コンタクト
1998年 夏
「わぁ……」
祖母からもらったお小遣いを持って、近くの駄菓子屋にアイスを買いに行く途中、慧の足は止まった。
川の水面がキラキラしている。
都会っ子の慧は、初めて見る光景に心躍らせた。
慧の住む街の川は暗く淀んでいて、こんなに透明で綺麗ではない。
思わず川べりまで走り寄り、履いていたサンダルを脱ぎ捨て脚を川に入れた。
太陽はジリジリと慧を照らし、体中から汗が吹き出んばかりだったが、水温は低く心地よかった。
折しも、慧の目にキラッと反射したものがあった。それは魚の鱗だった。
「あ!」
一人だと言うのに、興奮して叫んでしまう。
好奇心が慧の中でムクムクと膨れ上がった。
慧は履いているハーフパンツを更にたくし上げ、魚が流れていった方角へと足を運んだ。
その途端、浅いと思われた川底が急に深くなり、慧の身体は一気に沈んだ。
突然のことに驚愕し、流れ込んだ水を反射的に飲み込んでしまった。あまりの不快さにパニックになる。
刹那、川の流れの勢いに押され、慧の頭部が浮上した。慧は空気を求めようと息を吸おうとするが、川は無情にも慧を更なる深みへと連れて行った。
何か掴めないかと伸ばした腕は、虚しく空を掴むのみで、力の限り蹴り出した脚は、水底に着く気配すらない。
助けを呼ぼうにも息すらままならない。
「ゴボッゴボッ!!」
絡みつく自分の服の重みが、どんどん増していく気がした。それは自分を掴んで離そうとしない。
もがけばもがくほど、下に沈んでいっている気がするのはなぜだろうかーー。
苦しい……苦しい……!!!
こんなに辛いのに、なんだか自分の動きがスローモーションのように見える。
無我夢中で水をかいていた手足に力がなくなってきた。
酸素を欲している頭は限界に近づき、前後不覚に陥る。忽ち目の前が真っ暗になった。
意識が遠のいていったときーー
自分の身体がフワッと浮いたような気がした。
1
「大丈夫?」
人の声がしたので慧は薄く目を開けた。
「まだ子どもなのに、一人で川になんて入ったらダメだよ。それくらい分かるでしょう」
慧は川の水を飲んでしまったからか、気持ちが悪かったので反応出来なかった。
自分の身体が鉛のように重いのを感じた。
「助かってよかったね」
慧の顔を覗き込んだ子は、十歳の慧より少しだけ歳上に見えた。切れ長の目は怒ったようにも見える。
「……た、助けてくれたの?」
慧は少女に尋ねる。
少女はニッコリ笑う。
あれ?でもおかしいな……。
慧は不思議に思った。
何でこの子は、全然濡れてないんだろう?
その時、強い風が吹き、慧は思わず目をつぶった。
そして開いたらーー
少女は消えていた。
2
つぎに目が覚めたとき、慧は祖母の家の布団の上だった。
隣の部屋から祖母と母の言い争うような話し声が聞こえる。
寝返りを打つと、枕元に手のひらサイズの小さな笛が置いてあった。木製のそれは、慧の手に馴染んだ。
……なんだこれ?
慧はむくりと起き上がり、襖に手をかけて母を呼んだ。
「お母さん……」
慧の声に母と祖母は過敏に反応した。
いつもとは違う様子に慧は驚き、たじろぐ。
「慧、目が覚めた? どこも痛いところはない??」
心配そうな母が慌てて慧の目の前に跪き、慧の顔や身体を注視する。
よく見ると母は涙目だ。
「うん、僕……?」
祖母が言う。
「覚えとらんの? 慧ちゃんは川下でずぶ濡れになって倒れてたんじょ。岩田のおじちゃんが釣りの帰りしなにな、慧ちゃんを発見してここまで連れてきてくれたんよ。
慧ちゃん、一体どうしよったん?」
「ぼ、僕……川に入ったんだ。そんなに流れも早くなかったし、浅いと思って……そしたら溺れちゃって……」
「一人で危ないことしちゃダメって言ったでしょう!」
母の怒鳴り声に慧の身体が竦む。
「一歩間違えれば、慧は死んでたかも知れないのよ! それが分かってるの?!」
慧は今になってようやく事の大きさが分かり、青くなった。
「ご、ごめんなさい……」
萎縮した慧を、母は言葉とは裏腹に優しく包んだ。
「お母さんもようけ心配しとったけん、ほんまに無事で良かったな、慧ちゃん」
祖母は優しく微笑んでいる。
慧は溺れそうになった時のことを思い出し、泣きそうになった。
「っごめんなさい……」
「よかったぁ……」
母の安心した声が慧の耳に残った。
3
翌日、慧は怖い思いをしたと言うのに、また川岸まで足を運んだ。
慧が目覚めた時に枕元に置いてあった笛は、慧の物ではない。祖母の話では、慧は意識を失っていた時、その笛を右手に掴んで離さなかったらしい。
その話を聞いて慧は、あの少女の物だと思った。
助けてくれた時に自分が掴んでしまったに違いないと思い、返さなければと思った。それにお礼も言いたかった。
あの少女のことは何も分からない。
だから少女と出会えた場所に、また来てみたのだった。
なぜだかは分からないが慧は、また彼女と会える気がしていた。
川縁に沿って歩く。
人の姿は見られない。
慧を恐怖に陥れた川は、離れて見ればやはり綺麗で、その川の流れる音さえも脅威的なものには思えず、耳に心地よかった。
大きい岩を見つけて、その上に腰掛ける。
ポケットから笛を取り出し、じっと見つめた。
人の物だとは知りながら、慧はその笛の音色を聞いてみたくなった。
ほんの僅かな時間我慢したが、周りに誰もいないのを確認してそっと吹いてみた。
するとーー
信じられないことが起きた。
今まで何もなかったところに少女が忽然と姿を現したのである。