トラウマ
20
うだるような暑さの中、慧はタクシーに乗った。車内ではこれでもかというほど、エアコンが効いている。
慧は車窓から風景をぼんやり眺めた。
大都市とは言え、鬱蒼と生えた緑は道路の両脇にまだ健在だ。
昔読んだ本で、暑い国にいる人は、緑を見ると暑さを連想するという話は本当だろうか。
走り出してからすぐ異変に気付いた。
ジャカルタの街は通常でさえ交通渋滞が起きやすいが、それにしたって先ほどから全くと言っていいほど進んでいない。
大口取引先の相手が指定した大型ショッピングモール内のカフェに向かうため、時間にはかなりの余裕をもって出たはずだった。しかし遅々として進まない状況に焦りが生まれた。
この街に出向社員として駐在してから早三年が過ぎた。
会社の補助でインドネシア語の家庭教師がつき、日常生活で困らない程度に話せるようになった慧は、インドネシア語で運転手に混雑理由を聞いた。
「ストライキだって?」
ーー冗談じゃない、こんな大切な日に。
現政権は、来年の最低賃金の引き上げ幅を10パーセント以内とする大統領通達により賃金闘争圧殺に乗り出した。そのことに対する怒りのストライキが、今まさに行われているとのことだった。
慧は思わず舌打ちをした。
資料の見直しに時間がかかって今日のニュースをチェックしてこなかった。こういったことが起きると、ある程度は予測できていたはずなのに。
ストで道路は封鎖され、高速道路出口もデモ隊が占拠、車は立ち往生の状態であった。
デモが主に行われている場所はここからさほど近くはないものの、その影響がこちらにまで及んでいる。
イライラしていても始まらない。
慧は本日、同行する予定だった部下の携帯に連絡する。
「――俺だ。今ゼネストによる交通渋滞に嵌ってる。有沢は今どこにいる?」
部下の有沢が本日の打ち合わせ場所に近いところに住んでいることは、織り込み済みだった。それゆえ、少し先に行ってもらい、広くてゆったりした席を確保してくれと昨夜頼んだばかりだった。
携帯越しに明るい有沢の声が響いた。
「私用もあったんで、大分早くこちらに着きました! それは大変ですね……一体どのくらいの時間かかるんでしょうか」
「有沢、お前、俺と同じ資料、持ってるな?」
「それはもちろん……でもまさか僕にプレゼンさせる気じゃないでしょうね?」
「悪いが、最悪の場合それも有り得る、と考えておいてくれ。頼む」
「無理っすよ! っていうか自信ないっす……。こっちに来てまだ半年、こっちの人が喜ぶアプローチ法も分からないし……」
「通訳も同席するから、いいように訳してもらえ」
「そんなむちゃくちゃな……」
「普段からルーズで一時間遅れなんてのはザラだ。だからストに託けて今日の商談も延期になるかもしれん」
「それならいいんですけど……」
「とりあえず、やる気で考えていろ。その考えは無駄にはならない。相手には焦っている感情を読み取らせるな。常に冷静でいろ。相手の信用を失ったら最後だ。……わかったな?」
「はい」
「大丈夫、お前が思っているよりずっと、お前は有能だ」
有沢が笑うのが分かった。
「状況が変わり次第、すぐ連絡する。任せたぞ」
「はい」
力強い受け答えに慧は満足して通話を終えた。
21
「や…っと着いた」
タクシーのドアを閉め、駆け足でショッピングモールへ歩を進める。
十五分程前に電話した時、先方はまだ到着していない、ということだった。けれど延期の連絡も来ていないということで、今現在の状況が気になった。
エスカレーターを走るようにして上り、指定されたカフェのある場所へと向かう。
ガラス張りのゆったりとしたスペースを持つ店内には、平日だと言うのに多くの客がいた。慧は、大きめのソファがある奥のテーブルへと目を走らせた。
有沢の後ろ姿が見え、ほっとして店内に足を踏みいれようとしたところーー
閃光が辺りを覆い、慧の身体は店外に吹っ飛ばされた。
キーン………
堪え難いほどの強い耳鳴りが慧を刺激する。
何が起こったか分からない慧は起き上がろうと試みた。
目がチカチカする……身体の至る所が痛い……。
一体何が起こったんだ?
深呼吸して、痛みではなく目を見開くことに集中すると、自分の身体にいくつもの細かいガラスの破片が突き刺さっていることに気づき、茫然自失となった。
その上目眩がして、平衡感覚を保っていられない。
それでも尚、ガラスが突き刺さっていない左掌を額に当て、何が起きたか把握しようとした。
しょぼしょぼする目を店内に向けるとーー
地獄のような光景が広がっていた。
「……有沢……」
どこもかしこも何だか判別できない物の残骸が散らばっている。
店を中心とした二階の端の部分がひしゃげて、穴が空いているところから直接空が見える。
慧の理解が追いついて身体が震える。
遠くから悲鳴のようなものが聞こえる。
目の前に生きている人はいないーー。
頭では理解していても感情が優先された。幽霊のように店の中へ入ろうとした慧を誰かの手が止めた。
離せ、俺は会わなきゃいけないんだ。
有沢にーーー。
そう思ったところで、慧は意識を失った。
22
目が覚めたら病院だった。
周囲のざわめきと、朝の光でようやく慧の意識は覚醒したようだった。
医師によると、ガラスによる創傷はスーツを着ていたためか、さして深くはないようだ。
ただ爆発による衝撃波と爆風で鼓膜が破れている、とのことだった。
どうりで医師の言葉が聞き取りにくいわけだ。
慧の負傷を聞いた家族は、心配して今朝の便でジャカルタに向かっているらしい。
動けば軋む病院のベッド、つけられた人工的な部屋の明かりや自分に巻かれた白い包帯ーー全てに現実味がなかった。
慧は泣くでもなく、怒るでもなく、ただ無表情にそこにいた。
今まで確かだった世界との繋がりが、白いベールで覆われているような不確かなものへと、変化したように感じていた。
病院では、被害者への影響を考えてテロの情報は遮断されていたので、後に分かったことではあるが、その日インドネシアでは三件もの自爆テロが起きたらしい。
標的となった場所は、慧たちのいたジャカルタ中心のショッピングモール。
そして、市内中心部に近い教会とジャカルタの西に隣接するタンゲラン市のデモ会場が狙われた。
このわずか一日で、警察官や一般市民、自爆テロ犯を含めた三十七名が死亡、多数の死傷者がでる未曾有の事態となった。
自爆テロを行ったのは、大人だけでなく、まだ小さな子供も含まれていた。
それを知った時、慧は自分の感情をどこにぶつけるべきなのか分からなかった。
ただ時折チラチラと頭の中で繰り出される強烈なイメージと、部下への悔恨は、日に日に慧を蝕んでいった。
その凄惨な事件は瞬く間に世界に知れ渡ることになり、その被害者である慧は、周囲の注目をいつなんどきでも浴びるようになった。
本人が望むと望まざるとに関わらず、心身の快復を目的として慧は日本に帰された。
しかしながらマスコミによる追及は収まることを知らなかった。
会社からは異例の1ヶ月もの長期休暇を言い渡された慧は、東京で鼓膜再生療法を受けた後、母の強い勧めにより、祖母と叔父のいる徳島の田舎で静養することとなったのである。