ターニング・ポイント
33
ボウっとしていたため、祖母が自分を呼ぶ声に気づくのが遅れた。
「あ、ごめん。どうした、ばあちゃん」
気を取り直して、祖母の近くまで行く。
「慧ちゃん、どないしたん? 昨日からしんどそうやけど、いけるん?」
「大丈夫。それよりどうした?」
「この棚の上にある、赤い箱をさし取ってくれない?」
慧は片手を伸ばして、頭上にある赤い箱を手にとって下ろした。
その拍子に赤い箱に乗っていた和紙製の小箱が上から落ちて来て慌てた。
ーーやばい、上にこれが乗ってるの気づかなかったな。中身はーー
急いで落ちた物に視線を向けると、そこには遥の笛が落ちていた。
慧は一瞬息を忘れた。
どうしてここに……?
もうとっくに捨てられたとばかり思っていたのに……。
そんな慧の様子を見て、祖母は言う。
「あぁ、その笛、慧ちゃんが一番大事にしてたやつじゃけん、ばあちゃんも捨てられんかったんじょ。そやけど、今までわっせとった」
ガハハと笑う祖母の声は、慧には聞こえていなかった。
落ちてしまった笛を拾い眺めると、感情の波が押し寄せて来て、居ても立っても居られなくなった。
「ばぁちゃん、ごめん! 俺、ちょっと出かけて来る!!」
音を立てて性急に外へと向かい、慧はバイクに飛び乗った。
34
登校日の帰り道、蛍は一人深い溜息をついた。
いつもなら勇輝と無駄話をしながら帰っているところだが、今日は見かけたのに声もかけられなかった。いつも近かった勇輝は、あの出来事で誰よりも遠い存在になってしまった。
しかも慧からはこっぴどい振られ方をして、蛍の心は完膚なきまでに打ちのめされていた。
「学校に行った私を誰かに褒めてほしいくらいだわ……」
その呟きさえ滑稽に思えて、枯れ果てたはずの涙で視界が滲む。
そんな中、前方を歩いていた集団三人が、一人の生徒に荷物を持たせ揶揄している様子が蛍の目に留まった。
彼らは登下校の道を逸れ、荷物を抱えた生徒を藪の中に無理やり引っ張っていった。
その様子に穏やかでない気配を感じ取った蛍は、思わず彼らの後をついて行った。
「荷物、落としてんじゃねぇよ」
片耳にピアスをした金髪の男が、慌てて荷物を拾おうとした男の子の背中を蹴る。
地面に突っ伏した男の子の髪を、短髪の男が無理やり引っ張って上を向かせる。
「なんだよ、その眼は」
短髪の男が髪を離したと思ったのも束の間、その手は、今度は男の子の左頬を思い切り殴った。
「やめなさいよ!」
蛍はぎゅっと掌を握りしめ、精一杯虚勢をはったつもりだったが、その声は震えていた。
言った途端に男たちが振り返り、一斉に蛍を睨んだ。
「あぁ?」
「なんだ、先輩じゃないですか。こいつの代わりに先輩が俺らに奉仕してくれますか?」
ニヤニヤ下卑た笑いで、短髪の男が近づいてくる。
捕まえられている男の子は身を震わせながらこちらを凝視している。彼の頰には殴られた跡が生々しく残っている。
制服もところどころ土と砂だらけだ。
蛍は胸を痛めた。
「寄ってたかって一人をいじめるなんて、卑怯じゃない」
短髪の男が地面に唾を吐く。
「分かってないなぁ~~。こいつは俺たちと一緒に遊んでくださいって言ってんですよ。先輩ももしかして交じりたいんですか? 歓迎しますけど?」
「こんなことして良い訳ない。言いふらすわよ!」
男たちは一斉に笑い出した。
「どうぞどうぞ~~! 言ってみてくださいよ。俺、学校では目の中に入れても痛くないほど先生たちに愛されちゃってる、良い子ちゃんなんですよ? 先輩の話、信じてもらえたらいいですね」
今まで黙っていた赤髪の男が言う。
「先輩、何にも知らないんっすね。こいつの親、かなり影響力があるんですよ。こんなちっぽけな、腐ったような村ではね」
蛍は目を見張り、男たちを睨む。
その途端、後ろからすごい勢いで引き寄せられた。
ーーまずい! と思ったときにはもう遅かった。
蛍はピアスの男に羽交い締めにされていた。
「やめろっっ!」
手足をジタバタさせるも、相手は力を緩めず、蛍は逃れることができない。
首謀者であるだろう短髪の男が、冷淡な声でこう言った。
「先輩、綺麗ですよね~~。その怒ってる感じも堪らね~や」
蛍の全身が粟立つのを感じる。
短髪の男は近づき、蛍の顎を掴み、顔を寄せる。
興奮した男たちが囃し立てる。
蛍は思いっきり、唾を男の顔に吐きかけた。
すると、今まで平坦だった男の表情が変わった。
蛍は男の表情の変化に息を飲んだ。
こんな悪意、今まで感じたことなかった。
どす黒い感情を剥き出しにした男に蛍は恐怖した。
男は徐にポケットからバタフライナイフを取り出した。ナイフをわざと開閉させ、その音を楽しむかのようなうっとりとした表情で、蛍に近づいて来る。
蛍は咄嗟に顔を前に出し、その反動で思いっきり、自分を掴んでいたピアスの男の顔面に後頭部をぶつけた。
「いっっ!!!」
此の期に及んで蛍が抵抗すると思わなかった男は、あまりの痛さに自分の顔面に両手を持っていき、その隙に蛍は逃げようとした。
しかしその抵抗も虚しく、短髪の男に思いっきり手を引かれ、すごい勢いで地面に付した。
蛍はその衝撃で一瞬息が止まるほどだった。
「……ったぁ……」
「お前たち、ちゃんと捕まえてろよ」
反応しなきゃと思ったときにはもう遅かった。蛍は仰向けにさせられ、両腕、両足を気持ちの悪い男たちに抑えられていた。
「……このっっ! 離せ!!!」
短髪の男が言った一言に蛍は絶望的な気持ちになった。
「こんな状況でもそんな強気でいられるのはさすがというべきか……。
ねぇ、先輩? 裸になって、俺らに写真を撮られまくってもそんな風な口が聞いていられますかね??」
短髪の男はナイフを自分の顔まで持っていった後、蛍の制服のブラウスの中に入れた。
ナイフの冷たい感触がお腹に当たり、蛍は叫んだ。
「いやぁっっ~~~~!!!」
35
「はい、そこまで!」
よく通る大きな声がした。
予想だにしなかった出来事に男たちは一様に狼狽して動きを止めた。
静まりかえった場に、誰かが砂利を踏みながら、ゆっくりと近づいて来る音がした。
蛍がその声のした方を見やるとーー
そこには慧が立っていた。
ほんの僅かな時間、蛍は自分を満たしていた恐怖を忘れ、唖然とした。
突然の大人の出現に、男たちはどうしていいか判断しかねているようだった。
そんな中、慧は無表情に携帯を操作する。
ニッと作り笑いを浮かべ、男たちにディスプレイを見せたと同時に、携帯からはっきりとした音が出た。
「…な状況でもそんな強気でいられるのはさすがというべきか……。
ねぇ、先輩? 裸になって、俺らに写真を撮られまくってもそんな風な口が…」
ビデオに撮られていたと分かった短髪男がすごい勢いで慧から携帯を奪おうとする。
「おっと」
慧はわざとらしく仰け反り、携帯をポケットにしまう。
「……少しは頭を使え、ガキが。この携帯壊したところで、映像はパソコンに送ってんだょ」
挑発に乗った男は慧に向かってパンチを繰り出した。
ーー痛い!!!と思って目を瞑った蛍だったが、その僅かな時間に、慧は左腕でそれを阻止し、右手を伸ばして相手の首を捻り、みぞおちに蹴りを加えた。
ドサっという音を聞いて目を開いた蛍が見たのは、想像していたのと真逆の事態だった。
仲間たちに生じた衝撃は、波動のように徐々に広がっていった。
やられた男はのびていて、なんとも情けない顔をしている。
「お前らも相手になるか?」
気怠そうにそう言って不敵に笑った慧の瞳は、静かに怒りを湛えていた。
ビクッとし、背中を向け逃げようとする男たちに慧は叫んだ。
「この動画を流されたくなかったら、こんなことは今日でお終いにするんだな!
さもなけりゃ、終わるのはおまえたちの人生だと思っとけよ!」
36
いつのまにか恐怖でへたり込んでいた男の子は、殴られた痛みなど忘れたかのようにジッとしていた。
「おい」
慧が男の子に話しかけると、彼は反射的に身体を縮めた。
「お前も、二度とこんなことがないように、ちったぁ鍛えておけ」
「……は、はい……」
少年はきまり悪そうに、蚊の鳴くような声で答えた。
同じく腰が抜けて立てない蛍は、未だぼぅっとしていた。
少年の方を向いていた慧の瞳が蛍を捉える。
慧が自分に近づいて来るのを、まるでスローモーションを見ているような気持ちで眺める。
「……大丈夫か? 立てるか??」
蛍は、慧からのひどい仕打ちも全て忘れて、抱きついて泣き出したい気持ちになった。
しかし、ハッと我に返って、思わず泣きそうになった自分の顔を膝で隠す。
「……っ、何よ。今更来て。放っておいてくれって言ったのは自分じゃない。勝手すぎるのよ」
涙声になるのを抑えきれない。
「もういいから。こっちだって放っておいてよ」
思ってもいないことを口に出していた。
助けに来てくれて感謝してるって、どうして素直に言えないのかな……。
こんな私だから慧はダメだったのかな、とマイナス思考でグチャグチャ考えて、また泣きたくなる。
蛍の頭は先程起こった出来事に対処しきれていず、混乱していた。
ーー慧は呆れて、きっといなくなっちゃうーーそしたら、今度こそ、ほんとに話せなくなっちゃう……。
そう思った矢先、自分の身体が宙に浮くのを感じた。
気がつくと蛍は慧に抱き抱えられていた。
「やだっっ!」
恥ずかしい思いでいっぱいの蛍は、反射的にそう言ってジタバタした。
「おまえ、怪我してんだろ。うちまで送ってやる。軽くないんだから静かにしてろ」
蛍は顔から火が出そうだった。
慧の顔が目の前にあり、顔を外らせようと身体が変な向きになるが、そんなことには構っていられなかった。
「お前は自分で帰れるか?」
慧は少年に声をかける。
少年は赤べこのように不自然な動きで首をコクコク上下に動かした。
「お前、紙持ってるか?」
話が終わりだと思っていた少年は焦り、答える。
「はっ、はい! ノート、ありますっ!」
「じゃあ今から言う番号、メモっとけ。もう大丈夫だとは思うけどな。何かあったらそこにかけろ。俺の携帯だ」
「……あっ、ありがとうございます!!!」
感極まった少年は、何を思ったのか神聖なものを崇拝するみたいに、大袈裟に土下座した。
慧がハハッと笑う吐息が、顔を逸らしてる蛍の首筋に微かに届いて、蛍はまた身をよじらせた。