エンカウンター
29
扉がノックされる音がした。
「蛍? 入るわよ??」
蛍は薄い掛け布団を頭から被って顔を隠した。
「ご飯できたけど……」
「いらない」
泣きすぎてだみ声になった蛍の声を聞いて、蛍の母は眉をひそめた。
「……そう言うかなぁと思って、冷たいお茶、魔法瓶に入れて持って来たわよ。水分は摂りなさい。夏だし、干からびちゃうわよ?」
「……うん」
母は何でもお見通しなようだ。
蛍の母は蛍の側まで行き、座った。
「何かあったの……?」
「……お母さん、告白されたことある?」
「そりゃああるわよ。こんないい女が放っておかれる訳ないじゃない」
「……」
いつもなら笑って返す蛍だが、今はそんな元気もない。
「ずっと、大切な……友達だった人からは?」
「お母さんは鋭いから、こいつ私に気があるなってすぐ分かっちゃう。そーなると好意がない限りはその人と距離を置いてたから、ないわね」
「そっか……」
「告白されたの?」
「……傷つけたって分かっても、もう話してもらえなくても、どうすることもできない……。
あんなにいつも一緒にいたのに……傷つけることしかできないなんて……」
「気持ちなんて考えてどーにかなるものでもないから、仕方ないのよ」
「そんな風に言われても……そう思えない。あの時の彼の傷ついた顔、私きっと忘れられない……それなのに……」
蛍は布団から右手をニュッと伸ばし、ティッシュを取ってまた泣いた。
「それなのに、会いたい人がいて……そんな自分はひどい人だって思う」
そう言った蛍の頭を、布団越しに蛍の母はチョップした。
「?!!」
「ばぁかなこと言ってんじゃないわよ〜! そんなこと言ってたら生きていけないわよ。好きな人に会いたいなんて当たり前じゃない。
誰かを振ったら他の人と付き合っちゃいけないなんてルールないんだから、自分の気持ちに素直になりなさい」
「……」
「大体ね〜〜生きてれば自分が望まなくても否が応でも人を傷つけてしまうことくらいあるのよ。その度に自分の気持ちを殺して、どうするの? 蛍が責任を持てるのは、蛍の人生だけなのよ?」
慧と一緒にいたいって思ってもいいのかなぁ……。
その問いは声にはならなかった。
30
一昨日、昨日となんだかいやに静かだったな……。
雨の中運転をしながら、慧はぼんやりと考える。
叔父を車で職場まで送った帰り道だった。
理由は分かってる。
蛍に会ってないからだ。
しかし慧はそんな考えを退け、思考を切り替える。
そういえばーーあの川は今も変わらないのだろうか。
懐かしい、あの川。
子どもの頃、奇跡のような体験をしたことは今でも心に刻まれている。
けれど大人になってしまえば、それはなんだか夢のことのようにも思える。
思えばあれが、慧の初恋だったのかも知れない。
彼女にいとも簡単に会えなくなったことが悲しくて悔しくて、大切だった筈の笛を、祖母のうちに置いて逃げた。
思い出すのが辛かったんだな、と今なら分かる。
慧は車の方向転換をはかり、川沿いまで行くことにした。
最後に見ておきたい、という感情が不思議に慧の中で沸き起こっていた。
31
慧は車を停めて、傘を差して外に出る。
少し歩くと、こんな天気だと言うのに赤い傘を持った人が立っているのが見える。
川に非常に近い位置にいるので、慧は心配になり、その人の顔が見られるところまで移動した。
すると相手がこちらに気づき、驚いた顔をした。
「慧!」
それは蛍だった。
「何やってんだ、こんな所で」
蛍はいつもより流れの速い川へと視線を戻した。
「昔から落ち込むことがあるとここに来るの。そうしたら、誰かに会える気がして……」
傘に当たる雨の音と川の流れる音が相まって、騒々しい。そんな中かろうじて蛍の声が聞こえる。
「大事な人とここでさよならした、そんな気がするんだよね」
慧はその言葉に衝撃を受けた。
なぜなら蛍の姿が、遥の姿と重なったからだ。
ーーまさか。そんなはずはない。
慧は愕然とした。
しかし慧は、二人が同一人物だと思わずにはいられなかった。
「おかしいよね」
蛍は笑った。
この笑い方……どうして今まで気づかなかったんだろう。
遥が消えてしまったのは慧が10歳の頃。
例えばその後、もし仮に、蛍が遥の生まれ変わりとしてこの世に生を受けたなら?
年齢的にも矛盾がない。
いや、何を考えてるんだ、俺は。
矛盾だらけじゃないか。
こんなにおかしいことはない。
慧は頭を振った。
冷静になろうとすればするほど、真実とは思えないことが真実味を帯びてくる。
そういえば最初に蛍を見た時から何かおかしかった。
初めてあった気がしなかった。
懐かしい感じがした。
自分の中に認めたくない感情があった。
そう、蛍に初めてあった時、俺はなんだか泣きそうな気持ちになったんだ……。
それが何でかは分からなかった。
ただ自分は、あの事件のせいで不安定なのだと思った。
黙りこくった慧を見て、蛍は不思議そうな顔をする。
「……川が増水して危ないぞ。もう帰れ。送ってく」
「うん。ありがとう……」
蛍は素直に頷いた。
32
車の中、ワイパーが動く音が聞こえる。
蛍は慧に会えてなぜだか緊張していた。
たった二日会わなかっただけなのに、慧がすごく遠く感じる。
「慧……」
蛍は無意識に慧の名を呼んだ。
「なんだ?」
「慧は……いつ、東京に帰るの?」
「来週の月曜日に戻る予定だ」
「……」
沈黙が続いたので慧は助手席の蛍を横目で見ると、蛍は目から大粒の涙を流して泣いていた。
ただ静かに泣いているので、慧は動揺した。
思わず、車を脇に寄せ停車させた。
「何で泣いてんだ?」
「……」
「そーいえば、さっきも悩みがあるとき川に行くって言ってたな。一体どうしたんだ?」
蛍は顔を上げて、慧を見つめた。
その目には強い意志が宿っていた。
「……言っていいの?」
蛍は目に涙を溜めながらも、なんだか怒っているように見えた。
蛍は突然慧のシャツを両手で掴み、慧を思い切り自分の元へ引っ張った。
咄嗟のことに反応できなかった慧は、蛍の思惑どおりに蛍の方へと傾いた。
そんな慧の顔をめがけて、蛍は慧にキスをした。
「私、慧が好き」
一生分の勇気を振り絞ったつもりだった。
驚いて目を見開いたのもつかの間、慧は静かに蛍の肩を押し、蛍との距離を作った。
「何のつもりだ」
冷たい慧の声に蛍は固まった。
慧はわざと溜息をついた。
「おまえ、こんなところ見られたら村の連中に何て言われるか分かってんのか? 俺もお前も、あることないこと言われて白い目で見られるぞ。こんな狭い村で、噂なんて一瞬だ」
「……私が話す。私が慧を好きなのだと。慧が非難されるようなことは何もないって」
「そんなことはどうでもいい。人は信じたいものしか信じない、お前の言い分なんて何の足しにもならない」
蛍の身体がカッと熱くなる。
「おまえは勘違いしてる。お前が好きなのは俺じゃない。お前はただ、この状況に酔ってるんだ」
「何……それ」
「誰でもお前くらいの歳には、歳上の人に憧れるものだ。でもそれは一時的なものであって、幻想みたいなものだ」
慧は蛍ではなく、自分に向かって言い聞かせていた。
けれどその事実は蛍どころか慧自身にも認識されなかった。
「俺はお前をそんな風には見ていない。もう俺のところに来るな。放っておいてくれ」
蛍は何も言えなくなってしまった。
なぜだか自分でもよく分からないが、蛍は慧との繋がりを信じていた。
蛍は慧と一緒にいるのが自然だと思っていた。
でもそれが全て独りよがりだったと分かって、蛍が言えるべきことはもはや何もなかった。
そんな沈黙を蛍が理解したと捉えたのか、慧は再びウィンカーを出し、車を走らせた。