未だ宙に浮いたまま
私がB棟校舎の裏に回ると、そこに逆さまになったクラスメイトの大野がいた。日の当たらない、校舎に窓もないこのB棟の裏庭はこの高校の完全な死角だ。雑草の生い茂った地面から30cmくらい離れたところにある頭が、私を見つけて「やぁ」と嬉しそうに声をかけた。逆立ち状態の大野に、私はいつでも逃げ帰れるように警戒しながらじりじりと近づいた。
「あんた何やってんの?」
「所謂飛び降り自殺ってやつだね。今走馬灯を見ているところなんだ」
走馬灯。人は死ぬ瞬間になると、時間が何倍にも引き伸ばされ、一瞬でそれまでの長い人生を振り返ることができるという。大野は3日前に高さ5mはあるB棟の屋上から飛び降りたらしかった。そして地面に体が激突するまさにその瞬間、大野の体付近の空間は時が何倍にも引き伸ばされ、彼はゆっくりゆっくりと地面に向かっているのだった。いわば物理的な走馬灯状態とでもいうのだろうか。事態の意味不明さにとりあえず私は呆れた。
「なんで、自殺なんかするのよ。とりあえず修学旅行の班決めしなくちゃいけないから、さっさと降りてクラスに戻りなさい」
「それはできない。この状態になったら、走馬灯と同じなんだ。今更死にたくないと願っても、その瞬間僕は地面に叩きつけられているだろう」
「それは良かったわね」
「ちっとも良くないよ。人の話聞いてたか?」
むっとした表情を逆さまに見せる大野を無視して、私はスカートの中を覗かれない位置まで近づいた。まるで逆立ちをしているかのように、ぶらぶらと両足を空に伸ばすその姿は滑稽としか言い様がなかった。
「俺…俺ずっと考えてたんだ。もしこの走馬灯中に誰かが僕の下に来てくれたなら…そしてそれができれば女の子だったなら…それはきっと天使に違いないって」
「なんて哀れな…三日も宙ぶらりんにされて、頭がおかしくなったのね」
「なぁ聞いてくれよ…どうせ俺死ぬんだし。俺が死んだら、ここに花を植えてくれないか。そして俺が成仏できるように、時間があるときでいいからお参りにきて欲しいんだよ」
俺が死んでも家族や親戚しか悲しまないなんて、なんか寂しいだろ? かと言って俺には友人もいなかったしさ…ここで会ったのも何かの縁だと思って。そう言って大野は顔の前で両手を合わせて拝んで見せた。私はこの状況でこいつの顔面を蹴ったら物理法則はどうなるのだろう、という知的好奇心に駆られたが、クラスの模範生らしく辛うじて踏みとどまった。とりあえず大野は余った班にぶち込んで置くとしよう。だが馬鹿なクラスメイトが説明不可の謎の走馬灯を見ているのを、学級委員としてこのまま見過ごすわけにもいかない。全く死ぬ間際になってもトラブルを呼び込む奴だ。新たに発生した問題に頭を抱えながら、私は重たい気分のまま家路についた。
翌日、すっかり大野のことを忘れていた私だったが、何かあるといけないので一応B棟の裏を覗いてみた。もう既に何かあった後の大野の頭は、15cmくらいの高さに浮いていた。やはり自殺の恐怖に駆られているのだろうか、彼の顔は若干疲れているように見える。「やぁ」こちらに気づいた大野が、苦しそうな笑顔で私に手を振った。
「また来てくれたんだ。そう思ってたよ。実は昨日」
「大野くん、君C班に決まったから」
「…メンバー誰?」
「高橋さんでしょ。あと有原くんに…」
「ダメだ。とても仲良くできそうにもない…。死にたい」
「何言ってんのよ。生きてればきっと仲良くなれる日がくるわよ。生きてれば」
たわいない話をしながら、私は彼の頭がゆっくりゆっくりと地面に近づいていくのを紙パックの牛乳を飲みながらのんびり見守った。この調子なら、明日には地面についているだろう。
「大野くん、自殺をやめる気はないの?」
一応、儀礼的に聞いてみる。大野は何故か得意げな逆さ顔になって、「走馬灯はどうのこうの」と説明していたが、私は特に聞いていなかった。どちらにせよ助けることは無理なのだろう。諦めて私は教室に戻った。明日の掃除はちょっと、大変かも知れない。
それから3週間後、修学旅行を無事終え、学生たちが日常を取り戻しつつある頃、私は思い出したようにB棟の裏を覗いてみた。地面が若干掘り返されたような痕がある。周りは立ち入り禁止のテープが貼られていた。きっと大野は無事地面に着地できたのだろう。念のため私はその場でしゃがんで黙想をした。
「遅かったじゃないか!」
頭上から突然声をかけられ、驚いた私が目を開くと、高さ40cmくらいの所に大野がふわふわと浮いていた。今度は、ちゃんと私と同じ方向に立っている。逆さまではなくなった大野は、霊体みたいなものになってそこに存在していた。
「…今度は何馬灯を見てるの?」
「もう見終わったんだよ! 僕は行くよ」
そう言って彼は空を指差した。天国にでも行くつもりなのだろうか。走馬灯を見終わっても、相変わらず夢見がちな彼に私は尋ねた。
「それで、走馬灯が見れて、満足だった? 悔いなく成仏できそう?」
「どうだろう…だけどおかげで、君に出会えたよ。 ところで君はいつ見終わるの?」
不思議そうな顔で、大野は地面から数センチ浮いている私の足元を見た。
「わからないわ。何だかんだで修学旅行にも行けてしまったし…まだ私は、この走馬灯の中で出会うべき人と出会ってないのかもしれない」
「そう…出会えるといいね、その人に」
「ありがとう」
「それじゃ」
そう言って大野は空へと消えていった。静けさを取り戻した校舎裏に、冷たい風が吹き込んで私の髪を揺らした。私は大野の体が粉々に砕かれたであろう箇所に、お土産で買ってきた花を植えてやった。
帰り道、沈んでいく夕日に照らされながら、私は物思いに耽った。
私が地面に降りるまで、後どれだけの時間が残されているだろうか。
走馬灯。永遠にも似たほんの一瞬の時間の中で、私の未来は未だ宙に浮いたままだ。