1 少年ループ。
僕は、朝が苦手なのだ。
「ねぇ兄さん、ちょっと聞いて良い?」
立ち上がって一歩ベッドから離れる時、頭を抑える。目眩がする。
それも納まって、漸く階段を下り、リビングの扉を開ける。スライド式だ。最近ガタがきたのか、埃がつっかかるのか妙に力が要る。ぼそりと朝の挨拶をする。ぺす、ぺすと直ぐ止まりそうになる足を動かし、耳に入れたくない引き摺る音を出さないように、何十回も加減を調整した椅子を引くと言う動作。
スリッパの音を「ぺす」と表したのは我ながら気に入っている。床と歩調にあわせて鳴るあの音。子気味良いと思う。
一週間前半、と我が家が言う時は月曜日から水曜日の事を言う。英語がSunday、つまり日曜が一番初めにくるスタンダードなものではなく、我が家の円滑術として一週間前半の一番目はMonday、月曜日から数えるのだ。小さい頃はずっと月曜日が一番目だと思っていたけれど、と言うか正確な所はよく分からない、正確さで言えばとても信用ならないことだ。
それは置いといて、その前半と呼ばれる三日間は、兄が朝食を作っていた。
食器の置かれる音で、僕は漸く意識を浮上させる。
出されたのは、バターで掻き回したベーコンスクランブルエッグと、半分も装られていないご飯の碗。僕の正面には兄が座る。ほらと朝食を指差す仕草で、ようやっと動き出した僕は随分なスロースターターなのだろう。眠気が取れた気がしない。
兄はお喋りな人じゃなかった。顔のパーツは同じような作りで同じような配置のくせに、理知的で頭の良さそうな雰囲気というのは僕には無く、男兄弟でベタベタくっつきもしないし干渉もしない。役割の担当だけきちんと決めて家を維持出来ているのは、担当はサボらない、サボっても終わらせることというのを徹底しているから。
虚しさは今の所、ない。
「醤油とって」
「……」
無言でテーブルをスライドする醤油瓶を受け取り、卵部分に掛ける。バター醤油好きな、何て思われているだろうことも予想出来る。
クリアにならない脳みそのまま、僕は何か話す事はあったかと鈍く動かしてみる。無いなら無いでいいかと思うが、その選択肢は必要なくなる。
あったのだ。どうしてもというほどじゃないけど、話の話題として、ほんのもやもやの解消として。
「………バス、でね兄さん。お金を払うの。田舎だからまだバス現金でしょ?でね、とっついてる機械に百円入れるじゃない。なんでそこまで作っといて電車マネーのに換えないんだって話だけど、いや別に人が触ったの駄目とか言わないけど、潔癖じゃないし。……でバスさ、バス、運転手さん居るじゃない?何か挨拶するじゃん、その時さ、運転を『お願いします』って方が良い?朝だし『おはようございます』って言うのが自然?どっちがいーかなねぇ兄さん」
本当、どうしてもという訳ではないのだ。ただ間違った事をやってたら嫌だし、考えて決めておかないと僕という生き物はその場で上手く切り替えられず、どっちかの単語を発して実はこう言った方がと小さな後悔に見舞われるのだ。どっちを言っても、多分僕は少し気にするだろうと。
何より朝なのだ。朝はいつも、僕の苦心を持ってくる。
僕は朝に、弱いらしいから。
「いやまず、『おはようございます』だろ。朝なんだから」
兄は特徴の無い無表情で既に朝食を食べ終え、プレートに空の碗を重ねて水滴の跡を拭き取る。ティッシュがゴミ箱に落とされ、足元から背を元の所に戻し僕を見るまでを眺めていた。
あのな、と兄は言う。
「朝すれ違った人に『おはようございます』するだろ?都心じゃどうか知らないけどここらは微妙に顔見知り多いし。流石に電車三つ行けば減るけど、高校の?通学路くらいは挨拶するだろう。運転すんのは仕事だ、なら優先されるべきは挨拶で、降りるとききちんと『ありがとうございました』、だろ」
ギ、椅子が引かれテーブルに影が差す。ぺす、ぺすと音が遠ざかる。
「……うん、あのさ、そうなんだけどちょっと、ちょっと思ったから。どっちがより不快じゃないのかってちょっと、まあそっか。いや何も考えてないで乗るといざってなってなんか『お願いします』ってったから、気になって」
「無意義」
兄の声に僕は笑った。
僕は、付け足すように零した後、食器を手に立ち上がった。
「これでもう、考えなくていいね、今後」
電子マネーが普及し、スマホでやり取りをするようになったのはさほど昔の話じゃないらしい。半世紀は前の話で教科書の厚さも馬鹿にならなくなり、ほとんどが電子書籍化してからは紙や樹木の減少問題は少なくなったという。まあ、木造建築の減少は、どことなく受け入れがたさもあるだろう。片田舎でも、今住んでいる僕の家はコンクリートと鉄板と……。つい昨年の事、一つの世界遺産の半分を取り壊すだか直すだかで、討論番組が組まれていた。
いつの間にか降りる駅の名前が上がり、ああ降りるのかと流れ階段を上る。
いつの間にか過ぎていった。そう感じるのは意識がこちら側にないからなのだろうと、僕は治りもしない悪い所を自覚する。
改札口を出て思案する。バスに乗るか、乗らないか。歩けば四十ほどで高校には着くが、バスだと十分。二つある信号機と電車の踏切が何も無ければ五分で着くだろう距離を延ばすのだ。
少し考えて、僕はバスに乗る。
運転手は男性で、いかにも『それっぽい』、見たら運転手だろうと分かるような格好で、笑っている様子はないのに穏やかな、そこに居るのが自然に見えるような年齢、外見の男性だった。
「……おはざます…」
「あい、学生は百円ね」
百円玉をポケットから出し、機械に入れる。お金の落ちる音。
乗り込んだ先で真ん中くらいの座席に黒いリュックを前に移して座る。ベンチ式じゃない、一列に席、通り、席の造りになっているバスだ。通りは人二人分の幅がある。
人がそれなりに入った所で、空気が抜けたような音で入口が閉まる。
ああ、バスに乗った感じがする。僕はそう思った。
発進する過程で車体が揺れる。間抜けな、空気が抜けた音も健在だ。
景色を見る事無く天井を見上げる様は異常だろうか。
鼻から出したため息、速度を変えてみる瞬き。
「おい!」
「あっ、あぶっ!」
「きゃあ!!」
けたたましいような喧しいような、黒板を指圧で引っ掻いたようなチョークみたいな。身が強張るような切羽詰まったような。
「危ない!」
運転手の声、否、あれは入口近くの、男性、サラリーマンのような人の声だろうか。
これだから。
僕はゆっくりと仕方なく、ハエを掌ですっぱらうくらいにどうでも良さげな調子で、それこそ目眩を覚えた時頭を振るような自然、…当然?だろうかどちらかというと……それくらい自分の中で当然の事のように僕は、バスの座席から頭を、通路に傾けた。
ため息が出た。
これだよ。
これだ、これだから、朝は嫌なんだよ。
『───キィィ!!』と。
車体のがたんと揺れる……揺れる?そんな生易しいもんじゃない。ドカンとかまされた、野球部の投げたボールを、ドッチボールで頭に当てられるくらいのイメージだった。そのくらいの衝撃だった。
激痛。
片目が開かない。水が入った……お湯が張ったような感覚。
一瞬の喧騒。もしくは悲鳴。
それも直ぐ、ぶつ切りだもんな。
火照って冷めない、寒空でそれが冷えていくような背中、ぱちぱちぱち、10回瞬きをする辺り。そうすれば、そうすればどうせ。
「っ……はぁ、あはは」
僕は、朝が苦手なのだ。
「ねぇ兄さん、ちょっと聞いて良い?」
立ち上がって、一歩ベッドから離れる時、頭を抑える。目眩がする。
それも納まって、漸く階段を下り、リビングの扉を開ける。スライド式だ。最近ガタがきたのか、埃がつっかかるのか、妙に力の要る。ぼそりと朝の挨拶をする。ぺす、ぺすと直ぐ止まりそうになる足を動かし、耳に入れたくない引き摺る音を出さないように、何十回も加減を調整した椅子を引くという動作。
スリッパの音を「ぺす」と表したが我ながら気に入っている。床と歩調に合わせて鳴るあの音。子気味良いと思う。
一週間前半、と我が家が………兎に角僕の家での区切りで月火水に当たる三日間は、兄が朝食を作っていた。
食器の置かれる音を、僕はぼんやりと意識する。
出されたのは、ハムの付いた半熟だろう目玉焼きと焼いたパン。僕の正面には兄が座る。ほらと朝食を指差す仕草で、ようやっと動き出した僕は随分なスローペースなのだろう。眠気が取れた気がしない。
兄はお喋りな人じゃない。
「……何か、あるか?」
時々声を上げたと思っても気が効いていると思った事はない。頭が良いから話し掛けずらそう、話が合わなそうだと思う兄の周りの人は、よく周りを見ている。
よく分かっていると、よく思う。
「ケチャップとって」
「……」
無言でテーブルをスライドするケチャップの容器を受け取り、目玉の部分に二重丸になる感じで回した。物によって変えるよな、何て思われているだろうことも予想出来る。
クリアにならない脳みそのまま、僕は大して考えもせずに口を開いた。
「……バス、でね兄さん。お金、払うじゃん。現金で百円。潔癖だから嫌とか田舎でも流石にもう換えれば、ってのはまあいいんだけど、運転手さん、運転手さん居るじゃない?そんときの挨拶、運転『お願いします』?『よろしくお願いします』が良いのかな?朝だし、『おはようございます』、が良いのかな」
カチャリ。箸を持つ僕の手は止まった。
見上げる、覗うような僕に。
「いや、それは『おはようございます』だろ。朝だし」
兄は特徴の無い無表情で既に朝食を食べ終え、プレートに箸を置いて使い古した布巾でその周りを拭く。ゴミ箱に落とされ、足元から背を元の所に戻し僕を見るまでを眺めていた。
朝は、僕は朝には弱いらしいから。
僕は。
兄は言う、あのな、
「どうせ降りる時には『ありがとうございました』って言うんだろ?感謝はそこで伝えるだろう?だったら要らない…って言ったらどんなんだが……伝える予定のある物を言う必要は無いだろ、だったら降りる時には言えない、『おはようございます』を言われた方があっちとしても良い…。多分な」
ギ、椅子が引かれテーブルに影が差す。ぺす、ぺすと音が遠ざかる。
「……うん。うん、そうだね。無駄にごちゃごちゃ考えちゃったね。考えてた時ごちゃごちゃしてたからお願いしますって咄嗟にってって、もやもやしてたから。気になって」
「無意義」
断定に、僕は笑った。
「それいいね。今後はそれでいこう、うん」
電子マネーが普及し、スマホでやり取りをするようになったのはさほど昔の話じゃないらしい。半世紀は前の話で教科書の厚さも馬鹿にならなくなり、ほとんどが電子書籍化してからは紙や樹木の減少問題は少なくなったという。まあ、木造建築の減少は、どことなく受け入れがたさもあるだろう。片田舎でも、今住んでいる僕の家はコンクリートと鉄板と……、何だったか。つい昨年の事、一つの世界遺産の半分を取り壊すだか直すだかで、討論番組が組まれていた。
いつの間にか降りる駅の名前が上がり、ああ降りるのかと流れ階段を上る。前の女子高生が無理に割り込んだ男性のせいで蹌踉けた。
いつの間にか過ぎていった。そう感じるのは意識がこちら側にないからなのだろうと、僕は治りもしない悪い所を自覚する。
改札口を出て思案する。バスに乗るか、乗らないか。歩けば四十ほどで高校には着くが、バスだと十分。二つある信号機と電車の踏切が何も無ければ五分で着くだろう距離を延ばすのだ。
少し考えて、もう少し考えて、僕はバスに乗る。
運転手は男性で、いかにも『それっぽい』、見たら運転手だろうと分かるような格好で、笑っている様子はないのに穏やかな、そこに居るのが自然に見えるような年齢、外見の男性だった。
「……はよござます」
「あい、学生は百円ね」
百円玉を、ポケットの財布からもたもたと取り出し、機械に入れる。お金の落ちる音。慌てたように、それが余計に上手くいっていない様子で僕は財布のチャックを閉じ、罪悪感で参っていますという眉下がりの高校生になっていた。
乗り込んだ先で落ち込んだように下を向き、とぼとぼと歩いて座った真ん中くらいの座席。黒いリュックを前に移して座る。ベンチ式じゃない、一列に席、通り、席の造りになっているバスだ。通りは人二人分の幅がある。
人がそれなりに入った所で、空気が抜けたような音で入口が閉まる。
バスに乗った感じがする。僕はそう思った。
発進する過程で車体が揺れる。間抜けな、空気が抜けた音も健在だ。
景色を見る事無く天井を見上げる様は異常だろうか。
鼻から出したため息、速度を変えてみる瞬き。
「きゃっ!」
「あっ、あぶないっ!」
「おい!」
クラクションの音。
けたたましいような喧しいような、黒板を指圧で引っ掻いたようなチョークみたいな。身が強張るような切羽詰まったような。
「信号無s───」
朝は。
入口近くの女性。それっぽいスーツにスカートの、女性の声。
見開かれた斜め前の、ガラス玉みたいな目の学友の男。
よく見えた。こうなるとは思って無かったと、いつもは歩いて行く学友のそう言っているような表情。
うそだろ。確かそんな言葉を唇は。
『───キィィ!!』と。
僕はよく見えるように、前のガラスに目を凝らした。
横倒しに転がる、恐らくトラックだろう車体。
上がった火花。
喧騒。
悲鳴。
あーあ。
「……まただよ」
僕は、朝が苦手なのだ。