2 少年ループ②
通学路を一人で歩いていた。百円ぽっきり、節約出来たとして大して足しにもならない。いや、たかが一円されど一円と言うように、心掛けは大事なのだと思う。
僕は黒いリュックをずり落ちないように、ベルトの位置を直して進んでいく。誰も居ない。前にも、隣にも。後ろには、誰か居る気がする。居るだろうか、居ないだろうか。
「………」
僕は少し滑稽に、怯えながら後ろを振り向いた。小心者。
振り向いた先、それはただの歩道だった。通学路だった。何てことはない、ただの通り道。
人っ子一人居ない、車もない、シャッターの降ろされた店だった所がぽつんと見える。
「……うわ」
正面。
大きな影。それを見て、トラックや鉄骨を思い浮かべた。視界一杯に広がった影。黒い。凹凸がある。明暗がある。模様も。けれど全体的に何なのか判らない。何だろう。
立ち止まってそれを凝視というほどじゃない、見てるだけ、目に留まっただけの動作、反応。
思い出していた。
今朝の兄は何時もより機嫌が悪かった。必要も無いのにアラームが設定してあったようで、親戚の方からにねお土産でただの飾りだった。何か動物の形をした伝統工芸品の目覚まし時計は、明日にでも捨てられてしまうだろう。
何の話も出来なかったし、何のいいことも無かった。
朝、ベッドから起き上がるのにとても時間を食ったし、ポイ捨てされたガムを踏みつけるOLのハイヒールを見てしまったし、何時もは六割の確率で吠えない通り道の飼い犬が、心臓に悪いタイミングで吠え立ててきたし。
ツいていない日だ。
朝だから特に、気分が沈む。
何せ。
僕の身体はバランス感覚を失い、かき混ぜられたマーブルの如く。
目眩に似ている。けれど目眩じゃない。脳が揺れたのだ。平行感覚がなくなり筋が一本切られたかのように片足から崩れ落ちてしまう。階段落ちよりテンポ良く進んだ状態を、影は。
そこで僕は、気付くのである。
片足は、右だ。右足が、切らるた?いや切られたのならこれはおかしい。こんなことになるはずがない。こんな形に転がる訳がない。足を捻ってしまうような体制の筈だ。捻って痛くて、咄嗟に両手で抱えてしまうような酷い捻り方の筈だ。
おかしい。これはおかしい。
次に、思うのである。
足は。
足は、どうなっている?
恐る恐る顔を、他は石みたいに固まったまま、コンクリートに耳を削りながら見るのである。
押し潰された赤い、水風船。のようなモノ。
僕は、察するのである。
ああ、また。
そういえばと、影は銀色を二つ、持っていた事を思い出す。
足が『こうなった』ものより小さく、細く、平べったい物だったはずだ。
そして、こんな音を出して赤が、
───『ジョキリ』。
僕は、朝が苦手なのだ。
恐らく、多分、苦手なのだ。
どうしようか。ベッドにひっついた身体で思案する。頭が痛いから、お腹が痛いから、いや、辞めておこう。重力のせいにして放っておいても、睡眠不足のせいにしても眠っても。
知っている。
知っているのだ。
泥沼に首までどっぷり浸かって、ヘドロと匂いに嘔吐きながら這い上がるしかないのだ。嵌まっても、しょうが無いって引き摺るしかないのだ。
とても眠たく感じても、這いずってでも出て行かなければならない。
何より、学校に行かなくてはならないから。
僕は、立ち上がる。
僕は、話し出す。
僕は、笑う。
僕は………、家を出る。
「……おはざます…」
「あい、学生は百円ね」
百円玉をポケットから出し、機械に入れる。お金の落ちる音。
乗り込んだ先で真ん中くらいの座席に黒いリュックを前に移して座る。ベンチ式じゃない、一列に席、通り、席の造りになっているバスだ。通りは人二人分の幅がある。
人がそれなりに入った所で、空気が抜けたような音で入口が閉まる。
ああ、バスに乗った感じがする。僕はそう思った。
発進する過程で車体が揺れる。間抜けな、空気が抜けた音も健在だ。
景色を見る事無く天井を見上げる様は異常だろうか。
鼻から出したため息、速度を変えてみる瞬き。
「おい!」
「あっ、あぶっ!」
「きゃあ!!」
けたたましいような喧しいような、黒板を指圧で引っ掻いたようなチョークみたいな。身が強張るような切羽詰まったような。
「危ない!」
運転手の声、否、あれは入口近くの、男性、白髪交じりの、中肉中背のカーディガンを着た叔父さん、の声だろうか。
これだから。
僕はゆっくりと仕方なく、ハエを掌ですっぱらうくらいにどうでも良さげな調子で、それこそ目眩を覚えた時頭を振るような自然…、当然?だろうかどちらかというと……それくらい自分の中で当然の事のように僕は、バスの座席から頭を、通路に傾けた。
ため息が出た。
これだよ。
これだ、これだから、朝は嫌なんだよ。
『───キィィ!!』と。
「何だよあのトラック、危ねえな…!」
靴音が後ろの方からどんどん無くなっていく。次に、座っている人が降りていき、それに続いて僕もバスから降りる。
黒いリュックを背中に回しながら、どうも、うっす…と消えていく声を聴きながら、僕は笑って言った。
「……あざました」
「あい、どうもねーあい、どうもねー」
軽く繰り返す運転手の声を背に降りた。スニーカーはコンクリートの駐車場を踏みつける。
「……」
僕はバス停の看板を通り過ぎ、三分で門をくぐるんだろう事を確信する。どうしようもない暗雲を見て、曇り空を笑う。
こうしておけばいいんだろう。そう思ったら笑えてしまった。
いつも通りだと、笑えてしまった。
ぶつ切られた声も冷えた体温も捨てられるはずだった目覚まし時計も真っ赤な水風船も……誰も知らないのだ。
「……」
僕は、朝が苦手なのだ。
ただでさえ意欲何て無いのに、眠気が抜けないせいで早朝なんて無気力に拍車が掛かるだけなのだ。何も考えていないから何もしないし、何も上手いこと進んではくれない。ロールプレイのようにはいなかい。
僕はいつも通り向かう。学校に行ってくるだけだ。
教室に着く頃、後ろから誰かが走って来る。
「おはよう!チェイス!」
「おはよう」
その男は好感の持てる快活さがあった。学友である男は隣に並びながらスマホを弄る。
「あ、」
今気付いたとばかりに顔を上げ、ギザギザの歯をちらつかせながら男は言う。
「今日部活ある?」
「うん、まあ」
「何時?」
「……五時半?」
「ふーん。あ、じゃあ俺待っとくわ、てか遊びにいくわ」
「えーまじかぁ別にくんなよぉそのまま帰れ」
「マァひっどい!チェイくんがいじめるよ~ん!ぼくカナシッ!」
「うざい触んな」
「そーゆうこと言うとぼく傷付いちゃう!泣くよ?泣くよう?いいの?泣いて?」
「えっ泣いちゃうのー?わーごめんごめん超反省してる」
「心籠もってねー!」
はっはっはと笑う男と巫山戯合いながら教室に入り、朝練は?ない、というやり取りを区切りに一端分かれる。自分の席に着き、部活のノルマを熟そうと画用紙を広げてシャーペンで描く。時々同じ部の愉快犯や、学友の経理担当に話し掛けられながら、一日が始まって、一日が終わる。
休日になるまで繰り返す、そんな日々だ。
当たり前に、いつも通りに。
〈僕〉の名前はチェイス=フランク。
未来都市とは名ばかりのまだまだ田舎、片田舎である『街』に住む十五歳の高校生である。
兄と両親の四人家族。美術部所属。
それなりに引き摺ってそれなりに前向きで、ちょっと勘頼り。
手紙の期限を必ず守るくらいには真面目で、夏休みの宿題を全部答え丸写しするくらいには不真面目な学生。
僕はそういう、人間である。