アクシデント
8
2018年 夏
懐かしい畳の匂い。
慧は畳の上に横になって、天井を眺めていた。
古ぼけた柱時計は静かに時を刻んでいる。
開け放たれた窓からは、耳を擽る風鈴の音が聞こえる。遠くに聞こえる蝉の声も、今は煩わしくない。
とてつもなく贅沢な状態にも関わらず、慧の気持ちは晴れなかった。
午後一時を過ぎたこんな時間に、大の字になってダラダラしている自分が信じられない。ほんの少し前までは、インドネシアのジャカルタで働き詰めだったのに。
ーーだめだ。また失敗した。
どうしたって考えてしまう。
慧にとって無限にも感じられるこの時間は、苦痛以外の何物でもなかった。
人は暇ができると、過去を顧み、自らを省みる。これが今は良い結果をもたらさないことを慧は知っている。
自分の思いを振り切るように、慧はむくりと起き上がり、祖母の部屋まで行った。
「ばぁちゃん、何か手伝うことない?」
9
まさか自分が田舎に来て、こんなことを手伝うことになるなんてな……。
慧は額に噴き出た汗を、軍手をした手の甲で拭った。
祖母に手伝いを申し出たら、近所の蒼野さんの家でウッドフェンスを作っている途中だからと駆り出された。土台や支柱は設置済みだったため、現在は貼り付ける板を鋸でカットしている段階だ。
使い慣れない鋸にようやく慣れたところで、鈴を転がすような声がした。
「お父さん、ただいまぁ! どこまで進んだの?」
慧が振り向くとそこには、高校生だろうか、制服を着た少女が立っていた。
まず猫を思わせる大きな切れ長の目に慧は釘付けになった。
肩まで伸びた漆黒の髪、通った鼻筋に珊瑚珠色の厚めの唇。身軽そうでしなやかな体躯は、同級生の羨望の的となりそうだ。
慧は彼女を見た瞬間に、強い既視感を覚えた。
しかし慧は、彼女が発した言葉によって現実に戻された。
「びっくりした。お父さん以外いるなんて思わなかった」
先客がいると思わなかったのだろう、彼女はとても驚いた表情をしていた。
「こら、蛍。きちんと挨拶しなさい」
「あっ、すみません。私、蒼野 蛍です。父がお世話になっています」
「娘です。蛍、こちらは滝川さんのお孫さんだ。今は東京に住んでいて、長期休暇を利用してこちらにいらっしゃっているそうだ」
「滝川 慧と申します。よろしくお願いします」
仕事の関係上、相手の目を見ることは慣れているが、蛍の目を直視することはなぜか憚られた。
そんな慧とは対照的に、蛍は不躾とも言えるほど慧を凝視した。
蛍の父が咳払いをし、蛍はハッとした。
「あ、す、すみません! なんか、すごく……懐かしい感じがしてしまって。私達、以前会ったことありますか?」
「おいくつですか?」慧が尋ねる。
「先日十八歳になりました!」
「私がこちらに最後に来たのは小学生の時ですから、蛍さんはまだお生まれになってないですね」
父親の手前、どうしても馬鹿丁寧な言い方をしてしまう。
しかし慧は、目の前の少女と畏まって話すのは、なんだかそぐわないな、と思った。
反応がないな、と思ったのも束の間、蛍は
「えっ?! おじさん一体いくつなの?」と大きい瞳を更に大きくして聞いた。
「蛍! 失礼な言い方をするな!」
蛍の父が怒鳴った。
失礼にも程がある――俺はまだ三十歳だぞ……と心の中で呆れながらも、高校生にとって、自分はおじさんに違いないと慧は思い直した。
「次は色塗りでしょ? 私も手伝う!」
意気揚々と言う蛍を尻目に、蛍の父は言う。
「お前は受験生らしく、勉強しなさい」
「……は~い」
顔には不満と書いてあったが、蛍はしぶしぶ頷き、家に入ろうとした。
彼女は振り向きざま慧に「私、東京の大学志望なんです。後でいろいろ教えてください!」
と言って笑った。
それからしばらくすると蛍の父は、自分の兄弟に突然電話で呼び出され、恐縮しながらも少しの間家で休んで待っているよう慧に頼んだ。
しかし、女子高校生に根掘り葉掘り質問されるよりは、作業を続ける方が気楽だったため、慧は黙々と板に水彩塗料を塗り付けていた。
このような作業は無心になれるからいい。慧の荒れた心にはちょうど良かった。
10
静かだったのも束の間、家の中から悲鳴のようなものが聞こえて慧は反応した。
玄関の扉に近づくと、血相を変えた蛍が飛び出してきた。
真っ青な顔をしている。
「お、おじさん! ど、どどうしよう……おじいちゃんが」
「どこだ?」平静さを失った蛍に尋ねる。
「だ、台所に……」
慧は反射的に靴のまま家の中へと飛び込んだ。
リビングを抜けて、キッチンが見えた。同時に床に倒れている老人を発見する。
「もしもし! 大丈夫ですか??」
蛍が首を振る「さっきも声をかけたけど……」
蛍の目からは今にも涙が溢れそうだ。
慧は蛍の祖父の口近くまで耳を持っていき、胸の動きを見た。
――呼吸していない――。
ここからは一分一秒を争う。慧はポケットから携帯を出し、時間を一瞥した。
震える蛍の腕を掴み、目を合わせながら慧は言った。
「しっかりしろ! いいか、お前が救うんだ! お前がやることは2つだけ。できるな?」
取り乱していた蛍だが、慧の声に反応し慧を見つめ返した。
「う、うん!」
慧は老人が着ているシャツを無理やり強い力で引っ張り、ボタンを一気に外して胸をはだけさせ、心臓マッサージを始めた。
「まず救急車を呼べっ! それからAEDをっっ」
胸を圧迫しながら話しかけているので、どうしても怒ったような言い方になってしまう。
話しながら慧は頭の中でAEDがありそうな場所を探した。
村役場はここからだと車で二十分ほどかかるだろう。時間がかかり過ぎる。
「……お前の学校までどのくらいで行ける?!」
「自転車でも十五分はかかるよ!」
悲痛な声を出す蛍。
「じゃあ学校に電話しろ! 必ず職員が出るはずだっっ! AEDを持ってくるよう頼め!」
蛍は勢いよく頷く。
……三十!気道確保。
話しながらカウントしていたので、きちんと三十回なのかどうかも怪しかった。
けれどそんなことを気にしている場合ではない。
慧は必死で心肺蘇生法の手順を思い出す。その間、蛍は震える指で携帯のボタンを操作する。
「ふぅ~~……」胸が上がるのを確認し、慧はもう一度息を吹き込む。
「救急です! 助けてください!!……はいっ、住所は……」
蛍の切迫した声を聞きながら、慧は再び胸骨圧迫を続ける。
これが都会なら救急車の到着は八分弱。このド田舎なら何分かかることか……。
もってくれよ、俺の体力!
慧は早くもにじみ出てきた汗を忌ま忌ましく思った。
11
祖母の家へ戻っても、慧は蛍の祖父の容態が気になって仕方なかった。
図書館で借りた小説を手にするも、先程から三行も進んでいない。気がつくと同じ箇所を目で追っている。
溜息をついて、慧は小説を読むのを諦めた。
体全体を使うように意識していたはずだが、やたらと腕の筋肉と手首が痛んだ。右手を下にして胸骨圧迫をしていたため、右手の甲には青痣ができていた。
全身クタクタだが、神経が高ぶっていて休めない。風呂にでも入ろうかと立ち上がったところ、家の電話が鳴った。
思わずびくりとするが、待ち構えていたので飛びつくように受話器を取った。
「はい、滝川です」
「蒼野です。慧さん、いらっしゃいますか?」
蛍の父からの電話だった。
「はい、私です」
「慧さん、あなたには何とお礼を言ったらいいのか……父はあなたの救急処置のおかげで一命をとりとめました。本当にありがとうございました」
慧はその瞬間、心からホッとして力が抜けて屈んだ。
「それは……本当に良かったです」
「父はカテーテル治療しましたが、経過が良ければ五日ほどで退院できるそうです。あなたがいなければどうなっていたかと思うと……本当に感謝の言葉もありません」
そんなに早く退院できるのか、今の医療技術はすごいな、と慧は感心する。
蛍の父からの言葉によって慧自身も救われるようだった。
「いえ……本当に少しでもお役に立てたなら、こんなに嬉しいこともありません。わざわざお電話いただき、ありがとうございました」
良かった。今回は間に合った。
本当に良かった。
震えそうになる声を必死で堪えた。
「落ち着いたらぜひお礼をさせて下さい。夜分すみませんでした」
「とんでもないです。皆さんによろしくお伝えください。それでは失礼致します」
受話器を置いて、深い息を吐くと安堵とともに物凄い睡魔に襲われた。
ぼうっとしながらなんとか寝室へと身体を引きずっていき、布団を出すこともせず気を失うように入眠していた。