向かう
よどんだ空を見上げる。
「朝靄、綺麗だったわ」
宿の窓からサラは空を見上げていた。この宿ではじめて朝靄を見たときに、綺麗だと思ったことを思い出す。今朝の塔からの朝靄も綺麗だった。
「コルド」
サラが名を呼んだ者コルドは、音もなくサラのそばへと進む。音がないのは、声を発っせないからだ。
「ユカリをずっと見守ってきたのね」
サラは振り返りコルドに笑んだ。コルドは眉を下げて頷く。
「さあ、行って。これからもユカリを見守ってほしいの。だって、一年間も離れるのよ。今度は私が雇い主よ」
サラは笑顔でコルドに言った。コルドもサラの笑顔に笑みを返す。
「あ、兄上には内緒よ」
サラのウィンクにコルドは肩をすくめニヤリと笑った。コルドが部屋から出ていく。サラは大きく背伸びした。
「さてとっ!」
くるりと窓に体を向けると、迷うことなく窓際に足をかける。勢いよく窓に上り、ひらりと舞った。
ーーストンーー
綺麗な着地である。
「体がなまっているわ」
もう一度大きく伸びをして、屈伸する。右足のスリッドから健康的な生足がのぞく。サラはクツナのドレスである。動きやすく、ラフトでは淑女にはなれないであろう出で立ちだ。
「うふふ、先に行くわね、エニシ」
サラは走り出した。向かうは青き空と緑の森。その籠に。
『マントはお返しできたかしら?』
心の中で呟いた。サラは、大きく受け止めたデイルを思い出す。
『結局、お話できなかったわ』
クツナに足しげく来訪していたフェラールや、ラフトで蔑んだ瞳のザラキとは、接することができていた。しかし、デイルは違う。交わした会話は少ない。いや、交わしたとは言えない会話である。
『あのマントのおかげで……』
サラは穏やかに笑む。マントの温もりを思い出して。
『何度も助けられた』
思い出は時に淋しさへと変わることもある。幸せなことならなおさらだ。
「どうしてかしら? クツナに帰れるのに」
『悲しいなんて……』
言葉にしてはいけないようで、サラは胸の内へとしまいこむ。朝靄が綺麗だった。その北方と別れるのがつらいのよ。そんなふうにサラは思い込もうとしていたのだった。
***
宿で落ち合うはずのサラがいない。エニシはあちゃーと顔を崩す。
「逃げられましたね、エニシ」
数名のクツナの軽やかなる者たちは、肩を落とした。
「だから言ったのに。ちゃんと目付をおかなきゃいけないってさ。イザナ様のせいだぜ」
エニシはブツブツ文句を言った。
「いやいや、逃げるってわかっててイザナ様は目付をおかなかったのさ」
エニシの配下はニヤニヤ笑っている。
「ユカリじゃない、新しい目付の実力を見るのだろ? きっとさ」
エニシはハハーンと悪戯顔だ。
「追っかけてくるかな? 国を背にしてまで来るか?」
あえての発言である。
「物語ってのは、王子様ってのがお姫様を幸せにするって決まってるもんさ!」
宿にこだまする嬉しげな声。
物語はここからはじまるのだ。
***
デイルもまた走っている。サラを追いかけて。クツナに向けて。途中の町で馬を調達する。あの宿のある町である。
「おい、一寸先にこの町から南方に向かった一行はいたか?」
馬屋の主人ははて?と考える。
「いやあ、馬を調達したもんはおりゃあせんかったぞ」
「そうか……」
デイルは主人にお金を渡し駆け出した。
『馬も使わず足で移動なら、すぐに追いつくだろう』
デイルは見落とさないように、辺りを見ながら進んだのだった。
***
カサリ
葉がヒラヒラと落ちる。サラの瞳に夕焼けが映る。デイルが思ったよりもサラは遠くに、いやクツナに近づいていた。
カサリ
また葉が落ちる。
「ここの木はよく葉が落ちるのね」
サラは手を伸ばし、葉を摘まむ。簡単に葉は取れた。
「違う木にしようかしら?」
森の中。しかし、地面ではない。木の上。
「これじゃあ、エニシたちに見つかっちゃう」
クスクスと笑うと木が揺れた。カサリ、カサリと葉が落ちる。いつもなら木を変えるのだが、サラは動かない。
「お父様に、何と言おうかしら」
そう呟いてサラは目を閉じた。木の上で。
……
……
うっすらと目を開ける。開けても何も見えない。まだ闇の時間だ。木の上では熟睡はできない。サラは目が闇に慣れるまで待った。
森が風に揺れざわざわとささやく。心地よいささやきにサラは、もう一度目を閉じそうになる。
ーーカサカサーー
風の奏でる音でないもの。サラは瞬時に覚醒した。
ーーカサカサーー
『誰かしら? こんな真夜中に森を行くなんて』
気配が次第に近づく。そのままやり過ごしたい。サラは微動だにしない。
『この木を選んだのは失敗ね』
思わず小さく息がもれる。呼応するように葉がヒラヒラ落ちた。
「惑いの森」
その者はそう呟いた。サラの耳がとらえる。体が小さく揺れまた葉が落ちた。
「惑いの森ならば、惑わされていたか」
その者は思い出したかのように、フッと笑った。サラは思わず口に手をあてる。その声に聞きおぼえがある。サラの小さな動作がまたも葉を落とす。
「ずいぶん惑わしてくれるな、この木は」
その者は、馬から降りるとサラが休む木に背を預けて座った。その者、デイルは大きく息を吐き出した。
「ハァァ……違う道であったのだろうか?」
サラはデイルの呟きを聞いている。
「追い付かないとは、なんとすばしっこい姫だな。……何と言おうか? いや、待てよ」
デイルの独り言は、サラにとってはよくわからないものだった。
「いやいや、そんな恥ずかしいことは出来ない。……フェラール殿は、すごいな。こっぱずかしいセリフなど俺にはできん」
デイルはそこで思い出す。
「そういえば、キールは言っていたな。俺は衝動で動くから、奪い去るだったか」
デイルはゆっくり目を閉じた。意識が深く落ちていく。
『少し眠ろう』
薄れる意識をデイルは受け入れた。
サラはデイルの眠りを確認する。息を潜めていたためか、胸が苦しく感じられ、サラは息をゆっくりゆっくり気づかれぬように吐いた。
「ァァ……」
『びっくりした』
ーーカサリーー
葉が落ちる。サラは口に手をあてる。言葉が出ていただろうか? デイルが眠っているのを確認してサラは安堵した。
『……今のうち行かなきゃ。ばれちゃうわ』
そこでサラはふと疑問が生じる。
『あれ? ばれてはいけないのかしら?』
小首を傾げた。また葉が落ちる。サラは疑問を心の中にしまい、時を待つ。風にあわせ、音にあわせて隣の木に移動した。チラッとデイルを見る。まだ深く眠っている。
『デイル様、さようなら』
サラはデイルがサラを追っているとは思っていない。だからそう呟きを送った。
『もう一度会えて良かったわ』
木から木へと移動する。サラはクツナへとまた進み出した。大陸の端から端へ。人に見られずに進む。リザがそうしたように、サラも人目をさけ、関所をさけて林野を進む。
朝日が森を煌めかせた。
「この辺りよね」
サラは木のてっぺんから目を凝らした。
「あ! あれだわ」
サラの勢いが増す。この森はシェードとリザがひっそり住んでいた森である。その小屋にサラは向かった。数日を有するクツナ行きで、体を休める場が必要であった。何も持たぬ、身分証もないサラは関所も通れず、故に宿にも泊まれない。
「やっとゆっくり寝られるわ」
小屋の前でサラは両手を腰にあてた。
「失礼しちゃって入るわよ」
小屋でなく、北方に向けて大声で叫んだ。届くはずもないが、
「……いいのね」
答えを受けたようにサラはうんうんと頷いて、小屋に入った。シェードにもリザにも、エニシが許可をとっているだろう。
彼らの存在をエニシから聞いたとき、そう驚かなかった。フタバはユカリであった。そして、ネザリアに渡ったお子がアゲハである。二人見つかったと聞いたとき、ストンと心が落ちた。すんなり受け入れた。王とザラキが今、失った宝物をいだけるのは彼らのおかげである。
「さてとっ!」
サラは食事の用意をはじめた。一人分でなく数人分。エニシらもここに来るだろう。サラは、歌いながら料理をはじめた。姫だからと、何も出来ないのではクツナでは生きていけない。サラもイザナも野営ができるように仕込まれている。小国ゆえの事情ともいえる。いつなんどき、攻めいられても逃げられるように、領土全体が我が家であるように、姫でなくクツナを継いでいく者として。デイルが馬で追いかけても、すぐには追い付けないのも無理もない。
「うふふ」
サラはいたずらっ子のような顔で笑った。料理をしながらつまみ食いをし、サラはお腹がいっぱいになった。テーブルに並べた料理を確認しサラはベッドに倒れこんだ。
『一眠りできるはず』
一気に深く、眠りが襲った。
次話4/18(火)更新予定です。




