ジェラシー
25
「昨夜の祭りで一緒にいたおじさん、誰?」
駄菓子屋で買ったアイスを齧り付きながら、幼馴染の勇輝は蛍に尋ねた。
蛍は突然の質問にアイスの固まりが喉に支えたようで、何度か噎せた。
「勇輝いたの? 声かければ良かったのに」
「何となく、かけずらかった……」
「そ?」
蛍は意識して、何ともないことのように言葉を紡いだ。
「滝川おばあちゃんのお孫さんだょ」
「それが、何で蛍と一緒にいたんだ?」
「ほ、ほら、私東京の大学が志望じゃない? あのおじさん、東京に住んでるから、いろいろ東京のこと教えてもらってるのよ」
「ふーん」
「め、目つきは良くないかも知れないけど、悪い人じゃないよ?」
……あれ?勇輝、急に静かになっちゃった。
なんだろうな〜〜おじさんと言い、男の人の考えてることは分からないなぁ……。
おじさん……。
慧の顔を思い浮かべると昨夜の記憶が蘇ってきて、蛍は一人顔を赤くした。
うわぁ、うわぁ〜〜!!!
私ってば何してたんだろ!恥ずかしい恥ずかしい……。
なんていうかこう、おじさんの青白い顔見ていたら、無意識にギュウってしたくなっちゃって、どうしようもなくなっちゃって……何歳も上なのに、母性本能をくすぐられて、守りたくなっちゃったというか……。
おじさん、私のこときっと変なやつだと思ったろうな……。
次に会うとき、どんな顔すればいいんだろう〜〜。
一人で赤くなったり青くなったりする蛍を見て、勇輝は益々不機嫌になっていったのだけれど、蛍はそれには気づかなかった。
26
「…で?」
祖母の家の居間には蛍と、蛍と同世代らしい青年が座っていた。
テーブルには勉強道具一式が置いてある。
「なんでこんな所にいるんだ?」
蛍は慧の問いかけに気まずそうに、おずおずと答える。
「うち、今お客さん来てて騒がしいから……梅おばあちゃんの所なら、受験勉強しても許してもらえるかなぁなんて……」
梅おばあちゃんと呼ばれた慧の祖母は、ニコニコしながら二人に麦茶を出しているところだった。
「西瓜をお裾分けにって蛍ちゃんちに電話したら、ちょうど蛍ちゃんが出て、煩くて勉強できんって言うもんやから、ほんならうちでやったらええって、私が言ったんじょ。蛍ちゃんは謙遜してたけんど、うちの慧ちゃんはえらい賢いけん、勉強教えてもらえばええかと思って」
「言っておくけど、その、煩くて勉強ができないっていうのは、世間話のつもりで……。私だってそんなに図々しくはなく……」
蛍は先程から珍しく控えめに、ボソボソと話をしている。
「図書館とか……」
先日のことがあるから、どうも気恥ずかしい慧は食い下がった。
「図書館は私語厳禁なんだもん。勇輝と教えあいながら勉強しようって話してたから……」
慧が苦い顔をしていると、蛍の隣にいる青年も口を開いた。
「お邪魔してすみません、勇輝と言います。……うちも、下に弟が二人いて、夏休み家にいると面倒を見させられるので勉強どころじゃないんです」
口調は穏やかだが、その一方で勇輝は複雑そうな、それでいて慧の品定めをするような顔をした。
三人の間に漂った不自然な空気を完全に無視して、祖母は笑った。
「慧ちゃんが来てから、わいんくはかいらしいお客さん達まで来るようになって、ほんまに嬉しいわぁ~~」
ーーこの笑顔には逆らえない……気がする。
まぁ家にいるくらいなら、いいか?
違う部屋にいればいいだけのことだよな。
慧は思い直す。
そんな慧に祖母は追い討ちをかける。
「慧ちゃん、二人に勉強教えてつかい」
……。
慧はぎこちなく頷いた。
シンとした部屋に二人がペンを走らせる音と参考書を捲る音だけが聞こえる。
……話しながら勉強するって言ってなかったか?
慧は胡坐をかいてそんな二人の様子をただ眺めていた。
勇輝のペンがふと止まり、躊躇している様子が感じられたので、慧は思わず問題を覗き込んだ。
書き出した答えは不正解だ。
大きなお世話と思いはしたが、祖母の一言が効いていて、慧は口をはさんだ。
「この文章は、冬と春の対比だから、~has pure white feathersとmolt and change colorの部分を対比して類推してみるといい」
いきなり口を開いた慧に反応した二人は、目をパチクリさせている。
しばらくして勇輝は言った。
「あぁ……そうか。ありがとうございます」
興奮した蛍は自分の分からない問題を指差した。
「おじさん、私これが分からないの! プーチン大統領が正式にロシアの大統領に就任した年って分かる?」
……こっちは世界史か。
しかし入試の世界史は唯の暗記問題。
「スマホで調べればいいだろ」
蛍はぷぅっとむくれる。
「勇輝だけずるい」
はぁ、とため息をついて蛍の問題文を取る。
「選択問題だろ…ウの2000年が正解だな。ただしプーチンは2012年からも大統領になっているからそこは気をつけろ」
「すごい!」
蛍が素直に拍手する。
「ロシアは歴史が浅いからな。このレベルの問題を解いてるってことは、分かってるかもしれないけど、歴代大統領くらいは言えるようにしておけよ」
「う、うん……」
「ロシアの初代大統領は?」
慧が蛍に質問する。
「プ、プーチン?」
「ではなくエリツィンだ。次がプーチン、そしてメドヴェージェフと続いてまたプーチンに戻る」
「そっか」
「簡単だろ?」
「簡単……なのかなぁ?」
蛍は教えてもらえたことがよほど嬉しかったのか、頬を微かに上気させて嬉しそうに笑った。
こんなところが憎めない。
「蛍ちゃん、蛍ちゃん」
居間に姿を現した祖母が、手招きしながら蛍の名を呼んだ。
「せっかくやから、お昼もここで食べて行ってなぁ。蛍ちゃん、準備、ちっと手伝ってんかー?」
「はい、もちろん!」
蛍が慌ただしく台所へと消えると、再び静寂が訪れた。
27
「単刀直入に聞きますけど、滝川さんは、蛍の何なんですか?」
「は?」
問題文に目を通していたかと思った勇輝は、気がつけば慧の瞳を直視していた。
「何って言われれば……他人、だな」
勇輝が傍目にもムッとしたことが分かった。
「最近よく一緒にいると聞きました。それなのに?」
「……なんて返答が欲しいのか分からないが、あいつは俺の家族でもない、同僚でもない、ましてや彼女でもない。だから他人という言葉を当てはめただけのことだ。深い意味はない」
「蛍のことを好きではないんですか」
慧は青年の真剣な眼差しを見つめ、その純粋さと情熱を苦々しく思った。
それは、自分にはないものだ、と認識したからかも知れない。
「……それはお前だろ?」
瞬時に赤くなった勇輝に、大人気ないことを言ったと反省した慧は続けた。
「安心しろ。蛍は……そうだな、強いて言うなら可愛い子犬みたいなもんだ。それ以上でもそれ以下でもない。知らないうちに、俺の側に寄ってきて、周りを回ってキャンキャン吠えてる。遊べって煩くて放って置けないーーそんな感じだ」
蛍のことを話すときの表情の変化に、慧本人は気づいていない。
「あと一週間もすれば、俺は東京に戻るから、心配しなくて大丈夫だ」
勇輝はその言葉に驚いたようだった。
「そう……ですか」
次の言葉は続かなかった。
28
帰り道、蛍の後ろを黙って歩いていた勇輝が言った。
「もうあの人の所には行くなよ」
自分の聞き間違えかと思って、蛍は振り向いて勇輝の顔をマジマジと見た。
そんな蛍の両肩を勇輝は痛いくらいの力で掴んだ。
「あの人はお前のことなんて何とも思ってないよ。それに知ってるか? あの人来週には東京に戻るんだってさ」
急に目の前が真っ暗になった。
身体が一気に重くなり、立っているのも辛く感じた。
勇輝の言ってることが信じられない。
でも考えてみれば、どうしてーー
どうして慧とずっと一緒にいられるような気になってたんだろう。
「…っなんでよ、何でそんなこと勇輝に言われなきゃいけないのよ」
蛍は今にも泣き出さんばかりだ。
責められた勇輝もなぜだか泣きそうに見える。
「蛍が好きだからだよ!」
その途端蛍はビックリして、心臓が飛び出しそうになった。
嘘だ。そんな訳ない。
赤ちゃんの頃から親同士仲良くて兄弟のように育った勇輝が?
いつも誰よりも側で、私の親友として相談にのってくれた勇輝が?
「どうせ傷つくのに、あいつの所なんか行くなよ」
視界が暗くなり抱きしめられたのだと気づいた。
蛍は無意識に勇輝の身体を強い力で押した。
離れる勇輝の顔が見られない。
「ごめんっっっ、ごめん、勇輝」
ボロボロ涙が落ちてきて、視界が滲む。
「……行けよ」
何てことしてしまったんだろう、私は。
一体いつから勇輝を傷つけてきたんだろう。
「でも、勇…」
「早く行けよ!」
弾けるように後ろを振り返り、蛍は闇雲に走り出す。
途中で草叢に足を取られ、転んだ。
膝からは血が滲み出ていた。
ーーなんて痛いんだろう。
「っっ痛い、痛いよ〜〜……」
蛍は誰もいない場所で一人、幼い子供のようにしゃくりあげた。