身分違いの恋
「――ごめん。君と僕とじゃ、何もかもが違いすぎる」
そうなのか、ととても悲しくなるものの一方では、そうなのかも、と秋子は考えて「そうですか」と小さく応えた。
しかしここで泣いては彼が困るはずだと無理して顔を上げる。
「お時間を作ってくださり、ありがとうございました。先輩」
きちんとお礼を言ったものの、失礼しますと急いで言って、秋子はその場から逃げだした。
染めない髪、生徒手帳にある規定通りの制服。今時の女子高生としては華やかさに欠ける自分が高校に入って恋をした。
相手は学校一目立つ容姿の生徒会長。
クオーターであるという血筋の通りに遺伝した髪は淡い茶色。その瞳は吸いこまれそうなほど深いグレイ。日になかなか焼けない白い肌のため、スポーツマンには見えないが幼い頃から剣道を嗜んでいるという。腕前は全国大会常連の我が校の剣道部が熱烈ラブコールを送るほど。ここまでくれば成績も優秀で、生徒どころか教師からの信頼も篤かった。
――おわかりだろう。完全な身分違いの恋だ。
古典的ではあるが精一杯の勇気を出して手紙を渡した秋子だったがあまり期待はしていなかった。一時間は待つつもりだった放課後の校舎裏に時間通りに来てくれたのだから、彼は優しい人だ。
あの時のように。
彼を好きになったのは、ごくごく他愛もない出来事だった。
あれもこれもと担任に頼まれて、一人で大量の本を返しに図書室へ行った秋子を彼は手伝ってくれたのだ。
何の気負いも下心もなく「手伝おうか」と。
ひょいと秋子からほとんどの本を取り上げて、にっこりと微笑んでくれた。
「一人じゃ無理だから本を戻してくれる?」
目立つ容姿だから当時から知っていた彼の人懐こい様子に、秋子はすっかり打ち解けた。本を一冊ずつ棚に戻しながら、他愛もないことを話した。
面白かった本の話、映画の話、彼は話題が豊富だった。
あっという間に本を返し終え「それじゃあね」と彼が去っていく頃には秋子はその背中にときめきを覚えていたものだ。
それからもあっという間。
時折見かける姿にドキドキし、遠くから見るだけの秋子の恋は育っていく。
何せ地味な秋子とは世界の違う人だ。話しかけることなど出来なかった。
遠くから見つめているだけでいいと思っていたが、やがて三年になった彼は卒業していくことに気がついた。
ならばせめてと手紙を書いた秋子の呼び出しに、彼は応じてくれたのだ。
(十分だわ)
彼はなんと秋子を覚えていてくれた。図書室で会ったね、と緊張していた秋子に微笑んでくれ、つたない秋子の話を最後まで聞いてくれた。
好きです、と。
ほとんど勢いで言ったその言葉にだけは、とても困った顔をしていたけれど。
(ありがとう、先輩)
涙を目にいっぱい溜めながら、秋子は振り返ることなく走った。
――それから十年。
(な、なんでどうして!)
就職氷河期に耐え、やっと入った会社でしごかれ一年目。
秋子もやっと社会人らしくなったと親にも友達にも言われ始めたのだが、
「星島拓斗と言います。今日からよろしくお願いします」
新しくやってきた上司は、いつかの彼だった。
秋子とそう変わらない年齢のくせにすでに課長という地位につき、他の追随を許していない彼、星島はあっという間にかつての学生時代と変わらず、花々しい活躍をした。
そして狙い澄ましたかのように秋子の直属の上司となり、
「――今度、独立するんだよね。ついてきてくれる?」
台風のように秋子をやっと入った会社から連れ去った。
それから、
「社長!」
会社の立ちあげからあれよあれよと手伝わされた秋子は恐れ多いことに今や星島の片腕とされている。
「仕事のし過ぎです! ちょっとはお休みになってください!」
書類と機器の間で黙々と仕事をする星島に怒鳴ることが日課となってしまった。
放っておくと眠りもせず食べもしないで働いているのだ。この朴念仁は。
高校時代は声をかけることさえできなかった憧れの先輩の、こんなずぼらな一面は見たくは無かった。
秋子の金切り声にようやく書類から顔を上げた星島は、少し乱れた前髪をくしゃりと掻きあげて心外だとばかり片眉を上げる。そんな馬鹿にした様子もさまになるのだからいただけない。
「休んだよ。ほら、一度家に帰って身支度を整えてきた」
コーヒーも飲んだよ、と言う彼の姿は確かに身綺麗だ。三つ揃いのスーツに整えられた髪、靴だって綺麗なもので、これからいつでも客を迎えることもこちらから出向くことも出来るだろう。
しかしそういうことを言っているのではない。
「今日で何日連続で働いていると思ってるんですか!」
この会社は小さいながらも週五日制、二日休が厳密に守られている。それは社長の星島が一番初めから掲げたからだ。二日は必ず休むこと、盆暮れも必ず休暇をとること。質の良い仕事をする第一条件だと自ら社員に言って聞かせたのだ。そのためどんなに忙しい時期でも社長は社員の残業や休日出勤を許さない。――社長である自分以外は。
秋子が睨んでいる間に星島はデスクの傍らにあるカレンダーで日にちを確認し、
「休んだよ」
「……いつですか」
「今月の二日」
「一日だけじゃないですか!」
しかもその日は星島がスーツを仕立てに採寸に行くということで、彼が渋るのを秋子が無理矢理取らせた唯一の休みだ。
「あなたが休まなければ社員が休めないんです! あなたが掲げたことなら、自ら実行してください!」
秋子の叫びに社長室と社員のデスクが簡単に仕切られたパーテーションの裏から苦笑する社員たちの声が聞こえる。
しかし当の本人はどこ吹く風。
「なら君も休むべきだな」
「何を…」
「園城寺秋子くん。君は今月いったい何日休んだ?」
今度は秋子が応えに詰まる番だった。
――だって仕方ないじゃない!
今日も誰も居なくなったフロアでぱちぱちと一人パソコンと向かい合いながら秋子は毒づいていた。
星島の仕事は元々膨大だ。それに加えて彼はどこからか仕事を見つけ出してまで増やすので、自然、隣で仕事をする秋子の仕事も増えるのだ。
星島はその優秀さで多くの仕事をこなすが、秋子は所詮努力の人だ。天才ではないので、ちまちまと仕事をしなければならない。
(……今日も幾ら家に持って帰らなくちゃいけないのかしら)
しかし何処か充実しているのは星島のお陰だろう。
親の反対を押し切ってまで彼について行ったのだ。結果を出せるのは良いことだった。
(でもちょっと頑張り過ぎ?)
星島に尋ねられるまで自分の休暇の日数など数えたこともなかったのだ。
(少し休もうかしら)
それには星島がまず休んでくれることが第一なのだが。
そう再び仕事をしようとパソコンに向き合った秋子の隣でこつんと何かが置かれた。どうして今まで気がつかなかったのか。香ばしいコーヒーがカップから湯気を立てている。
いつも秋子が自分で淹れているコーヒーだ。
「少し休んだら」
「……社長」
今日こそは定時で帰ってもらうと無理矢理追い出したはずの本人が秋子の隣にある椅子を引っ張ってきて居座っているではないか。
どうやらコーヒーを淹れてくれたのも彼らしい。
「上役は休まないと部下に示しがつかないんじゃなかったっけ?」
そんな意地の悪い言い方はしていない。
だが、社長の星島が帰ってその秘書の秋子が居残りしているのでは矛盾している。
指摘されて押し黙った秋子を横目に、星島は自分にも淹れてきたらしいコーヒーを飲んだ。
「君にそんなに頑張ってもらっては困るよ。サボってくれて構わないのに」
「そういうわけにはいきません」
即答した秋子に「真面目だなぁ」と苦笑する星島は何処か楽しげだ。
その様子を眺めていると、いつかの学生時代を思い出す。彼はいつも人の中心で、誰かを支配するのではなく楽しませることに心を砕いていたように思う。
社会に出ると確かに競争が付きまとうが、彼はそれさえ楽しんでいるようにも思えた。
(敵わないなぁ)
初恋の相手にはいつまでも勝てないのかもしれない。
そう自嘲していると、ふと星島がじっとこちらを見ていることに気がついた。
「……何か?」
秋子が首を傾げると、星島ははーっと大きく溜息をついて、
「やっぱり敵わないのかな」
呟いたのは秋子と同じこと。
どういうことだか分からず星島を見つめると彼は彼女と同じように自嘲気味に笑った。
「園城寺秋子さん」
「はい」
改まって呼ばれると背筋が伸びる気がして秋子は姿勢を正した。
星島の方も姿勢を正すと、
「僕は君に相応しい男になっただろうか」
真面目な顔でそんなことを言う。
ますます意図が分からず秋子の困惑を他所に、星島は続ける。
「――僕の家は、普通の家庭とは言い難い。親父はギャンブル好きで借金だらけだったし、母親は男を作っては放蕩三昧。年の離れた妹を抱えて、僕は学生の頃から自活をしなければならなかった」
それに比べて、と星島は秋子を見遣る。
「君は世界に名だたる園城寺グループのお嬢様だ。あの名門高校でだって一、二を争う家柄だっただろう?」
確かに秋子の実家は資産家だ。名前を聞けば誰でも知っているような。
けれど、
「それは私の実家の話であって、私の物ではありません」
秋子がその思いを強くしたのは、星島に出会ったからだった。
彼は何でも持っていた。容姿は生まれついての物だったかもしれないが、他の物は全て彼が勝ち取ってきたものだ。
それに比べて秋子は自分では何も持てないただのお嬢様。
「――君の告白を、僕は受け止めることができなかった」
だから、秋子の告白は断られるだろうと、当然の結果だと思っていた。
この経験を経て、今の秋子があると言ってもいい。
自分で何かを得、自分で自分を築くということを願った。
「……図書室で会ったこと、覚えてる?」
告白の時、覚えていてくれて嬉しかったのだ。
秋子が微笑みながら頷くと、星島も嬉しそうにはにかんだ。
「僕は、あの図書室で会った君のことが、忘れられなかった」
微笑みが苦笑に変わり、星島は秋子を見つめる。
「君の家柄のことを知ったのはずっと後のことだよ。あの時は全然知らなくて、ただ優しい声で話してくれた君のことをずっと見てた」
目が合えば追い、そうして秋子も好きになったのだ。
「でも、告白された時には君のことも知っていて…、僕には勇気がなかった」
だから、と星島はすっかり大人になった瞳で秋子を映す。
「今の僕があるんだよ。――僕は、君に相応しい男になったかな?」
真っ赤になった秋子が星島の腕に囚われたのは、このあとすぐのこと。