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人は物語に何を求めるのか?

作者: 亜李簾

 まず始めに、今から書く事柄は全て私の主観的要素が含まれており、真に自分勝手な事柄を記述していく物としてご了承願いたい。




 人が小説や童話、漫画やアニメーション、はたまたドラマに至るまで様々な「物語」を見聞きし楽しむのにはある一貫する理由があると私は考える。それでは、私の主観的心理学を上記の物と関連付けて噛み砕きながら記述そして説明していくことにしましょう。

 いきなり結論から言うと、人々が物語に求めているのは「非現実」である。薄々のご理解はいただけると思うが、まだ意味不明だと感じる方も多いことだろう。では、これから幾つかの例を採り上げて説明したいと思う。

 まずは小説を例に採り上げてみよう。「伝奇」「推理」「文学」等、多種多様なジャンルを持つ小説という分野。そこに求めるのは紛れも無い非日常であり、ファンタジーなのだ。異なる世界、人ならざる者、強大で非現実的力……それらのものと親密に関係し尚、常の感覚も持ち合わせいるという主人公に感情移入し、身近にそれらを感じるという錯覚を起こす伝奇小説。暗号、不可解な謎、密室殺人等……主に「殺人」が主体となり繰り広げられるミステリーは、人間の認知している中で最大の禁忌を道徳心から怒りへと変え推理へとつなげる推理小説のセオリー。人間の持っている当たり前の感情を作者の作った状況下に置いて心の表層部へと思い起こさせ、ある人は感傷に耽り、またある人は恋心を思い出し、人間というものを理解していく一番心理学等の科学的分野に近い位置取りにある文学小説。その殆どの小説が他人の想像上の空間にてストーリーが進行しているのを忘れてはいけない。故にそれらのストーリーの一番誇張してある部分、音楽で言うところの"サビ"と全く同じ状況を身をもって体験することなどない。似通った状況は多々あるかもしれないが、全くの同一ではない。それは断言できる。なので、他人の作ったストーリーを読みある時は登場人物に共感し、またある時は第三者の目線から登場人物を応援する……所詮、読み手は書き手の手の内で踊らされているようなものだろう。


 ――現実では起こりえないことを非現実と定義付けするならば、人生は一期一会。全く同じ瞬間はそうそう無いものである――


 伝奇、推理に置いてでは非現実とそれらの関係をご理解いただけると思う。まさか目の前に宇宙人がいるわけでもなければ、特別な状況を除いては死人と対峙する機会があるわけでもない。が、では文学作品はどうなんだ? という疑問が当然、浮上してくるだろう。例えて、夏目漱石作の「我輩は猫である」等は非日常そのままであろう。まさか、普段生活していて猫になることは――絶対に――無い。なのでその小説の斬新なアイデアは今も人気なのだろう。では2004年芥川賞受賞作品、綿矢りさ作の「蹴りたい背中」等はどうだろう? 一瞥して、そんなに非現実とは言い切れない……いや、言えない作品だと思うだろう。しかし、この様な小説は読み手の状況によって受け取り方が違ってくる。読者の状況のパターンを次のようにしたとしたら、

一、その小説の本題とは関係の無い立場にある人

 これは例えばその小説の本題、主題が「虐め」だとしたら、傍観者に当たる立場の人のことを指す。この人たちにとってその物語は、自分に関係の無いものであり、遭うことの無い「非日常」のストーリーにすぎない。よって、非日常を感じる為の娯楽にすぎない。

二、その小説の本題に関係があり、第二者に当たる存在の人

 例えば、「虐め」を本題、主題とするところの虐める側に当たる立場の人のことを指す。この人たちにとってその物語は自分に降り掛からないものであり、自身が遭うことの無い「非日常」のストーリーである。"一"とどこが違うのかという点では、その人にとってこの様な小説は道徳的読み物であるといった点だろう。真逆の立場から普段よくあるような情景を登場人物の心情と共に追い、自分と重ねることによって初めて今の自分の立場を気付く事ができるといったものだろう。

三、その小説の本題に一番近く、物語の目線にあるといった立場の人

 そのままの立場、同じく「虐め」を主、本題とするなら虐められる側の立場の人だ。この立場の人にとっては、このジャンルの小説は大きな意味を持つと私は考える。その人にとってこういった小説の主人公は己の化身であり、その小説は「参考書」となる。苦の道を歩んでいる人にとってこういった物は参考……飛躍して解釈すれば、生きる糧ともなるわけである。

 一人の少年がいたとし、その少年は同級生からの虐めに日々耐えている。そんな時、虐めを題材とした小説を偶然か必然か読んだとしたら。その内容が自分の現在の状況と酷似していたとしたら? 私自身の経験からも言わせていただきますと、その文面から少年が感じ取る思い――あるいは気持ちと言い換えてもらっても構わないでしょう――は恐らく「希望」であり「自信」というもの。そのストーリーのエンドに希望を見つけ、内用に自信を見出す……私がかつてそうだった様に、そんなものなのであろう。

 よって、この視点から見るにこういった小説は「参考書」に他ならぬものだ。以上から、こういった文学小説も非日常、非現実に当てはめることができる。

 次に、漫画について少し話をしようと思う。

 漫画と小説等との違いは明白で、単に絵があるのと無いのの違いだろう。他にも例として会話文が多いといった様な違いもあるが、今回は前者のみに集中して話を進めていこうと思う。絵があるということは、登場人物の容姿や心情の変化を文字を使わずに表現することが可能である。顔の微々たる変化、場所と状況を感じて、今はどんな場面か? を読み取るという能力を育てることが出来るのではないかと私は考える。しかし、想像力、文章力を養うことは難しいだろう。……と、これは余談として。

 ズバリ言うと、前者――この場合は小説による定義――と殆ど同じなのである。日常茶飯事の出来事をつらつらと描き連ねて行くよりも、多かれ少なかれ変化のある出来事を描く方が売れるからである。少なくとも私だったら、日常を書き連ねただけで面白みの欠片も無い漫画、小説等は読みたくない。よって、その様な物語は数えるほどしかないのだ。

 この定義は万能でこそないが、殆どの「物語」のあるものに使えると思う。当て嵌めてみれば簡単なことだ。私は、人間という生き物を次の様に考えている。


「人間とは、夢を見る動物であり、叶えようと努力する動物である」


 どこかの請け売りになるかもしれない。が、言いたい。

 エジソンは不可能とも思える事に挑戦し、幾度となく失敗を繰り返してきた。それでも唯只管に努力して、実現させた。「天才は99%の努力と1%の才能からなる」とは有名な言葉だが、そもそも彼の様に何度も諦めず挑戦し続ける事こそが「才能」だろう。

 ライト兄弟は空を飛ぶという夢を追いかけ続けた。神話の中に「太陽に近付き過ぎた英雄は、其の蝋の翼を溶かされ地に堕ちた」というのがあったが、彼らは不可能は無いと信じて空を求め続けた。結果、現在の飛行機の基となった物が形づくられたのだ。

 漫画家、小説家という者等は彼等偉人とレベルこそ違えど、人類の夢を一番に理解し、貢献するという意味では同じではないだろうか。夢は良いものばかりではない。が、物語の中に非日常、非現実を求める人達にとっての刺激となるのは間違いないだろう。科学が進歩してきた現在、何が可能で何が不可能なのかは、かなりはっきりと区別がつくようになった。故に人は、ありとあらゆるストーリーの中で自分好みの「不可能」を探すのである。

 これから未来、今よりも尚科学が進歩した世界で、「物語」の需要は更に増すだろう。そんな中、現実とストーリー上の出来事の区別がつかなくなるような事はあってはいけない。

 今私たちに求められるのは、仮想と現実の区別をつけるラインであり、そのラインを引く自制心であると私は考えている。それを忘れないように……忘れない為に、人は本を読みそしてボーダラインを決めるのだ。

書いているうちに、自分でも「何だか支離滅裂な事になってきたな〜(苦笑)」と思う羽目になりました。

初めて書いたジャンルなので、至らぬ点は多過ぎるくらいでしょう……。

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― 新着の感想 ―
[一言] 小説というより論文。 ちなみに飛行機の開発はライト兄弟よりも実は数年早く 日本人の方が達成していることが、アメリカでも認められて そのことが新聞記事にもなっていることをお忘れなく。
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