コンフェッション
37
慧は近くにバイクを停めていた。
そう言えばどうしてここにいたのだろうか。
「……慧、どうしてここにいたの?」
慧はその質問に答えるかわりに、蛍がいつもバッグに付けている派手な蛍光ピンクのストラップを翳した。
「あっ! これ、私の……いつの間に落としたんだろう……」
慧はストラップを蛍の手元に戻し、何も言わずにバイクに乗った。
……これ、落ちてたのに気づいて、もしかして私のこと探してくれた?
いやいやいや、勘違いかな。
助けてくれただけでも気持ちが飽和状態なのに、変に期待したらまた後で泣きを見てしまいそう……。
蛍は自分に言い聞かせた。
もうジタバタ抵抗する気が起きなくなった蛍は、静かにバイクの後ろに跨った。
慧はゆっくりとした速度でバイクを走らせる。
話したいことは山ほどあるのに、蛍は言葉に出来なかった。慧のお腹に回した腕だけ、自分の気持ちに正直だった。
話せなくても慧の側にいたい。
この道がずっと続いていけばいいのに、と胸が苦しくなる。
バイクのエンジン音だけが、茜色に染まりかけた空に吸い込まれていく。
蛍の気持ちとは裏腹に、あっという間に家の近くまで来てしまった。
もうすぐ慧と離れなくてはいけない。
感傷的な気持ちになっていたところ、いきなりバイクは無人のバス停留所で停車した。
眼前に広がる田圃の稲穂は夕陽に照らされて、キラキラしていた。
突然の行動に驚きはしたが、慧が降りたので蛍もそれに倣った。
慧が屈んで、蛍の顔を覗き込んだ。
「おまえは……自分のしたことがどれだけ危険か分かってるのか?」
先程とは違って、慧は余裕のない表情をしていた。
蛍はむくれる。
「見過ごせなかったんだもの…まさかあんな酷いイジメだなんて、思ってもいなくて………」
そっぽを向いていた蛍の顔を、慧は両手で包んで上を向かせる。
「もう二度とこんなことはするなよ。イジメを止めたかったら、人を集めろ。おまえ一人でどうにかなるもんじゃない」
慧の瞳に魅入られて、身動きが取れなくなる。
「分かったか?」
「う、うん……分かった」
慧が離してしまう前に、自分の頬にある慧の左手に右手を重ねた。
「……ずるいよ、慧。どうしてこんなことするの? 私のこと、本当はどう思ってるの?」
「……お前が無事で良かった、と思ってる」
「そーゆうことじゃなくて」
蛍は慧を見つめ返した。二人の間にある空気は今までとは違う濃厚なものになっていた。
「私、慧が好きよ」
またしても直情的な物言いになった。
蛍の再度の告白を聞き、慧が苦笑いした。
「お前……俺があんな酷いこと言ったのに、めげね~なぁ……」
「慧は私にもっと触れたくない? 私は慧に触ってほしい」
慧が渋面を作る。
「そーゆうことは軽々しく言うなって言ってんだろ……お前何も分かってねーな」
「分かってる! 今のままじゃダメなんでしょ? だから私、卒業するまで自分を磨く。大人になったら会いに行くから、それでもダメ?」
「っ、あーーもう!!!」
慧が思いっきり、自分の髪をぐしゃぐしゃにする。
蛍は呆気にとられて、そんな様子を見守る。
「ーーこんなガキに惚れるなんてな……?」
「えっ、なんて言っー」
その先は続けられなかった。
慧の掌が蛍の後頭部を引き寄せ、強引にキスをした、ということに蛍が気づいたのは、息苦しくなってからだった。
慧の突然の行動に頭が真っ白になった。
強い力で後頭部と腰を支えられているので退くこともできない。
ーー息継ぎが出来ないっっ!とパニックに陥りそうになったところで、慧が唇を離した。
「っっはぁ」
顔を真っ赤に染めて肩で息をしている蛍を眺め、慧はーー
吹き出した。
「ムードも何もねぇなぁ~!」
その後も肩を震わせて笑っている慧の顔を見て、信じられない気持ちになる。
この少年のような顔で笑ってるのは誰?
惚ける蛍に慧は言う。
「息継ぎの仕方も分からなくてよく俺に迫ったな」
身体の内側からカッと熱くなる。
恥ずかしいーーそれなのに慧が笑っていて、目眩がしそうなほど幸せーー。
今起こったことがジワジワと現実味を帯びてくる。
少し涼しくなった風が吹くと、自分の唇が濡れているのが分かる。
それを意識して、蛍は思わず慧の顔を両手で隠した。
「……なんだ?」
「ちょっと、今こっち見ないで! 私、変な顔してるから!」
「……へぇ~~」
声だけで慧がニヤニヤしてるのが分かる。
ズルイ。こんなの聞いてない。
何?この豹変ぶりは?
私のことなんて、ちっとも興味ありませんって顔してたのに……。
それともこれって夢?
怖いことが起きたから、私おかしくなっちゃった??
「っっひゃっ!」
悶々と一人考えていたら、慧を目隠していた手のひらにネットリとした生温い感触を感じ、蛍は後ろに飛び退いた。
何事かと思ったら、慧は赤い舌をチロチロ見せて、いたずらっ子のような顔をした。
「……さぁ、これで懲りたか? 俺はお前が思ってるより大人でも理性的でもないよ」
間髪入れずに蛍は応えた。
「懲りない!!!」
懲りるはずがない。恋い焦がれて止まなかったものが目の前にあるのに。
言ったと同時に、一度自ら作った距離を埋めに慧に抱きついた。
あまりに勢いが良かったためか、慧がよろめいて、二人して転んだ。
「っっ……」
慧が下敷きになっているので、蛍は全然痛くない。
「……お前なぁ……」
「ごめんなさい」
「もう少し落ち着け。そして恥じらいとかそーゆうものを覚えろ」
「……はい」
恐る恐る慧の顔を見ると、慧は、今まで見たことがないような柔らかい表情で笑った。
蛍は自分の胸が壊れるのではないかと思った。
「そんだけ元気なら大丈夫だな。じゃ、俺は帰るから」
すっと立ち上がった慧に追いつけずに、
「えっ?!」と大きな声を出してしまう。
「ここからなら歩いて帰れるだろ?」
そうだけどーーでも、私はまだ聞いてない。
慧からの愛の告白を。
「た、大切な言葉を聞かせてくれるんじゃないの?」
声が上ずった。
蛍も立つが慧が大きいのでどうしても上目遣いになる。
「……卒業するまで自分を磨くんだろ?」
「う、うん……」
あれ……?この流れはなんか違う気がする。
「大人になったら、東京に会いに来るんだろ?」
「それは、もちろん……」
……私、誤魔化されてない?
「楽しみに待っててやる、って言ってんの」
!!!
ーーどうしよう、嬉しすぎる。
私、死ねるかも。
予想していた愛の告白とは程遠いものの、蛍は満面の笑みで頷く。
そんな蛍を見て、慧は満足そうに蛍の頭をクシャクシャする。
「じゃあな」
慧との別れが名残惜しい蛍は、慧の姿が見えなくなってもしばらくその場を離れることができなかった。
38
「こら、ひっつくな」
東京へ戻るために荷造りをしようとしていた慧は蛍に言った。
「嫌。私をいじめた分だけ、くっついてやるんだから」
慧の部屋に来た蛍は、部屋に入るなり慧の腰に腕を回してくる。
おかげで慧は自由に動けない。
「分かった。あの時の言い方は最低だった。思ってもいないことを言った」
大きな猫みたいな目が慧を捕らえて離さない。
「悪かった。ごめん」
蛍が満足そうな顔をした、と思った途端、何の前触れもなく襖が開いた。
二人は固まった。
目の前には慧の祖母がいる。
そして、慧の側にはピッタリとくっついた蛍がいる。
慌てて、蛍を引き剥がそうとする慧。
「ばーちゃん! これは、あれだ、こいつが……」
祖母は今まで見たことがないような顔でニャア〜と笑った。
「ばーちゃん、なんも見とらん。最近視力が悪うなったけん、よう見えん」
とびきり嬉しそうな顔をした後、何を納得したかは不明だが、一人でウンウン頷いた。
「そーいえば、ばーちゃんが蛍ちゃんくらいの時は、周りがみんなお嫁さんいっとうけぇ。なんも気にせんでええけんな」という言葉を残し、居間に戻った。
慧はひどく恥ずかしい思いがした。
「はぁ〜〜」
慧が脱力する。
「だからあんまりひっつくなって言ってんだ」
蛍のおでこを軽く小突く。
「私は何も困らないもんね〜」と舌を出された。
そんな風に戯れていた蛍だが、ある物を見て急に真顔になった。
ふらりと慧から離れ、鏡台の上に置かれたそれを手に取る。
それは、長い間祖母が保管しておいてくれた遥の笛だった。慧は思わずギクリとした。
蛍に感じるあの既視感はやはり自分のただの思い違いに過ぎないのか、それとも……。
慧の心臓が早鐘を打つ。
蛍は掌に笛を乗せて、微動だにしない。
そんな蛍の様子を見て、慧はなぜだか胸がいっぱいになった。
蛍の目はどこか遠くを見ているようだった。
慧にとっては息詰まる時間が続いたが、不意に蛍の瞳から涙が溢れた。
……こんなことがあるんだろうか……。
慧は、信じられない奇跡を目の当たりにしているような気がした。
「慧……」
「うん?」
「あなただったんだね、私が会いたかった人」
慧は目を見張った。
「産まれる前から会いたかったのは、やっぱり慧だったんだ」
目もくらむような幸福感が慧を貫き、言葉は意味をなさなくなった。この感情にそぐう言葉など、どんな辞書にも載っていないだろう。
何も言えなくなった慧を見て、蛍は嫣然と笑った。
39
空港でのチェックインを済ませ、慧は蛍に向き合う。
「嫌かも知れないが保身のためにお前も一応あの動画を持っておけ。でも連中が静かにしてるなら、それを見せて脅すようなことは絶対するな。痛い目にあうぞ。何もなければそっとしておけ。分かったな?」
「うん」
蛍は素直に頷く。
「信用できる大人二人に事情を話したから、俺がいなくなってもやつらを見張ってくれると思う。でも安心するな、出来るだけ一人で人通りのない所は歩くな」
「……ここは田舎だからなぁ……」
蛍がポツリと言う。
「それも分かってるけど、しばらくは気をつけろ。常に友達と行動するようにする、とかな……」
「待って待って!」
「?」
「もうすぐ慧とお別れだっていうのに、こんな話ばかりしたくない。時間が勿体無い……」
いつになく元気のない蛍は言う。
「あ〜〜……それは分かるが、俺はお前が心配なんだ」
素直に自分の考えを話してくれるようになった慧の言葉を聞いて、泣くまいと我慢していたのに、涙腺が緩んでしまう。
「泣くな、泣くな」
蛍は慧の身体に腕を回し、ギュゥっと抱きつく。
「大丈夫だから」
慧が蛍を優しく抱き返すと、フッと笑った。
「私は慧と離れるの寂しいのにぃ〜〜!」
泣きべそをかきながら、蛍はむくれる。
「悪い。これ、花火の時と逆だなぁと思ってな」
「?」
「お前が言った、大丈夫って言葉、あれ以来俺の中にある。どんなに不条理なことがあっても、俺はきっとこれから、何度でもお前を思い出すよ」
思わず顔を上げて、慧の顔を見つめる蛍。
「そーしたらな、頭の中が、騒がしくて目の離せないお前でいっぱいになって、どうにかなる気がする」
慧は長い指を蛍の髪に絡めた。
「慧……それって……」
「ん?」
「月が綺麗ですねってこと?」
「ブハッ」慧が噴き出した。
「懐かしいな、夏目漱石か?」
「ん……」
「それなら?」
慧は少し意地悪な顔をして、蛍を煽る。
「このまま時が止まればいいのに……」
「それじゃ、俺が困る」
「なんで?」
「周りの目も気にしないで、お前と会えるのを楽しみにしてるから」
蛍は真っ赤になった。
「慧の女ったらし……」
どちらともなく蛍と慧は顔を見合わせて笑った。
二度目の出逢いは奇跡だった。
でも三度目は、自分達で紡いでいけるんだ、とフワフワした気持ちの中で蛍は思った。
二作目をお読みいただき、本当にありがとうございました!読んでくださる方がいることは、私にとってとても嬉しく幸せなことです。
今回蛍の祖母が阿波弁(徳島弁)を使っているのですが、書きながらもこれであっているのかどうか不安でした。そんな訳で、もし徳島出身の方がいらっしゃれば、ご意見いただければ幸いです。
もちろん、徳島出身でない方のご意見もお待ちしております!
暑くなってまいりましたが、お身体ご自愛ください。今日も素敵な一日となりますように!