[05]ランちゃんが来た
「み、深央!? 何やらかしたのー! えええっ」
慌てた様子の浅見さんはそう口走り、突然現れた少女の元へと駆け寄った。
まさに天使だった。透き通るような白い肌。窓から差し込む光を受けて輝く細い金髪。彼女は身を横たえ、気持ちよさそうにすやすやと眠っている。
裸の女の子を凝視してしまったことに気付いたボクは気まずくなり、目を逸らした。だけど鼻筋の通った均整のとれた顔、華奢でスラリとした四肢は、目に焼き付いて離れない。
歳の頃は小学生低学年、あるいは小柄な3年生くらいといった感じだろうか。浅見さんはそんなお人形のような少女を抱きかかえながら言った。
「誰か、この子に着せるものを」
「あ、ボクが持ってくるよ」
ボクがその役を買って出た。男があられもない姿の幼女を観察したままというのは、さすがに良くないだろう。慌てて音楽室を飛び出し教室へ。体操着はカバンの中。今日は体育のある日だった。そのまま体操着を抱えて音楽室に戻る。
駆け足で戻ってきた音楽室でボクは安堵の息をついた。さっきと同じように少女は浅見さんの腕の中にいた。現実というには儚くあまりに美し過ぎる少女。それが幻で、戻って来るまでに消えていなくなってしまうのではないかと、ボクは気もそぞろだったからだ。
津島さんと浅見さんは女の子に体操着を着せる。さすがは女子、手慣れたものだ。ボクの体操着はダボダボだったけど、それでも絵になってしまう位、少女は綺麗だった。
「ねえ、深央?」
「何、浅見さん」
「この女の子がメタルの神様?」
「うーん……」
「ちょっと!? そこで悩むな」
「あ、目を覚ますわ」
少女は名残惜しげに微睡みを振り解き、ゆっくりと瞼を開いた。その大きな瞳の色は、息をのむようなサファイアブルーだった。
「目が覚めた? 私の言葉、わかるかしら」
優しげに声をかける津島さん。少女はパチクリと瞬きをし、小さく頷くとゆっくりと口を動かした。
「ここは、どこ?」
少女が紡ぎだしたのは、薄いワイングラスを弾いた時に奏でる響きのような、純粋で透き通るような声だった。浅見さんに支えられた彼女が怯えないよう、津島さんは幼い少女に目線を合わせ答えた。
「ここは白梅女学院の音楽室よ」
「はくばい、じょがくいん?」
「そう。私達の学校。ねえ、あなたのお名前は?」
「なま――え?」
見つめ返す瞳。吸い込まれるような青。やがて少女はその視線を、小さくて柔らかそうな手に落とす。
「ラン……」
彼女の言葉はそこで止まった。手を見つめたままの碧い瞳。その様子は、記憶の欠片を見つけようとしているようだった。やがてその目は潤み、ぽろぽろと涙が溢れだす。
「あれ……おもいだせない……どうして?」
泣き出す少女を前にたじろぐボクら。そんな中、最初に声をかけたのは津島さんだった。
「無理に思いだそうとしなくてもいいわ。ねえ? 『ランちゃん』って呼んでいいかしら」
「ラン……ちゃん?」
「そう」
「う、うん」
やがて落ち着いてきた彼女は俯きながらも頷く。見た目通り、素直で大人しそうな子だ。浅見さんの腕から抜けだし、ランちゃんは立ち上がった。
「あれ? なんか、ちぢんじゃったようなきがする……」
戸惑いがちに自分の腕や身体を何度も確認するランちゃんだったが、さっきから待ちきれない様子の津島さんが切り出す。
「ねえ、ランちゃん?」
「なに?」
「ランちゃん、メタルの神様なの?」
「んー……」
しばしその青い瞳が宙を泳ぐも、ランちゃんは幼女らしいハキハキした言葉を返した。
「わかんない!」
「じゃ、じゃあハードロックの神様?」
「?」
「なら……音楽の……神様?」
「かみさまぁ? なんのこと?」
ランちゃんの無邪気な言葉にフリーズする津島さん。だが彼女は諦めない。
「楽器は弾けるかしら?」
「ギターひけるよ? せんせいをやっていたんだ」
「よしっ!」
曇りかけた表情から一転、ガッツポーズをする津島さん。でも、先生をやっていたってどういうことだろう?
「ランちゃん、ギター弾いてみて?」
「うーん。でも、ずっとむかしのことのようなきがする……おぼえているかなぁ」
持って来たエレキギターを突き出す津島さん。でもランちゃんはすたすたと音楽室の後ろの方にあるガラスケースへと歩き始めた。
「え?」
取り残された津島さんをよそに、ランちゃんはガラスケースから一本のクラシックギターを取り出した。どうやらエレキギターはお気に召さないらしい。
身長120センチ位のランちゃんとフルサイズのクラシックギターは、明らかにバランスが悪かった。彼女は腕を広げ必死に構えようとするけど、傍からはギターにしがみ付こうとしているようにしか見えない。
それでも何とか音楽室の片隅にあるスツールによじ登ろうとして――でも結局その望みは叶わず、結局地べたに座り込んだランちゃん。彼女は確かめるようにギターを爪弾き、そしてペグに手を伸ばし音程の狂ったままのギターの調弦を始めた。
どうやら絶対音感の持ち主らしい。チューナーも音叉も無しで、手にしたクラシックギターの六つの弦は、迷いなく完璧なレギュラーEチューニングへと収束。にごりの無い澄んだ和音。そんな、ちょっとしたチューニングでさえも様になっていて、その小さな身体から只者ではない雰囲気を漂わせていた。
やっぱり、ランちゃんはただの幼女では無かった。彼女が奏でる旋律の予感。否応なしに高まる期待。固唾を飲んで見守る津島さん。見開いた目がぎらついている。
沈黙。精神集中をしていたランちゃんが瞼を開け、おもむろに弾き始めた。
―― J.Sバッハ 管弦楽組曲 第二番 ロ長調 ~ バディネリ ――
クラシックギターにアレンジしたバロック音楽の名曲を、アレグロの相当早いテンポで、ランちゃんは淀みなく一気に演奏し切った。まさに完璧な演奏。その完璧さに圧倒され、言葉一つ出なかった。
口をあんぐりと開けたままの津島さん。
満足そうに頷いたランちゃんは、次にヘンデルの『シバの女王の入場』――これも室内音楽を集めたCDに必ず入っていると言っていいバロック期の名曲――を演奏し、そこからモーツァルト、ヴィヴァルディとメドレー、そして極めつけはパガニーニ。放課後の音楽室に、アコースティックギターで紡ぎだされる珠玉のクラシック音楽が次々と響く。
そう――ランちゃんは確かに音楽の神様だった。だけど彼女は、メタルの神様じゃなくて、クラシックの神様らしかった。