Bustling Lonely
ジャックがキングと最後にチャットを交わしたのは一週間前である。あれきりキングのログインは確認できていない。どうやらキングの主人にとって、SAOの世界は本当に無意味なものと化してしまったらしい。しかしジャックの主人にとってそんなことは最早どうでもよかった。彼は既に現実のあれこれを虚無に返すほどの喧騒をSAO内で手にしていたのだ。
「ねえジャック、今日は私とダンジョンに行かない?」「出品中のアイテムが落札されました」「ギルドへ招待されました」「ジャック様、昨晩の決闘拝見しておりました。どうか私とパーティーを組んでもらえないでしょうか」「切り裂きジャック。今すぐ私と決闘しろ。昨晩のような試合をしよう」「出品中のアイテムが落札されました」「装備の強化が完了しました」「あ、ジャックだ~☆ ねえねえ、私とパーティー組もうよ~☆」
彼のチャットウインドウの更新は止まらない。
彼の一週間の動きは実に迅速だった。彼はあの日キングのログアウトを確認した後、すぐさまパソコンのディスプレイを埋め尽くすSAOのウィンドウをショートカットキーにより最小化させ、インターネットブラウザを開いた。
検索ワードは<チートツール SAO ダウンロード>。無料か有料かは問わなかった。その手のサイトを巡るのは不慣れだったため若干の緊張を覚えたが、彼の火照った頭の前では実に小さな障害だった。
簡単なチートツールではあったが、結果、日付が変わる前に彼はそれを無料で手に入れることに成功する。レベルアップのチートツールだった。ひとまず彼はそれだけ欲しかった。
「メイ様がログインしました」彼の瞳がチャットウインドウの中から一つの文字列を拾い上げる。
「お、居るね? 今日も手伝ってよ」その文字列はフレンドチャットを示す青色に輝いていた。
「いいですよ」少年は軽やかに返事をタイプし、柔らかく笑った。
チートツールを手に入れた次の日、彼は自らのアバターのレベルをチートにより四桁にまで乗せ、真っ先にレベルアップ商売に従事した。パーティーメンバーには他のメンバーの手に入れた経験値の100%が振り分けられる。パーティーを組んでモンスターを狩り、客のアバターのレベルアップの対価として、ゴールドを幾らか徴収するといった簡単な商売である。SAOがRMTに対応していることを知らないプレイヤーが殆どなのか、商売の回転率自体は実に爽快なものだった。メイはその商売の最初の客だった。
メイのレベルに適応した天界ステージでジャックは鮮やかに舞う。彼の両手には一対の短剣が握られており、それらに触れてなおそのデータをSAOの世界に残存させることの出来るモンスターは天界ステージには存在しなかった。
「相も変わらずすごい勢いだねぇ」メイは棒立ちのままチャットウインドウを更新させる。チャットサイトと勘違いしてるんじゃないのか? 少年はそんなことを思った。
「メイさんは闘わないんですか?」
「私が動いても効率的には変わらないじゃん。寧ろ変に動いてモンスターの座標弄っちゃったら、モンスターに君の技が届かなくなって逆に時間が掛かっちゃうよ」
彼女の言葉はもっともであり、少年は返す言葉が見つからなかった。彼の視線の先では彼女のタイプした青色の長文が煌々とその光を放っていた。
「それで? レベル上げの商売は儲かってるの?」彼女は続けて言葉を打ち込む。
「実は今そっちはメインにしてないんですよ」
「ふうん。じゃあ今のメインは?」
「IDを売ってるんです。それなりにレベルの高いアバターを添えて」
「へえ。売れるの?」
「客は無数に居ます。売れますよ」
「成果は?」
「五日間動きましたが、一日につき九千円です」
彼は一日につき三人にIDを売っていた。価格は三千円。彼はIDとパスワードの書いた紙を交換に供し、相手は現金を交換に供する。場所、時間の設定はダイレクトチャットを使った。取引にはフード付きのパーカーとマスクといった出で立ちで現れた。
馬鹿馬鹿しい商売だと彼自身も思った。しかし客はつく。客層は主に中学生くらいで、皆何を言っているかわからない程声が小さかった。仮想世界で生きることを望む人間には相応の価格設定なのかもしれない。取引の後、決まって彼はそんなことを考えた。
「てことは月収27万ってわけだ……」
「月収って……」
「ねえ、付き合わない?」
「は?」ジャックの剣舞が止まる。彼は己の目を疑うが、青く光るその文字は微動だにしなかった。
「住んでる街。隣だったじゃん。試しにさ」
「何言ってるんですか。言ったでしょう。僕は高校生ですよ」
「好きだよ歳下。私一人暮らしだし」
目の前で起こる現実味のないやり取りに、少年の脳味噌は弱い眩暈を引き起こす。
「歳上は嫌い?」彼女は続ける。
少年は文字列の入力と消去を繰り返す。この付き合い方はおかしい。その旨を何とかオブラートに包んで伝えたかった。しかし結局文章は定まらなかった。
「真面目なんだね」彼女の的外れなチャットが入力される。こんな悪徳商法をしている人間が真面目であって堪るものか、と彼は思った。しかし彼の両手はキーボードの上空を浮遊し続ける。何もかもが定まらなかった。
「いいや、忘れて。もう落ちるね。ごめん」彼女はそう言うと、すぐさまSAOからログアウトする。
心を許していた人間が、また一人彼の前から消えてしまった。
フレンドアバターのログアウトに際し、チャットウインドウが自動でノーマルに切り替わる。
アイテムの落札情報。ギルドへの招待。パーティーへの勧誘。決闘の申請。それらが次々と彼の視界の上を滑り出す。
何秒間茫然としていたか彼には分からなかった。
しかし彼は動かなければならなかった。その夜彼は決闘場に潜り、素性の知れないアバター達を次々に殺していった。