【33】過ぎ去った日々と来てしまう絶望(天野永梨、河東霙)
ひろが家にきて、そろそろ昼食の時間だ。コンコンとドアを2回ノックする音が聞こえて日向は「どうぞ」と言った。
「ひろちゃん、昼食どうする?良かったら家で食べない?」
永梨がひろを確認する前に喋った。もしトイレに行っていていなかったらどうする気だったのだろう、日向は口に出さずに思った。
「いいんですか?じゃあ――」
「いや、ひろと外へ食べに行く予定をしてるんだ」
ひろが返事をすべき問いかけなのに、日向が割って入った。ひろは「え、」と言い、永梨は「愛かな?」と言った。
「···取り敢えずひろと外食するから。···夕食も、外で」
日向が机の上に置かれた鞄を手に取り、ひろの手首を掴んで歩き始めた。
「え、あの」
ひろは困惑しながら、持ってきた鞄を掴んだ。そして、「あの、先輩のお母さま、」と少し大きめの声を出した。
「今日、泊まってもいいですか?」
ひろが永梨とすれ違い際に言うと、日向は「ぇ?」と気の抜けた声と同時に脚を止めた。「勿論!」永梨の返事が大層悦ばしいことなのか、ひろは軽く跳び跳ねた。
「···じゃあ、夕食は一緒に。ね?」
永梨が両手を合わせながら女子高生のような素振りを見せた。場の空気に負かされ、日向は渋々了承した。
「でも昼食はひろと食べに行く。ひろと話したいことだって···あるから」
急ぎ足でその場から逃げようとした日向に、永梨のにやけた顔は見えなかった。
数分後、日向はひろの手首を掴んだまま家の外に出た。
***
昼食だからと3人を一階に呼ぶと、速攻で食べ終わり、二階に戻って行った。
「···子供はいいね」
――まだ悲しみを経験していないから。今回、呪詛者になってしまった子供もまだみんな生きている。ただしそれも時間の問題だろう。
「呪詛者という、呪われた存在で生きる身体は好めなくなる」
かといって、自害できるわけではない。縄で首を絞めても、刃物を腹部に突き刺そうとも死ねることはない。死ぬほどの痛みを体感するだけだ。呪詛者から逃れるためには、ノロイアイで勝たなければならない。
「呪詛者は『神に包まれている』。同じ呪詛者以外からの刺激では死なない。勿論、寿命もない――」
なぜ、自分や市花が呪詛者に選ばれたのか疑問を抱いた。呪力を持った人間は、50人に1人だと聞いている。
すると、インターホンが鳴った。ドアホンで確認すると、霙が立っていた。その時、昨日会いに行こうと決めていた事を思い出した。
玄関で出迎える。
「『お姉ちゃん』。少し前に日向さんを見たんだけど···隣にいた人は誰ですか?」
「あー、あの子は日向の後輩のひろちゃんだよ」
「日向さんの後輩···ということは、私の先輩ですかね」
「霙ちゃんって、上下関係を気にするのね」
永梨が誉め言葉として言うと、霙は「『礼節』は基本ですから」と大きな顔で言った。
「···イーズランドで会った河東霙とは大違いね」
河東霙は、誰かに詫びる気持ちも、精神も特には持っていなかった。ただし、恩人や親しい人物には礼儀正しい振る舞いをしていた。河東霙曰く、大人は信じられない生き物――らしい。
「で、今回の用件は何?立ち話は歳のせいか疲れるから上がって」
永梨が言うと、霙は戸惑いながらも頷いた。特に気にしてはいなかったが、霙は白く透き通るように輝くヒールを履いていた。どうやら霙には足音がないらしい。重力がないのではなく、歩き方に華があるのかもしれない。
「···日向さんに謝りたくて来たんですけどね」
生憎、日向はひろと昼食を食べに行ってしまった――。というわけか。
「日向さん、怒っているのでしょうか」
永梨は霙の言葉を聞きながら、日向とひろのことを思い浮かべる。日向にとっての市花と、日向にとってのひろだ。
「あまり怒ってないと思うよ。――でも念のために直接訊いてみたら?」
「え、」と霙が言った。
「聞きたいですけど···怖いです」
ここに来る前に日向を見たと言っていたが、声はかけていないのだろう。見かけて隠れてしまったのだろうか。
リビングの『4つの椅子』の内、正面にお互いがくるように座った。市花、日向、永梨――そしてケルベリタの振り撒いた『絶望という名の希望』によって死んだ――あの人。
「そ、れ、は。霙ちゃん次第かな」
永梨が説得しようと、霙の顔は晴れなかった。霙の心を埋める何かが必要なのか。
悩んでいるのか、落ち込んでいるのか、霙が話さない限り分からない。永梨は当てずっぽう気味に「不安?」と尋ねた。
「···まぁ、そうですかね」
あっていてホッとした。ただ、顔には出さない。
「お姉ちゃんは日向さんのこと···どう思いますか?」
「どうって?」
永梨が訪ね返すと、霙は顔を曇らせながら、数秒間沈黙した。何を思ったのだろう、考えるよしもない。
「···日向さんの『市花さんへの想い』···」
霙の視線が、永梨と地面を行き来している。困惑の表情だろう。
「···日向は、」
言ってはいけないことというのは百も承知だ。それでも、不知火琳と浅野憂がいる限り――
「諦めなければならない」
永梨はそうとだけ言い、ドアを確認した。誰かに聞かれてしまわないように。琳や憂に聞かれていたら、2人は必ずどこかへ行ってしまう。それだけは避けないといけない。
「···そうですか」
霙は椅子に脚を乗せて、膝に顔を押し付けた。――泣いている。
どうして泣くの?と永梨は言えなかった。自分が泣いている理由など、霙自身分かっていないだろう。多すぎるから。
「日向は···日向も『被害者』なんだよ。ケルベリタさえ無ければ、みんな悲しまなくて済んだ」
第一回目のノロイアイの呪詛者ミシャル・カータレッドは、最期に泣きながら命乞いをしていた。自分が自分の親と、命の恩人を呪詛で殺したことなんてさっぱり忘れたかのようだった。そして、崖から落ちて――見つかった時には死んでいた。顔が潰れ、脚が前に曲がっていた。
「霙ちゃんも···生きていた。生きていたら···」
次の一言が浮かばない。これは『河東霙の人生』であって、永梨は『神』ではないから。霙の人生を想い描くことができない。
恐竜が今も生きているなら、何をしているだろう。手塚治虫がまだ生きているならば、世界に何を造っただろう。
――それが分からない、分からない者が『人間』で、分かる者が『神さま』だ。
「···神さまの悪戯は馬鹿馬鹿しいね」
永梨は椅子から立ち上がり、霙の頭を撫でた。柔らかい髪の毛、触りたいと思わさせる頬――気が付くと、永梨の目から涙が溢れ落ちていた。
***
ケルベリタ――希望の本拠地。昔は『希望の本拠地』そのものだった。
ある1人の女性さえいなければ、世界は崩壊しなかった。
「愛するあの人の為なら、私は世界を希望に染める。そして、幸せになる」――これは、ケルベリタを絶望に変えて、世界に希望を振り撒いた主犯『小泉』の最期の一言だ。




