アプローチ
12
「雪ちゃん」
司書の雪が振り返ってニッコリ笑った。
今日も雪は綺麗だ。同じ女性なのに蛍は思わず見惚れる。いかにも大人の女性といった色気を振りまいている雪は、蛍の理想だった。
蛍は隣の椅子に座り、言った。
「ここでお昼食べてると思った」
「聞いたわよ、大変だったんだって? おじいさん」
もう噂がまわってるのか。相変わらずプライバシーってものがこの村にはないな、と蛍は思う。
「うん。でも大きな手術もしないで済んだから、大丈夫。今日は図書館で勉強したらおじいちゃんのお見舞いに行くつもり」
「滝川さんがいて、ほんとに良かったわね」
蛍はその言葉を聞いて目をパチクリした。
「雪ちゃん、おじさんのこと知ってるの?」
「やだ、蛍ちゃん、そんな呼び方して。滝川さんは私と三つしか違わないのに」
……私には言わなかったのに、年齢まで知ってるんだ。蛍の中にモヤっとした感情が生まれた。
「彼ね、ここに二度ほど本を借りにきてるから。一度に十冊も借りるのに数日で読んじゃうみたいでビックリしちゃう。格好いいからつい色々話しかけちゃって」
まただ。蛍は何とも言えない気持ちになった。
「蛍ちゃん、変な顔してる。滝川さんのこと、気になるの?」
雪がわざと揶揄うような言い方をしたことは分かった。それなのに火照る顔を抑えられそうになかった。
「そ、そんなことない!」
雪は焦る蛍の様子を見て、優しく笑った。
13
「おじさ〜〜ん!」
玄関先から蛍の大きな声が聞こえた。
……また来た。
慧が蛍の祖父を救ってから、毎日のように蛍はやって来る。
やれバナナパウンドケーキを焼いたからお礼に食べてくれだとか、やれ東京での生活を教えてくれだとか、理由は様々だ。
「おじさん、何で腕やこの辺に細かい傷がたくさんあるの?」
蛍は慧の身体にできた瘡蓋を見て、不思議そうに尋ねる。
分かってる。蛍は何も悪くない。
でも蛍が何かを無邪気に聞く度、自分の中の記憶が呼び起こされ、不快な気持ちになる。
受験勉強があるから長居することはないのだが、蛍の質問は慧の傷口を抉ることがあるため、慧は自分がこれ以上傷つかないように蛍と距離を置いて接していた。
蛍の質問をいつものらりくらりとかわして、時には冷たい言葉で突き放してみる。
それなのに蛍は鈍いのか何なのか、慧に懐いて仕方ない。
蛍の悪意のない質問が慧の気に障ったかと思えば、蛍のおかげで退屈な時間を塞ぎこみながら過ごすことが少なくなっている。
慧は複雑な感情を抱きながら、今日もまた蛍の笑顔を見遣った。
14
……地震か……?
自分の身体が揺れている。
「おじさ〜〜ん!」
なんだか五月蝿い。
意識が呼び起こされる。
でも嫌だ。まだ眠っていたい。
「起きてぇ〜〜おじさ〜〜ん!!」
ようやく眠れたというのに邪魔しないでくれ。
またしても自分の身体が揺さぶられた。
その不快さに目が覚めた。
自分の顔を覗き込むようにして、蛍のどアップがあった。
「?!」
慧だけでなく、なぜか蛍もビックリして後退りしている。
……なんだ?ここ、どこだ?
ばあちゃん家、だよな……?それにしたって、まだ暗いよな……?
事態を把握しようと、なんとか重い身体を起こす。
「……今、何時だ?」
「朝の四時だよ!」
は?
全くもって頭がついていかない。
「……何、やってんだ? お前はここで。夜這いか?」
蛍は不思議そうな顔をする。
「夜這いって何?」
本当に頭が痛い。
「俺はさっきようやく眠りについたんだ。何でもいいからとにかく寝かせてくれ」
「今日だけだから! お願い!!! ちょっと来て〜」
摩訶不思議意味不明理解不能。
抗う元気すらない慧は、ゾンビのようにノロノロ起きて、とりあえず顔を洗った。
タオルで拭きながら後ろを振り向くと、祖母が立っていて、幽霊かと思った。
「わっっ!!」
祖母も慧の反応に驚きはしたものの、右手に持った巾着袋をしっかりと慧に渡した。
「これ、何?」
手に取るとそれは生温かくて、柔らかい感触だった。
「おにぎりやけぇ。収穫の後、お腹空いたら食べてな」
「……収穫?」
「そやぁ、佐々木さんとこの野菜の収穫を手伝うって蛍ちゃんが言っとったけん、用意しといたじょ」
何にも聞いてないぞ。
何で俺の予定は勝手に決められてるんだ?
俺の人権はどこにあるんだ?
しかしこんな物まで用意してくれているのを無碍にはできない慧は、蛍の姿を探した。
「あれ? ばあちゃん、あいつは?」
「蛍ちゃんはもうトラックに乗っとうけん、いってきー」
「うん……じゃあ、おにぎりありがと」
情けない顔になりながらも、素早く着替えてまだ仄暗い外へと出て行った。
15
慧が外に一歩出ると、夏だと言うのに冷気を感じた。深呼吸すると、自分の身体が浄化されるような気分になった。
祖母の家の前に大型のトラックが停まっていた。助手席のドアを開けようとすると、斜め上から蛍の声が聞こえた。
「おじさん! こっち、こっち!」
見上げると、蛍がトラックの荷台から慧を手招きしていた。
後ろに回ると、トラックの後あおりが開いていて、すぐにでも乗れるようになっている。
蛍はこちらに手を差し伸べているが、その手は華奢でいかにも頼りない。引っ張ると却って危ない気がしたので、慧は無視して荷台に飛び乗った。
蛍は一瞬ムゥっと膨れたが、すぐに後あおいを慣れた手つきで元に戻す。
運転席からそれを確認した佐々木のおじいさんが、エンジンをかけると、静かだった祖母の庭まで目覚めたかのようだった。
走り出してすぐ、慧は自分の気分が高揚するのを感じた。
舗装されていない、でこぼこな山道を下っていくと、トラックがガタガタと揺れて遊園地のアトラクションみたいだ。
そんなにスピードは出ていない筈なのに疾走感があり、開放的な気持ちになる。
それに何より、後ろに流れて行く夜明け前の景色を見るのは格別だった。
蛍は体育座りをしながら、嬉しそうに何かのメロディーを口ずさんでいる。仄かに白んでいく景色を背景にして、蛍の髪が風に靡いていた。
「ナスは、ハサミで取って……こんな風にね、五ミリくらい残すといいよ」
蛍は慧の隣で一生懸命に教える。
「大きな葉っぱがあったら、どんどん切って捨てるんだけど、ここに捨てちゃダメだから。ちゃんと集めて別のところで処分するからね」
慧は蛍の見様見真似で作業を進めて行く。
「お前、家は農家じゃない、よな?」
「うん、でも佐々木のおじいさんは結構歳だから、たまにお手伝いしてる」
「へぇ……」
「あっ! おじさん、見て!」
蛍は慧の作業を一旦止めて遥か遠くを指差した。
蛍の視線の先は、眩いばかりの日の出が山腹から今まさに顔を出そうとしているところだった。
空の上半分は薄い青色で覆われ、下半分は黄金色に染まっていた。
太陽が昇るにつれ世界が金色に輝いていく。
陸離として光彩を放つそれは、全ての命が吹き込まれたかのような荘厳さを持っていた。
「私の好きな景色。おじさんに見せたかったんだ」
蛍が恥ずかしそうにそう言った。