宿場町
「寒い」
サラは北方の寒さに体を震わせた。
「そうですね。まさか、こんなに寒いとは」
ユーカリもブルッと体を震わせる。ラフト到着は目前だ。
***
昨晩、ラフト一行は帰国の道中で一泊した。ザラキはこれ見よがしに、ラフトが姫を手に入れたと見せつける。大国間に点在する宿場町では、この競い合いの結末が流れはじめていた。ザラキの耳に入るのは、可哀想な姫の物語。ザラキは顔をしかめる。姫は麗しい歌声でラフトに向かうのだとみせるため、立ち寄るだけの予定であった町での宿泊を決めた。
「歌ってもらうぞ」
馬車から降りるサラをエスコートするザラキは、優しい笑顔をサラに向けながら、小声で命令する。民の目を気にしての笑顔だ。
「サラ姫様、夜風は寒うございます。喉を痛めます」
ユーカリがすかさずザラキに応えた。ザラキのこめかみがピクリと動く。
「目覚めの歌などいかがでしょう?」
サラはザラキの手を滑るように離して言った。ザラキは離された手をサラの腰へと回そうとする。そうはさせまいと、ユーカリがサッとサラにかけたのは、デイルのマント。ザラキの手はピタリと止まる。ユーカリはニッコリ笑ってザラキをたしなめた。
「未婚の女性に触れるは……」
と、サラの足を宿へと運ばせる。ザラキの固まった笑顔と宙に残された手は、周りの民たちの格好の話の種だ。コソコソとささやかれる声に、ザラキはギロリと睨んだ。先程の優しい笑顔のままで。可哀想な姫の物語はさらに尾ひれがつくだろう。
「宿を囲め!」
ザラキは配下に命じた。そして、宿に入っていく。固まった優しい笑顔は、見る者に恐怖を与えた。
「おいっ!」
ザラキは、先に入っていたユーカリの髪を掴む。ユーカリはバッと一くくりにした毛束を必死に掴んだ。ザラキに取られぬように……ばれぬようにと掴んでいる。
「痛い! 痛いです!」
ユーカリは必死だ。髪が取られては、ユーカリにザラキは不信をいだくだろう。
「やめてください!」
サラが声をあげた。
「私に恥をかかせるな!」
ザラキはユーカリの髪を離し、ふらつく背をトンと押した。ユーカリはバタリと床に両膝を打ち付けた。
「エ、ユーカリ!!」
思わずエニシと叫びそうになるサラ。屈みユーカリの肩に手を添える。
「いいか、今度私に恥をかかせたら、その侍女の首が飛ぶぞ! 脅しだと思うなよ」
サラはキッとザラキを睨む。
「私の首を切ればいいでしょう!」
ユーカリと支え合いながら立ち上り、ザラキに挑んだ。
「か弱き者に手をあげるは恥ではないのですか?」
ザラキの手が大きく振り上がる。サラは身構えた。叩かれる、そう思ったからだ。それでもサラの瞳はザラキを見据える。ザラキの手はヒュンと空気を切った。
ーーガッシャーンーー
宿の花瓶が大きな音をたて割れた。
「物は簡単に壊れますなあ。姫の首はどれほど頑丈か……楽しみですよ」
冷たい声でザラキはサラの瞳に応えた。
翌朝
目覚めたサラは、吐く息が白いことに小さく震える。北方に近づいていることが、サラの心を震えさせた。『クツナに戻りたい』心が叫ぶ。しかし、言葉にしたならサラは弱くなるだろう。メソメソと心を湿らすだろう。胸をトントンと叩く。
「青き薔薇を枯らしたりしないわ!」
サラは起き上がる。入口扉の前には、ユーカリが地べたに座り込んで眠っている。ドレスはグシャグシャにしわが寄っている。サラはクスリと笑った。慣れないドレスに疲れているのだろう。だけど、ユーカリで良かったとサラは思う。
『ザラキ様の乱暴に耐えられないわ、ユカリでは』
女だからではない。ユカリは真っ向からザラキに立ち向かう性分だ。首がいくつあっても足りない。白い息を吐き出す。戦うのだと自分に見せるのだ。
『歌うわ!』
サラは素早く着替えて、ツカツカと窓まで歩んだ。窓を開けると、朝靄が幻想的な景色を作っていた。見たことのない景色に、サラはしばし目を奪われる。しかし、徐々にそれが現実を突きつけていることに気づいてしまうのだ。サラは歌い出す。
ーー
深い緑はどこにあるの?
青く清んだ空はどこにあるの?
肌を包む温もりはここにはないわ
震えながら目覚める朝
朝靄が肌を濡らす
目に映るは私の知らぬ世界
私に羽があるのなら
自由に空を翔べるのに
青い空まで翔べるのに
緑の森まで翔べるのに
ーー
歌声が朝靄に流れていく。ユーカリは目を覚ました。サラの歌を目を細めて聞いている。同じ思いなのだろう。しかし、
ーードンッドンッーー
ユーカリの背に強い振動が伝わる。
『開けろ!』
扉の向こうでザラキが叫んでいた。ユーカリの重さで扉は動かない。サラは振り返りユーカリと目を合わせる。ユーカリは素知らぬ顔で扉に体重をかけ続ける。サラは頷く。歌は続く。
ーー
私の声はどこに届くの?
私の声は誰に届くの?
この地は私に微笑んでくれるかしら
見たことのない景色に心奪われる
朝靄が肌を濡らす
目に映るは私の知らぬ世界
私に羽があるのなら
新しい世界を見れるのに
新しい空まで翔べるのに
新しい目覚めが始まるの
ーー
ユーカリは笑っている。もちろんサラも。サラは朝靄が晴れた景色の中、集う人々に一礼し優しい笑顔を向けて挨拶した。
「おはようございます」
ラフトの兵士らはぽけーっとサラの歌声に酔っていた。朝の仕事をする宿場町の者も、一様に聞き入っていた。サラの優しい笑顔と、挨拶にハッと意識が戻る。皆笑顔をサラに返した。サラはくるりと部屋へと戻る。未だドンッドンッと扉を叩くザラキに挨拶するために。
「おはようございます、ザラキ様」
サラは優雅に挨拶する。ユーカリは視線を床に向け、サラの横で佇む。
「今の歌は何だ?!」
ザラキが怒っている。サラはつと思った、『怒った顔ばかりだわ』と。昨日からサラはザラキの怒った顔ばかり見ている。サラの頬が緩んだ。何故かザラキの怒った顔が、サラにとってはおかしいのだ。一晩寝たことで何かが吹っ切れたのかしれない。歌ったことで、サラの心に芯柱がたったのかもしれない。
「俺を笑っているのか?!」
ザラキはサラに笑われたことに激怒した。ユーカリがサッとサラの前へ出る。その背後からサラは言った。
「歌はお気に召せませんでしたか?」
と。サラはユーカリの体を退ける。ザラキへと一歩踏み出したサラは、ゆっくり手を伸ばす。そのしなやかな指先はザラキの顔へと。
「大丈夫かしら?」
ザラキの額に指先が触れる。ザラキの怒った顔は一瞬で困惑へと変わる。サラの言葉の意味がわからず。
「何を言っている?」
ザラキの困惑の顔を、サラは不思議そうに眺める。おろした指先をザラキは目で追った。サラは、心ここにあらず。ザラキになど関心がないようだ。ザラキは苛つき出す。
「あの歌は何だ?! ラフトに行きたくない歌を歌うとは、いい度胸だな!」
ザラキの手がサラに伸びた。ユーカリが慌てる。サラはそんなことに構いもせず、
「本は大丈夫かしら?」
と呟いた。ザラキの手が止まる。
「本?」
ザラキは何のことかと考える。考えて、思い出すのは……手が、自身の額に向かう。そこは本が当たったところ。フツフツとザラキは怒りが込み上げてきた。
「本が大丈夫だとぉ?!」
ザラキの手は大きく振りかぶりサラの頭へと下る。
ーーガシッーー
ザラキの大きな手で頭を掴まれたサラは、抗った。ザラキの手を払おうと体がぶれる。
「サラ姫様!」
ユーカリがすぐに支えるも、傾いた体はザラキの手がパッと離れると同時に床へと落ちた。
「昨日言ったはずだ。俺に恥をかかせるなと! 小生意気もここまでにしろ! ラフトで生きて暮らしたければな!」
残酷な宣言が下された。ユーカリの顔が険しくなる。ザラキは、サラたちをを見下す。
「生きて……」
サラはその続きを心の中で繋げる。『暮らすなんて、元々無理じゃない! 私の生きた意見など通らないのに。元々、行きたくはないのだもの!』サラはスッと立ち上がる。乱れた髪を撫でる。視線をザラキに真っ直ぐに向けた。
「出発の準備をしますので」
その目は出ていけと訴える。ザラキはニヤリと笑った。拐われるか弱き存在でなく、サラはザラキと同じ土台で戦おうとしていた。
「そうか、すぐに準備をしろ。俺がここで見ていてやろう」
あろうことかザラキはサラの準備を監視すると言う。
「着替えもございますので」
ユーカリはザラキを退けようとするも、
「ああ、楽しみだ。早くしろ」
と、舌を舐めた。サラの背にぞわりと悪寒が這う。ザラキが気持ち悪い。サラは小さく震える手を胸の前で強く握った。
『負けないわ』
サラは壁にかけてあるマントを見た。あれでいい。そう心に決める。
「ユーカリ行きましょう」
サラはツカツカと進みマントを掴む。バッと体をマントに包ませた。ユーカリの目が見開く。これほどまでに、サラは強かったのかと。そして、自身も続く。ヨレヨレのドレスをパンッパンッと叩く。
「ええ、行きましょう!」
サラはザラキをキッと見て、その横を通る。『準備など、この程度しかありませんのに』と呟いて。ユーカリも荷物を持ちサラの後へ続く。ザラキは唇を噛みしめ、サラの背を睨んだ。大股でズンズンと進み、サラとユーカリを押し退ける。狭い廊下をザラキが強引に進んだため、サラとユーカリは壁へと押された。ザラキはサラの前を立ち塞ぐ。
「さあ、行こうか姫さん。楽しいラフトの生活が待ってるからな」
サラはキュッとマントを握りしめた。
***
クツナの暖かさを思い出す。体が泣いている。寒いと心がしぼんでいくのはなぜだろう。サラは息を吐いた。馬車はガタゴトと進む。サラとユーカリは不安も胸にラフトに入国した。
次話更新本日午後予定です。