスルートで千年長城のことを耳にしましたけど、何か関係があるんですか?」

「その通り」

 老人はフランキと名乗り、祭の由来について語りました。

「カスターランドの王は大昔から代々欲張りでな、連中とは長城をめぐって戦いをくり返してきた。我らがラーチランドは最後の戦争には事実上敗れてしまったが、長城はついに落ちなかった。勇敢に城を守った者たちのスピリットを絶やさぬようにと、当時の兵士の子供らがはじめたことなんだ。最初は木製の武器で模擬戦をやっていたんだが、誰がけが人を治すのかだの、材木がもったいないだのと、女たちがうるさくての。それで、五十年くらい前からはごらんの通り、というわけだ」

 駅前通りが静かだったのは、商売そっちのけで祭に参加しているからなのでした。

「それにしても、なぜ私は敵なんですか?」

「その黒衣だよ。カスター軍は黒い甲冑や制服が特徴でな、普通は大人の男の役目なんだ。稀に勇ましい女戦士もいるがね」

 主役のラーチ軍兵士は子供たちで、女たちは鍛冶屋を務めるのが、祭りの慣わしなのだそうです。

「お祭りにしては静かな気もしますけど、戦いは他の場所でも?」

「多くは街の中心、城址公園に集まってるよ。近頃は乱戦が過ぎて、毎年けが人が出ているがね」

 それでも見たければ案内してくれるというので、私はお言葉に甘えることにしました。

 フランキさんは、日のかげりかけた迷宮を、立ち止まることなく歩いていきます。七叉路の一番細い道を選び、突き当たりにカフェがあって行き止まりかと思いきや、建物の脇の急な階段を上って花壇の平石を渡り、軒下のアーチをくぐってしばらく行くと、旧上層民地区に出ました。ここからは計画された街らしく、広い庭と庭の間の明るい道を行き、堀にかかる橋を渡って、やっと城址公園に到着です。

「こ、これは……」

 私は橋のたもとで立ち止まり、その光景に目を見張りました。

 フランキさんの予告通り、壊された城のかけらが残る広場では、誰が誰と戦っているのかわからないほどの混戦がくり広げられていました。これでは遺跡見物どころではありません。

 土地の風物詩を遠巻きに楽しんでから宿を探そう、と考えているとき……。

 背後から声がしました。

「危ねぇ!」

 ふり返ると、フランキさんが頭から血を流して倒れていました。

 高校生くらいの目つきの悪い少年たち三人が、怯えた顔で後ずさり、走って逃げていきます。砲弾を模した硬そうな丸パンが、石畳の上に転がっていました。

「病院はどこですか!」

 私が叫ぶと、近くで槍パンを振りまわしていた長身の少女が西の方を指さしました。

 人が倒れても気づかないほどの大混乱の中を抜けて、西地区へまわるのは得策とは言えません。私は頭をふって物陰を探しました。

 ありました。屋根と壁が崩れ、らせんの石段が見え隠れしている、物見塔の遺跡。周りに縄が張ってあり『崩落の危険あり』『立ち入り禁止』という札がかかっています。

 私はフランキさんを引きずっていって、縄をくぐり、夕日がふりそそぐ廃墟の中に入りました。

 らせん階段の影まで行って、外からは死角になることを確かめると、私はトランクを開け、緑色の生薬軟膏が入った小瓶を取り出しました。

 血が止まったのを見て、私は床に横たわるフランキさんの頭に両手をかざしました。

 肉体が視界から消え、エネルギーの色や形だけがぼうっと現れます。後頭部に小さな赤い玉が見えました。それは徐々に膨らんでいます。

 いけない! 私は急いでその玉に極細の針を刺すイメージを送りました。

「ああ、楽になった。頭が割れるかと思ったよ」

 フランキさんは力なく微笑みました。

「今のは応急処置です。お家で施術のつづきをさせてください」

 老人は私の肩を使って立ち上がると、つぶやきました。

「エルダーの癒師か。信じたことはなかったが……長生きはしてみるもんだ」

 祭りの喧噪を離れ、東地区のアパートに着くまで、彼は私のことを「奇跡の女神」とか「先生と呼ばせてほしい」などと言って、ずっと褒めてくれました。

 大都会の現実にもまれ、大陸の人間に失望しかかっていた私は、優しい言葉に持ち上げられてすっかりのぼせてしまいました。




 第十話 オークの正体



 私は頭に傷を負ったフランキさんを癒すため、彼のアパートで二晩過ごしました。

 第一印象の通り、彼は地元の絵描きでした。でも、家の中に絵は一枚もありません。いちいち売らなければ食べていけないのだとか。

 傷がしっかり塞がったのを確かめた後、私はトランクを開けて荷物を整理しはじめました。あとは自力で治癒できると判断したら、出て行くのが旅癒師の決まりです。

「もう他の街へ行ってしまうのかね?」

 フランキさんは揺り椅子に座って、窓の外を眺めていました。視線の先は、手をのばせば届きそうな、向かいのアパートの窓際に置かれた鉢植えです。

「いいえ、アグリモニーにはもう少しいるつもりです」

 カスターランドで成果が上がらなかった分、私は北国の玄関といわれるこの土地で、修行の遅れを取り戻すつもりでいました。

「それはよかった。実は折り入って頼みたいことがあってな」

「なんでしょう」

 私は下着をたたむ手を止めて聞き耳を立てました。

「近所に幼なじみの子……といっても、もう婆さんだが、とにかく住んでいてな。難病に苦しんでいる。助けてやりたいが、私は見ての通りの貧乏画家だ。君の力で何とかできないかね?」

 難病……黒血病治療での失敗が頭をよぎります。

「私はまだ半人前の仮免癒師ですので、お力になれるかどうか……」

「大丈夫。君ならやれる。神が我らのために遣わせてくださったのだ」

「そ、そんな大げさな。ともかく診るだけ診てみましょう」

 私はのぼせた頭で、フランキさんの後をついていきました。



 老絵師の幼なじみはグレイスさんといい、彼の家から五分と離れていないアパートに一人で暮らしていました。若い頃は結婚の約束をしたこともあったけれど、いろいろあって、別々の人生を歩んだそうです。五十年経った今考えると、その選択は間違ってなかったと、フランキさんは言います。

「だが、笑って話せるのも、彼女が生きていてくれればこそだ」

 そう話をしめくくると、老人はノックもせずにアパート一階のドアを開け、勝手知った風に中へ入っていきました。

 寝室へ通された私は、ベッドに横たわるグレイスさんの姿を見て「あっ」と声をもらしてしまいました。

「石化病……ですね」

 徐々に筋肉が硬くなって動けなくなるだけではなく、皮膚も完全に水気を失って石のように灰色になってしまう難病です。大陸の医者なら大抵はさじをなげると聞きます。

「治せるかね?」

「それは……」

 私の今の実力では、わからない、としか言えません。

 在学中、石化病の患者はエルダー諸島に一人もいなかっため、実地見学の機会がなかったんです。先輩方の施術を一度でも見ていれば、かなりの確率で身に付くのですが……。

 そのとき、グレイスさんが小さくうめきました。

 フランキさんはベッドに駆け寄り、親友を励まします。

 グレイスさんのエネルギー分布をざっと透視してみると、大半は拒絶に使われていました。彼女はきっと、自分の醜い姿をフランキさんに見られたくないのでしょう。

 そんな二人を見ていて、私はたまらない気持ちになりました。

「私にやらせてください。ただし、一つだけ条件があります」

 条件を聞いたフランキさんは、「先生がそう言うなら仕方ない」と口にしつつも、肩を落として部屋から出ていきました。

 グレイスさんは安心したのか、顔に落ち着きの色が見えました。

 さて、問題はここからです。やると言ったからには、少しでも成果を見せなければ、癒師は信用を失ってしまいます。信用がなくなれば、私のような半端癒師は、術が通じなくなるのです。

 私はトランクを開け、分厚い癒術書を取り出しました。



 グレイスさんの寝室にこもってから一週間が経ちました。病状は悪化の一途をたどっています。

 私のほうは、癒術書とにらめっこしては書いてある施術法を試すという日々。小さな文字との格闘つづきで目の奥が痛いです。

 癒術書とは、遥か古代、エキナスという名の女性が独自に体得した癒術の内容を書き記したものです。現存する最古の版は何代目かの写本で、ページが失われたり、書き加えられたりして、オリジナルとは少し違ったものになってしまったと言われています。

 エキナスは当時無人島だった大エルダー島に、四十八人の夫——他に百人の孤児もいたという記述もあります——と渡り、子供を六十人以上産んだという伝説が残っています。エルダー諸島と大陸は、一時的な用事をのぞけば、人の出入りが極めて少ないため、エルダー人ならば彼女の血を引いているといっても過言ではありません。そのうち、なぜか女性だけが、癒術の素質を引き継いでいました。唯一の例外としては……。

「ああ、癒術史なんか読み直して、どうしようっていうの」

 私は本を閉じると、書きもの机に向かって頭を抱えました。焦りのあまり、自暴自棄になりかけています。書いてある通りにやっているのに、逆に石化の症状が進んでしまうなんて……。

 そのとき寝室のドアが開き、口ひげの老絵師が入ってきました。

「あっ」

 私は思わず口を押さえました。忘れてた! 今日は約束の面会日です。

 フランキさんは挨拶もそこそこに、ベッドへ近づいていきます。眠っているグレイスさんの手を取るや、彼は言いました。

「良くなっているようには見えないが。むしろ急に悪くなったような……」

「あの、えっと、これはいわゆる好転反応といいまして、良くなる前の一時的な症状なんです」

 私は繕い笑いを浮かべながら、心にもない大嘘をついていました。

「先生がそう言うなら、そうなんだろう。また来るよ」

 フランキさんが、煮え切らない顔で立ち上がったときでした。

 開けっ放しのドアの向こうから、男の声がしました。

「次に来たときはもう、彼女は天国へ旅立っていますよ」

「誰だね!」

 老人はこわばった顔で声を荒げました。

「そこにいる未熟な癒師は、偽りの言葉を並べて、解決策が見つかるまでの時間を稼ごうとしているだけです。都の雇われ医師と何も変わらない。人を変えなければ、きっと後悔しますよ」

 黒いローブをまとった長髪の美男が現れました。

「お、オークさん!?」

「プラム。君はグレイスさんを殺したいのか?」

「ま、まさか」

 私は急いで首をふります。

「ならばなぜ、できもしない仕事を請け負った」

「それは……医者に診せても無駄でしょうし、通りかかった癒師は私しかいないし……」

「万に一つの可能性に賭けるなら、彼に助言すべきだった。違うか?」

「!」

 私は両手で口を押さえました。涙が止まらない。

 その通りです。フランキさんの愛に賭けるべきだったのです。

「ここは私が引き受ける。よろしいですか?」

 老絵師は黒ずくめの男には答えず、私を見ています。

 私はうなずくしかありませんでした。 

「先生がそう言うなら、仕方あるまい」

 私はオークさんの施術を脇で見つめながら、ずっと涙を流していました。

 そこまで信じてくれていた人に、私は、私は……。



 三日後。グレイスさんの容態は回復に向かいました。

 オークさんの不眠不休の施術と、傍らで励ますフランキさんの信念がかけ合わさり、信じられないほどの浄化力が生まれたのです。

 その日の夕方。施術が一段落したようで、オークさんは「仮眠をとりたい」と言って、寝室から出ていきました。

 私は追いかけていって、彼を呼び止めました。

「あの……ありがとうございました。そして、すみませんでした」

「仕事はまだ終わっていない」

「す、すみません」

「とはいえ、峠は越えた。ひと月も施術をつづければ、歩けるくらいにはなるはずだ」

 私は申し訳ない思いとは別に、大きな疑問で頭がいっぱいでした。なぜなら、癒師はエルダー人でしかも女性にしかなれないはずなのです。

「その……一つ聞きたいのですが、あなたはどうやって癒師に……」

「去勢した。それで満足か?」

「はぅ」

 私は変な声を出すや、顔に熱がこみ上げてきました。

 オークさんが口にしたのは、男が癒師になれる唯一の方法です。男性の癒師はとても珍しく、旅行記を残した人がいたかどうかも記憶にありません。

 オークさんはソファに深く腰かけて目をつぶると、言いました。

「私はしばらくここに残る。君は北へ進め」

「私、オークさんの施術を見て勉強したいです!」

「君が私から学ぶことは何もない」

「な、なぜですか? 優秀な先生の下につけば私だって……」

 短い沈黙がありました。

 黒ずくめの美男は、いら立った顔でつぶやきました。

「なぜ、この子なのだ……」

「えっ?」

 オークさんはハッと目を開き、早口で言いました。

「いや、こちらの話だ」

「あの、それからもう一つ……私、監視されてたんですか?」

 彼は難しい顔で咳ばらいしてから言いました。

「私は旅癒師の守護役を任されている。影の仕事だ、通常は顔を合わすことはないのだがな」

 もしまた出会ってしまったら、それは私が癒術の名誉に関わる失敗をしたときです。

「も、もう会わないように精進します。おやすみなさい」



 翌朝。

 私はフランキさんたちにお詫びとお別れを言って、アパートを出ていきました。

 駅までの道のりを、ずっと考えながら歩いていました。

 今まで見た癒師のなかでも指折りの実力をもっている人だった。あと数年もしたらアンジェリカ学長と肩を並べるかもしれない。劣等生の腑抜けた精神を叩き直すにはいい機会だというのに、彼は学ばせてくれなかった。私には教える価値もないと、判断したのでしょう。

 いつか、見返してやりたい。まずは門前払いを食わないだけの実力は身につけて、そして……。

 頬がひんやりすると思ったら、濡れていました。

 気づけば、アグリモニーの駅はもう目の前です。

「あれ? 地図……」

 迷宮が描かれた地図は、トランクにしまったままでした。



 アグリモニーから列車でさらに北へ半日ほど行くと、ラーチランドの首都クレインズです。東岸鉄道はこの先もありますが、街らしい街はクレインズが最後で、北極圏を越えるともう、漁村と針葉樹の森と氷河くらいしかありません。

 ラーチランドの人口の八割を占める北の都で、私は再起を図るつもりでした。

 ところが……。

 病んでいる人を街で見かけても、身がすくんでしまって、声もかけられません。

 夏の終わりまで私は何もすることができず、安宿の窓辺に座って、道行く人をただひたすら目で追うだけの日々を過ごしました。




 第十一話 失夢症の少女



 新暦二〇一年 秋


 長期滞在ということで、かなり割引してもらったものの、二ヶ月近くも泊まっていれば、それなりに費用がかかります。

 財布が薄くなってきたのを見て焦りはじめた私は、半ひきこもり状態を脱するべく、チェックアウトを決意しました。

 社員三人バイト二人という小さなホテルのご主人は、私を癒師と知った後もこれといった感情は見せず、光った頭をかきながら「ときどきあんたみたいなのが来るんだよ」と苦笑いしていました。

 ホテルを去ろうと玄関に立ったとき、私の怠慢ぶりを心配してくれていたご主人は、一つ情報をくれました。

「噂で聞いたんだが、高台のスレンダーヒル地区の娘でな、医者ではどうにも治せないってのがいるらしい」

「どんな症状ですか?」

「なんだったかなぁ……たしか、夢を見なくなったとか」

「夢というと、寝る時の、ですか?」

「いや、両方の意味でだよ」

 癒術書にそんな感じの症例があったような、なかったような……。

 私はお礼を言って、ホテルを後にしました。



 クレインズ駅前から高台方面へは、馬車も出ていましたが、節約のため、私は歩いていくことにしました。

 カラフルな壁と尖った屋根が並ぶ、北国の街らしい景色を……楽しんでいる余裕などありません。

「ぜぇ、はぁ……」

 中心街が終わったと思ったら、いきなり急坂で、それが高台まで数マース(一マース=約一キロ)延々とつづくのです。地図では平らなのにっ!

 ふり返れば、クレインズの港と、北極探検のために造られた帆船の眺めがとても美しいのですが、前を向くと石畳しか見えません。

「ああ、また抜かれた……」

 鼻息の荒い、二頭立ての馬車が坂を上っていきました。北国の馬は丸太のように脚が太く、力仕事に向いているようです。

 三時間かけてようやく坂を上りきったときはもう、腹ぺこでした。

 坂の上のカフェに駆けこむと、まだ昼前で()いているのをいいことに、ランチを二度も追加注文してしまいました。

 カフェを出るとき、私は後悔しました。

「値段見るの、忘れてた……」

 ここスレンダーヒル地区は、貴族の末裔や大商人、政治家などの自宅や別邸がある、高級住宅地です。当然、物価もそれ相当。原始的な欲求があると、ときどき頭がまわらなくなるので、気をつけねばなりません。

 港湾を見下ろす高台は中心街にくらべると土地が狭く、館も庭も平地の豪邸に比べるとこぢんまりとしています。

 さて、噂の病人をどうやって見つけ出せばいいのでしょう。私はとりあえず、高台を道なりにうろつき、邸宅を見てまわりました。

 一時間もしないうち、警官を三人も見かけた私は、その度に早足で脇道に逃げました。

「ぜぇ、はぁ……」

 どうしてこんな近所にいくつも交番があるんでしょう。地図を見ていて、一つ忘れていたことに気づきました。ラーチランドの冬は雪で道が閉ざされることが多いため、警察や消防の小分署が随所に散らばっているのです。

 点在する交番を避けつつ行こうとすると、だんだん高台地区の外れに追いやられ、ついには坂を下って別の地区へ出てしまいました。

 地図を見直すと、クレインズ都心の北西の外れで、『シルバーヒル地区』と書いてあります。低い丘の連なりが広がっている場所で、牧草地や畑の合間をはしる街道に沿って、古そうな家が並んでいるのが見えます。

 警察アレルギーになっていた私はもう、高台に戻る気にはなれません。病人の噂が不正確だったことに期待して、時代から忘れ去られたような古い街並みの方を歩くことにしました。

 シルバーヒル地区は、ラーチランドによくある派手な色の建物とは違い、素材の色を基調とした木造の家が立ち並んでいました。野原に溶けこむような家屋の色合いが、故郷エルダー諸島の町の雰囲気に似ていて、懐かしさのあまりホームシックにかかってしまいそうです。

 坂を下りきると、丁字路の突き当たりで、道は二手に分かれます。小さな街の中心部はゆったり流れる川に沿った形で、道なりにつづいていました。標識を見ると、左手は『アロー高原』、右手は『シルバーヒル支所』『クレインズ都心』とあります。

 役所に行けば何かわかるかもしれない。そう思って、私は馬車道を右手のほうへ歩き出しました。

 河原に群生する黄色い花が目を引きます。あれはなんという種なんでしょう。薬効はあるのかしら?

 などと考えていると、いきなり胸元に衝撃が走り、私は尻餅をつきました。

 道端に長い栗毛をした十歳くらいの女の子が、鼻を押さえて立っています。

 私がよそ見をしていたからでしょう。すぐに立ち上がって謝りました。

「別に、いいけど」

 少女は表情を変えずに言いました。

 左胸に紋章のあるジャケット。平たい鞄を背負っているところを見ると、きっと学校帰りなのでしょう。

「あの、失礼ですけど……」

 私は夢を見なくなった女の子のことを尋ねようとして、ためらいました。噂になっているとはいえ、小学生が理解できるような話ではありません。

「見かけない顔ね」

「地図のずっとずっと東にある、エルダーという島国から来ました」

「あ、そう」

 沈黙。

 あ、あれ? 大抵の子供は、異国の話を珍しがって食いつくものなのですが……。

「えっと、私は癒師というお仕事をやっていまして、あ、でもまだ半人前の仮免でした。ちゃんとした癒師になるためには、旅をして本試験に通らないといけないんですが……」

 私は要領を得ない説明を長々として、途中で後悔して口を閉ざしました。

「それで?」

 沈黙。

 会話がつづきません。なんでしょう、この苦手な感じは。それよりも、少女の好奇心の薄さが気になってきました。

 私は名前や歳を言ったり訊いたりして足止めしつつ、透視を使って彼女のエネルギー状態を調べてみました。

 胸から下の色分布がくすんでいて、何色だかわからないくらいです。そのせいで、頭のほうの気の流れも滞っていました。

 この女の子……ミルラさんは、希望を持つためのエネルギーが極めて低い。

 もしやと思い、一つ質問をしました。

「あの、ちょっと変なことを訊きますけど、最近夢を見たのはいつですか?」

「覚えてない」

「将来の夢は?」

「別に」

 沈黙。

 むぅ、遠回しすぎる質問だったかもしれません。

 もじもじしていると、ミルラさんがつぶやきました。

「医者とおんなじこと訊くのね」

 や、やっとまともにしゃべってくれた! 私は喜びをおさえつつ、話をつづけました。

「医者にかかった時のことを、詳しく教えていただけませんか?」

 ミルラさんは表情を変えず、私の目を空かして遠くを見たまま、語りはじめました。

 同じ物を永遠に作りつづける機械のようなリズムを前に、私は自分が誰だったか忘れてしまいそうな感覚におそわれました。

「は、はりがとうございます」

 私は両手で顔を張って正気を取り戻しました。

 ミルラさんはたしかに、噂の少女でした。数時間前、高台のカフェで昼食を待っている間、癒術書をめくって噂と照らし合わせてみたとき『失夢症(しつむしょう)』の項が目を引きました。家庭に問題のある子供に稀に見られる症状で、一言でいえば文字通り、あらゆる『夢』を見られなくなってしまう心の病です。内臓の炎症などのように急を要するものではありませんが、人生を左右しかねないという意味では、これも見逃すことはできません。

「まだ、何か?」

 ミルラさんは帰る方向を見つめたまま、苛立つこともなく、私が道を譲るのを待っています。

「あなたのことを、ぜひ私に診させてください」

「私に言われても」

「そ、それもそうですね」

 背が低くて顔も幼いですが、彼女は十二歳。あと三年もすればこの国では小学校の教員免許が取れる、大人の一歩手前です。とはいえ、未成年は未成年ですから、両親の承諾は絶対でしょう。

「来れば?」

 ミルラさんは私をよけて、すたすた歩きはじめました。 

 私はあわてて後についていきました。



 ミルラさんの家は、川沿いの馬車道から少し外れたところにありました。林を背にして、二階建ての木造の家が一軒だけぽつんと立っています。庭はあまり手入れされておらず雑草が目立ちます。近所の土地は、伸び放題の草木と朽ちかけた柵だけが残っていてました。さりげなく理由を訊いてみると、「ここじゃ、仕事ないから」とミルラさんはつぶやきました。

 玄関のドアを開けると、ミルラさんは入ってすぐ左にある階段を上っていきました。

「あ、あの、ご挨拶を……」

「夕方まで誰もいないわ」

 足音が遠ざかっていきます。

 私は念のため「失礼します」と、廊下の方へ声を張って、二階へ上がりました。

 ミルラさんの部屋は玄関の真上にあって、まっすぐ伸びた小道の先に川を望む、見晴らしのいい場所です。

 部屋に入ってすぐ、私はマットの上で靴を脱ぎ、素足で部屋に入りました。部屋を出て家の中を歩くときは専用のスリッパを使います。これはラーチランド独特の習慣です。

 ミルラさんはすでにラフなワンピースに着替え、机に向かっていました。

「宿題終わったら、好きにしていいわ」

「ど、どうも」

 私はベッドの端に座って待つことにしました。友達でもないのに失礼かと思ったのですが、他に腰を落ち着かせるものがないのです。ベッドと本箱と机があるだけ。壁は真っ白で飾り一つかかっていません。これではまるで、安い素泊まりホテルです。

 やがて、ミルラさんはテキストを閉じ、イスを動かしてこちらを向きました。

「診たければ、どうぞ」

 透視を使って診察してもよかったのですが、今回は問診からはじめることにしました。心の病は生活習慣や環境が原因であることが多く、そこを直さなければ、たとえ癒すことができたとしてもすぐに再発します。

 私は考えておいた質問をぶつけてみました。

 ミルラさんは、まるで新聞記事を棒読みするかのように、家族のことを答えていきます。

 父親の名はボローニ。クレインズ市シルバーヒル支所に勤める公務員です。平日は仕事柄、規則正しい生活をしていますが、休日になると都心へ出かけていって、プリックボールに興じているそうです。プリックボールとは、釘を打った傾斜台に点数付きの穴があいていて、下の方から玉を棒で突いて得点を競う、賭博の一種です。

 母親の名はサルビア。基本的には専業主婦ですが、雪のない時期はよく近所の農園の手伝いに行っています。それは建前で、実はロクに作業もせず、女同士で駄弁っているだけなんだそうです。

 毎週、同じことの繰り返しで、家族で買い物に行ったり遊んだりすることは滅多にありません。唯一、三人が時間を共にする夕食も義務のように済ませ、あとはそれぞれの世界に浸ってしまうのです。

 ただ、はじめからそうだったわけではありません。ミルラさんが大きくなって、手がかからなくなるにつれて、三人の心の距離が開いていったのでした。

 学校ではいつしか鉄仮面と呼ばれるようになり、気づけば友達は一人もいなくなっていました。でも、ミルラさんはそれを何とも思っていません。顔を見ていれば、強がりではないとわかります。感情そのものを失ってしまったのです。

 いつからか、ミルラさんがまったく感情を見せなくなったことに気づいた両親は、さすがに心配して、地元の医者にかかることにしました。質問を重ねていくうち、医師は彼女からあらゆる『夢』が失われたことに気づきました。

 アドバイスに従い、両親はミルラさんのことをなるべく構うようにしたのですが、効果は見られません。

 困り果てた医師が出した結論は『時間が解決するだろう』でした。思春期にさしかかる頃、感情が不安定になるのはよくあることだと言うのです。

 その答えになぜか納得した両親は、またいつもの暮らし方に戻っていったそうです。

「な、なるほど。少し話が見えてきました」

 私は喉が渇き、声が掠れていました。

 事態は深刻です。しかし、ミルラさんは生きている人間。夢をなくしたとしても、好きなことが一つくらいはあるはずです。その辺りをつついてみることにします。

「ああ、ケーキは好物かもね」

 ミルラさんはぼそっと答えました。

「そ、それですよ! ケーキ屋さんになりたいとか、思ったことはないですか?」

「クレインズのスイーツ店は競争が激しいの。まず土地代が高い。それから経営にも詳しくないとダメ。美味しいかどうかなんて、その後よ」

「な……」

 なんという夢のない話でしょう。小学生の発言とはとても思えません。

「私は美味しいことが第一だと思いますけど。食べ物なんだし……」

「素人は何も知らなくて幸せよね」

「す、すみません」

 釈然としませんが、つい謝ってしまいました。

 でも、かすかな光明は見えました。ミルラさんは、お菓子屋さんになる夢を、以前は持っていたはずです。そうでなければ、あんなに詳しいはずがありません。

 個人の問題ならまだよかったのですが、家庭のことが絡んでくると、ハードルは一気に高くなります。せめてミルラさんだけでも元通りにしてあげたい。とすれば全寮制の学校に転校? でもお金が……。

 などと考えているとき、一階のほうで物音がしました。

 私がベッドから立ち上がると、ミルラさんは言いました。

「ママよ。あと十分もすればパパも帰ってくる。それからにすれば?」

 窓際に立って少し待っていると、男の人が小道を歩いてくるのが見えました。四十手前くらいで、身なりは公務員らしく整っていますが、顔に覇気は見られません。

「ついてきて」

 私はミルラさんに従って下の階へ行き、居間でくつろいでいるボローニさんと対面しました。

 お互いためらいつつ口を開こうとしたとき、ミルラさんが私の紹介をはじめました。まるで説明書をなぞるかのように、知っていることを一から十まで順を追って並べていきます。

 私がエルダーの癒師と知っても、ボローニさんは顔色を変えずに言いました。

「泊めるだけでいいなら構わんよ。好きにすればいい」

 母親のサルビアさんは、居間の奥にあるキッチンで野菜を刻んでいます。パーマがかかった栗毛は細部まで手が入っていて、都心の高級美容室に飾ってある写実画のようです。

 サルビアさんは、手を止めることなく言いました。

「ランチは出ないからね」

 なんといいましょうか、施術のために人様の家を訪れたつもりが、間違って民宿にやってきてしまったような錯覚におそわれています。

「で、では、私のやり方でやらせていただいて、よろしいですね?」

 ボローニさんは新聞を読みふけり、サルビアさんは鍋の汁をかき混ぜています。

「ダメなら、そう言うわ。もういいでしょ?」

 ミルラさんはもう廊下のほうへ歩き出しています。

 私はさっと頭を下げ、居間を後にしました。

 拒絶されたり過剰な干渉を受けるよりはましですが、放任というのもなんだか張り合いがありません。でも、贅沢は言っていられません。

 その日から私は、一日の大半をミルラさんの部屋で過ごすことにしました。




 第十二話 笑いと癒術



 私とミルラさんは、食事のときも寝るときも部屋で一緒に過ごしました。私はひたすら観察につとめ、彼女が学校のときは、得られた事実を癒術書と照らし合わせる、という日々がつづいていました。

 癒術の祖エキナスが原著とされる癒術書。大抵の病気について書いてありますが、失夢症のことは症例が載っているだけで、治療方法が見当たりません。長い年月の間に失われてしまったページに書いてあるのでしょうか。癒術学校の五年間で学べることは限られています。マイナーな病気は知識だけで終わってしまうことが多く、治療法があるのかないのかさえ知らなかったという次第です。



 秋も深まり、枯れ葉が舞い散るようになったある日のこと。

 私は相変わらず部屋の主の留守をあずかり、机に向かって分厚い本と格闘していました。

 類似した病気のあらゆる施術法を試しても、まったく効果が見られません。

「癒術にもできないことがあるのかしら」

 一人で弱気なことをぶつぶつ言っていると、ミルラさんが学校から帰ってきました。

「一から部屋を暖めなくていいのは楽ね」

「あぅ、すみません」

 暖炉の薪にかかるお金は大丈夫なのでしょうか。二ヶ月近くも置いていただいているのに、何の進展もお見せできないというのは、心苦しい限りです。

 私は机を明け渡し、ベッドの上で足を抱えました。

 ミルラさんは黙々とノートに何か書きこんでいます。

 成績は常に学年トップ。勉強が好きなのかと思いきや、「大学を出れば、食べられないことはないから」という答えが返ってきました。ラーチランドは基本的に学歴社会、彼女の言ったことは事実です。

 事実ですが「学科はなんでもいい。点数がよかったやつ」と言われると、なんともいえない寂しさを感じます。たとえ数学が百点で、癒術が十点でも、私なら好きな方を選びます。実際、私の成績は、筆記テストだけ見れば一般教養の方が良かったくらいです。



 ミルラさんの勉強時間と夕食が済むと、ランプの明かりの下、私はまた机に向かいはじめました。ペン立ての隣では、近所の雑貨店で買ったアロマキャンドルが灯っています。疲れてくると、暗いというだけで眠くなってしまうので、つんとする香りと炎の明かりの二段構えです。

 ミルラさんはベッドに座って、私の様子を観察しています。

 ページをめくる音と、夜風が窓をたたく音だけがありました。

 しばらくして、ふと窓の外に目をやると、白いものがちらついているのがわかりました。

 恐れていたことが現実になってしまった。ラーチランドに厳しい冬がやってきたのです。クレインズから北は北極圏。都をのぞいたほとんどの町や村が陸の孤島と化します。

 まさか、一つの街で半年も過ごすはめになるとは……。

「もうっ!」

 私は何もかも嫌になって立ち上がり、持っていた癒術書を天に放り上げました。

 しまった! そう思ったときはすでに遅く……。

 重たい本が翼を広げ、見上げる私の顔に落ちてきました。

 首の骨が鳴ったかと思うと、私は後ろによろめき、机にしがみつこうと本能的に手をのばしました。その先にはアロマキャンドルの炎。

「熱っ!」

 幸い転びはしなかったものの、私はたまらず冷やすものを探しました。

 花瓶! 私が買ってきた赤い花々がさしてあります。

 花の束を引き抜いて、手に水をかけようとしたときでした。

「いぎっ!」

 そうだった。これはバラの変種で、トゲが……。

 茎から手を放したとき、花瓶が傾いていることに気づきました。

「あっ!」

 花瓶は足の甲を直撃。

 私は痛めた足を、火傷したほうの手で握ってしまい、あちこち飛び跳ねた後、床に転がってじたばたしました。

 ああもう、人生最悪の失態です。

「ヒッ、クッ……ヒハハハハ!」

 笑い声に驚いて顔を上げると、ミルラさんがお腹を抱えている姿がありました。

「見たことない……そんなの見たことない!」

 ミルラさんは小一時間ものあいだ、私の顔を見るたびに吹き出しました。

「そこまで笑わなくたって……」

 なんだか、珍妙な生態で知られる動物になったような気分でした。



 ミルラさんは部屋の明かりを消して寝床についてからも、ときどき思い出してはクスクス笑っていました。

 広めのベッドなので、二人どうにか横になれます。

 私はすぐ隣で眠れずにいました。

「もう、いい加減に……あれ?」

 ミルラさんは目をつぶったまま笑っていたのです。

 まさかと思って、彼女の額に手をかざそうとしましたが、ヒリヒリして瞑想に集中できません。

 今日はもう無理か……そう思った数秒後、私の顔は枕に沈んでいました。



 翌朝、私はミルラさんに揺り起こされました。

 私は半分の目で、まわらない口をどうにか動かします。

「ほんなはやくらら、ろーしたんですか?」

「私やっぱり、ケーキ屋になることにしたわ」

「ら?」

「癒師のくせにだらしない顔ね。水でもかぶってきたら?」

 洗面所の凍るような水で顔を洗ってから部屋に戻り、改めて質問しました。

 私の耳は正常でした。

「あの、すぐにでも診させてください」

 透視の結果、ミルラさんを包んでいるエネルギーは鮮やかな色を取り戻しつつありました。

「信じられない」

 連日にわたる渾身の施術をもってしても岩のごとく変わらなかったのに、たった一晩で何が起きたというのでしょう。

「昨日ね、久しぶりに夢を見たの。ケーキ屋のパティシエ兼社長になったのが一つ。あと、光の中から男でも女でもない声がして『君の恩人は真実を一つ取り戻した』と言ってたわ」

「取り戻した?」

 どういう意味でしょうか。ともかく、これまでと何が違っていたのか、どんなに考えてみても、あのドジな一件しか浮かんできません。

「ま、とにかくそういうことだから」

 いきなりの解決にとまどいつつも、私は話をつづけました。

「でも、ご両親との関係を直さないことには……」

「いつだったか、全寮制の中学に行く気はないか、って言ってたわよね?」

「それは……」

 ミルラさんを二人と引き離すのは、最後の手段だと考えていました。

「私の成績なら奨学金が出る。タダだったら私が何しようと、あの人たち文句は言わないわ」

「……」

 あの人たち……か。

 ミルラさんの自発性を曇らせたくなかった私は、ひとまず契約が終わったということで、この家から出ていくことにしました。いつの日か真の癒師になったとき、また様子を見に来たいと思います。

 私はミルラさんの両親に宛てた手紙を書き、机の上の癒術書をトランクにしまうと、黒衣の上に黒のコートを着ました。

 念のため財布の中身をたしかめます。

「うっ!」

「どうしたの?」

 ミルラさんは背伸びして財布を覗きこみます。

「旅費が……底をつきました」

 日々の出費はランチ代だけと思って油断していました。塵も積もればというやつです。

 そんなそんなそんな、まだ行程の半分も行ってないのに!

「春までいたって、別に構わないけど?」

「いえ、対価のない滞在は旅癒師の掟に反しますので……」

「でも、文無しでこれからどこへ行けるっていうの?」

 ミルラさんの言う通り、馬車代も残っていないようでは、この街から出る事もままなりません。

「せめてクレインズの都心まで行くことができれば、なにかアルバイトを……」

「バイトしたいなら、当てがあるわ。ついてきて」

「え? あ、ちょっ……」

 ミルラさんは有無を言わさず私を外に連れ出しました。

 私たちは馬車道に出て、川沿いを少し歩き、橋を渡ってすぐそこにある『オーキッド』という名の丸太造りのカフェの前で立ち止まりました。まわりに他の建物はありません。行き先のわからない林道がつづき、枯れ野原が広がっているだけです。

「厳しい人だけど、今人手が足りてないから、見る目が甘くなってると思う」

「……」

 私は生唾を飲みこみました。お皿を割るたびに体罰があったらどうしよう。

 ぐずぐずしている私を見て、ミルラさんはさっとドアを開けました。

 しまったと思ったときは、すでに手を引かれて店の中でした。

「あら! 久しぶりじゃない」

 赤毛の若い婦人が、カウンターの向こうで皿をふいています。肌は少し色があって、北国出身の人ではないと一目でわかります。店は朝開いたばかりのためか、お客は誰もいません。

「復活したから。もう心配ないわ」

 ミルラさんはもじもじしています。きっと、照れくさいのでしょう。

「その人は?」

「人手が欲しいんでしょ? 来年の春までだけど」

 店主の名はドゥレヤさん。数年前にこの地に嫁いできた人です。でも、今年の春、前店主の夫がお客の女性と駆け落ちしてしまったため、今は一人で店を守っている身なのでした。ちなみに子供はいません。

 ミルラさんは、私のお尻を小突きました。

 自己紹介は終わったのですが、まだ自分から雇ってくださいとは言っていません。

「心の準備がまだ……」

 私はミルラさんと密談をはじめました。

「明日のパンも買えない人が、何言ってるのよ」

「で、でも、厳しいって……」

「今のあなたに選ぶ余地はないのっ」

 ドゥレヤさんは流しで手を洗いながらクスクス笑っています。

「なるほどね。採用決定。部屋はヤニくさいけど書斎を使って」

「え?」

 私は耳を疑いました。今の醜態は見ていたはずですが……。

「じゃ、私、学校あるから。すごい遅刻だけど」

 ミルラさんは走って店を出ていきました。

「あ、待っ……」

 本職じゃないところで、いきなり二人きりなんて。どうしよう。

「なぁに? 人見知りなの?」

 ドゥレヤさんはカウンターに肘をついて、私を眺めています。

 図星です。態度に出ちゃってるんでしょうか?

「患者さんが相手のときはそうでもないんですが、それ以外だと、ちょっと……」

「料理は?」

「全寮制学校で五年間自炊していたので、それなりには……」

「厨房に置いておくには惜しいわねぇ」ドゥレヤさんは私の顔をまじまじと見つめます。「バカな男がほいほい金落としてってくれると助かるんだけど」

「な、なにをおっしゃいます。マスターのほうが全然美人だし……」

「お世辞を言っても時給は上がらないよ」

 ドゥレヤさんは厨房に消えました。かと思うと、チーズケーキのかけらを持って再び現れました。

「おやつは増えるけどね」

 どうやら、ミルラさんは私をからかっていたようです。ドゥレヤさんが手厳しいのは、男性相手に限ってのことでした。

 私はいただいたケーキを頬張ります。

 ドゥレヤさんは微笑むと、私の手をとって言いました。

「ミルラのこと、感謝してる。あの子ね、あたしとしか話さなかったんだ」

「わはひは、なにほ……んんっ、おうっ!? なにも」

「ラーチのチーズケーキは粘っこいから気をつけてね」

 女主人はしたり顔で笑っていました。

 どうも私は、ありがたくない才能を持っているようです。

 こうして私は来年の春まで、カフェ『オーキッド』で、住みこみのバイトをさせていただくことになりました。




 第十三話 雪獅子ウィロー



 新暦二〇一年 冬


 シルバーヒルの野山が一面雪でおおわれ、川が凍りつき、人々も獣たちも年の暮れを静かに迎えようとしていました。

 そんなある日の夜。

 最後のお客がコーヒーをちびちびやりながら、カウンターをはさんでドゥレヤさんと話こんでいました。

 私はカウンターの端でひと休みするフリをして、聞き耳を立てています。

 クレインズの北に広がる小高い針葉樹林帯をアロー高原といいます。毛玉だらけのセーターを着た堅太りの男は、そこから木材を運び出す仕事をしていました。

 キャンディーというあだ名をもつ、下戸で有名な男は言いました。

「そんなわけでこれからは、その銀樹(ぎんじゅ)ってのが燃料の主流になるんだとよ」

 銀樹とは近年、ある冒険家によって発見された、アロー高原の奥地に生えている固有種のことです。日の光が当たるとすべすべした白い幹が銀製品のように見えることから、そう呼ばれるようになったそうです。キャンディー氏によれば、銀樹を切ってできた薪は、他の木材はおろか、石炭の数倍も熱を出すため、工業の発展に欠かせないものになるとのこと。

 銀樹が発見されるまでは、ラーチランド国民は漁業と林業中心で暮らすことに満足していました。しかし、戦争に敗れたことを心の底では認めていなかった彼らの多くは、いつかは経済戦でやっつけてやろうと企んでいました。そこに、今までの工業の常識を覆す、強力な新資源が現れたのです。

「これだから男ってのは手に負えないのよ」

 ドゥレヤさんは、男の話になるといつも決まり文句を口にするのでした。

「まぁ、そう言うなって。シルバーヒルが銀樹輸送の基地になりゃ、この店にも金が落ちるだろうが」

「そりゃ……そうだけどさ」

 カフェ『オーキッド』はバイトを一人雇うのがやっとの店です。お金の話になるとマスターは男の悪口を言わなくなります。

「ただ、問題が一つあってな。伐採が進んでこの頃は、雪獅子(ゆきじし)のなわばりとカブるようになっちまった」

「雪獅子?」

 私は思わず話に分け入ってしまいました。どこかで聞いたはずだけれど、なぜか思い出せない。そんな名前でした。

「なんだ、知らねぇのか? ああ、そっか。嬢ちゃんは東っ()の魔女っ子だものな」

「魔女っ子……」

 憎まれてるのか愛されてるのか、微妙なところ。返す言葉に困ります。

 キャンディー氏は面倒くさそうな顔で話をつづけました。

 雪獅子とは、かつてはアロー高原全域に生息していたネコ科の大型動物で、雪のように毛が白いというのが特徴です。雪獅子は毛皮が高価で取引されるため、一時期乱獲され、絶滅したとされていました。しかし、銀樹とともにその群れが再発見されてからは、天然記念物として保護指定され、捕獲禁止となったそうです。

 私は頭の中で話をまとめました。

「雪獅子たちが逃げこんだ先が、銀樹の森の奥だった。銀樹の伐採を進めるためには、彼らをどうにかしたいけれど、法律が邪魔で手を出せない、ということですか?」

 キャンディー氏はうなずきました。

「そう、それだ。最近は襲われて命を落とす奴も出てきた。次の選挙は、滅ぼしちまう派が勝つかどうかが焦点だな」

 もし急進派が勝ってしまったら……。そう思うと、私の脳裏に黒い雲がたちこめました。問題は雪獅子だけではありません。樹木は庭の雑草のようにはいかないのです。

 キャンディー氏は真っ暗な雪道を一人で帰っていきました。

 男の丸い背中を見届けた後、私は一つの思いにかられるようになりました。

 ともかく一度、その雪獅子を見てみたい。話はそれからだと。



 年が変わり、正月休暇明けの早朝。

 私はさらに何日かお休みをいただきたいと、ドゥレヤさんにお願いしました。

「年始は暇だから別に構わないけど。なに? デート?」

「いえ、その……観光です」

 本当のことはまだ口に出せません。

「ミルラん()にこもった後、すぐ住みこみバイトだもんねぇ。いいよ、行っといで」

 さらに言うと、その前は駅前の安宿に長く引きこもっていたんですが……。

 私は支度すると、雪深い道を歩いていきました。凍った川にかかる橋を渡り、踏み固められた馬車道に出ると、街ではなく北の方へ足を向けました。

 粉雪がちらつく中、しばらく歩いていると、後ろの方から馬の鼻息とソリを引く音が近づいてきました。

 私はふり返ってよく確かめました。

 空のソリ……クレインズ港へ木材を運んで帰ってきたところです。

 私はあらかじめ白い布に書いておいたものを、馭者に広げて見せました。

 馭者は馬を止めると、怪訝そうな顔で言いました。

「ああン? アロー高原? そりゃ行くけどよ」

「銀樹を一目見たいんですけど、乗せてもらえませんか? 直通の馬車がなくて困っていたんです」

「そんなんあるわけねぇだろ。ただ木が生えてるだけだしな。嬢ちゃんが期待してるような観光地と思ったら大違いよ。ま、最近は何もねぇところにこそ興味があるっていう、イカレた奴も少なくねぇけどな」

「私はどう思われても構いません」

 馭者は馬車道の先に広がる雪山を見つめました。

「銀樹の森……あそこだけはやめておけ。雪獅子に食われたくねぇならな」

「私は癒術の修行をしている者です。足腰の痛みに悩んでいる林業の方々を癒す代わりに、銃を背負って森をガイドしていただくというのはどうでしょう」

 施術をエサに取引することは、癒術界では禁じられていますが、生物界の荒廃に比べたら大したことではありません。

「乗せていったら、俺にもやってくれる?」

「もちろんです」

「ようし、こっからは急行列車で行くぜ。先生は特等席へどうぞ」

 鞭がしなると、馬ソリは勢いよく走り出しました。

 私は馭者の真後ろに立って震えていました。横からの地吹雪で体の右半分が真っ白になってしまうという、なんとも貴重な体験のできる特等席でした。



 アロー高原の頂にある、林道沿いの小さな集落に着いた頃、私はすっかり雪女になっていました。集落といっても、材木会社の宿舎や事務所などが並んでいるだけ。生活感が漂ってこない、心が寂しくなるような土地です。

 そんな印象とは裏腹に、私は丸太造りの事務所でランチとスープをごちそうになった際、つい「いい所ですねぇ」を連発してしまいました。凍死しかけているとき、温かいスープに勝てるものなんてあるでしょうか?

 その日の伐採運搬作業が終わると、私は体に痛みを訴える人々を集めて、流れ作業で施術を行いました。一人だけ、関節に異常があって、街の外科へ行くようすすめましたが、あとは大事なく終わりました。

 夕食の後、しばらくすると男たちは寝静まりました。

 私は宿舎を抜け出し、一人で銀樹の森へ向かいました。まっさらな雪原を満月が照らしています。

 ここまでは計画通りです。私は誰にも邪魔されず、雪獅子を見たかったのです。ただ、内緒でお借りしたスキーが思ったように滑らず息が上がってしまい、練習不足だったと反省しています。

 目指す森は、材木集落から八マース(一マース=約一キロ)北へ行ったところに広がっていました。

 ふり返ると、私のスキー跡だけが木々の間を縫っていました。

 月が雲に隠れ、針葉樹の森は立体感を失いました。時間の感覚が薄れてしまい、今どこにいるのかはっきりしません。

 しばらく行くと、雲が切れて満月がまた顔を出しました。

 私はきらめきに囲まれていました。

 ハッとして見渡すと、白い柱が立ち並ぶ、古代神殿のような場所に立っていました。

「ここが、銀樹の森……」

 幻想の風景に心を奪われながらも、さらに進むと、現実が待っていました。

 伐採の跡です。なぜここを選んだのかは知りませんが、密林のなかにぽっかり穴があいたように、切り株だらけの荒野が広がっていました。

「こんなことをつづけていたら、森がなくなってしまう」

 銀樹を欲している人々は、この珍しい木が無限にあるとでも思っているのでしょうか。いま流行りの石炭だって同じことです。

(この娘はわかっているようだな)

「えっ? 誰?」

 どこかから声がした気がして、私は辺りを見回しました。

(ほぅ、私の声が聞こえるのか。本物の癒師がまだこの地上にいたとはな)

 私以上に、声の主も驚いているようです。

「あの、どちらさまですか?」

(私はウィロー。おまえのすぐそばにいる)

 予感がしてふり返ると、目の前に、真っ白な獣がたたずんでいました。

「ひやっ!」

 私はスキーをはいたまま真横に倒れ、体半分、雪に埋まってしまいました。

 大きな獅子はググルと喉を鳴らしました。私のことを笑っているようです。

(気配を悟れず、念話も聞きとるだけか。まだまだ雛っ子のようだな)

「学校を出たばかりで、旅の途中なんです」

 私はストックを頼りに起き上がりました。

 白い獅子は雪まみれの私をじっと見つめています。

(国の至宝に護衛もつけず送り出すとは、エキナスの末裔もそろそろ(しま)いか)

「監視役ならいましたけど……って」

 私、動物と普通に話している? でも、相手は口を動かしていません。

 これはもしや、心に直接話しかける念話というものでしょうか。念話は失われた癒術の一つとされ、現在の癒術書には載っていません。使い手は癒術学校のアンジェリカ学長が最後の一人と言われています。頭で理解できる類のものではないので、学校では習得できません。何かがきっかけで、それだと『わかる』しかないのです。

 失われたはずの業を、この獅子はいったい、どこで身につけたのでしょう。そんなことより、何の企みがあって、駆け出しの私のことを至宝などと持ち上げているのでしょう。気持ちが悪いです。

「あの、くり返すようですが、私はまだ正式な癒師ではなくて……」

(肩書きなどどうでもよい。おまえはもっと自分のことを知らなくてはならない。わからぬうちは、アンジェリカさえ超えられないだろう)

「ご、ご存知なんですか? 学長のこと!」

(なんだ、まだ生きていたのか。気苦労の多い娘だから、長生きしないと思っていたがな)

 私は学長と癒術学校のことを短く話しました。

(なるほど。おまえが入学してきたとき、彼女はさぞかし狂喜したことだろう)

「恥ずかしながら、私の代では、私が一番怒られたんですけど」

(自分を知れ。さすれば、枯れかかった大地に奇跡が起きる。私がおまえに言いたいことは、それだけだ)

 ウィローさんは、おかしなことばかり言います。半人前以下の私をつかまえて、至宝だの奇跡だのって……。

(ところで、おまえは我々に聞きたいことがあるのだろう?)

「そ、そうでした」

 私は銀樹伐採の脅威について、知っていることを話しました。

 ウィローさんはため息をつきました。

(毛皮の次は銀樹ときている。人間の欲にはキリがない。いずれ地下に埋まっている別の資源も見つけるだろう。それを掘り尽くすまでに目覚めることができなければ……)

「……」

 私は喉を鳴らしました。

(人は滅ぶ。動物も大勢、巻き添えを食うだろう。だが、小さき者や弱き者は生き残る。彼らは見過ごされがちだが、変化には柔軟なのだ)

「早くみんなに知らせなければ……」

(やめておけ。頭だけでものを考えるようになった今の人間は、目に見えるものしか信じようとしない。おまえは刑務所か精神病院へ送られるだろう)

「そんな……では、私はどうすればいいのですか?」

(遠い未来のことはまだ考えなくてよい)

「……」

(実はな、人間はまだ知らぬようだが、銀樹の排煙や燃えかすは、水や雪と混ざると有毒なものに変わるのだ)

 その水で育った生き物が、人の口に入る頃には、毒が濃縮されて……。

「犠牲を差し出して教訓を得ろと言うのですか。私はそんなの見過ごせません。銀樹が有害資源とわかっているなら、先に証明すればいいじゃないですか」

(では、どうする?)

「今はともかく、できることをやるだけです。ラーチランドの行政に掛けあってきます」

(政治家は突き詰めると、(わたくし)の利でしか動かん。今は神に祈るがいい)

 ウィローさんはググルと笑いました。

 私はむっとして言いました。

「祈って待っているだけなんて、私にはできません。とにかく行動せよと、アンジェリカ学長もおっしゃっていました」

(フフ、彼女はそう言ったか。また会おう)

 白い獣は闇に消えていきました。




 第十四話 鉄路の果てへ



 新暦二〇二年 春


 溶け残った雪のすきまから湿った土が顔を出し、ラーチランドに遅い春がやってきました。

 私はカフェ『オーキッド』の前で、ドゥレヤさんと別れの抱擁を交わしました。

「妹を亡くすときってのは、こういう気持ちなんだね」

 ドゥレヤさんは咽びながら言いました。

「え、縁起でもないことを……」

 私は涙を拭きながら苦笑い。

「代わりに私を抱けばいいじゃない」

 ミルラさんは私のトランクを持ち、白けた顔で出発を待っています。

「ったく、どこでそんなセリフ覚えたんだい」

 そう言いつつも、ドゥレヤさんはうれしそうでした。

 私は昨晩をもってバイトを辞めましたが、その枠をミルラさんが引き継ぐことになったのです。

 私とミルラさんがカフェの前を発って、すぐそこの橋の上にさしかかったとき、ドゥレヤさんは言いました。

「結果オーライなんだから、あんまり落ちこむんじゃないよ!」

 私はふり返って、深くお辞儀しました。

「大丈夫です。ありがとうございました!」



 馬車道に出て、最寄りの停留所へ向かっていると、雪解けが進む河原の茂みの方で気配がしました。

「彼が来ている」

 ミルラさんは私の視線を追います。

「ウィロー?」

「はい。ここを発つ前に少し話しておきたいのですが」

 ミルラさんもそばで見たいというので、私たちは残雪に足をとられながら、土手を下りていきました。

 雪獅子は茂みに身を潜めて私たちを待っていました。

 白い獣は私の顔を見てニッと牙を見せます。

(よくぞ見つけた。成長したようだな)

 私は小声で言いました。

「あ、ありがとうございます。というか、こんなところで何してるんです。保護区域の外にいたら殺されちゃいますよ?」

(今回は難を逃れたが、人間はいつ心変わりするかわからんのでな。情報集めは怠れないのだ)

 ウィローさんと出会った後、私はクレインズ都心にある行政機関を方々訪ね、銀樹の有毒性について説いてまわりました。農林省も市役所も、私を狂人やカスターランドの犬扱いして、まったくとりあってはくれず、その末にすべての庁舎を出入り禁止となってしまいました。

「悔しいですが、あなたの言った通り、無駄な努力でした」

 材木会社の人々は、私が騒動を巻き起こした後も、何事もなかったかのように銀樹の伐採をつづけました。

 そして春が近くなったある日、私は新聞を見て驚きました。伐採作業中、雪獅子に噛まれた男が高熱を出して死亡し、看病していた者も同じ症状で次々と命を落としていったというのです。流感に似たその病気は治療法がわからず、クレインズの人々は『雪獅子の祟りだ』と言ってパニックになりかけました。その事件を受け、ラーチランド政府は、銀樹の森とその周辺を『聖域』と定め、人間活動の一切を禁じることにしました。

「ウィローさんは、獣から人に伝わる病気のこと、はじめから知っていたんでしょう?」

(病気は太古の時代から存在していたが、人を殺すほどではなかった)

 銀樹の一件は、神の見えざる力が働いて一挙解決……私にはそうとしか思えませんでした。獅子の言うとおり、祈るだけでよかった……のでしょうか?

(そうがっかりするな。カフェで皿を洗ってばかりいたら、結果は違っていたかもしれん)

「バイトをサボってくれたおかげで、お皿たちも割られずにすんだって喜んでるわ」

 ミルラさんは言いました。

「ミ、ミルラさん?」

 私は驚きのあまり飛びのきました。念話を交えた話を理解している?

(フフフ)

 ウィローさんは私を見て、目を細めました。

「癒師じゃない人が、どうして……」

(いずれわかる日が来る。旅をつづけなさい)



 クレインズ都心行きの路線馬車に揺られながら、私とミルラさんはこの冬の思い出を語り合いました。ミルラさんが雪獅子の念話をどうして聞けるようになったのか、という話題にはあえて触れませんでした。

 クレインズ駅が近づいてくると、ミルラさんは私の気持ちを察したのか、言いました。

「いいの? さっきのこと訊かなくて。言葉で説明する自信はないけど」

「今、あなたと過ごしている時間に比べたら、大したことじゃありません」

「!」

 ミルラさんは瞳に涙を浮かべて、私に抱きつきました。

「また、会えるよね?」

「私が本物の癒師になれるよう、祈っていてください」



 シルバーヒルへ帰っていく馬車を見送りながら、なぜあんなことを言ったのか、不思議でなりませんでした。素直に「また来ます」と言おうと思っていたのですが……。

 豪雪対策のためでしょうか、クレインズ駅は地元特産のボーマ——かまぼこのことです——のような形をしています。

 中に入って大時計を見ると、列車が発車する十五分前。

 危ない危ない。一日三本しかないので、昼前の便を逃すと次は夕方です。地方は時の流れがゆったりしているように感じますが、発車時間だけは正確なので、気をつけなくてはなりません。

 切符を買って、改札を通ろうとしたとき、若い女の声が私を呼び止めました。

「やっぱり、プラムだわ。久しぶりじゃない」

 ゴシックロリータ風の掟ギリギリの黒衣をまとった、金髪の天然カールに、太い白銀縁メガネの……。

「あ、う、ユーカさん」

 困りました。私の苦手な人です。

 彼女は同じ日に学校を主席で卒業した、期待の秀才癒師。

 ユーカさんは言いました。

「これからどこへ?」

 私は小さく答えました。

「もっと北の方、ですね」

「バカね、そっちはまだ冬が終わってないし、そもそも人がほとんどいないじゃない」

 それはごもっともです。北極圏にあるすべての町や村を合わせても、クレインズの二十分の一くらいでしょう。私は行きたいと思ったから、行くだけです。言いたいけれど、反撃が恐ろしい。

「都会は苦手なので……」

 自分でもがっかりするほど当たり障りのない理由を口にしていました。行政にかけあったときの勇気はどこへ行ってしまったのでしょう。

「ま、どん臭いあんたにはお似合いかもね。ところで、クレインズにいたんなら、雪獅子には会ったのかしら?」

「とりあえず一頭だけですが……」

「!」ユーカさんの顔が鬼のごとく強ばりました。「あなた、雪獅子のこと何も知らなかったじゃない! 嘘つかないで!」

 まわりにいた人々が立ち止まって、こちらを見ています。

 ユーカさんは真っ赤になって声を低めました。

「どんな姿よ」

「体じゅう真っ白で、すごく大きな山猫のような……」

 私は見た通りのことを口にしました。

「ふ、ふーん。よく食われなかったわね」

「恐かったですけど、彼の方から声をかけてきたもので……」

「はァ? まさか、しゃべったとか言うんじゃないでしょうね?」

「彼の念話を聞いていました。私はできないので普通に話すだけでしたけど」

「嘘よ。絶対ウソ。念話を聞けるだけでも、癒術の近代史に残る事件だもの。あなた寒さで頭がイカレたのよ」

「ハハ、じゃあ、そういうことにしといてください。時間がないので、行きますね」

 改札の方へ歩き出すと、ユーカさんは私の胸ぐらをつかみ、鼻と鼻が触れるほと近づいて言いました。

「アンジェリカ学長以来の大癒師になるのは、あなたじゃない。この私」

「わ、私なんて、本試験に通るかどうかも怪しいんですよ?」

「そうよね」ユーカさんは手を放しました。「そうに決まってる。何かの間違いよ」

「え?」

 そのとき、発車のベルが鳴り響きました。

 私は改札を駆け抜け、すぐそこに止まっていた〇番線の列車に飛び乗りました。

 空いていた席にどっと腰かけ、ふと窓の外を見ると、肩をいからせて駅の出口へ去っていく元クラスメイトの姿がありました。



 海岸線に沿ってひたすら北をめざす列車。深い色の海には、岸からはなれた溶けかけの流氷が散らばっています。

 車内を見渡すと、乗客は私を含めて三人しかいませんでした。それもそのはず、クレインズから先は、ひと気のない浜辺と松林ばかりで、集落が一つも見あたりません。

 はじめは感動した北の海も、ずっと見ていると眠気に襲われます。汽笛に驚いて飛びたつ海鳥の群れをながめているうち、誰のために作った路線なのか不思議に思えてきました。

 退屈になると、なぜか思い出したくないことまで頭に浮かんできます。

 癒術学校に入学してから二年くらいは、ユーカさんとは特に何もなかったのですが、ある日を境に、彼女は私にだけ厳しくなったんです。他のクラスメイトを通じて訳を聞いても、「自意識過剰なんじゃない?」の一点張りでした。いったい、ユーカさんは私の何を知ったというのでしょう。

 ユーカさんの今後の旅路は、口調から判断すると、クレインズを訪れた後は折り返し南下して、カスターランドに戻るか、西のウォールズへ渡るでしょう。癒師の過去の旅行記を見る限り、旅先で一人の同僚に二度会うことは滅多にありません。

 大エルダー島に帰った頃には、ユーカさんはきっと先に試験に受かって、月蛍石のピアスを両耳に光らせ——正式な癒師の身分証明です——、私にプレッシャーをかけてくるのでしょう。試験日は決まっていません。旅から帰った癒師が受けると言えば、たとえ一人でも行われます。合格すればいいですが、不合格のときはその日から二年間浪人しなければなりません。多くの人はそこで挫折します。過酷な旅に疲れ果て、再び挑戦する気にはなれないのです。

「あーあ。このまま列車の旅が永遠につづけばいいのに……」

 私は水平線にそうつぶやいた後、眠ってしまいました。



 体が左右にふられて、私は目を覚ましました。

 曇り空の夕時で、辺りは青く陰っています。海が遠ざかり、線路の数が増えている。駅が近くにあるのでしょう。

 乗客がみな降りて、野ざらしのプラットホームを歩いています。

「あれ? ここ終点ですか?」

 通りかかった車掌が、あきれ顔で言いました。

「ナスターチへ行くなら、ここから馬車に乗り換えですよ」

「えっ? そんな……」

 私はあわててトランクから地図を取り出しました。

 ラーチランドの都クレインズから北極圏に入り、北へのびた白黒印の鉄道線は、今いるソーンを通り、ナスターチへ延びて……ない。

「点線……」

「ああ、それは建設中ということです。開業は七年後だったかな?」

 時刻表の表記では、さも路線がつづいているかのように書かれていますが、よく見ると馬車の部分だけ書体が違っていました。ま、まぎらわしい。

 私はのろのろ地図をしまうと、列車を後にしました。

 物置小屋のような待合室があるだけの、何もない最果ての終着駅。駅前には民宿と商店が合体したものが一軒あるだけで、あとは雪が残る林と踏み固められた馬車道があるだけです。

 駅前に四頭立ての馬車が一台待っていました。民宿から何人か出てきて、客車に乗りこんでいきます。

 手にしている切符はナスターチまで使えます。私はそれを十五にも満たない感じの少年車掌に見せ、乗車しました。

 馬車の席にしてはやけにふかふかしたシートに腰かけると、先に座っていた歯の欠けたおじいさんが私に言いました。

「あんだ、泊まっていがんのかね?」

「ナスターチまで列車がいくと勘違いしてたもので、予約してませんでした」

 私は苦笑いを見せました。

「ワシらが出たんじゃげ、予約なーていらんがね」

「えーと、それなりに急ぐ旅なものでして」

 駅前民宿に泊まれそうなのはわかっていましたが、宿代を節約したいばかりに、私は強行軍に踏み切ったのでした。

「はーん、若けぇもんは恐ええもん知ろうずでえーの」

 初対面とはいえ、人生の大先輩の言葉には耳を傾けるべきだと、私はその日の深夜になってから学びました。

 暖房のない息も凍るような車内、がたつく車輪、疲れたからとテコでも動かない馬、狼を追い払う猟銃の音。夜行列車とは訳が違うのです。

 翌朝、ナスターチの駅に着いたときには、少年車掌に次いで若いはずの私が、誰よりも老けた顔になっていました。どうやら、貧乏性というのはお金より大事なものを奪っていくようです。




 第十五話 にわか救世主



 強行軍の旅に懲りた私は、ナスターチ駅付設の宿に数日の間、留まることにしました。

 ナスターチは人口五千とはいえ、クレインズ以北では最も大きな町です。漁業で栄え、小さいながら陸海の交通の要衝でもあります。長い冬が終わって陸の孤島から開放された街は活気づいていました。

 ナスターチに到着した翌日のこと。私は宿のロビーで、流感の咳に苦しむ男性を見つけました。流感を直接癒す術は古今存在しません。私は彼に部屋で休むよう説得したのですが、「外せない仕事で来てるから」と、聞き入れてもらえません。

 仕方なく私は薬を出すことにしました。薬といっても、ある薬用植物を乾かして粉にしただけの、知っていれば誰にでも作れる滋養薬です。

 私は学校で習ったことを思い出し、流感の男に言いました。

「これを飲めば必ず良くなります。ただし、絶対に無理はしないように」

 男はターキーと名乗り、私に礼を言うと、イカの薫製を一包み渡して宿を出ていきました。

 決して騙した訳ではありません。治ると信じて疑わないことを鉄則とする、癒術の一種なのです。大陸の医学では偽薬(プラシーボ)といい、癒術との数少ない共通項の一つです。

 その後四日間はこれといった事件もなく、私は宿をチェックアウトし、すぐ近くの馬車駅に向かいました。

 停留所の表示には『北極交通・ホースチェス行き』とあります。いよいよ、地上最北端の地を目指します。

 しばらく待っていると、二頭立ての馬車がやってきました。東岸鉄道管轄の立派な客車に比べると、地元経営の錆びの目立つ客車は心もとないですが、これはこれで味があると、私にもわかるようになってきました。

 十人乗れるかどうかの客車は詰めにつめて満員となり、ほどなく出発しました。

 混んでいるわりに乗客はみな寡黙。でも、魚臭ささと酒臭ささとヤニ臭さはうるさいくらい漂ってきます。なんとも言い難い空気の中で、私は船酔いにも似た気分を味わっていました。

 ああ、ダメ。船のことは思い出さないで。

 ナスターチを出て、海岸沿いの馬車道を走ること半日。途中、三度あった休憩時間では、彼方に広がるラーチ山脈の雪景を見ながら何度も深呼吸して、私はこみ上げてくる酸っぱいものをどうにかこらえました。

 地の果ては、巨獣が爪で引っ掻いたような溝だらけの丘陵地帯。ずっと昔、一帯を覆っていた氷河が地表を削った末に現在の地形になったのだとか。

 丘の上に日が沈む頃、馬車はホースチェス駅に到着しました。

 私は最北の地を赤く染める夕日に感動する余裕はなく、一刻も早く横になることばかり考えていました。今日はもう最初に目に入った宿に決めようと思います。

 レンガ造りの平屋駅舎の前をふらふらしていると、見覚えのある男の人が近づいてきました。

「あれ? こないだの癒師さんじゃないか」

「ターキーさん?」

 男の流感はもうすっかり良くなっていました。

「いやぁ、あの薬、すごく効いたよ。地元のヤブ医者が出したのとは全然違った」

「そ、それはどうも」

 なんでしょう。彼の笑顔を見ていると、首の後ろを冷たいものでなぞられたような感じがします。

「今日はどこかに泊まるのかい?」

「今から探すところです」

「だったら、うちに来ればいい」

「えっ? でも……」

「癒師の決まり事ってやつは、近所の爺さんに聞いた。かみさんがときどき胸が痛いっていうんだ」

「そうですか。では、お邪魔させていただきます」

 ターキーさんの家は、馬車駅から歩いて数分の海岸集落の一角にありました。木造の一軒家で、一階が船や漁具などの倉庫、二階が自宅という、この地域ではよく見かける『舟屋(ふなや)』とよばれる構造です。家の裏は石浜で、海の氷が引いて潮位が増すと、倉庫から直接船が出せるようになっています。

 倉庫横の階段を上がって、家主が二階の玄関を開けると、熱風が顔を打ちました。極北地域の人々は意外にも寒がりだそうで、雪解けの季節になってもまだ暖炉の炎はめらめらと盛り上がっていました。

 私はコートを脱ぎ、黒衣の袖をまくりました。それでもまだ汗ばむほどです。

「じきに慣れるわ」

 おととい五十を迎えたという、ターキーさんの妻、ハケアさんはとても太っていました。手先が器用で、魚肉加工所につとめているのですが、つまみ食いした分を消化するほどは動かないため、こうなってしまったとのこと。

 私はソファでくつろぐハケアさんに近づくと、大きな体に沿って手をかざしていきました。人型をしたエネルギーの図はどこも鮮やか。心の問題は特にないようです。ただ……。

「食べ過ぎですね。脂質のとりすぎです」

「シシツってなにさ? シジミなら詳しいけどね」

 ハケアさんは一人で笑っています。

「う……」

 そこからですか。

 私は話をつづけました。

「皇帝鯨の脂身などは、控えなくてはならないということです」

「じょ、冗談じゃないよ。あたしゃ、それがつまめるから瓶詰め屋で働いてんだ。クッ……」

 ハケアさんは顔を歪め、胸をおさえました。

 皇帝鯨は現在知られている海中生物では最大といわれ、どこを取っても牛肉並みの脂があるため人気があります。しかし、乱獲のために数が減って値が上がり、今では庶民の口に入ることは滅多にありません。ハケアさんは品質基準を満たさない、粗悪な脂ばかり口にしていました。

「このままでは、あと半年もすれば、あなたの心臓に血が通わなくなります」

「……」

 ハケアさんは真っ青になって姿勢を正しました。

「大丈夫。脂を控えていただければ、一ヶ月くらいで血管のゴミを取り除けます。でも、食べてしまったら私の施術は意味をなさないでしょう」

 太った婦人はうなだれました。

「はーあ、しょうがないね。でもさ、あの脂が食えないんじゃ、何のために生きてんだか、わかんなくなっちまうよ」



 最果ての地にやってきてから一ヶ月。

 大地に残っていた雪はすっかりなくなり、木の葉が揃いはじめ、ホースチェス村にも本格的な春がやってきました。

 ハケアさんは私のいいつけを守ってくれました。私が毎日施術をつづけると、血管のつまりは消え、胸の痛みはなくなり、体重は一割近く落ちました。足取りは軽やかとなり、遠くまで散歩に行くことも日課として定着しました。

 暖炉の煤払いを終えたハケアさんは言いました。

「まるで生まれ変わったような気分だよ」

「忍耐のたまものですよ」

 私は言いました。

「脂はさ、酒やタバコみたいなもんだね。なけりゃ生きてけないと思ってたけど、やめてみるとそうでもない。きっと、逃げ道が欲しかったんだね」

 ハケアさんは、本当は手芸の職人になりたかったそうですが、極北の小さな村では需要がないために、諦めてしまっていたのでした。村の商工会議所へ行ってよく調べてみると、工芸品などを都に運んで売ってくれる筋が存在することがわかりました。ハケアさんは今の仕事をやめて、錆びついていた手芸のリハビリに専念することにしました。

 ハケアさんは掃除道具を倉庫に片付け、また戻ってくると、言いました。

「それで、これからどうするつもりだい?」

「ここを失礼して、南へ下りたいと思います。東海岸をまわってきたので、今度は西側へ」

「せめて夏までいてくれないかね?」

「で、でも……」

「あたしのことじゃないよ。この村の医療事情はこないだ話したよね?」

 ホースチェス村には医者が二人しかいません。この辺りの冬はいつも猛吹雪で通院もままならないため、春から夏にかけて、症状を我慢していた患者がどっと押し寄せてきます。しかしながら、両人ともかなりの高齢のため、一日に診ることができる人数は限られていました。

 ハケアさんはつづけます。

「一軒一軒まわってたら、効率が悪い。その間に死んじまう子もいるだろう。そこであたしは考えた」

 アイデアを耳にした私は、思わず声をあげてしまいました。

「わ、私が院長!?」



 ターキー宅の一階の倉庫はすっかり片付けられ、代わりに近所の大工が廃材から作ったベッドと机が入りました。倉庫の出入口はレースのカーテンで仕切ってあります。前庭には、小学校から奪ってきた机に向かう、受付事務員ハケアさんの姿がありました。『プラム仮設診療所』という看板も作ったそうなのですが、それだけはやめてくださいとお願いして、事なきを得ました。

「次の方どうぞ」

 痩せた白眉の老人がカーテンを開くと、その後ろに人々の列が見えました。

 往診が原則の癒師がこんなことしていいんだろうか……私は罪悪感にさいなまれる一方、村人から寄せられる期待の高さに酔いしれてもいました。

「先生、あの薬、ばっちり効いたでよ」

「良かったですね」

 私は老人を半裸にしてベッドに寝かせると、体じゅうをさすり、またイスに座らせてから言いました。

「もう来なくても大丈夫ですよ」

 今のは触診という、癒術にはない方法です。この老人はターキーさんとは違い、癒術を信じない人でした。彼の疑いの心は私の能力を上回っていて、体が術を受けつけません。しかし、必ず効くといって出した薬草の粉——大した効能はありません——は、欠かさず服用してくれました。そこまではよかったんですが……。

 老人は得意げに言いました。

「漁協の連中、長年患ってきた俺が治ってきたの見て、すっ飛んできやがったろ?」

「ええ、まあ……」

 そんな調子で、薬を求める患者は日に日に増えていきました。

 私は癒師としてではなく、『秘薬を生み出す女神』として有名になりつつありました。『極東から送られた救世主』という声も聞こえます。評判が高まるにつれ、癒術の効力も上がってきて、仮設診療所は連日大盛況でした。



 止まない雨はないとはよくいいますが、ずっと晴れていても大地は枯れてしまいます。

 ある日のこと、子連れの婦人が浮かない顔で現れました。息子のテンカンは良くなったけれど、自分の咳はさっぱり治らないというのです。

 疲れた顔の婦人は言いました。

「薬は飲んでます。一日三回、忘れずに」

「必ず治ると信じてください」

「信じてますよ。でも、むしろ悪くなってます。まさか、誤診ってことはないでしょうね?」

 口では信じると言っていますが、実際、彼女の疑心は根の深いものだと、私は感じていました。こうなると厄介です。

「誤診ではありません。体質に合わない薬も中にはあるんです。今日は別のを出しますね」

 婦人はぶつぶつ言いながら息子を連れて帰っていきました。

 その日は、薬に頼らず私の癒術をしっかり受けている、重い腎臓病の青年もやってきました。

 病のせいで浅黒くなった顔の青年は言いました。

「救いの女神にも、できないことってあるんですね」

「な、なぜ急にそんなことを?」

「先生は、必ず治すと言ってくれたけど……」

 青年は私を信じてくれていましたが、こちらの能力が追いつかず、病は進む一方でした。今から思えば、なぜあんな安請け合いをしたんだろうと、悔やんでも悔やみきれません。

 返す言葉に困った私は、常套句を口にしました。

「最後まで諦めてはいけません」

「その言葉、そっくりお返ししますよ」

 青年はそう言い残して去っていきました。



 数日後。子連れの婦人がまたやってきて言いました。

「ちっとも薬が効かない。絶対誤診よ」

 私の見立てでは、彼女はどこも悪くありません。ただ、あらゆることへの不信感がストレスとなって、咳の引き金になっているのです。身の上を尋ねても何も答えてくれないので、どう対処したものか困っています。

 婦人の長い抗議がつづいている最中、カーテンの外でハケアさんが声を荒げました。

「ちょっと、あんたたち、順番守んなさい!」

 男の声がつづきます。

「いいか、あのプラムって女はな、手品の種を隠すために、知ったような口を利いてるだけなんだ。治った奴は、何もしなくても良くなる運命だったのさ。みんな騙されるなよ!」

 別の男の声がします。

「俺さ、もらった薬を、高校の先生に調べてもらったんだ。そしたら、その辺に生えてる葉っぱだとよ!」

 婦人はイスから立ち上がると、勝ち誇ったように言いました。

「やっぱりね。診察代がタダじゃなければ、詐欺で訴えているところよ」

 婦人は咳の発作に苦しみながら去っていきました。手を引かれていく男の子は、カーテンが閉じるまでの間、申し訳なさそうな顔を私に向けていました。

 子供は一人残らず癒すことができたのです。今、出ていった子の重いテンカンでさえも。なのに、大人はどうして……。

 カーテンの外で、ハケアさんは言いました。

「今日の診察はこれで終いだよ! さぁ、帰った帰った。先生はご気分が悪いんだ!」



 日を追うごとに、仮設診療所を訪れる患者の数は減っていきました。

 癒術で治った人も、家業の傍ら科学をかじった青年たちにいろいろと吹きこまれ、私を避けるようになりました。本当の自分に目覚めたハケアさんだけは私をかばってくれましたが、夫のターキーさんは『偽薬に騙された派』に引っぱりこまれてしまい、家の中はなんともぎこちない空気が満ちていました。

 私は偽薬の危うさを忘れて、人々のゆらいだ信念を過信し、癒術をすすめることを怠っていました。どうしても信じられないのなら、医者のところへ行けばいいと、言えばよかったんです。

 そして……私が北の果ての村を訪れて、ちょうど三ヶ月という日。

 重い腎臓病だった青年が亡くなったという一報を受けました。彼は私のもとを去ってから、全財産をはたいて北の都クレインズの病院へ入院しました。担当医は「もう少し早く来てくれれば移植のチャンスがあったのだが」と、臨終の後に語ったそうです。臓器移植自体まだ始まったばかりで一種のギャンブルと批判されることもありますが、少なくとも私の癒術よりは、生きのびる可能性があったと思います。

 その日、たった一人残った患者である、身寄りのない少女の施術を終え、私はターキー夫妻宅を出ていくことにしました。

 私は二階の玄関でハケアさんと別れの抱擁を交わしました。ターキーさんの姿はありません。

 ハケアさんは言いました。

「あんた、顔色悪いよ? 一人で大丈夫?」

「私がこの村にいるとご迷惑がかかってしまいます。雪が降ってくるまでに、もっと南へ下らなければ……」

「雪って、まだ夏に入ったばかりじゃないか」

「は、はれ? そうでしたっけ? と、とにかく、お世話になりました」

 私はトランクを手に持ち、階段を下りようと一歩踏み出しました。

 本物の段は、感覚よりずっと下にありました。

「せ、先生! プラム、ム、ム……」




 第十六話 白夜の岬



 目が覚めるとそこは、誰かの家の居間でした。部屋には物がほとんどなく、私はボロボロになった長ソファの上で横になっていました。

「ここはいったい……」

 キッチンの方から男の声がしました。

「心配ない。捨てられた家だ。漁では暮らせなくなって出ていったそうだ」

 煮立った小鍋を持って姿を現したのは、長身長髪の美男子。

「オークさん!?」

 私は起き上がろうとしたものの、力が出ず、どうとソファに沈みました。

 オークさんは、要塞都市アグリモニーで会ったときは黒ローブ姿でしたが、暑いせいか今は黒いシャツだけです。

「話はこれを空にしてからだ」

 私はふらつきながらも姿勢を正して、小鍋を受け取りました。

 三日間寝こんで何も口にしていなかったにもかかわらず、食欲はほとんどなく、熱々だった薬草粥も、残り半分にした頃にはすっかり冷えていました。もう食べられないので、私は小鍋を脇に置き、記憶をたどることにしました。

「私、階段から落ちて……」

「落ちてはいない。私が抱きとめた」

「も、もしかして、仮設診療所を見張っていたんですか?」

「……」

 オークさんは答えてくれませんが、どん臭い私にだって、それが明らかなことくらいわかります。

「どうして……」そこまで言って涙があふれてきました。「止めてくれなかったんですか」

「診療所の開業をか? それとも、腎臓を患っていた青年のことか?」

「全部です!」

 オークさんは長ソファの端に腰掛け、しばらく間を置いてから言いました。

「命に関わる事がない限り、私は助けることができない。あの青年は、君が出会った時点で、私の手にも負えない状態だった。移植しても無駄に終わったろう」

「私はそんなこともわからずに、必ず治すだなんて……」

 後悔の言葉を継ごうとしても、咽せて声になりません。

「自分の目がなぜ曇ったのか、私が言わなくてもわかるな?」

「はい」

「私が半人前の旅癒師を助けないのは、そういう訳だ」

 学びのためとはいえ、困っている人がそこにいるのに助けないなんて、どこかおかしい。私はそのときから、オークさんを送り出した癒術学校の方針に疑問を持つようになりました。

 話はそこで途切れました。

 さざ波の音が近い。浜辺はすぐそこのようです。

 私はある衝動にかられました。

「少し、歩きませんか?」

「せっかくここまで来たんだ。コホシュ岬まで行ってみよう」



 廃家から岬までは、砂浜を歩いて二時間くらいです。

 身支度して家を出たときにはすでに夕暮れ、と思ったのですが、歩いても歩いても日が沈む気配がありません。極北地域は夏の間は『白夜』といって、夜がほとんどないのだとか。私は仮設診療所での仕事に疲れ、夕食の後はすぐに寝てしまっていたので今日まで気づきませんでした。

 砂浜が終わって、緩やかに盛り上がった岩場へつづく坂をのぼり、低い崖の突端に出るまで、二人は何も語ることなく、薄暗い空の下を歩いていきました。

 冷えた岩石がむき出しになった、苔一つ生えていない地面には『世界最北の地・コホシュ岬』の石碑が立っていました。あとは深い色の海があるだけで、他には何もありません。

 地図上では、さらに北に『永久氷原』と呼ばれる白い大陸——浮島という説もあります——が北極まで広がっているとされていますが、ここからは見えません。

 しばらく物思いにふけった後、私は話を切り出しました。

「オークさんは、なぜ私ばかり追いかけるんですか?」

 長髪の男は微笑を浮かべて小さくうなずきました。

「なぜ、そう思う?」

「こんな地の果てまでやって来るような物好きは、私くらいのものでしょう?」

「そうでもないぞ」

 オークさんは石碑の方へあごをしゃくりました。

 私は石の表面に触れます。

「それじゃない。裏だ」

「裏? あっ」

 最北を示す石碑の向こうにもう一つ、古びた石の柱がありました。表面が風雨に洗われてすり減っており、手前の石碑に比べるとかなりの年月が経っているように見えます。

 石柱に何か文字が彫ってありますが、ぼやけていたり、知らない文字があったりして、解読できません。

「君なら読めるはずだ」

「そんなこと言われても……」

 私、古文の成績はギリギリだったんですけど。

 考えるのに疲れ、ぼーっとしてきたとき、突如として変化が起きました。石柱の謎の文字が宙に浮かび出し、私の心の奥に飛びこんできたのです。

「あ、読める。これは、エキ……ナス。ゆー、しー、んー、癒神エキナス!?」

「やはりな」

「何がやはりなんですか?」

「それは教えられない。私にその権限はないのでね」

 神話によると、癒術の祖エキナスも、エルダー諸島に落ち着くまでは大陸各地を旅していた、とされています。でも、まさかこんな誰もいない地の果てまで来ていたとは……。

 オークさんはつづけました。

「さっきの質問だが、私の主な任務は、新人癒師の尻拭いなどではない」

「では、何をしているんですか?」

「大陸には盗賊のような悪党や、婦女を付けまわす輩が多い。ちなみに君は、マグワート港を発ってから私に保護されるまで、九回狙われている」

「ええっ、そんなに!?」

「だが、ここまで来た以上、君を甘やかすのは今日が最後だ」

「それはどういう意味ですか?」

「自分で考えるんだな」

 半人前の癒師を放ったらかしにするなんて……。私がまた事件でも起こしたら、彼の責任はどうなるのでしょう。いえ、ちょっと待ってください。先生がいつでも助けてくれると知っていたら、生徒は無謀と挑戦をいつまでも履き違えたままかもしれません。

「これからは、私の教師は私自身がつとめなければならない。そういうことですよね? オークさん?」

 男の姿はどこにもありませんでした。




 第十七話 氷河航路と特級僻地



 新暦二〇二年 夏


 ホースチェス港から岬をまわってアルニカ半島の西側に出る船便は、週に一度だけ。案内所で聞けば、今日はまさにその日だといいます。幸先がよさそうです。

 窓口でチケットを買い、指定の桟橋で待っていると、白い貨客船が入ってきました。定員三十名と聞いていたので、漁船の延長かと思いきや、三本マストの立派な帆船でした。船が無駄に大きい気がするのは私だけでしょうか。

 埠頭に積んであった貨物が運ばれていき、いよいよ乗船というとき、その謎が解けました。乗客が立ち入れる場所は、船尾の客室と、貨物と貨物の間にできたわずかなスペースだけ。要するに乗客はおまけです。

 客室には座席も等級も存在しません。靴を脱ぎ、絨毯の上の好きなところに寝転がるだけ。絨毯はところどころすり切れていたり、タバコの灰に焼かれて黒ずんでいたり、砂が散っていたりと、ひどいものです。

 目的地のマーシュ港までは二日間の道のり。ただでさえ酔いやすいというのに、こんなことでは先が思いやられます。そういえば酔い止めは……。

「しまった!」

 私は客室を飛び出しました。

 船はすでに縄を解かれ、桟橋を離れていました。

 客室に戻り、靴を脱いで、私は絨毯の上にへたりこみました。

「ああ、どうしよう……」

 地獄の二日間のはじまりです。

「まるでこの世の終わりみたいな顔してるね」

 雑魚寝部屋の隅っこにいた中年の男が言いました。

 カーキ色のベストに探検帽子という出で立ちで、肌は日焼けなのか地黒なのか、いずれにせよ北国出身の人ではなさそうです。

 乗客は私と彼の二人だけでした。

「酔い止めを買い忘れてしまって……」

「わかるわかる。それがないと氷河航路は地獄だからね」

「氷河航路?」

 男は立ち上がると、壁に貼ってあるボロボロの地図を指さしました。

「アルニカ半島の先端を走るラーチ山脈は、偏西風の影響を受けて、常に山の西側に大量の雪を降らせる。それがやがて氷河となり、長い年月をかけて海へ還っていく。このホースチェス・マーシュ航路は、氷の絶壁が海へ崩れ落ちるところが見られるので、有名なんだよ」

「は、はじめて知りました」

「ハッハッハ、有名というのは言い過ぎだった。知っているのはおそらく、地元の人と、我々学者くらいのものかな」

 男はヒソップと名乗りました。ここよりはるか南、カレンデュラ国にあるヤーバ大学で講師をしているそうです。専門は考古学。

「ヤーバは知ってます。南の都ですよね」

「南国の一学者がこんな北の果てで、なに遊んでるんだって、今思ったでしょう?」

「い、いえ。まぁ多少……」

「僕の故郷にある古代遺跡に、おもしろい碑文があってね。それを刻んだ人は北の果ての岬から来たっていうんだ。で、一度見ておこうと思ったわけさ。残念ながら、大した発見はなかったけどね」

「……」

 私の心臓は波打っていました。もしや、彼が追っているのは、癒神エキナスの足跡なのでしょうか。

「僕が標的にしている遺跡は、山のようにでかいくせに、手がかりは小石ほどもない。碑文の主も、謎を解く鍵の一つにすぎないんだ」

 私はホッと胸をなでおろしました。歴史の謎が解明されていくのは歓迎すべきことなのに、なぜ安心したのか、自分でもよくわかりません。

「おっと、忘れるところだった。これをどうぞ」

 ヒソップ博士はベストのポケットを開けると、草色の粉末が入った薬袋を山盛り、私に差し出しました。

 私は飢えた獣のごとく、がっと奪い取ります。

 あっと思ったときはもう遅く……。

 ヒソップさんは「わかるわかる」と大笑いしていました。

 私は目のやり場に困りつつ、言いました。

「な、何かお礼をさせてください」

「そういえば、君は癒師だったね。今の僕はいたって健康だし……じゃあ、いつかカレンデュラを訪れたときは、うちへ来て、遺跡調査の仕事を手伝ってもらえるかな?」

「よろこんで!」

 といっても、そこへたどり着くまで、一年以上かかるとは思いますけど。



 定期貨客船は、ラーチランドとウォールズの国境近くにある、マーシュ港をめざしてひたすら南下しています。

 私は寝ている時以外は貨物まみれのデッキへ出て、新鮮な空気を求めました。そうしていないと、外海の荒波を横に受けて走る船には乗っていられません。

 波風はあるものの天候には恵まれ、遠くはラーチ山脈の雪景を、近くには棚氷の青白い絶壁を望むことができました。崖の下には、崩れ落ちてから少し経った氷山が浮いています。

 氷山のところどころには、巨大な魚とも動物ともとれるような灰色の生物が寝転がって休んでいました。

 私はそれをもっとよく見ようと、欄干から身を乗り出します。

 そのとき、棚氷の一部が崩れはじめました。

 後ろからヒソップ博士の声。

「さがって! 津波が来るぞ!」

 私はとっさに身を引こうとしましたが、時すでに遅し。

 盛り上がっていく波に乗った帆船は、左舷に傾き、私は海へ真っ逆さまでした。

 落ちた勢いで海中深く入ってしまった私は、明るい方へもがいた……つもりでした。でも、海面は岩のように硬く冷たかった。

 この白いものは……氷山! 氷山の下に出てしまった!

 塩水でかすんだ私の目には、氷の天井がどこまでつづいているか、見当がつきません。

 い、息がつづかない……。

 ふと下を見ると、さっきの灰色の動物が二本の牙を見せて迫ってきます。

 ああ、私の体はあの鋭い杭に貫かれて、そして……。

「ぶはっ!」

 気づいたときは、海の上に顔を出していました。

 何が起きたのかと足もとを見ると、大きくなっていく黒い影が……。

 海獣は私に逃げる間を与えず、ふわっと背中に乗せると、平たい氷山の上に放り出しました。

「あっ! 無事だったか!」

 声がしたほうに目をやると、ヒソップ博士の姿が小さく見えました。彼が乗った帆船はもうずいぶん遠くに行ってしまった。

 氷の上で震えながら待っていると、船が方向を変えて近づいてきました。

 デッキにいた船員の一人は猟銃をかまえ、まわりの水面を狙って何発か放ちます。

「や、やめてください! あの動物は私を助けてくれたんです!」

 私は立ち上がって叫んだものの、すぐに足を滑らせ、腰を打ってうめきました。

「心配するな! 狙いは外させている!」

 ヒソップ博士は言うと、「よしよし! もういなくなった!」と大きく手を振って船員を制しました。



 帆船に収容された後、私はピオニー先輩にもらったボーダー服に着替え、客室で毛布まみれになって震えていました。癒師の象徴である黒衣は、船員がどこかへ持っていってしまいました。きっと今頃は、マストに張った縄の横ではためく、塩まみれの黒旗となっていることでしょう。

「災難だったね。でも、助かってよかった」

 ヒソップ博士は、ブリキのカップに入ったスープを熱そうに持って絨毯に上がり、私のそばに座りました。

「ろ、ろうも……」

 私は歯をがちがちいわせ、お礼の言葉もろくに言えません。

 スープを口にして、ようやく落ち着いてきました。

 南国の学者は言いました。

「さっき君を助けた動物のことなんだけどね」

「密かに神に祈った言葉が通じたんでしょうか?」

「あれはドッセイというほ乳類でね。彼はどうやら君をメスと間違えたらしい。メスは灰色のオスとちがって、毛が黒いんだ」

「そ、そうだったんですか」

 私は肩を落としました。まさか求愛行動だったとは。

「がっかりすることはない。私は驚いているんだ」

「えっ?」

「通常ならドッセイはこの時期、繁殖行動はしない。もっと寒くなってからのはずなんだ。君をメスと間違えたとは、断言はできない」

「そ、それじゃあ……」

 どんよりしていた気分に、光がさしてきました。

「実に興味深い題材だ。生物学の常識が覆るかもしれん。大学の同僚のために、ぜひ記録をとらせて欲しいんだが……」

 博士は不気味な笑みを浮かべて迫ってきました。

「もう一度、海へ落ちてはくれないかね?」

「ええっ!?」

 博士は私のひきつった顔を見るや、大笑いしました。

「ハッハッハ、冗談だよ、冗談!」

 南国カレンデュラの人は、葬式の翌日でも陽気に笑うと聞いています。その分、細かい気配りには欠けているのかもしれません。

 私は調子を合わせて苦笑いするしかありませんでした。

「……あはは、へ、へっくちっ!」



 貨客船は半日遅れでマーシュ港に到着しました。

 ヒソップ博士は、船を乗り継いでさらに南へ行くそうです。彼とは桟橋でお別れしました。

 マーシュの港はひっそりとしていました。貨物を積み替える人の姿くらいしか見えません。南へ下る、ディル行きの帆船に乗ったのは、博士と老夫婦が三組だけ。

 私は港を後にすると、村の目抜き通りを歩きました。ウォールズとの国境が近いとはいえ、ここはまだラーチランド。派手な色をした木造の建物が目立ちます。通りに商店や民宿はいくつかあるものの、人の姿はありません。その代わり、道端の水路のいたるところから湯気が立っています。地図には何の記号もついてないのですが、どうやらここは温泉地のようです。

「おんや、若いお客なんて珍しいね」

 上のほうから、女のかすれた声がしました。

 見ると、黄色い壁をした民宿の二階の窓が開いています。人の姿はありません。

 気のせいかと思い、地図をトランクにしまって進もうとしたとき……。

 きしんだ音をたてて玄関が開き、少し腰の曲がったお婆さんが現れました。

「こ、こんにちは」

「よく来れたもんだ。地図にも載らん土地なのに」

「私のには載ってました。温泉とは書いてませんけど」

「なんだい。知らないで来たんかい。てっきり、人生に疲れて、死にきれずにやってきたんだと思ったよ」

「そ、そんな大げさなものでは……」

 四分の一くらいは当たってますけど。

「ここはね、あの世へ行く前に、魂の汚れを落とす場所なのさ」 

 なるほど。南へ帰る船のお客が老夫婦ばかりだったのは、そういう訳でしたか。

「でも、一度死んで生まれ変わるという意味では、私は来るべきときに来たのかもしれません」

 お婆さんは、しわしわの顔に埋もれた口をニッと光らせました。

「へぇ、何やらかしたんだい? 詐欺か? 強盗か? 人殺しか?」

「それは……」

 私は言葉を詰まらせました。

「ま、こっちはお客が来てくれりゃ、なんだっていいさ。荒海の漁なんて知れてる。温泉がなけりゃ、マーシュなんてとっくに廃墟になっとるよ。あ、いい所に来たね」

 お婆さんは、通りかかった老警官を呼び止めました。

 私はびくっとしましたが、彼はこの黒衣が何を意味するか知らないようで、ほっとしました。

 老警官はお婆さんに言われるがまま、村の紹介をしてくれました。

 マーシュ村は人口わずか五百人。交通は週に一、二便の船だけ。西の海岸の他は三方を山に囲まれていて、冒険家でもなければ、陸路からはどこにも行くことはできません。ラーチランド政府から特級僻地の認定を受け、助成金は出ているものの、村人の高齢化が進み、温泉街はさびれる一方でした。

「地図じゃあラーチランドじゃが、金の流れはほぼウォールズさな」

 老警官が言うと、お婆さんは金色の歯を見せて笑いました。

「んだな!」

 マーシュ村は自国の都クレインズよりも、隣国ウォールズの都オピアムのほうが行き来しやすく、ウォールズ経済圏の最果て、と言うほうがふさわしいかもしれません。

「じゃ、そゆことで、この子はうちに決まったから安心じゃ」

 お婆さんが言うと、老警官は「ん」と言って去っていきました。

 この宿に泊まるとは一言もいってないのに……。

「ああ、そうそう。うちは半月より長居すんなら半額にし……」

「よろしくお願いします」




 第十八話 天災

 


 新暦二〇二年 秋


「んーっ!」

 岩風呂につかっていた私は、両手を高く突き上げました。

 ローカル船でしか来られないような絶境で、まさか温泉に入れるとは思ってもみませんでした。三方を山に囲まれたマーシュ村は、見晴らしこそありませんが、赤や黄色に染まった木々の彩りを見ていると、心の奥深くが洗われていくような気がします。

 この村にやってきてからしばらく経ちますが、幸か不幸か私の出番はありません。高齢な方が人口の半分以上を占めるというのに、みなさんお元気で、小さな診療所一つで充分間に合っていました。

 平和な日々がつづいてくれるのはありがたいですが、カフェのバイトでためた旅費がオピアムまでもつかどうか怪しいところです。オピアムは隣国ウォールズの首都にして大陸第二の大都会。仕事がたくさんあり、先輩たちもそこでよくバイトをしたという記録が残っています。

 昨日までこの民宿には、オピアムからきた絵描きと老夫婦が泊まっていて、何かと気を遣っていましたが、今日は私一人です。

 誰もいないのをいいことに、私は湯から上がり、素っ裸のまま岩の上にのぼって、魔物を迎え撃とうする女竜騎士のポーズをとってみました。

 暇なので、本を読むくらいしかすることがないんです。

 ウォールズ国のメリッサという作家が書いた小説で、挿絵も豊富です。甲冑があればよかったのですが、裸のままでは恥知らずの妖精(脇役)にしかなれないと気づき、私は岩から降りることにしました。

 そのとき、足下の岩が突然揺れだし、私は体勢を崩して岩風呂に落ちてしまいました。

「ぶはっ!」

 湯から顔を上げると、揺れはさらに勢いを増し、岩風呂を囲っていたあずまやの柱が折れて天井が落ちてきました。

 幸い屋根は緩い四角錐をなしていて、上に隙間ができて頭を打たずに済みました。

 私は波立つ風呂の中で、揺れが収まるまでじっとがまんしていました。

「すごい地震だった」

 故郷のエルダーは死火山の群島といわれ、地震があってもカップのお茶が少し揺らぐ程度。こんなに大きいのは生まれて初めてです。

 屋根下の隙間に閉じこめられた私は、息を止め、お湯に潜りました。明かりが漏れてくるほうへ泳いで、脱出成功。

 安心したのもつかの間、脱衣所の扉が開きません。地震のせいでドア枠が歪んでいます。

「ど、どうしよう」

 このままでは、民宿の横庭を通って玄関から入り直さなければなりません。

 のぼせて奇行に走るほど温泉に浸かっていたとはいえ、秋の風は冷たく、早く服を着ないと風邪をひいてしまいます。

「バスタオルも脱衣所か……なんて、そんなこと言ってる場合じゃない!」

 あれだけの地震です。けが人が出ているはず。

 私は意を決し、裸のまま横庭へまわりました。

 狭い庭に面した部屋は窓ガラスが割れ、天井が落ちていました。昨日チェックアウトした老夫婦がもし延泊していたらと思うと、ぞっとします。

 冷たい敷石をひたひた歩き、通りに面した建物が崩れているのに目を奪われつつも、私は上と下を隠しながら玄関前に飛びだし、ドアノブを思いきり引きました。

「そ、そんな……」

 玄関も開きません。こちらは丈夫で枠は曲がっていないのに、今度は鍵がかかっています。

「怪我はないか?」

 背後で男の声がしました。

 私は思わずふり返ってしまいました。黒のフォーマルベストにネクタイ姿の、若い青年が立っています。

「ひっ!」

 私は叫ぶこともできず、裸のままうずくまりました。

「あ、す、すいません!」青年は背を向けました。「メガネが割れてしまって、よく見えないんです。近所のノーラかと思ったもので」

 ノーラさんは、この民宿の近くに住む十歳の少女です。

「私はエルム、村役場の助役です」

「その、脱衣所に入れなくて、ここは鍵が閉まっていて……」

 状況を話すと、エルムさんは言いました。

「マンザニータさんなら、役場に来ていて無事ですよ」

 女将さんがいないとなると、玄関は開きそうにありません。

「あ、あの、こんなときに申し訳ないのですが、私の黒衣を……」

 エルムさんは民宿の裏へまわり、脱衣所のドアを壊して服をもってきてくれました。

 彼は片手で目をおさえながら、丸くなった黒衣と下着を差し出しました。

「癒師さんだったんですね」

「よ、よくご存知で」

「一応、大学出てますので」

 私は横庭にまわって服を着ると、熱くなっていた頬を両手ではたき、再び通りに顔を出しました。

 エルムさんは他の壊れた家にまわり、声を張って住民の安否を確かめています。

 私もついていって手伝おうとすると、エルムさんは言いました。

「ここはいいですから、マーシュ小中学校へ行ってください。指定の避難場所です」

「でも……」

「村に医師は一人しかいません。お願いします」

 私はうなずくと、ところどころ地割れしている石畳の緩い坂道を下っていきました。



 大地震の後にもかかわらず、マーシュ小中学校は健在でした。国の僻地助成金を使って近年建て直されたレンガ造りの長い平屋は、村で一番頑丈な建物として有名です。

 校門を通り、玄関で待っていると、人々が重い足取りで一家族また一家族とやってきました。

 人の列を追い抜いてくる白衣の男。

 初老の医師が黒い鞄をかかえて駆けこんできました。

「ハァハァ、君は見ない顔だね」

「旅の癒師です。プラムといいます」

「癒師だって?」

 医師は怪訝そうな顔を向けました。

「今は立場の違いを話してる場合じゃありませんよ」

 医師は息を整えて言いました。

「そうだったな。私はオーレン。患者は手前の、小学部の教室に集めることになっている。避難者は奥の中学部だ。救助活動はウォールズの自警隊(じけいたい)がくるまで村の若い者がやる。ここまではいいかね?」

「わかりました」

 ウォールズの軍隊は、二百年前の戦で敗れたときに一度解体されました。その後、内紛の抑制や災害救助などを目的とした小規模の自衛集団『自警隊』が作られました。

 オーレン医師の話によると、ラーチランドの主要市町から遠いこの村は、有事のときはウォールズの手を借りることになっていて、災害情報が伝わり救助隊と医師団が船でやってくるまで、一週間かかるとのことでした。

「この一週間が勝負だ。寝る暇はないと思ってくれ」

 私はうなずくと、オーレン医師の後について校舎へ入りました。



 私は教室を一つ任され、主に内科の症状を診ることになりました。

 一方、物理的に急を要する外科は、癒術が不得意とする分野。隣の教室でオーレン医師が診ています。

 木製の学校机をならべて簡易ベッドをつくると、私は体の不調を訴える人を、一人また一人と寝かせては、両手をかざして透視していきました。



 寝ずの施術が三日つづいた日の夕方。

 私は気を失って倒れ、仮眠をとらされました。

 目覚めてから「オーレン医師は?」と聞くと、まだ手術をつづけているとのこと。

 癒術の最大の弱点は、薬や道具を使う医術に比べると何十倍も精神力を使うため、『連戦が利かない』ことだと、実感しました。

 このときから私は、癒術は万能とはほど遠い、もっといい方法があるはずと、思うようになりました。



 地震から五日目。

 ガレキの下から救出された重傷者の多くは高齢で、手術に間に合わなかったり、体力が足りずに命を落とす人が相次ぎました。傷が軽かった人は応急処置が終わって、私のほうへまわってくる人が増えてきました。



 地震から六日目。

 オーレン医師が過労で倒れ、私がすべての患者を診ることになりました。傷が開いている人はすでになく、私はうろたえることなく施術をくり返しました。



 地震から十日目。

 外科的な大仕事が一段落し、私が受け持った患者たちも落ちついてきました。

 村民の好意に甘んじて、午後は休診としました。

 私は復活したオーレン医師に誘われ、校長室の応接イスに腰掛けると、差し入れのクッキーを口にしました。

 頭に白いものが混じった医師は、お茶をすすりながら言いました。

「見直したよ。癒師は暗示で人をだましているだけだと思っていた」

「先生こそ、そのお歳でいっぺんに何人もの手術をするなんて、すごいです」

「数をこなしただけだ。半分は亡くなった。オピアムの名医ならその半分にできる」

「す、すいません」

 私は小さくなりました。自己嫌悪。気が回らないにもほどがあります。

「ベストは尽くしたんだ、済んでしまったものは仕方ない」

「はい」

「これからの話をしよう。けが人が落ち着いてきたのはいいとして……」

 オーレン医師は患者の精神状態について、私に尋ねました。

「ショック症状的なものはおさまってきましたが、家に帰りたがっている人や、救助隊が来ないといって不安がっている人が増えています。このままでは、ストレスによる病人が続出するかもしれません」

「ストレスとはそんなに影響があるものなのか?」

「たとえば内臓を患っている方の大半は臓器自体に問題はなく、その代わり、家庭や仕事や進路などの問題で悩んでいます」

「なぜそう言い切れる?」

「統計をとりました」

「近代医学の統計には出てこないが」

「それは質問していないからでしょう。古代医学では、患者の生活を調べるのは当たり前だったはずです。原因もわからず胃が痛むなんてことは、滅多にありません」

「むぅ……」

 医師は難しい顔をして、クッキーをかじりました。

 そのとき、部屋のドアが開いて、助役のエルムさんが入ってきました。

「救助隊と医師団が到着しました」

「やっと来たな」

 オーレン医師はため息をつきました。

「……」

 エルムさんは険しい顔で黙っています。

「怒ったって仕方ないだろう?」

「三日も遅い。まだ行方不明の方が十七人います。ガレキの下で水も食料もなく、こう寒くちゃ、無傷の人だってもちはしませんよ!」

「そうは言っても、国を越えて来てもらっている立場としては、文句は言えないな」

「我が国の政府は何をやってるんだ」

「国となるずっと前から、この村はあった。好きで住んでいるなら、他を当てにするな」

「……」

「さてと」オーレン医師はイスから立ち上がると、私に声をかけました。「ご挨拶に行くとしよう」

 


 避難者が集まる中学部の教室では、深緑色の制服を着た救助隊の幹部が、状況を説明していました。

「我々が来たからには、もう安心です。ここまでよくぞ耐えてくれたと、頭が下がる思いです。皆さん方のお国の自警隊が到着するまで、短い間ではありますが、復旧の協力をさせていただきたいと……」

 太った男の長い演説がつづきました。

 村人たちは床に敷かれた藁の上に足を抱えて座り、疲れた顔で聞いています。

 私とオーレン医師が廊下から中の様子をうかがっていると、エルムさんがやってきてぼそっとつぶやきました。

「現場の状況がまるでわかってない。都会のお偉方ってのはこれだから困るんだ」

 戸口を守っていた戦闘服姿の男が、私たちを睨みました。

「我々の越境救助活動に何かご不満でも?」

「い、いえ、こちらの話です」

 オーレン医師は兵士に苦笑いを返した後、エルムさんの脇腹を小突きました。

「政治や人事の話は、村が復興してからにしてくれ」

 若き助役は力なくうなずきました。

 演説が終わると、ウォールズ自警隊の幹部たちは満足げに教壇から下り、廊下に出てきました。

 エルムさんは、太った男の胸ポケットのラインを見て「陸上自警隊の少佐です」と、私に耳打ちしました。

 少佐はまわりにいた部下と少し話した後、ふっと顔を上げて笑顔になり、地元の医師と助役に握手を求めてきました。

 オーレン医師に対しては「先生の話は伺っております。さぞ、お疲れでしょう。充分休まれたら、医師団の顧問をお願いするつもりです」といい、エルム助役に対しては「助役どのは校舎に入り、ご高齢の村長や避難者たちのお世話をしていただきましょう」といって、勝手に役割を決めてしまいました。

 オーレン医師は隊の幹部たちに強く促され、歩いて遠ざかっていきます。

 一方、エルム助役は少佐に食い下がりました。

「村長はまだ七十ですし、傷は浅い。災害現場には、地理がわかる私も同行し……」

「これはラーチランド政府との取り決めなのだよ。現場の指揮は、私が引き継ぐことになっている」

 エルムさんは、去っていく丸い背中を悔しそうに見つめていました。

 オーレン医師が遠くのほうでちらと横を向き、そらみたことか、と言いたげな顔をしています。

 助役が中学部の教室に入った後、残された私はといえば……。

「癒師は今後一切、立ち入り禁止だ」

 兵士二人がやってきて私の両脇を抱えると、抵抗をものともせず校門までひきずっていって、地面に放り投げました。

「な、なぜですか! 私だってそれなりに治療ができます!」

「オピアムの医師団は癒師を認めていない。それだけだ」

 兵士たちはそのまま校門前に立って、門番をはじめました。

 そこへ、民宿の女将マンザニータさんが通りかかりました。

「あたしゃ家に帰るよ。毎日毎日誰がどうしたのって、うるさくてかわなん。あんたも来な」

 と言って、私を立たせると、緩やかな坂道を一人で歩いていきました。

 私が走って追いつくと、女将は言いました。

「ウォールズの神話をしっとるかね?」

「は、はぁ。少しくらいは」

 私たちエルダー人の間で有名なのは『古代ウォールズ人は魔法を発明した』という証拠を表した奇譚の数々です。ある説では、癒神エキナスが癒術に目覚めた時代と重なっているとされ、学問に長けた癒師たちの間でよく議論が交わされています。

「南の方はそうでもねぇが、北ウォールズの連中は、戦に負けてからずいぶん変わっちまったでな」

 マンザニータさんの話によると、西の都オピアムを中心とする北ウォールズの人々は、二百年前の大戦に敗れたあと、二都山道でつながる東の都ジンセンの影響を受け、近代化に走っているとのことでした。伝承や伝統を重んじていたせいで時代に遅れ、隣国に敗れたのだと、オピアムの学校では教えているそうです。

 脳裏にジンセンでの暗い記憶がよぎりました。

 老女将はつづけました。

「さっさと村を出たほうがええかもな。漁師(さかなや)の連中にいって船を出してやろうか?」

「ありがたいお話ですけど、私はしばらく残るつもりです。なにか嫌な予感がするんです」

「うむ。なら、これからガラクタの片付けを手伝ってもらおう。その代わり、宿代は十割引じゃ」




 第十九話 数字のない病



 新暦二〇二年 冬


 マーシュ村に冬が訪れました。北極圏を脱しただけあって、寒さは最果ての村ほどではありませんが、海からやってくる雲が湿った雪を多く降らせるため、建物が埋もれてしまわないよう、雪かきは欠かせません。

 どういうわけか、地元ラーチランドの救助隊と医師団は待っても待ってもやってきませんでした。

 一方、ウォールズ隊の少佐は、二次災害の恐れがあり復旧作業が難航しているとして、村人を家に返そうとしませんでした。そうこうしているうちに雪が降りはじめ、豪雪で復旧どころではなくなってしまいました。

 校舎の外にいる私とマンザニータさんも、各所の検問のせいで行く手を塞がれ、配給食を受け取りに小中学校まで往復するくらいしかできません。私に関しては特に監視が厳しく、どんなに寒くても校舎には入れてもらえませんでした。

 そんなある日のこと。マンザニータさんが避難所から民宿に帰ってくると、エルム助役が黙って手紙を渡してきたというので、女将の部屋で封を開けることになりました。


『兵士の話を盗み聞きしました。どうやらウォールズ国は、マーシュ村の温泉を欲しがっているようです。自警隊は災害復旧する気などなく、調査のために我々の自由を奪っているのでしょう。それと、ラーチランドは雪獅子の疫病問題で期待の新資源が取れなくなり、経済的に苦しんでいます。近々、政治的な取引で国境が変わるかもしれません。我々村民はウォールズ国民になるか、他の村へ移住するか、選択を迫られるでしょう』


 女将は手紙をテーブルに放ると言いました。

「戦はとっくの昔に終わってんだ。国境なんざあってないようなもんだ。権利だとか利益だとか、男どものバカだきゃあ治ってねぇな」

「……」

 私は黙っていました。国の外交の話にどうこう言える知識も立場もありません。

「あんたは、どう思う?」

「どうもこうも、私は患者のことが心配です」

「医者どもは困ってたねぇ。検査じゃ正常なのに、具合悪りぃのは消えねぇんだとさ」

「やはり」

 私の予感は当たりました。



 その日の吹雪の夜。

 私は兼ねてから計画していた作戦を実行に移しました。

 マンザニータさんに防寒着とかんじきを借り、私は検問のない雪深い森を行きました。

 やがて学校の裏に出ると、鍵のかかっていない窓を探しました。

「作り話のようには、いかないか……」

 自警隊を甘く見ていました。鍵のチェックは怠っていないようです。さらに、計画のほうにも手落ちがありました。避難者がいる生徒用の教室は校門側にあり、裏庭側は校長室や理科室など震災後は滅多に人が入らない部屋ばかりだと、今になって気づきました。

 私は吹き上げる雪にあおられながら、誰か姿を見せないか、レンガ造りの校舎に沿って行ったりきたりしました。

 誰もが寝静まる時刻に、寒い廊下をうろつく人など、いるわけがありません。この作戦はどう見ても失敗でした。

「どうしよう……」

 このままでは顔が凍傷になってしまいます。でも、遭難覚悟で雪の中を進んできたのに、何の収穫もなしに帰るのは嫌です。

 鼻が腐るのが先か、灯りが見えるのが先か……。

「やっぱり帰ろう」

 お嫁に行くのを諦めるにはまだ早すぎます。

 かんじきのひもが緩んでいたことに気づき、私はしゃがんで手を伸ばしました。でも、手がかじかんで玉結び一つ作れません。

 毛羽立ったミトンを脱いで、両手に息を吹きかけているとき、窓が開く音がしました。

「プ、プラムさん……そこで何してるんです?」

 見上げると、ランタンを持ったエルム助役がいました。

「エ、エルムさんこそ」

「寝付けなかったので、一人で考えに耽ろうと。そんなことより、早く中へ」

 新雪の上では踏ん張りがききません。私はかんじきをあずけた後、エルムさんに引き上げてもらいました。

 そこは使われなくなって久しい図書準備室でした。本棚はどれも空で、埃が積もっています。

 エルムさんは、私がやってきた経緯を聞くと、あきれ顔で言いました。

「冒険家なら、あなたは確実に命を落とすタイプですね」

「ハハ……癒師でよかったです」

 村人が指定された区域の外に出るときは監視役が付きます。幸い、図書室は範囲の中にありました。ただ、警備兵は夜間でも校舎内全域を巡回しているため、油断はできません。

「ところで、患者を見にきたんですか?」

「女将さんから、医者が困っていると聞いたもので」

「彼らはオピアムの国立病院から派遣されてきた、優秀な人たちなんですが、なんだか難しい顔をして話し合っていますよ」

 医師たちは政府の企みがどうであろうと、自分の仕事をこなしているようなので、少し安心しました。

「オーレン先生は?」

「医師団の控え室、ええと、小学部の空き教室にいますよ。少佐は顧問って言ってますけど、実際はお飾りですね。患者に触ることもできなくて、一人でふてくされています」

「自由に動ける癒し手は、私だけか……」

 エルムさんは窓の外を見て、顔をしかめました。

「毎年この時期、吹雪は夜明けになると収まります。足跡を残してはまずい。診察は三時間以内でお願いします。私は先に行って、騒がないよう村民に言い含めてきます。十分経ったら来てください。警備兵の巡回には気をつけて」

 ランタンは目立つので、エルムさんがそのまま持っていきました。

 私は自分の脈で十分を測りました。

 準備室のドアを開け、壁に並んだ本棚伝いにそろそろ歩き、半開きになった戸口に顔を出そうとしたとき……。

 足音が近づいてきました。二人!

 私はあわてて身を引き、顔を振って隠れる場所を探しました。

「開けっ放しとは、行儀が悪いな」

 ランタンの光が左右を照らします。

 ドアが閉まり、足音が遠のいていきました。

 私はカウンターの司書席の下からはい出して、大きく息を吐きました。

「もぅ、エルムさんったら……」

 しっかりしているようなのに、彼は肝心なところが抜けています。



 中等部の教室に入ると、小さなざわめきが広がりました。

「みなさん、起こしてしまってすいません。何か困っていることはありませんか?」

 部屋にいた村人たちは、争うことなく列をつくりました。事前にエルムさんが順番を決めていたようです。列はほぼ年齢順でした。

「時間がありませんので、今日は診察だけやります」

 一人また一人と、体に手をかざしていくうち、医師団が困っている理由がわかってきました。

 慣れない所に長らくいたために、適応しようとする部分が過剰に働き、それが病人を苦しめていたのです。検査に引っかからないのは、人間のすべてを数値化したわけではないからです。

 診察が終わると、私とエルムさんは図書準備室に戻りました。窓の外はまだ吹雪ですが、空は白みかかっています。

「どうでした?」

 エルムさんは言いました。

「村人は家に帰りたくてたまらない。その一言に尽きます」

「いや、あの、私が聞きたいのは病状のことで……」

「家に帰れないことほど深刻な状態は、そうはないでしょう?」

「は、はぁ、たしかに。しかしこの状況では……」

「症状は緩和できます。でも、家が残っている人は、帰宅さえできれば、私の施術など必要ないでしょう。そうなれば医師はもう、オーレン先生一人で充分です」

「えっ? 今患っている人の原因のほとんどが、そういうことなんですか?」

「だから、さっきそう言いました」

 エルムさんの顔に困惑の色を浮かびました。

「これが、癒術というものなのですか?」

「言葉で説明するのは難しいです。今は私を見ていてください、としか言えません」

 私は微笑みを返しました。

 そして窓を開け、足跡が消えかかった雪原に飛び降り、かんじきをはきました。

「自警隊を追い出すことができれば、プラムさんにこれ以上ご迷惑をかけなくてすむんですが……」

 エルムさんの白い息が風で流れました。

「あなたが捕まったら、誰が私を中に入れてくれるんですか?」

「あ……」

「また来ます」



 真夜中の施術は、証拠を残さぬよう、吹雪の日にだけ行いました。マーシュ村の冬の夜は晴れるほうが珍しいくらいなので、心配には及びません。

 私は村人の症状を、完治するには至らないまでも、命取りにはならぬよう食い止めておくことはできました。私自身は毎回しもやけになって、民宿に帰ってから、かゆいかゆいと大騒ぎでしたけれど……。

 ウォールズ隊が村人を解放する日まで施術をつづけるつもりでしたが、如何せん癒術は、術者の精神力を削るため、大人数を受け持つと疲労がたまっていきます。このままでは、患者より先に私が過労死するかもしれません。

 政治的な動きでも革命でも何でもいい、とにかく村人を家に帰してあげてほしいと、私は天に祈りました。



 施術をはじめてから一ヶ月、雪解けまであと一ヶ月というとき。祈りは思ってもいなかった形で叶えられました。

 その日の夜も、私はいつも通り吹雪の中を行き、図書準備室の窓から入り、中等部の教室へ向かいました。

 いつもの顔ぶれに、いつもの施術。顔色が悪いと心配される以外は、これといって変わりない日だと思っていました。

 隙間なく並べた机の上に、小さな男の子を寝かそうとしたとき、教室の戸口のほうから聞き慣れない声が上がりました。

「そこで何をしてるんです!」

 私はとっさにろうそくの炎を吹き消し、子供と一緒に村人衆の影に紛れました。

 白衣を着た壮年の男は、ランタンを持ってこちらへやってきます。医師団の一人にちがいありません。

「この机はいったい何ですか? 誰の指示で?」

 教室に沈黙が広がりました。

 白衣の男は咳払いすると、声を沈めました。

「エルム助役はいますか?」

 私は夜目を利かして助役の姿を探しました。今日は図書準備室で一度しか見かけていません。彼はいったいどこに?

「げりぴーだよ。おなかいたいってさ」

 男の子はこっそり私に耳打ちしました。

 エルムさんはトイレからすぐ戻るつもりで、見張りの代役を立てることを怠っていたのです。彼のミスではありますが、高齢の村長が地震の後すっかりぼんやりしてしまい、若き牽引者に忠告する人がいなくなってしまったことも問題でした。

 さっき会ったとき、どうして予知できなかったんだろう。今度は自責の念にかられました。過労は癒師の慧眼を鈍らせます。でも、日々の施術を怠るわけにはいかなかった。私のミスも彼のミスも、止めようがなかったとしたら、はじめからこうなる運命だったのでしょうか。

「こんな夜中に、何事ですか」

 エルムさんが教室に戻ってきました。

 平静を装ってはいますが、心臓のあたりのエネルギーの色や形が乱れています。見ようとしなくても見えてしまうほど、彼の心は後悔の念と緊張で埋め尽くされていました。

「あの仮設ベッドは、あなたの指示ですか?」

 オピアムの医師は言いました。

「そうですよ。夜中、急患があったらいつでも寝かすことができるようにね」

「我々には我々のやり方があります。勝手なことはやめてください」

「それは失礼しました。ところで、先生。最初の質問にまだ、答えていただけてませんよ」

 私はエルムさんの立ち回りに感心していました。あれほど心を乱していたら、普通は言葉が出てこないものなんですが……。

 白衣の男は眉をひそめました。

「皆さんの病状の経過が、ある時期を境に、我々の予想と大きくちがってきています。薬が劇的に効いたとも思えないし、暮らしぶりも変わっていない。残った疑問が睡眠のとり方だった、というわけで様子を見にきたんです」

「夜遅くなれば灯りを消して目を閉じ、朝日とともに目覚める、それだけですが?」

 医師はエルム助役の落ち着き払った顔を見て、ため息をつきました。

「そうでしょうね。チェックの項目が一つ減った、ということで今日は失礼することにします」

 医師が村人たちに背を向けたとき、事件は起こりました。

 私のそばにいたお婆さんが急に咳きこんだのです。久しくなかった緊張の空気に、体が反応してしまったようです。

「大丈夫。ゆっくり横になってください」

 私は思わず口に出してしまいました。

「む?」白衣の男は向きを変え、声がしたほうへつかつかやってきました。「私の記憶が間違っていなければ、この部屋の避難者に若い女性はいなかったはず。部外者が混じっているようですね」

 お婆さんの咳はまだ止まりません。

 医師はランタンを揺らして、なおも犯人を見つけようとします。

 私はたまらず怒鳴りました。

「今はそれどころじゃないでしょう!」

 灯りが私の顔を照らします。

「その黒衣……民宿がかくまっているという癒師か! 私の患者に何をしている!」

()()患者、ですって?」

 ここで我を見失って施術を止めたら、癒師の名が廃ります。私は医師のことを見向きもせず、咳きこむお婆さんに手をかざしながら答えました。

「犯人探しに夢中で、患者のことを忘れた人が何を言うんです。村人の病が良くならない理由が、あなたの態度を見ていてよくわかりました」

「私がやる。どきたまえ!」

 男は私の肩に手をかけた……と同時に尻餅をつきました。

 エルムさんが白衣の襟をつかんで後ろへ引っ張ったのです。

「何をする!」

「わからないんですか? プラムさんは、あなたに医師をやる資格はないと言っているんですよ」

「私を侮辱したこと、後悔するぞ」

 白衣の男は鼻息を荒くして教室から出ていきました。

 すると、お婆さんの咳はぴたりと止まりました。

「なるほど、そういうことでしたか」

 私とお婆さんは笑顔を交わしました。

 これで今日の仕事は終わりました。

「すぐに帰ったほうがいい。準備室まで送ります」

 エルムさんが私の手を引き、教室を出ようとしたとき……。

 たくさんの足音が近づいてきて、戸口に人壁ができました。ウォールズ隊の兵士です。

 私たちはひるんで一歩下がりました。

 人壁の真ん中がさっと開き、太った少佐が教室に入ってきます。

 少佐は寝起き(まなこ)の不機嫌顔で言いました。

「極東の魔女め。まだこの村にいたのか」

「プラムさんは魔女なんかでは……」

 エルムさんの言葉を、少佐は大声で遮りました。

「小役人は黙ってろ! その魔女は、大陸随一を誇る国立病院の医師団を侮辱しただけでなく、避難民に呪いをかけ、治療活動を著しく妨害した。我々が戦前の軍隊なら銃殺は免れないところだ。平和な時代に生まれて幸運だったな。連れて行け!」

 兵士二人が入ってきてエルムさんを押しのけ、私の腕を抱えました。

 すると、村人が次々と集まってきて、私たちの行く手を遮りました。

「な、何の冗談ですかな?」

 少佐は顔を左右に振り、誰に言っていいかわからないようです。

「侮辱したのも、妨害したのも、あんたらの方じゃ」

 人影の中からしわがれた声がしました。

「なんだと?」

 現れたのは、ぼんやりしてしまったはずの村長でした。

「プラム癒師がきてくれなけりゃあ、あのヤブ医者どもに何人殺されたか、わかったもんじゃねぇ。なんも知らねえ田舎もんだと思ってナメやがってよ。俺たちゃ家に帰れりゃ病気なんか治っちまう。それを妨害したのは、あんたらでねぇか」

「貴様……」

「裁きたければ、裁けばええ。その代わり、村民五百人が相手だで」

 村長の後ろに控えていた男たちは机を盾がわりに、女たちは長箒を槍がわりにして、少佐をにらみつけました。

「少佐! 廊下に、他の教室から出てきた住民たちが!」

 部下の報告に、少佐は苦い顔を残し、引き上げていきました。

 村の人々は、往年の気迫を取り戻した村長に喝采を送りました。

 ところが、老人はぼうっとしていて何のことかわかっていません。

 村長の輝きはほんのひと時でしかありませんでした。しかし、彼は頭が冴えなくなってからも、身のまわりで起こったことを理解し、自分の考えも失っていなかったのです。

 学界は近年、人や動物は脳がすべてという議論をはじめていますが、村長の奇跡を目の当たりにした私には、そうは思えませんでした。



 数日後。ウォールズ自警隊との衝突を前に意気込んでいた村人は、肩すかしを食らいました。

 少佐の一隊と医師団は何も告げず、船で国へ帰ってしまったのです。

 オーレン医師が白衣衆の一人から聞いた話では、ラーチランドとウォールズの話し合いが一転して決裂、マーシュ村はこれまで通りラーチランド領のまま、とのことでした。

 国民の暮らしを机の上で振りまわす政治家には、まったく困ったものです。




 第二十話 ウォールズへ 



 新暦二〇三年 春


 背の丈よりも積もっていた雪がすっかり溶け、マーシュ村は春を迎えました。

 教室を埋め尽くしていた患者はもう数えるほどとなり、オーレン医師と話し合った末、私は村を出ることにしました。

 北ウォールズのディル港へむかう帆船に乗りこんだ私は、デッキの欄干に寄りかかり、見送りの人たちに手を振りました。

 私が治療に関わった人はほとんど来ています。この春、新村長となったエルムさんは、前任の大先輩の手を取って、一緒に振っています。

 マンザニータ女将とオーレン医師は、名残惜しいといって、船の中までついてきてくれました。

 オーレン医師は言いました。

「君に出会わなければ、人を癒すとはどういうことか、たぶんあの世へ行くまでわからなかったろう」

 マンザニータさんは言いました。

「村の腰抜けどもを動かしたのはよ、あんたが命知らずに動いてくれたおかげさね。最後に一つ拝ましてくれ」

 私は一人ずつ抱擁を交わしました。

 そして感極まり、両手で顔を覆いました。

「私には……私にはもったいない言葉です」

 出発を知らせる汽笛が鳴り、二人はタラップを下りていきました。

 船が桟橋を離れ、湾の中を進んでいきます。

 私は左舷から船尾へと走り、涙と鼻汁が垂れるのもかまわず、港が見えなくなるまで手を振りつづけました。

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