第一章 カスターランド
2011年の別のペンネームで書いた作品です。
第一話 旅立ち
新暦二〇一年 春
「うえっぷ……」
私は船上デッキの欄干にもたれかかり、片手で口を押さえました。
蒸気船『ウォルナット号』は人を選ぶ。就航当時からそう言われてきましたが、今その事実を実感しているところです。
ウォルナット号は、私の故郷であるエルダー諸島の中心、大エルダー島と大陸のマグワートという港町を結ぶ、週に一度の定期便です。
申し遅れました、私の名はプラム。この春、癒術学校を卒業し、癒師免許を取得すべく修行の旅に出るところです。
「おぇ……も、もうだめ」
海を見つめていたスーツ姿の若い男性が、見るに見かねた様子で近寄ってきました。
「君はエルダー人だね? 島を出るのは初めてかい?」
「は、はぁ……」
彼は私の顔ではなく、黒のワンピースを見て、異国の者と見破りました。なぜなら、上から下まで黒ずくめというのは大陸では不吉とされており、一方、エルダーでは癒師の制服を意味するからです。
私は息も絶え絶えに言いました。
「あの、酔い止めはお持ちでしょうか?」
「えっ? ああ、そうか。エルダーには咲かないんだっけ?」
大昔から『酔い止め』とくれば、この船の行き先、アルニカ大陸——実際は半島なのですが、とても広いせいか、単に『大陸』と呼ぶのが一般的です——の東岸に群生する野草を乾燥させて粉にしたものを指します。
若紳士から薬の小袋を受け取ろうとしたとき、後ろの方で野太い声がしました。
「この中に、お医者様はいませんか!」
ふり返ると、海運会社の制服。胸の名札には『副船長』とあります。
副船長は三度呼びかけました。
デッキの乗客たちは顔を見合わせるばかりです。
私はうつむいたまま震えていました。術の基本は一通り学んだはずですが、大陸に渡ってから頑張るつもりでいたので、心の準備がまったくできていません。
「いなければ、ナースでもいい! 腹が痛いそうだ!」
海の男の気短さが恐ろしくなった私は、つい口を開いてしまいました。
「あ、あの、私は医者ではないのですが、それに類する者といいますか……」
言い終わらないうちに、私は男に手を引かれ、一等室区画に通じる階段を駆けおりていきました。
個室のドアを開けると、色白のやせた男の子がベッドに横たわっていました。目をぎゅっとつぶって下腹部を押さえています。十歳くらいでしょうか。すぐ脇で両親が心配そうに声をかけています。
私のことに気づいた二人は、こわばった顔で言いました。
「なんだ若いな」と父親。
「その服は?」と母親。
私は癒術学校の授業で、大陸では癒師について誤解している人が大勢いると、学んでいました。ここで素性を明かすのは得策ではありません。
私は早口で話を遮りました。
「集中したいので、二人きりにさせてください」
少年の両親は不満そうでしたが「他に専門家は乗っていないようだし」と小声で話し合うと、副船長に促されて廊下へ出ていきました。
私は部屋のドアにさっと駆け寄り、小窓のカーテンを閉め、音を立てぬよう錠のつまみをまわしました。
癒術をよくご存じない方にとっては、私が患者に何をしているのか、きっと理解できないでしょう。緊急時はとにかく、施術の邪魔となる人は遠ざけるようにと、癒術学校のアンジェリカ学長がおっしゃっていました。
ベッドサイドへ戻ると、少年はすでに自分で上着をめくっていました。
私は微笑んで彼の手に手をそえ、元通りにさせました。
「どうして?」
少年の問いに、私は別の答えを用意していました。
「これからやることは、二人だけの秘密にしてください」
黙ったまま、しばらく見つめ合いました。
「わかった」
私はほっと胸を撫で下ろしました。年頃の子供は秘密が大好きなのです。
「その代わりさ、終わったらおっぱい触らせてよ」
「おっ! ……ぱいですって?」
近ごろの年頃の子供ときたら、まったく……。
そのとき、鍵がガチャガチャと鳴り、開かないと知るやドアを叩く音がありました。幸い部屋の鍵はそこの物書き机の上にあります。でも、副船長がマスターキーを持ってくるのは時間の問題かもしれません。まだ子供なんだし……私はそう自分に言い聞かせ、ひきつった顔で条件をのみました。
「まっすぐ横になって、目をつぶっていてください」
少年は黙って従いました。
私は深呼吸すると、彼の頭から足へ向けて、両手をかざしていきました。
下腹部が赤くぼんやりと光っています。どうやら腸の炎症のようです。急性ですがこの程度なら、半人前の力でも癒すことができそうです。
崩れて穴のあいた壁を、新しいレンガで埋めていくイメージを浮かべました。
「突っ立ってないで、早くしてよ」
少年の声に、私の集中は途切れました。
「痛てててて……」
「言う通りにしないと、おっぱいはありませんよ?」
少年は口をつぐむと、兵隊人形のように姿勢がよくなりました。
私はため息をつきました。イメージを浮かべ直し、レンガを積んでいきます。
ドアの方が騒がしくなり、また集中が切れそうです。学校では、クラスメイト全員が鍋叩きする中で特訓したのに……。でも、ここで誰かの妨害にあい、施術をつづけられなくなったら大変です。大陸の港まであとまる二日、単なる炎症とはいっても放っておけば、子供なら命取りになることもあります。
私は周囲を滝のベールで被い、雑音を閉め出して施術をつづけました。
「はい、終わりです。港に着くまではベッドの上でおとなしくしてること」
顔は平静を装っていますが、内心では成功の喜びに浸っていました。しかしです。この後すぐ、とてつもない恥辱が待っていることをふと思い出し、一気に覚めました。
不思議そうな顔でお腹をさする少年。
嫌いなおかずは先に食べる性格の私は、彼の手をとり、自分から胸を差し出すつもりでした。
そのときです。錠が開く音がして、両親が部屋になだれこんできました。
父親は真っ赤な顔で言いました。
「息子に何をした! 鍵なんか閉めて、違法な薬を使ったんじゃないだろうな!」
私は微笑みを返しました。
「何かする間もなく、症状はおさまってしまいました」
「なんだと?」
両親は元気そうな少年を見て、首をかしげています。
「少し、話をしました。彼は何かのために緊張していましたが、それを誰にも打ち明けられないようです。心当たりはありますか?」
少年の驚いた顔に、私はウィンクを飛ばしました。
父親は「仕事が忙しくて……」と、母親は「息子の悩みを聞いている時間がなかったんです」と、告白しました。
二人がそのことを詫び、少年が心のうちを打ち明けだしたところで、私はその場を後にしました。
屋上デッキへ通じる階段を上ろうとしたとき、副船長が不服そうに船長に話しかける声を耳にしました。
「少なくとも診察はしたんだ。代金は取らなくていいんですかね?」
船長は笑って答えました。
「そうか、君はこの航路に勤めるのは初めてだったな。エルダーの旅癒師は一宿一飯制と昔から決まっている。今回はどっちも運賃に含まれているから、必要ないというわけさ」
私はうなずきながら、屋上デッキへ歩み出ました。
先ほどお世話になりかけた若紳士が駆け寄ってきます。
「顔色よくなったようだけど、一応渡しておくよ」
酔い止め入りの包み紙を手にした私は、一気に血の気が引きました。
せめて初仕事の余韻に浸っている間だけは、忘れさせてほしかった……。
それから二日間、私は船の屋上デッキの床や手すりを何度か汚してしまいました。
酔い止めが効かないほど、弱かったなんて……。
癒術学校を留年なく二十一歳で卒業し、少しは大人になったかと思ったのに、私は自分のことを何も知りませんでした。
第二話 動かぬ右腕
蒸気船『ウォルナット号』はアルニカ半島の東岸、水鳥の頭のような形をした湾の奧にある、マグワートという港町を目指しています。マグワートから北へ数百マース(一マース=約一キロ)行くと、二百年前の戦争で事実上半島を統一した『カスターランド』の首都、ジンセンがあります。
エルダー諸島から大陸までの距離は、地図上では首都ジンセンの方が近いです。しかし、航路の南北にうずまく奈落海流と北極海流の潮があまりに速いため、現代の船舶技術ではエルダー諸島のような遠洋からはマグワート以外の港には行き着けないのだそうです。
大エルダー島の首都クラリーを出てから四日目の早朝、朝霞に煙るマグワートの街並みがようやく見えてきました。船酔いで弱りきっていた私は、湾岸に立ち並ぶ建物の数を見て、また催しそうになりました。人口二万といわれているクラリーでも大きな街だと思っていたのに、その数倍はあります。
船が桟橋に着くと、私は革張りのトランクを抱え、先頭をきってタラップを駆け下りていきました。
船の上で揺られることに比べたら、他の苦しみなんてきっと大したことありません。
港のターミナルは人でいっぱいでした。半島の沿岸各地へ発つ船を待っている人が入り乱れ、そこに大型船の客が降りてきたのです。マグワートの市街図を見たかったのですが、汚れた空気の中でいつまでも壁にたどりつけない私は、また具合が悪くなってしまい、諦めて出口へ足を向けました。
癒術学校を卒業した者は、大陸の風習や人の多さに慣れるため、カスターランドの玄関と呼ばれるマグワートを最初の拠点にするのが通例です。
私もこの街で修行をはじめようと決めていました。
しかし、決心はあっけなく覆りました。
さきほど渡ってきた人の海は、荒波で知られるエルダー航路よりも恐ろしかった。利己心に侵されたオーラの津波が、何度も私を飲みこもうとしたのです。
新鮮な魚貝が並ぶ港の市場には目もくれず、私はマグワート駅へまっすぐのびる石畳の道を、ふくらはぎが痛くなるほどの急ぎ足で進んでいきました。マグワート駅は首都ジンセンや、さらに北のラーチランドの街を結ぶ、東岸鉄道の始発駅です。
様式的な彫刻が施された石造りの建物と時計塔。
私は駅前広場の片隅に立ち止まると、記憶に焼きつくようにその姿を見つめていました。
「ごめんなさい」
私はそうつぶやくと、駅の中へ駆けていきました。
時刻表、人、改札口、人、待合室、人、掲示板、人、クロークルーム、えっとえっと……。
頭がぐるぐるして、目の前にある切符売り場を見つけるのに何分もかかってしまいました。
ほっと息をつき、列の最後につこうと一歩進んだときです。
ドンと肩に何か当たって、私はトランクごと横倒しになりました。
「フン、田舎者が」
気づいたときは、煤けた作業着の背中を見送っていました。イントネーションがおかしかったので、きっと地方からの出稼ぎの方でしょう。ちなみに私を含め、エルダー人は方言と標準語を使い分けることができます。
「どっちが田舎者よ」
あっと、私としたことが。今のは訂正です。田舎は都会より劣っていると言っているようなものです。
気を取り直して窓口の列に並ぶと、やがて順番がやってきました。
木格子の向こうにいる、受付の老人が言いました。
「金は持ってるんだろうね?」
「な……」
なんと失礼な。そりゃあ家は貧乏ですけど、ちゃんと卒業したから学則通り学費の一部が返還されて旅費に当てることができ……そんなことは今いいんです。
私は笑顔を返しました。
「も、もちろんです」
「じゃあ早くしてくれ」
「あ、えっと……」
しまった! 窓口の列に横入りされない方法ばかり考えていて、行き先をまだ決めていませんでした。
私は黒衣のポケットから地図を取りだしました。でも、焦りで目がくらんでいて、現在地さえ見つけられません。
「次の急行が出てしまうわ!」「家の玄関から出直してこい!」「どこのムショから逃げてきたんだい、え?」
急行の発車時刻が近づいているせいで、行列はどんどんのびていきます。
「はわわ! えっと、その、ジンセンまで!」
地図の大きな文字しか目に入らなくなった私は、大陸で最も人口が多い街を選んでしまったのでした。幸い、チケットは三日間有効で途中下車もできるため、いきなりギブアップ帰郷ということはないでしょうけれど……。もちろん、旅費節約のため急行券は無しです。
改札で小さなスタンプをもらい、プラットホームが連なる連絡通路に出ました。アーチ状になった高い屋根の下、向かって右に蒸気機関車が二台、左に客車末端の展望デッキが二つ並んでいて、ホームは全部で四つあります。
マグワートは始発と終点を兼ねていて、私が乗るのは始発の方で、えっとそれから……。
ジリリリリ!
「ひっ!?」
大きなベルの音に、思わず左の方へ駆け出してしまった私は、『1』と書かれたホームの周りが慌ただしくなっているのに気づきました。
最後尾の展望デッキのそばで、車掌が長い笛を吹きました。
各駅停車は一本逃すと、二時間以上待たなくてはなりません。
「待ってください!」
私はトランクを抱きしめ、白いスーツを着た車掌に駆け寄ります。
車掌は先頭車に向かって笛を連呼し、発車を遅らせました。
「失礼ですが、チケットを拝見」
「えっ? 乗ってからと聞いてましたけど」
「不正乗車する輩がときどきいましてね。ギリギリに駆けこんできて、次の駅までどうにか私をかわし、急行料金をキセルするんです」
「はぁ、そうなんですか」
私はチケットを出しかけて、ハッと気づき、すぐに引っこめました。
「どうしました?」
「すいません。急にお腹の調子が……」
「トイレなら車内にありますよ」
「そ、そういうんじゃないんです」
私は急性の食中毒にやられたフリをしようと、口もとを押さえました。
車掌は何かひらめいたような顔で言いました。
「これは失礼いたしました。産婦人科なら駅を出て右にございます。でも、急に走るのはよくないですよ」
「むぐ!」
誤解を解きたかったのですが、致し方ありません。私は口もとを押さえたまま、初期の妊婦のフリをして、一番ホームからよたよた離れました。
急行列車が去った後、チケットをよく見ると、隅のほうに『2』という印字が……。
私は向かいの二番ホームまで連絡通路をとぼとぼ歩いていき、各駅停車のジンセン行きに乗りこみました。
座面に薄いクッションが張ってあるだけの、向かい合わせ四人がけの木製イスが、通路をはさんで左右にずらりと並んでいます。
私は客車内に入ってすぐのところにどっと腰掛けました。席を選ぶ思考力さえ惜しかったのです。終点のジンセンまで十四時間かかるそうですが、私は適当なところで途中下車するつもりです。何故かなんて聞かないでください。
席が七分くらい埋まったところで汽笛がなり、足下でガタッと大きな音がして、景色が動きはじめました。
私が座るボックスには誰も入ってきません。幼い頃から鈍いと言われてきた私でも、避けられているのはわかります。原因は私の黒衣、つまり癒師の正装です。こうなることはわかっていたので、落ちこむことはありません。学校の図書館に保管されている先輩方の旅行記に同じことが書いてあったからです。
癒師を目指す人は受験前に、こういった類いの話を講堂でさんざん聞かされます。中学校でどんなに優秀だったとしても、独りきりでいられない人や、差別を克服する意志のない人はお断りなのです。
入学資格は成績よりも、血統、性別、そして性格が重視されます。そもそも癒術学校は特例をのぞき、エルダー諸島の純血の女性でなければ受験さえできません。なぜ島の女性だけが『素質』を受け継ぐのか。昔から様々な議論が重ねられてきましたが、未だに謎のままでした。
列車は人の駆け足ほどの速度で進んでいき、駅舎の外へ。
すると、窓から朝日が差しこんできました。幾筋にも連なる線路の枕木が流れていきます。石炭や木材を積んだ貨車たちは、寝坊した機関車の出勤を待っていました。
平行する線路の数が一つずつ減っていき、いよいよ鉄道の旅のはじまりかと思ったときです。
列車は速度を落とし、止まってしまいました。
もう次の駅……のはずはありません。通路の扉の横に貼ってある時刻表によれば、あと一時間は走ることになっています。マグワートの北には大きな森が広がっていて、町らしい町はその先にあるのです。
ざわつく車内。牛が通るのはもっと先だろうという声が聞こえます。
砂利を踏む音が近づいてきました。紺の制服を着た車掌が機関車のほうへ走っていくのが見えます。私は窓を開けて顔を出し、その背中を目で追いました。
しばらくすると、車掌は眉間にしわを寄せて戻ってきました。窓を開けた乗客たちと目が合うと、彼は事務的な口ぶりで一つ詫びてから言いました。
「なに、計器の小さなトラブルですよ。本日の運行には支障ありませんのですぐ発車します」
マグワートは古い城下町で、建物が密集しています。城壁の遺構が見えて少しするともう、視界は木々の緑一色になってしまいました。
列車は森林地帯の緩い坂をのろのろ上っていきます。
エルダー諸島にない植物ばかりで、はじめは珍しさに興奮していたのですが、三十分もたつとさすがに飽きてきました。
船旅の疲れがたまっていたのでしょう。列車独特のなんともいえない揺れぐあいもあいまって、私はうとうとしてきました。
初めての長旅だし、車窓を楽しまなければと思うのですが、今日の睡魔は大陸史の授業にでてきた、長い名前の王様より強……かった……。
ゴン! 後頭部の強打で目が覚めました。
地震? 脱線? いえいえ、列車が急に止まっただけです。
車掌がすごい顔をして砂利の上を走っていくのが見えます。
窓を開けて辺りをみまわすと、深い森の中でした。列車は峠をのぼりきった後の平らな所で止まっています。
車掌がまた眉間にしわを寄せて戻ってきました。今度は顔がちょっと煤けています。
機関車で何が起きているのか、聞きたい。でも、私にその勇気はありませんでした。故郷の島の人とは気兼ねなく話せたし、船上で診察を頼まれたときも何でもなかったのに。
癒師の雛鳥、プラムはここへ何しに来たのでしょう。病んでいる人を癒して経験を積み、試験に受かって正式な癒師になるためです。上手に話をするためではありません。
私は目を閉じました。
いや、ちょっと待ってください。
患者の信頼を得るためには、話術の一つも必要なのでは?
車掌はもうすぐそこです。ああ、でもやっぱりだめ! 癒神エキナス様!
そのとき、一つ先のボックスにいた老婦人が車掌を呼び止めました。
車掌は事情を説明しています。
私は浮いていた腰をそっと下ろしました。祈りが通じたのでしょうか。ほっとする反面、階段を一つ上がり損ねたという後悔の念にかられました。
列車が止まってしまった原因は、運転士でした。七十過ぎの老人の右腕が急に動かなくなったというのです。通常、蒸気機関車は二人以上で動かすそうですが、人手不足のため、各駅停車に使う小型機関車では、運転士が一人きりというのが現状でした。
私は額から発する気を、車掌の体に集中しました。
胃のあたりが黄色く縮こまったようなビジョンが見えます。発車直後にあった計器の故障というのはおそらく嘘でしょう。急に、ではなく、これまで何度もあった『症状』のはずです。
車掌の話によると、マグワート・ジンセン間は単線のため、列車が止まってしまうとダイヤが大幅に乱れ、そのために起こる経済損失は計り知れない、とのこと。せめて次の駅まで走ることができれば、引きこみ線にどかすことができるというのですが……。
列車が止まったこの深い森には獣道くらいしかなく、次の駅まで線路を歩いて三時間、マグワートに戻っても三時間、近くの林道まで薮をかいて行っても一時間以上の距離です。林道といっても、せいぜい荷馬車がたまに通る程度。どう見ても、一番近い医者を連れてくるには半日がかりでした。
車掌と老婦の話を聞いていた青年が、通路で頭を抱えています。このままでは厨房に届ける魚が全部ダメになってしまうと。
青年の悲しみが、なんだか自分のせいのように思えて胸が苦しくなってきました。
二人は話を終えたようです。
私は深呼吸すると、車掌に声をかけました。
「私に診させていただけませんか?」
車掌は赤茶けた砂利を踏みしめ、訝しげに黒衣の私を見上げます。
「その、失礼ですが、エルダーの?」
「はい。正式な癒師になるため旅をしています」
車掌は咳払いすると、さりげなく手招きしました。
私はデッキへ出て自分でドアを開け、車掌が待つ線路脇の木陰に向かいました。
二人が列車の死角に入るや、男は言いました。
「そんなことはわかっている」
「え?」
「何度も言わせるな。あんたが悪名高き旅の仮免癒師だということは、はじめからわかっている」
「そ、そうでしたか……」
エルダーの……という一言には、差別的な意味が多分に含まれていると教わったことを、私は忘れていました。
「カスターランド人は癒術など信じていない。火を当てなければ鍋の水だって湧かせないだろう? あんたらが救ったっていう患者は、何もしなくても治る運命にあったのさ」
大陸の人々の多くは、目に見える力しか信じていません。科学の発展は医療を進歩させ、少ない労力で大勢の患者をまかなえるようになりました。しかし、人を癒すということは、工場で安物の服を大量生産するのとは訳が違うのです。
言葉で説得してもおそらく無駄でしょうと、アンジェリカ学長は言っていました。ではどうすればいいのですかと質問したところ、それを学んできなさいと言われてしまいました。
私は少し考えてから言いました。
「偶然でも奇跡でも、治ったという事実は事実です。エルダー人は運がいいのかもしれませんよ?」
「しかしだな……」
「では、マグワートまで往復六時間、歩きますか?」
車掌はため息をつきました。
「爺さんに何かあったら、見過ごすわけにはいかないぞ?」
「完璧に治っても、通報されれば全部違法ですよ、私たちは」
カスターランドの医師法は、半島を占める四ヶ国の中でも特に厳格です。修行中の癒師が施術の対価としてお金を求めていないということは、言い訳にはなりません。旅癒師の活動は、患者や周りの人々との信頼関係にかかっていました。
車掌の許しを得て、私は白い煙が立ち上る機関車の方へ歩いていきました。列車は三両編成と短いものでしたが、客車の窓から打ち出された好奇の視線を浴びつづけるには長過ぎました。
運転室横の短い梯子を上ると、右腕をおさえて小さくうなる老人がいました。
白い口ひげまで煤で汚れた運転士は言いました。
「急行でもないのに乗っていてくれたとは、ありがたい……と言いたいところだが」
「おっしゃりたいことはわかります」
老人は目を細めて私をよく見ました。
「む? いや、悪かった。君たちの方がまだマシだ」
「と、いいますと?」
バインと名乗る運転士は、その理由を語りました。
バインさんは数年前から右腕の不調を訴え、首都ジンセンの病院に通っていましたが、原因は解明できず、去年の暮れに主治医から「もう少ししたら完全に動かなくなる」と引退を勧告されました。バインさんは「あと五年は続けたい」と粘りました。医者は首を縦にふらず、しまいには「あなたはもう充分働いたのです。これからは老後の余暇を楽しむべきでしょう」と言うのです。東岸鉄道が開業した日から機関車を運転してきた男に、趣味などありませんでした。機関車を整備し、安全に運転することが、彼の仕事であり趣味であり人生だったのです。医者を信頼できなくなった彼は通院をやめました。しかし、症状は悪化するばかりです。
「私は何も悪い事などしていない。何がいけないというのだ!」
私は老人の右腕に手をかざし、下から順に異常はないか、魂の目だけに映る情報を受けとっていきました。
見たところ、関節に老廃物がたまっているくらいで、大きな異常は見当たりません。たしかにこのまま数年放っておけば、動かなくなる可能性はないとは言えませんが、今すぐ引退すべきだとは思えません。
私が口を開きかけたとき、バインさんが遮りました。
「わかった! もう何も言うな」
「ま、まだ何も言ってませんけど?」
「引導を渡されるなんぞ、一度で充分だ」
そんなに難しい顔をしていたのでしょうか?
私は微笑んで言いました。
「苦情は施術の後にしてくださいね」
肉体の病状自体は軽いので、私一人の力で癒せそうです。右腕の各関節を中心に、用水路のつまりを大勢の小人で掃除するイメージを浮かべました。
「なんだかむずかゆいな。ノミでも放ったか?」
「はい、おしまいです」
私はわざとらしく『気をつけ』をしました。
「もう終わりだと? 年寄りだと思ってからかっているのか?」
バインさんは恐い顔で私を指さします。
私は笑顔のまま言いました。
「それはどちらの腕ですか?」
「えっ? あ! そんなまさか……」
その後のバインさんの賛辞といったら、恥ずかしくて顔が焼けるほどです。大した病気ではなかったと聞いて、彼はますます医者が嫌いになったと言いました。でも、都の医者が解決できなかった難病がいとも簡単に治ってしまったという現象には、納得がいかないようでした。
列車は再び動きはじめ、車内は安堵の声に包まれました。ひそひそ話があちこちで飛び交っています。魔法をかけただの、呪いを解いただの、おおむね評価されているようですが、あいつはまともな人間じゃない感は相変わらずです。
峠を下り、森林を抜け、しばらく田園地帯を走ると、久々にちょっとした街が見えてきました。予定の停車時間を少しずつ削っていったため、フォーン駅には定刻の午後三時到着。列車はここで石炭と水を補給し、終点のジンセンに向けて二時間後に発車です。
私はここで途中下車することにしました。
トランクを持って屋根つきのプラットホームに下りたとき、ちょうどバインさんが機関車を降りてこちらへ歩いてくるところでした。運転士はここで交代だそうです。
バインさんは私に握手を求めると、ぼそっと言いました。
「ふと思ったんだが、俺は自分の望みよりも、医者が言ったことの方を信じちまったのかもしれんなぁ」
「!」
私はハッとして天を仰ぎました。きっとそうに違いありません。潜在意識というのは偉大な力を持っているが、自分にとって良いか悪いかの判断はできないのだと、癒術学校で教わったのを思い出しました。
「天井がどうかしたのか?」
「えっ? いえ、その、何でもありません」
「君らはこの馬鹿でかい半島を何年もかけて放浪すると聞いているが、本当かね?」
「はい。島にこもっていても知識は得られますけど、体験に勝るものはない、というのが古くからの教えです」
「では一つ教えておこう。ここカスターランドはな、島を出たばかりの君にとっては、痛みが強すぎる。フォーンを出たらジンセンには寄らず、二都山道を行って西へまわりなさい」
「ありがとうございます」
そのルートは卒業生の間では『手堅い道』と呼ばれているもので、主流の一つですが、私の計画とは大きく異なるものでした。前にも言いましたが、私の流儀は『嫌いなものは先に食べてしまおう』です。それに、海岸沿いにぐるっとまわった方が気持ちがいいじゃないですか。
バインさんの背中を見送った後、私は改札を出てフォーンの駅前広場に立ちました。夕方までまだ時間があるというのに、人でごったがえしています。大きな街ではないはずですが、人や物の密度が半端ではありません。群衆より頭一つ高い屋台が通りに沿って並んでいます。そこには野菜や果物、穀物の山、山、山。
案内板を見ると、毎週三曜日と六曜日はフォーンで夕市が開かれるとのこと。確率七分の二ですか。運がないですね。
思った通り、私は人ごみに酔ってしまい、三十分もしないうちにレンガ造りの駅舎に避難していました。
『小麦伯爵寄贈』と書かれた大きな振り子時計を見ると、ちょうど午後四時。日没までそう長くはありません。私は宿のことを心配しだしました。フォーンの夕市はお金の勘定ができなくなったら終了です。要するに街をうろつくには、夜を待たなくてはなりません。
人ごみにもまれるか夜を待とうか、迷っているうち、振り子時計の長針はもう半周していました。焦ってきた私は待合室の隅っこへ行き、何かアイデアはないかと、トランクを開けて中身をかき回しました。すると一枚の絵ハガキを見つけました。癒術学校の一年上、ピオニー先輩による自慢日記の第四回です。長期休暇に入るたびに先輩は、大エルダー島の北端、メドウという町にある私の実家に、ハガキを送ってくるのでした。
そこでふと、ちょうど一年前、卒業を控えたピオニー先輩からのアドバイスを思い出しました。
「お金がなくて宿に困ったとき? 大丈夫。駅寝っていう裏技があるのよ」
「駅寝?」
「そんなときはあえて無人駅で降りるのよ。そしたらそこがまんま宿ってワケ」
聞いた当時は、学長室に呼び出されても平気だった先輩のような強者だからできるのではと思ったものです。でも、今の私にとって、それはなんとも魅力的な裏技でした。旅費を節約できる上に、誰にも気兼ねしなくていいのです!
私はスタンプが二つ入った切符を片手に改札を通り、乗ってきた列車に再び乗りこみました。地図を見ると、一番近い無人駅はフィロセカといい、ここフォーンからは一時間もしないところにあります。そこに決めました。
列車は午後五時ちょうどに発車しました。座席は半分しか埋まっていませんが、夕市で買い物してきたのか、誰もが食料の荷物満載です。
列車は北へ北へと走っています。西の空は赤く焼けていき、やがてお日様は山の陰に隠れてしまいました。
「次はフィロセカです。駅員はおりませんので、お降りの方はプラットホームで、車掌に切符を渡してください」
後ろから聞こえた男の声にハッとしました。運転士は交代したのに、あの口の悪い車掌は連続で勤務だなんて、神様は何と意地悪なのでしょう。
列車の速度が落ちてきました。ともかくトランクを持ってデッキへ。窓の外はもう薄紫がかっています。
列車が止まると、自分でドアを開けて閉め、暗くなった野ざらしのプラットホームを歩いていきました。降りたのは私一人のようです。
最後尾の脇に立つ車掌が、不審そうな顔で待ち構えています。
私は冷静を装って言いました。
「途中下車します。スタンプお願いします」
今度は何も違反していないので、車掌は業務を果たします。
「本当にここで降りるのか?」
「いけませんか?」
「こんな田舎に宿なんてないぞ。知り合いでもいるのか?」
大きなお世話です、と言いたいところですが、彼を怒らせて、せっかく見過ごしていただいた施術の件を蒸し返させるわけにはいきません。
「修行が厳しすぎて癒師になることを諦めた私の先輩が、農家に嫁いだんです」
申し訳ありません癒神エキナス様、これは方便というやつです。
「そういう話はときどき耳にする。あんたもそうした方がいいんじゃないのか? 幸い、乳はよく出そうだしな」
車掌はいやらしい目つきで私の胸を見ています。
「なっ!」私は歯がみして耐えました。「列車、遅れますよ?」
「おっと」
車掌は笛を吹くと、最後尾の展望デッキに駆け上がりました。
短い汽笛を残し、列車は去っていきました。
私は重い足取りで、誰もいない駅舎へ入りました。手入れされなくなって久しいその建物は、駅舎というより、馬を売った後の厩舎のようでした。
第三話 トラウマと前世
真っ暗な小屋にたった一つ置かれたベンチ。これが今日の私のベッドです。
雲間の月明かりが、窓からとぎれとぎれに差しこんでいました。癒師の素質を持つ者は、他の人種より夜目が利くため、わずかでも光があれば辺りの様子がわかります。
駅と呼ぶには物がなさすぎますし、廃墟と呼ぶには片付きすぎています。要するに壁に貼ってある時刻表以外、何も目を引きません。
独りで寝るのは平気だと思っていました。どうやらそれは間違いだったようです。学校寮の個室にいたときも、実家の私の部屋も、同じ屋根の下に誰かがいると知っているからこそ、安心して目を閉じることができたのです。
これがピオニー先輩の言った、駅寝というものですか。私は今、後悔の念にかられています。フォーンで宿を探せばよかった。お金の心配をして、本心とはちがう行動をとってしまった。きっとその報いを受けたのでしょう。
夜がこんなに寂しいものだったなんて!
強行軍で疲れているはずなのに、目は冴えきっています。小さな物音がすると、いちいち確認しなければ気が休まりません。今ならきっと、クモが巣を張る音も聞き取れるでしょう。
赤子の最初の記憶から、この春に旅立つ前までの人生が、走馬灯のように流れていきます。ち、ちょっと待ってください。私はまだあの世に還るつもりなんか……。
ガタッ!
出口のほうで音がしました。
「ひっ!」
私は身を起こすと、枕にしていたトランクを盾代わりに抱きしめました。
虚空にぼうっと灯った鬼火が、私の方へ近づいてきます。
「ま、待ってください。お迎えなんて早すぎます!」
「なんだって?」
ランタンの炎が、持ち主と私を照らしました。
暗色のハーフコートをうんと簡単にしたような服に、真鍮のボタンとバックル。これは何かの制服だと直感しました。夜中にランタンを持って見まわる仕事など、一つしか思いつきません。
「そこで何をしている」
若い男は言いました。
「え、駅寝です」
私は思わず業界用語を口にしてしまいました。
「エキネ? 賊のアジトのことか?」
「ちがいま……」
「身分を証明するものは?」
「……」
私は黙って立ち上がると、姿勢を正しました。
「それで?」
男は首を傾げます。
「あ、あの、わかりませんか?」
「黒いワンピースが何だっていうんだ」
もしかすると、大陸の若い世代の中には、癒師について見聞きしたことがない人がいるのかもしれません。
他の証拠を探そうと、私はトランクの革ひもに手をのばしました。
「開けるな」
男は腰に収まっていた銃を抜きました。その手は少し震えています。使い慣れていないのでしょうか。
私はトランクを取り落として両手を挙げました。
「ゆ、癒師は武器なんか持ってませんよっ!」
「うん? ちょっと待てよ」
若者は眉根を寄せて私の顔に注目すると、ランタンの火を小さくして石畳の床に置きました。
窓からさす月明かりが、私の顔を照らします。
少しして、左耳のピアスが光りだしました。
「月蛍石か。それに黒ずくめの格好……なるほど君は癒師のようだな」
「よ、よくご存知で」
男が銃を下ろしたので、私も手を下ろしました。
「石ころにはちょっと詳しくてね。でも、なぜ左だけなんだ? なくしたのか?」
「いえ、修行中の癒師は片方しかつけることを許されていないんです。旅を終えて本試験に受かるともう一つもらえます」
「なるほど素性はわかった。だが、ここは宿じゃない。留まるつもりなら見逃すわけにはいかない。仕事なんでね」
「でも、この辺りに宿はないと聞いています」
「ないね」
「困りました。私たちは施術をしてからでないと、民家には泊まれないんです」
私は旅癒師の一宿一飯制度について説明しました。
「しょうがないな。一晩だけならいいよ。ウチならタダだから」
「いや、ですから……」
「駐在所は民家とは言わないだろう?」
「あ、ありがとうございます!」
村で唯一の駐在所は、駅から歩いて五分もしないところにありました。石造りの二階建てで、一階は警察の事務所、二階はグレヴィ巡査の住まいです。地下には留置場があるそうですが、ここ半年は空室なのだとか。
私たちは事務所を素通りして二階へ上がり、ランプ明かりの下、軽く食事をしてお茶を飲み、それから互いの故郷の話をしました。
「百年に一度、大癒師が生まれる町メドウか……そりゃプレッシャーだな」
「ここ二百年、主席を出してるのは、南部のペリウィンばかりですけどね」
今年もそうでした。ペリウィンは毎年のように秀才を輩出しているため、出身者は期待され、目立つ存在となります。
そこで話がとぎれました。
沈黙の後、グレヴィさんは鋭い目つきを私に向けました。
「その……癒師って、心の病も治せるのか?」
「万能ではありませんが、少なくとも軽くすることはできると思います」
グレヴィ巡査は「銃が恐いんだ」と切り出しました。
のんびりした村ですから、使う事は滅多にないのですが、いざというときのために訓練は欠かしていません。でも、グレヴィさんは銃をもつと恐怖のあまり平常心を保てなくなり、ひどいときは自分の頭を撃ちたくなる衝動にかられるそうです。
これは過去、それも生まれる前の遠い過去に問題があると、私は判断しました。催眠療法を試みたいと申し出ると、大陸では『人を如意に操る呪いの術』とされているにもかかわらず、グレヴィさんは快諾してくれました。
私は立ち上がると、若者をイスに座らせたまま、リラックスした状態へ導くための言葉を並べていきました。グレヴィさんは信心深いのか、すぐに首を垂れて催眠状態になりました。
隣のイスに座り、深呼吸して瞑想に入ります。こうすると患者とビジョンを共有できるのです。
……グレヴィはかつてプラントという名で、カスターランド軍の兵士だった。
時は二百年前の旧暦末、第四次アルニカ大戦中のこと。
大敵である西国ウォールズに対し、味方の軍は攻勢だった。軍の上層部は長びいていた戦に決着をつけるため、首都ジンセンとオピアム(ウォールズの都)を結ぶ二都山道の頂、アイブライト峠に主力を送りこむ作戦を立てていた。
二国をつなぐ主要な道はもう一つあった。港町マグワートを出て、手つかずの山をいくつか越え、大陸中部にある高原の湖へ抜ける、通称『毒の細道』だ。
プラントの部隊は陽動作戦の先鋒に選ばれた。
毒の細道は、峻険な山道の途中に、猛毒をもつ蛇や虫や植物などが群生している難所。大軍を配するのは古来からタブー視されていた。しかし、諜報戦の末に疑り深くなっていたウォールズ軍は、今度は裏をかいてくると見ていた。
スパイの情報通りだった。ウォールズの大軍は湖畔で待ち構えていた。プラントの部隊は難所を越えてすでに疲労困憊だったが、国のために戦った。数を多く見せかけるだけの陽動部隊に力はなく、じりじりと後退していった。やがて敵の山岳部隊に先行されて橋を壊され、後がなくなった。
我が部隊はこれまでだが、予定していた時間は稼いだ。今ごろ味方の主力はアイブライト峠の守備隊を蹴散らし、敵の都へ猛進していることだろう。これで戦争が終わる。
刺された虫の毒が抜けず、銃弾を肩に受け、プラントは苦しんでいた。
男は味方が降伏する前に、銃で頭を撃って自決した。
肉体から自由になったプラントは、戦争が終わった後、命を縮めたことを後悔していた。
同じように苦しんでいた仲間は、いったんは敵の捕虜となった。その後、味方が戦に勝ち、軍功が認められて手厚い保護を受け、残りの人生を豊かに暮らしたのだった。
「それはもう終わったことです」
私は宙を漂っている男に言いました。
ここは上も下もない灰色の世界。
男は目を閉じて言いました。
「ああ、そうだな」
「今の体に戻りますか?」
「そうしよう」
私とグレヴィさんは同時に目覚めました。
「なんだか、肩の荷が下りたような感じだよ」
巡査は銃を実弾で満たすと、壁に向かって構えました。手の震えはなく、正気を失うこともありません。
グレヴィさんは、机の上のホルスターに銃を収めると言いました。
「正直、癒術のことは信じてなかった」
「仕方のないことです」
「さっきのやつ、僕も勉強できないかな?」
「癒術は原則、女性にしかできないんです」
「例外は?」
「ええと、その……去勢すれば、可能性はゼロではないですけど……」
「やっぱり警官でいいや」
私たちは笑いました。
翌朝。
私とグレヴィさんは、小さなフィロセカ駅の前で、別れの言葉を交わしました。
右手のほうから一番列車の音が聞こえてきます。駅舎を通ってプラットホームに出ようと、彼に背を向けたときでした。
「二都山道を抜けて西へ向かったほうがいいんじゃないのか? ジンセンは他の街とは違う。僕もバイン運転士と同じ意見だ」
私は肩越しに言いました。
「ありがとうございます。着くまでに考えておきます。では」
心配させたくなかったので、また嘘をついてしまいました。癒神様ごめんなさい。
ホームに出ると、車掌を探しました。無人駅は車掌が改札代わりです。
幸いなことに昨日とは違い、穏やかそうな人でした。それで安心したのか、車内に入って空いた席に座ると、私はすぐに眠りに落ちてしまいました。
第四話 首都ジンセン
目覚めたとき、私を揺り起こす車掌の顔がありました。
ハッと立ち上がって車内を見渡すと誰もいません。繕い笑いを満面に浮かべ、逃げるようにして列車を後にしました。
プラットホームを歩きながら、私は口を開けて上ばかり見ていました。ここは建物の中だというのに、ちょっとした山が一つ入ってしまいそうなほど、天井は遙か上空にあるのです。
向かい側のホームを見ると、乗ってきた列車とは違う配色のものが発車を待っていました。乗車口上のプレートに『クレインズ行』とあります。クレインズは北国ラーチランドの都です。
この大都会でひと皮剥けてから北へ向かうんだ。私は心にそう念じました。
改札を出てすぐ、決心がくじけそうになりました。どこへ行っていいのかわからないのです。あちこちに通路があって、あちこちに出口があります。広いコンコースが一本あるだけで道筋もないというのに、人々は誰ともぶつからずにすたすた歩いています。野性的な感じの人が多いマグワート市民に比べ、彼らはまるで洗練された機械のようです。
天窓からお日様がさしこんできて私の影ができました。まるで神様が行くべき道を指し示ているかのようです。啓示に従い、西口へ向かうことにします。
駅前広場は公園のように広く、そこらじゅうに馬車が止まっています。広場は大きな建物の群れに囲まれており、なんとなくお風呂の底にいるような気分です。地図を見ると、道路は広場から放射状に広がっていて、各方面へ行けるようになっています。『庁舎方面』『ジンセン城方面』『港方面』『商店街方面』『病院方面』などなど。
行き先よりもまず考えたのは、今日の宿のことです。ホテルを探すかあるいは、病んでいる人を探して一晩お世話になるか。困っている人の存在を期待するなんて本末転倒ですが、かといって、ホテル暮らしがつづいて資金が底をつき、滞在費を得るのがやっとのアルバイトをくり返して、いつまでたっても先へ進めない、というわけにもいかず複雑な気分です。
そんなことを思いながら、足のおもむくままに街をうろうろしていると、いつのまにか大きな病院の前に立っていました。
ジンセン大学病院か……こんな巡り合わせも仕事柄、ということなのでしょうか。
前庭の木陰で様子をうかがっていると、彫刻が施された立派な門構えの玄関から、患者やその付き添いと思われる人がぽつぽつと出てきました。皆さんやつれていて、足取りが重いです。
手にしている大きな袋は、お菓子かなにかでしょうか。一人が中身を確かめています。
数ある薬袋の一つが開くと、手のひらに白い錠剤が出てきました。あれは化学合成薬ですね。薬草学の授業のとき、比較のために現物を見たことがあります。
何日か分とはいえ、あんな袋いっぱい服用するのでしょうか? 私には信じられません。嫌な予感がしたので、彼らの病状をチェックしてみることにします。
六人をつづけて透視してみたところ、一人残らず、体全体が灰色の霧に包まれているように見えました。
あれは病魔ではなく、薬自体が発している色です。
彼らの体を侵しているのは、病気だけではなかったのです。その色は二百年以上前の癒師の旅行記には一度も出てきません。第四次アルニカ大戦後の平和な社会で進歩した、科学の産物なのです。
私は患者たちを見ていて直感しました。
このままでは病気の前に、薬に殺されてしまう。何もしないで休んでいるほうが、まだ助かる可能性があります。
先輩癒師の多くが、旅の手記にこう書き残していました。
都会の病院には関わらないほうがいい、と。
でも、死なずにすむ方法を知っていてそれを伝えないなんて、とてつもない罪悪のように思えてなりません。
私は意を決し、薬袋をしまおうとしていた壮年の婦人に声をかけました。
「あの、そのお薬……」
「薬が何か?」
「飲まない方がいいですよ」
「なぜ?」
私はさきほど感じたことを話しました。
婦人は鼻で笑いました。
「何もしないで休めですって? なにバカなこと言ってんの。病魔を倒すためには、軍隊が必要なのよ」
ああ、彼女は何もわかっていません。合成薬のほとんどは敵味方の判断ができず、誰彼かまわず攻撃してしまうのです。さらに、自分の聖なる体はその軍隊を大抵は敵とみなすので、戦力を消費します。戦いが終わった後には、荒野が残るだけです。その代わり肉体を休めれば、内なる軍隊は余分な戦力を使わず、病魔の撃退に専念できるのです。
わかりやすく説明したつもりだったのですが、婦人は耳を貸してくれず、いつしか水の掛け合いじみた口論になっていました。
「だから、医者があなたを殺すと言っているんです!」
「それじゃ病院なんて成り立たないでしょうが!」
気がつくと、周りに人だかりができていました。そのうちの何人かが私の黒衣を見て言いました。
「癒師じゃないか」「エルダーの魔女よ」「オカルトペテン師め、今度は誰をだましに来たんだ?」「こいつは歩く医師法違反だ。警察を呼んでこい」
私は誰に答えていいかわからず、あたふたしました。
「ちょ、ちょっと待ってください。私はまだ大陸に来たばかりで何も……」
人々は聞く耳持たず、包囲の輪を狭めてきます。
なんという評判の悪さ。彼らの話を聞いていて一つわかりました。この国では、効かない薬を出す医者は責めないくせに、施術がうまくいかないと癒師はひどい目にあうのです。体にマイナスになることは滅多にないというのに。彼らは回復を急ぎすぎるのです。
私を警察に突き出すため捕まえておこうと、方々から手がのびてきました。病人相手とはいえ多勢に無勢。逃げ道はありません。無実を証明できなければ、最低でも一年は刑務所暮らしです。ああ、二十代の貴重な時間が……。
そのとき、体と体の隙間から白い手がのびてきて、私を包囲の外へ引っ張りだしました。
異様に丈の短いスカートをはいた若そうな女は、私の手を引いたまま、振り向きもせずに言いました。
「走るのよ」
「あ、あ……」
私は荒馬に引かれた橇のように、なすがまま走りました。
病院通りを郊外のほうへ少し行って、テーラーの角を曲がり、洗濯物のつり橋がかかる石壁の谷を右へ左へ、窮屈な階段をのぼって、路地裏の小さな噴水を見つけたところで、二人は息切れのあまり足を止めました。
「ハァハァ、ここなら大丈夫よ」
長い金髪を二本の三つ編みに結った女は、背中越しに言いました。
「ハァハァ、あの、どなたか存じませんが、ありがとうござ……」
「あら、忘れちゃったなんて、ひどくない?」
息を正そうとする女の顔に、見覚えがありました。
「ピ、ピオニー先輩?」
彼女は癒術学校の一年先輩で、クラブ活動や図書館などで何かとお世話になった——絡まれたともいいますが——方です。
「あんな成績でよく卒業できたわね」
先輩は笑いました。
「赤点さえなければ、卒業『だけ』はできますから。それにしても、その格好は?」
卒業生の修行の旅は、どんなに優れた人でも二年はかけます。心の成長がなければ本試験には通らないのです。ピオニー先輩もまだ旅の途中であり、黒衣に身を包んでいるはず。それが、真っ白なブラウスに加えて、はさみで切ったような短いスカートとは……。
「あ、これ? 今、街で流行ってんの」
「私、恥ずかしくてそんなのはけません」
「慣れよ、慣れ。ここに一年もいれば、ね」
「一年も? 旅はどうしたんですか? 黒衣は?」
「なぁに? 恐い顔しちゃって。ちょっと休んでるだけじゃないの。っていうかあんたさ、患者とケンカなんて最悪よ。ジンセンじゃ相手を選ばなきゃダメ」
口のまわる先輩は、それからしばらくダメ出しの嵐で私を圧倒しました。怠慢のことはもう、どこ吹く風です。
先人の教えを聞かず、警察沙汰になりかねないミスを犯し、私は落ちこんでいましたが、思い直して切り返しました。
「他の街はまわったんですか?」
「マグワートは魚臭いし、フォーンはただの市場でしょ? すぐここへ来たわ。あんたこそ、夏前にジンセン入りなんてずいぶん早いじゃない」
「わ、私には私の計画があるんですっ!」
「はいはい、わかったわかった」
先輩は笑いたいのを必死でこらえています。彼女は私の性格を知っているので、理由などお見通しなのでしょう。
先輩はつづけました。
「ところで、宿は取ってあるの?」
「探そうと思っていたら、あんなことになってしまいました」
「ジンセンは高いわよぉ。さっさと病人見つけないと、すっぽんぽんよ」
「ふ、不謹慎な言葉はやめてください」
「あら、マジなんだけど」
先輩は真顔になりました。
旅費が底をつき、こちらから病人を探してしまうという旅癒師のジレンマは、笑い事ではありません。ピオニー先輩は物価の高い街で、どうやって一年も暮らしてきたのでしょう。修行もさぼっているというのに。
「もしかして先輩は、お給料のいいバイトか何か……」
「宿に困ってるなら、あたしんち、来る? 好きなだけいていいわよ?」
「えっ?」
それは貧乏性の私にとって破格の条件でした。喜びと安堵のあまり、彼女への疑いなど、どこかに飛んでいってしまいました。
こうして私は、ピオニー先輩の下宿に居候することになったのですが……。
第五話 ピオニー先輩
ピオニー先輩の下宿は、一悶着あったジンセン大学病院からそう遠くない、商店街通り沿いにありました。石造りの五階建てで、一階は靴屋です。お店の横にある共同玄関から階段を上っていくと、二階より上がアパートになっていました。私たちは一番上まで行きます。
五〇二号室のドアが開き、私は中に通されました。
居間と寝室とキッチン……驚いたのは、近年開発されたというシャワー室です。頭上の穴あき陶器に水やお湯を注いで蛇口をひねると、細やかな流水が出てくるそうで、それがたまらなく心地いいのだとか。
「部屋は狭いけど、なかなかいいでしょ?」
ピオニー先輩は居間のカーテンを開けながら言いました。
大都会の一等通り沿いにあって、しかも最上階、最先端のシャワー室付きだなんて……なにか悪いことをして稼いでいるのだろうかと、不安になってきました。
「あ、あの、先輩。ここの家賃って……」
「いいじゃないの、そんなこと。居候は自分の心配だけしてればいいのよ」
「それは、そうですけど……」
早く困っている人を見つけてここを出て行かなければ、という思いにかられました。いや、ちょっと待ってください。一宿一飯の報酬のために病人を期待するなんてダメです。ああもう、どうすればいいんでしょう。
私はとりあえず、先輩の日常生活を監視することにしました。
居候生活に入ってから、一ヶ月経とうとしています。
私は毎日街をうろつき、罪悪感を感じつつも病人を探しましたが、ジンセンの人々はお金を持っていて皆さん病院へ行ってしまいます。この間の病院前でのトラブルがトラウマになってしまったのか、声をかけることもままなりません。下宿に帰ってため息をついては、先輩の手料理をタダで口にするという日々でした。先輩はそれを気にした風もなく「飽きるまでいれば?」とさえ言うのです。
ピオニー先輩はといえば、私が下宿を出入りするときはいつも見送り迎えてくれます。私のほうも、恩を受ければ受けるほど、いつどこで働いているのか聞きづらくなっていきました。かかるお金は昼の食事代だけ。虚しさはあっても、経済的にはとても楽です。
ただ一つ二つ、気になる点がありました。
毎週六曜日になると、先輩は私にホテル代を渡たし「明日の昼まで帰ってこないで」と言うのです。そうかと思えば急に「明後日に帰ってくるわ。この辺、空き巣多いから留守番お願い」と、トランク片手に出ていってしまいます。
そんなある日の朝。
ピオニー先輩はまた外泊するというので、私は後を尾行ることにしました。
商店街通りを東へ歩き、やがて駅前広場が見えてきました。先輩の金髪の後ろ頭ばかり見ていたせいで、人にぶつかっては怒られ、何度か見失いそうになりました。
先輩はジンセン駅のそばで立ち止まり、駅舎の方を向きました。誰かと待ち合わせのようです。駅前のロータリーは等しく弧を描いており、私は彼女の斜め後ろの死角から近づく形になります。これで見つからずに追いつくことができる、そう思って一息ついたときでした。
駅舎のほうから背の高い男性が現れ、いきなり先輩を抱きしめました。そして、二人は人目もはばからず口づけを交わしたのです。
私は両手で口を押さえたまま、その場に立ち尽くすしかありませんでした。
二人は列車に乗る様子はなく、腕組みして歩き出すと、ロータリーの向かい側へ遠ざかり、街並みの中へ消えていきました。
私はそれから何も考えることができず、うつむいたまま、来た道を帰っていきました。
翌日の昼時。
ピオニー先輩が晴れやかな顔をして帰ってきました。シャワーを浴び、部屋着に着替え、居間の籐椅子でくつろぎ、お茶を飲んでいます。
私は居間とつながったキッチンの木椅子に座って、その様子をじっと見ていました。
「何か言いたそうね?」
先輩はティーカップをテーブルに置きました。
「去年より肌、きれいになりましたね」
「秘訣を教えてほしい?」
「……」
あまりのふてぶてしさに声が出せず、私はうなずくだけでした。
「その前に一つ、あたしに謝ること、ない?」
「えっ?」
肩がびくっと揺れてしまいました。
先輩は笑っています。
「ったく、すぐ顔に出るんだから。あんな広い道で、どうやったら六回も人にぶつかれるのかしら?」
下宿を出て数分後のことです。店の前を掃除していた美容室の方に激突して怒鳴られたとき、尾行は完全にバレていました。
「そ、その件につきましては、謝ります。でも……」
「どう生きようと、それはあたしの自由。彼氏の援助を受け入れるのも、修行を休むのも」
「それは……そうですけど」
旅の途中で修行を諦め、大陸に住み着いてしまう卒業生は毎年のように存在します。帰郷は強制ではありません。
でも、あのピオニー先輩に限って、そんな……。
学生時代の彼女は、言動こそふざけていましたが、思想はしっかり持っていました。学内図書室の静寂を無視して私に熱く語った言葉が、頭を離れません。
(都会は現代の病の象徴、彼らこそ救われるべきよ!)
きっとなにか、彼女を怠惰に陥れた原因があるはずです。
「旅費が惜しいなら、これ以上あたしに干渉しない。いいわね?」
常に先手を打ってくる先輩が相手では、今の私では太刀打ちできません。それに、居候という蜜汁に長い間浸っていた私は、変化を恐れていました。
「はい。二度と干渉しないと、癒神エキナス様に誓います」
「いい子ね」
先輩は狐のような目をして微笑みました。
第六話 黒血病
ジンセンにやってきてから二ヶ月が経ちました。
不本意ながらも活動拠点を確保し、ほぼ毎日街を出歩いたおかげで、私も少しは都会の人々に慣れてきました。近所限定ではありますが、黒衣姿を見て店から追い出そうとする人はいなくなりました。私の人徳の賜物なら良かったのですが、そんな訳はありません。美貌とお札があふれる、ピオニー先輩の友人ということが知れ渡ったからです。
暮らしが落ち着いてきたのはいいのですが、癒術をまったく信じない土地柄では、腕を磨く機会がなかなか得られません。具合の悪そうな人を見かけても、大学病院前で患者たちともめた記憶が災いして、つい見てみぬフリをしてしまいます。
この街にはもう留まっていられないと思いました。でも、少なくともここで一人は癒してからでなければ、次の土地へは行きたくありません。私の気がすまないのです。こだわりや執着は自分を苦しめるだけだと、アンジェリカ学長に教わりましたが、今だけは聞かなかったことにします。
病院通りをずっと行った先の郊外。通りの外れにある、ツタの絡まる住宅群に囲まれた小さな広場で、そんなことを悶々と考えていたときでした。
広場の中心の方から、子供のすすり泣く声が聞こえてきました。
八歳くらいの色白の男の子が、錆色の六角柱——カスターランドに伝わるベラ教の記念碑です——を支える石台の段に、一人で座っているのが見えます。
私は近づいていって、男の子の横に座りました。
彼の名はティコ。「あそこに住んでるの」と言って、広場に面してすき間なく建てられた、二階建ての家の一つを指さしました。庭がない代わりに、窓という窓に花が飾ってある、この辺りではよくある中流家庭の一軒家です。
私は泣いていた訳を聞きました。
ティコ君のお母さん——モネさんといいます——は、血が黒くなって徐々に衰弱していくという不治の病『黒血病』に侵されていました。往診の主治医は、かつては不治の難病だったが今や新薬が開発され、多くの人が助かっていると言います。モネさんはそれを信用して新薬の服用をはじめたのですが、いっこうに良くならないそうです。
私は一つ質問しました。
「お母さん、体は強い方ですか?」
「ううん」ティコ君は首を横にふりました。「よく風邪ひくし、寒がりだし、やせてる」
嫌な予感がよぎりました。
「あの、一度私に診せていただけませんか?」
「お姉ちゃん、お医者さん?」
「あ、う……ま、まぁそんなようなものです」
胸の奥が痛みました。街なかで身分を堂々と口にできる日は、いつやって来るのでしょう。小さな子には違いを説明してもたぶんわからないと、心の中で慰めの言葉が響きます。
ともかく私は、ティコ君の後についていきました。
彼は玄関のドアを開けるや、だっと駆けていき、奥から父親——ウィードさんといいます——を引っ張ってきました。
口ひげをたくわえた四角張った体つきの男は、私の姿を見るなり言いました。
「エルダーの魔女がなんの用だ」
「ティコ君に話を聞きました」
「で?」
「モネさんがなぜ良くならないのか、私には心当たりがあります」
「出ていけ」
ウィードさんがドアノブに手をかけたときです。
ティコ君が太い腕にぶらさがって泣き叫びました。
「白いの着た医者はウソつきだ。お姉ちゃんがいい!」
「これ! 離れなさい!」
「おくすりなんて、効かないじゃないか!」
ウィードさんは茨の刺がささったかのように怯んで、ドアノブから手を放しました。
私はその隙に中に入って、後ろ手にドアを閉めます。
「お、おい!」
「お代はいただきません。診せていただくだけでもいいですから」
しばらく見つめ合った後、ため息がもれ、厳つい肩が落ちました。
「少しでも悪くなったら、警察に突きだすからな」
モネさんは寝室のベッドで寝息をたてていました。見た目には、雑事に疲れて眠っているようにしか見えません。
掛け布団をめくると、飾り気のないネグリジェに身を包んだ、細い体がありました。
私は患者の横に立つと、頭から順に両手をかざしていきました。父子が後ろで見ていますが、かまいません。今回は信じてもらいたいので、公開施術です。
モネさんは往診医師の診断どおり、黒血病でした。血管に沿うかたちで光が吸収され、そこだけ何も透視できません。周りが淡く光っているおかげで、そこに病魔が潜んでいると確認できるだけです。
問題はそれだけではありませんでした。全身を包んでいる灰色の霧、医者が出したという新薬が、体の自然治癒力をブロックしていたのです。
この病はもともとは不治ではありませんでした。生まれつき体の弱い人が無理をしたり、空気の悪い所で過労になった人だけが患うのです。田舎へ行ってただ休んでいれば、かなりの確率で治るはずです。戦後——二百年前の第四次アルニカ大戦後をさします——、医者が合成薬を使いはじめたために、異物を出そうと体の負担が増え、治るものも治らなくなった。それを不治の病と呼んでいたに過ぎません。
医者が薬で治ると言ったのは、事実のほんの一部なのです。私たち癒師から見れば、薬を使って回復した人の方が運が良かった、と言いたくなります。
そして、モネさんの主治医は、薬を使いすぎました……。
診察を終えると、私は黒血病の真相を父子に伝えました。
「医者は余命一週間と言っていた。それでも療養すれば治せるのか?」
ウィードさんは開け放したドアのところで立ち尽くしています。
「ここまで衰弱してしまっては……医者の見立ての通りかもしれません」
「そんな……」
父親は泣く子を抱き寄せました。
私は言ってすぐ後悔しました。なんという大失言。
患者やその家族にとって一番の毒は、希望をなくす言葉です。患者の意識はなくとも、家族の信念があれば、奇跡的回復につながることもあります。余命一週間というのは、癒し手側の一つの見方であって、事実かどうかはまだわかりません。私の単なる憶測が、モネさんの寿命を縮めてしまったかもしれないのです。
私は焦り、そして口走りました。
「さ、さっきのは一般論です。古今の癒師の誇りにかけて、全快させてみせます!」
私はベッドのそばにひざまずき、モネさんの青白い手を取ると、意識の深度を下げていきました。
気がつくと私は、夜の海に浮かんでいました。
「モネさんを探さなければ」
仰向けから体を反転させ、平泳ぎで進むつもりでした。
「うっ!?」
廃油のような臭気や手触りに、私は思わず顔を上げ、立ち泳ぎします。
「これが黒血病に侵された人の最期……」
学校で習った知識と実際の体感とは大違いです。わずかに残った生気の粒が空で瞬いていなければ、私はひどい吐き気を催しながら自分を見失い、あの世とこの世の狭間を永遠にさまよっていたかもしれません。
頭上の星が一つずつ消えていきます。時間がない!
「モネさん! どこですか!」
私は叫びました。
「モネさん!」
夜空の彼方、雲の隙間から小さな稲光が見えました。そこに向かってつづけます。
「まだ、あちらへ還るには早すぎます! ここへ降りてきてください!」
稲光はためらったように、高い所で明滅をくり返すだけ。
そうしている間にも、星々は光を失っていきます。
(もういいんです。私は疲れました)
女の声が頭に直接語りかけてきました。
「あなたはここで果てるつもりで、地上に降りてきたのですか? 私に医者と薬の問題を教えるために」
(わかりません)
「私はもう事実を知りました。でも、あなたはまだそこで踏みとどまっている。なぜです」
(それは……)
夜空の星はあと十個。やはり私の失言のせいで家族の信念にダメージを与え、寿命を縮めてしまったのでしょうか。言葉で説得している暇はありません。
「負担は大きいけれど、やるしかない」
私はエルダーの神話に出てくる『雲晶』という奇石のことを強くイメージしました。
遥か昔、その石の力で空から降りてきた人々がいて、天変地異に苦しんでいた古代人に癒術や魔法の手がかりを残し、また天へ帰っていったそうです。
やがて海の上に、大きな玉が現れました。表面は透き通っていて水晶のようですが、中では白い雲が渦巻いています。
私が球の上に立つと、雲晶は黒い血をはじきながら海面から上がり、どんどん高度を増していきました。
大きな稲妻が真上から落ちてきました。
逃げられない……と身をすくめたとき、頭上でパッと花のように広がりました。私に興味を覚えたようですね。それを待っていました。
私は硬い奇石を蹴って高くジャンプすると、空の高みへ引いていこうとする光の筋に片手をのばしました。電光が私を包みます。
「拒絶しないで!」
私はうめきながらも、光の中に細い腕を見つけました。
雲晶が追いつき、足場を確保。
ここは気合いしかありません。
私は相手の手首を握ると言葉にならぬ雄叫びをあげ、全体重をかけて引っ張りました。
光の中からモネさんの半身が現れます。
喜んだのはつかの間。
モネさんは私の手を振りほどき、また光の筋の中へ帰っていきます。
ふと辺りに目をやると、私たちはすでに一番高い雲の上にあり、その隙間から、アルニカ半島が小さくなっていくのが見えました。
このままでは私も危ない。
「待って! まだ話が……」
そのときです。
ずっと下の方から、ティコ君の声が聞こえてきました。
あふれ出す感情に口が追いつかず、何を叫んでいるかわかりません。きっと枕元で泣きついているのでしょう。
モネさんは伸びきった光の筋に半身を入れたかたちで、留まっていました。
つぶやく声が聞こえます。
「……した」
「?」
「……出した」
「えっ? 何をですか?」
モネさんはふり返って言いました。
「思い出したわ。私にはまだ、この世でやることが残ってる」
突如、強い光が空のすべてを満たし、私は何もわからなくなってしまいました。
……遠くの方でいろんな人の声がします。なんだかうれしそう。結婚式でもやっているのでしょうか。
「ハッ!?」
がばと身を起こすと、私はなぜかベッドに横たわっていました。
モネさん夫妻の寝室……どこかへ運ばれたわけではないようです。
かすんだ目をこらします。モネさんと抱き合う父子の姿がありました。
「あ、起きた?」
ティコ君が駆け寄ってきました。
「た、立ってう……モネはんが」
あれ? 口がまわらない。
「そうなの。パパは奇跡だ奇跡だって、僕よりうるさいんだから。お姉ちゃんってすごいんだね。ただそばで祈ってただけなのに。もしかして天使さんなの?」
なんでしょう。耳の奥がごろごろいって、だんだん聞き取りづらくなっていきます。
「わ、わたひは、大したころしれません。モネはんの意志りゃ……あぶるぶく」
く、黒い波が私を飲みこんでいく。
「お姉ちゃん?」
「おぼれ……」
気がつくと、私は闇夜の下、廃油のような海でひとり溺れかけていました。
再び目覚めたとき、私は下宿の寝室にいました。
体が重くてベッドから動けません。暑いのですが、掛け布団をずらすこともできない。
おや? ベッドサイドに果実酒で満ちた瓶があります。透明なガラスなので色がわかります。葡萄酒かな? ラベルは貼っていないようですが……。
「やっと起きたわね。それ、飲んじゃダメよ。お酒じゃないんだから」
「ピオニー先輩?」
「ったく無茶するわよねぇ。あたしなら絶っ対断ってる」
「あの、何のことを……」
私はそこでハッと息をもらしました。
「はいはい、興奮しない」
先輩は私の額に手をあてて落ち着かせました。
ひんやりして気持ちいい。夏、雪室に顔を突っこんで遊んだ幼少の頃を思い出しました。
私は再び謎の液体を見つめました。
「瓶の中身はまさか……」
「そう、あんたの黒い血。あたしの施術の力が追いつくまでの分」
見せしめのためにとっておくなんて、先輩らしい。
私の場合は一時的な衰弱だったため、重症には至りませんでした。
「なんでこうなったか、わかってるんでしょうね?」
ピオニー先輩は目尻を引っ張ってうんと目を細くし、アンジェリカ学長の口真似をしました。
あまりにそっくりで、普段なら爆笑ものなのですが、今はとても笑えません。
「反省してます」
進行した黒血病の治療を単独で任せられるのは、素質があり、かつ経験を積んだ一握りの癒師だけです。それはわかっていたので、モネさんの説得に賭けたのです。幸い、ティコ君のおかげで、モネさんはこの世に留まる理由を思い出しました。あの子がいなければ私は道連れとなり、あの世へ渡っていたことでしょう。これが第一のミス。
モネさんは命をとりとめ、結果オーライですが、その後がいけなかった。行き場を失った病魔は、未熟のあまりエネルギーを浪費して無防備になった、私の中へ逆流してきました。第二のミスです。これを実技テストでやると、確実に追試。相手の風邪を治すつもりが風邪を引いてしまった同僚を、私は何人も見てきました。
「自分の身も守れないんじゃ、他人を助ける仕事なんて務まらないわ。できないことはできないと認めることも修行の一つよ」
ピオニー先輩は怠けているように見えても、癒師としての力量や気骨はまったく落ちていない。私はそれが不思議でなりませんでした。
「先輩はすごくできる人なのに……旅はつづけないんですか?」
「約束を忘れたの?」
「い、いえ……」
干渉すればもうここにはいられない。この体で今、追い出されても困ります。
先輩はしまったという顔をして、ため息をつきました。
「一週間も寝こんでた病人にプレッシャーかけるなんて、あたしもまだまだだわ。ま、遠くへ行くだけが旅じゃないってことよ。あんた、男の裸、間近で見られる?」
「えっ? あ、いえ……」
「ね?」
「は、はぁ」
癒術では主に透視力を使って診断し、体に触れずに施術を行うので、服を脱がす必要は滅多にありません。せいぜい皮膚病の確認くらいのものでしょう。先輩が言う旅というのは……いわゆる、その……。
と、ともかく芯は腐っていないようなので、先輩の問題は彼女自身に任せることにします。
黒血病の後遺症は思いのほかしぶとく、私はそれから二週間、ベッドの上で養生しなければなりませんでした。
第七話 医師対癒師
カスターランドに夏が訪れようとしていました。
首都ジンセンでの暮らしはもう三ヶ月。それでいて、たった一人しか癒してあげられなかった。認めたくはないですが、大都会での活動は、私には早すぎたのかもしれません。
下宿の居間で、朝の食事している最中、私は北へ旅立つことを告げました。
「ふぅん、いいんじゃない?」
ピオニー先輩はトーストを口にしたまま新聞を広げています。
いつものことなので、私は気にしていません。むしろその方が、別れが辛くならなくていいのです。
私はため息をつきました。
「なぁに、寂しいっての?」
先輩はページをめくります。
「先輩がうらやましいです」
「あげないわよ」
「は?」
「あたしのだから」
「いえ、彼氏さんのことでは……」
彼氏といえば、ピオニー先輩が外泊から帰ってくるとき、なぜか消毒剤の臭いがうっすらしているのが気になっていました。もう出ていくのだから、今日こそ聞いてやろう。そう思ったときでした。
広げていた新聞を、先輩が半分にたたむと、新たな見出しがこちらに現れました。
『奇跡の新薬。黒血病はもはや、不治の病ではなくなった』
私は記事の内容に言葉を失いました。この間、施術をしたモネさんの主治医が使っていた薬のことが載っています。治った例だけが並んでいて、薬が害を起こし命を奪いそうになったことはどこにも書かれていません。私が診察した限りでは、薬が放っていた灰色の霧は邪悪なもので、むしろ後者の方が多いはずなのです。
私はたまらず口を開きました。
「もともと不治なんかじゃないのに……」
「なんですって?」
ピオニー先輩は新聞を下ろしました。
私は記事のことを指摘します。
「ジンセンの医者には関わるな、ってさんざん言われなかった?」
「彼らは人間が作った薬が完全とはほど遠いことを、何もわかっていない」
「で、どうするつもり?」
先輩は楽しげに言いました。
私はイスから立ち上がりました。
「私服を貸してください」
先輩は表情を変えずにクローゼットへ足を向け、彼女にしては地味めな服を持ってきました。
「後悔することになるわよ?」
「まるで、はじめから結果がわかってるみたいな言い方ですね」
「あんたの目の前に立ってる女が、その結果よ」
ピオニー先輩は寂しげに笑いました。
失敗の果てにあるのが、愛欲に溺れること? 意味がよくわかりません。
「交渉相手が違えば、結果も違うかもしれませんよ」
「だといいわね」
私は黒衣を脱ぎ、故郷では絶対着られないような横縞模様の半袖ワンピースに着替えました。横縞はエルダー諸島では囚人を意味するのです。敵地へ出陣する可愛い後輩に、わざわざこんな不吉なものを持ってくるなんて……そういうところは学校にいた頃と全然変わってません。
私は下宿を出ると病院通りを東へ行き、入院患者の見舞い人のフリをしてジンセン大学病院に潜入しました。
病棟の廊下を一通り歩いてわかったことは、合成薬の邪悪な波動、あの灰色の霧がそこらじゅうに渦巻いているということです。
二周目、勇気を出して入院患者の皆さんに薬害の真実を伝えるつもりでした。ところが、詰め所に鎮座していた婦長に睨まれてしまい、仕方なく受付前の待合席へ戻ってきました。
密偵のようにこそこそかぎ回るのは卑怯だと、見えざる力が働いているのでしょうか。科学医療教の信者を改心させることができても、教祖たる医者が薬の乱用をやめなければ、被害者は減りません。
どうやら直接対決しか道はないようです。
彼らは便利な科学に目がくらんで、代々受け継いできた真実を忘れてしまっただけ。話せばちゃんとわかるはず。そう信じて私は、今度は外来患者のフリをして、内科の一番偉い医師のところへ行くことにしました。
「プラムさん、どうぞ」
診察室から若いナースの声。廊下のベンチで二時間待った末、ようやく声がかかりました。
私は中に入って、背もたれの低いイスに腰かけます。
白衣を着た白髪の男が、べっ甲メガネのふちに手をやりました。
見た目は外に出たがらず食の細い、学者風の老人。ただ、向かって左手、彼の右の顔が、青白く膨らんだように見えます。見ようとしなくても、エネルギーが高すぎて見えてしまうのです。ここまではっきりわかるのはとても賢い人の証拠です。世の中を動かす素質がある。でも、今はまだ頭の片側しか使っていません。
大陸の中でも指折りのジンセン大学病院。その内科部長ブレス医師。彼を動かすことができれば、医療界は変わるかもしれない。
「今日はどうしました?」
ブレス医師は微笑み一つ浮かべず、物を見るような目で言いました。
「実は、お話があって来ました」
「話? 心の問題ということなら、科をお間違えになったのでしょう。精神科は四階の……」
「私は黒血病の真相を知っています。今朝の新聞記事、あれは氷山の一角にすぎません。海の下に何が広がっているか、ご存知ですか?」
ブレス医師は手振りでナースに何か伝えています。
すぐさま部屋のドアが閉じられました。
医師はあごの下に手を組むと、上目遣いで私を睨みつけました。
「君はいったい、何者なんだ?」
「その前に聞かせてください。例の新薬が、患者の回復の可能性をかえって低めていることを、ご存知ですか?」
医師は鼻を鳴らしました。
「バカな。あれは世紀の発明だ。現に私もその薬で何十人と救ってきた」
「それ以上に、亡くなった方がいるはずです」
「病院に来るのが遅れたか、でなければ、薬が体質に合わなかった。乱暴な言い方をすれば、要するに運がなかったのだ」
私は立ち上がって、両拳を握りしめました。
「効果が低かった人でも、治るはずと服用をつづけさせて、最後は死なせてしまった。違いますか?」
「何を根拠にそんなことを言う!」
ブレス医師も立ち上がりました。
「私は余命一週間と診断された患者を一人、癒して差し上げました」
「癒した……なるほど、そういうことか」
ブレス医師は私の顔を見て低く笑うと、机の上にあった紙切れに何かを走り書きしました。
メモを受け取ったナースは、そそくさと部屋の奥のドアを開け、別室に姿を消しました。
「かけたまえ。本当のことを話そう」
ブレス医師は伝統的な民間療法に明るく、昔から伝わる黒血病の正しい治療方法のことも知っていました。一方、彼が医師になった四十年前には、すでに薬を使う方法が主流でした。
「多くの医者は古い伝統を否定しているが、地方出身だった私はそうは思わなかった。だが……本当に正しい方法を教えれば病院はどうなる」
薬による収入が減り、患者も療養のため田舎へ流出します。
「でも、それは黒血病に限ってのことで……」
「同じだよ。私が科学バカじゃないことは、さっき話したろう? 多くの病気は同じ方法で改善する。君ならそのくらい知っているはずだ。違うかね? エルダーの癒師よ」
「!」私は顔がこわばりました。「そこまでわかっていながら、よくも……」
「想像してみたまえ。もし究極の方法が見つかり、病人がこの世からいなくなってしまったら、どうなる?」
「……」
医師も癒師も、食べていけなくなります。
ブレス医師は、私が話を理解したと見るや、両手を広げて微笑みました。
「君らだって、我々と同類じゃないか」
「違います!」
「どう違うのかね?」
「それは……」
私は反論に窮しました。今すぐ答えられる問題ではありません。
どう返してやろうか考えていると、別室のほうから声が聞こえてきました。
ほどなくスーツ姿の男が二人、奥のドアから診察室に入ってきました。
男たちは私の両腕を捕まえ、立たせました。
「な、なんですかっ!」
たれ目の太った男は警察バッジを見せた後、言いました。
「癒師が黒血病治療に関わったと、通報があった。医師法違反の疑いだ。署まで来てもらおう」
「待ってください! ブレス医師こそ犯罪者です!」
「見苦しい真似はよしたまえ」
医師は迷惑そうな顔で言いました。
私は刑事に食い下がります。
「私が違反したという、証拠を見せてください。話を聞いただけで通報なんて……」
ブレス医師は白い背をこちらに向け、窓の外を眺めながら言いました。
「一つ教えておこう。君の患者を往診したのは、私の弟だ。次回の診察を断りにきた家族が、君に関することをすっかり話したそうだ」
「!」
ああ、なんということ。施術の後、私は意識を失ったせいで、超常的なことについてはまだ口外しないよう、お願いすることができなかったのです。
「次の患者が待っている。目障りだから、さっさと連れていってくれ」
ブレス医師はあごをしゃくって部屋の裏口をさしました。
「ともかく話は署で聞く」
たれ目刑事に促され、私は病院を後にしました。
第八話 謎の美男子
暗闇の中、私は硬いベッドの上に足を抱えて座り、鉄格子越しの通路を見つめていました。人の命を救ったのに、こんなことになるなんて……癒神様はいったいどこを見ていたのでしょう。
檻の中でパンとスープだけの夕食を済ませると、すぐに消灯。まだ有罪と決まったわけでもないのに、凶悪犯並みの扱いです。
取り調べは明日からとのこと。癒師の旅行記のなかには、医師法違反で長い刑務所暮らしを食らった、という記述がときどき出てきます。大陸では、エルダーの癒師を弁護してくれる人など滅多にいませんから、捕まってしまったら最後、短くても一年は覚悟しなければなりません。
そんな危険を承知の上での旅ですから、患者との信頼関係を築くことは、施術そのものよりも重要なのです。
(フォーンを出たらジンセンには寄らず、二都山道を行って西へまわりなさい)
アドバイスをくれた、蒸気機関車の老運転士の顔が浮かびました。
二都山道を行って高い峠を越え、半島の西岸に出ると、ジンセンに次ぐ第二の大都市、オピアムです。オピアムは大陸四カ国の一つ、ウォールズの首都。西国ウォールズは東国カスターランドに比べると、大らかであると言われています。
西の都オピアムは、長居しない旅癒師はいないと言われるほど、定番の活動拠点。とはいえ、もしここをすぐに出られたとしても、今回の一件に懲りた私は、都会にはしばらく近づきたくありません。計画通り、北上するつもりです。
「はぁ……虚しい」
私はため息をつきました。しょせん、一年以上たってからの話です。
刑務所内での労働は単純すぎて頭がおかしくなったとか、囚人内で醜い派閥争いがあったとか、女同士の恋愛を強要されたとか、過去の旅行記の文面が頭をかすめます。
さっさと違反を認めて、罪を軽くしてもらいたい。そんな気分になってきました。
「ちがうちがう!」
私は頭を振りました。ひもじい思いをさせ、考えさせて、早く仕事を終わらせようという、警察側の策略にはまってはなりません。
たった半日でこれですから、私の前途は多難もいいところです。
真夜中の留置場はひっそりとしていました。この区画は女性専用で、しかも今日のお客は私一人だけ。
鉄格子の扉を閉めるとき、担当官は言っていました。女の客なんて、娼婦か結婚詐欺かエルダーの魔女くらいのものだ、と。
ヤニ臭い女の敵、じゃなくて中年担当官が見回りにやってきてから、かなり経ちます。そろそろ交代して別の人がやってくる気がしました。
すると、遠くで錠が開く音がして、足音が近づいてきました。
背の高い人影は、私の独房の前で足を止めます。
私は首を傾げました。交代の人はランタンを持っていないのです。癒師は夜目が利くので、ほとんど明かりがなくても、何が起きているか少しはわかります。
もう一つ奇妙なのは、彼の髪型。署内の男性職員にはありえない、長髪の影が気になって仕方ありません。
その人は独房の鍵をまわすと、扉を開けました。黙ったままで、中には入ってきません。
ほんのり花の香りが漂ってきました。
影はしなやかな手ぶりで、出てこいと誘っています。もしや、男装した女担当官なのでしょうか?
異変に気づいて警戒心を増した私は、ベッドの上で小さく固まりました。自分のものになれば出してやると、言われるような気がしてなりません。しかも女同士で?
「なにをぐずぐずしている。私は味方だ」
劇場の語り手のような優しい……男の声がします。
「な、なんだ。やっぱり男の人……」
「何か言ったか?」
長髪の影は聞き耳を立てました。
「い、いえ。あなたはいったい……」
「話は後だ。脱出する」
私がおそるおそる独房の扉へ近づくと、ぐいっと手を引かれ、あとは駆け出す彼のなすがままでした。
通路をまっすぐ行って留置場の事務室に入ると、机に突っ伏している担当官たちの姿がありました。薬草を火であぶったような匂いがします。彼らはきっと、煙に含まれる成分を吸って眠ってしまったのでしょう。
事務所を出て、警察署本舎に通じる渡り廊下を走っている間、私は救い主の素性を怪しまずにいられませんでした。
あの薬草はたしか、エルダー諸島の固有種だったはず……。
署の外へ出るには、必ず本舎一階の玄関を通らねばならない構造です。昼間は騒がしかった各課受付のテーブルは、今はひっそりとしていました。街の防犯にうるさい警察も、灯台もとは暗し、といった感じです。
ここまでの脱走は順調でした。問題は玄関です。
ジンセンの警察署は時間に関係なく門番が二人立っています。長髪の彼はいったいどんな魔法を使って入ってきたのでしょう。
重い扉を押し開けると、門番がさっとこちらを向きました。
向かって右手の青年巡査が言いました。
「夜勤、ご苦労様です警部。そちらの方は?」
「釈放だ。誤認だった。駅まで送ってくる」
申し訳なさそうに会釈する門番たちを横目に、私たちは白みかけた大通りを歩きだしました。
謎の男はどこにでもあるスーツ姿でしたが、長髪が風になびく後ろ姿は、警部というよりは、役者か芸術家のような印象です。しかし、度重なる奇妙なやり口を見ていると、赤の他人とはどうしても思えません。
私は思い切って話かけました。
「あの、催眠術、得意なんですか?」
「昔、習ったことがある」
男はふり返ることなく言いました。
「もしかして、エルダーで?」
「……」
あう、無回答。
「私も少しやるんですよ。前世の旅に付き添う時だけですけど」
「軽はずみに自分のことを口にしないほうがいい」
「そ、そうですね」
どうやら彼は癒師の事情に詳しそうです。そういえば、彼はどうして私のことを、そして捕まったことを知っていたのでしょうか。聞きたいけれど、答えてくれそうな空気ではありません。
人のことを詮索する前に、私はまだお礼の言葉を言っていません。それを逆に好機として、せめて名前だけでもと、付け加えてみました。
男は横顔を見せてつぶやきました。
「オークだ」
ああ、なんてきれいな顔。男にしておくにはもったいないくらいです。
私はそれから頭がまわらなくなり、彼について何も聞くことができませんでした。
空が明るくなり、スズメのおしゃべりが聞こえはじめた頃、ジンセン駅の西口が見えてきました。待ち合わせの定番スポット『オレガノ七世像』の前に誰か立っています。あれは……。
「ピオニー先輩?」
私に気づいた先輩は、眠そうにしていた目を丸くしました。
「あっ、本当にきた」
小走りに寄っていってよく見ると、先輩は私のトランクを持っていました。
「ここで何してるんですか?」
「見送り」
「私の……ですか?」
「サツに捕まるようなバカは、シケた田舎でもまわってなさいよ」
ピオニー先輩は、迷惑そうな顔でチケットを私に手渡しました。
北国ラーチランド方面、急行の一番列車指定です。これは今すぐ国を出ろという、暗黙のメッセージ。
「そ、そういえば、どうして私がここに来ること……」
私はハッとしてふり返りました。オークさんはどこにもいません。
「黒衣はトランクに入れといた。その、島の囚人みたいな服はあげる。あたしはこれから彼氏と『つづき』があるから、じゃあね」
火照った顔の私と革のトランクを残し、先輩は繁華街の方へ去っていきました。
結局、何も事情がわからないまま、容疑も晴れぬまま、さらには脱走犯として指名手配を受けるであろう私は、この日を最後に東国カスターランドから出ていくことになったのでした。