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太郎

作者: 幾多 新太

太郎は落胆した。それはもうこの世の終わりとでもいうかのように、頭を抱えてうずくまり、おいおいとむせび泣いた事であろう。

仲間や家族。または、毎朝漁に行く前に通り掛かり、帰りにはちょいと立ち寄って今日の潮は云々などとなんともない事を話してきた茶屋の婆さんや、寝る前に一杯ひっかける酒を少ない稼ぎながら、これがこの世の楽しみよ、とでも言わんと足繁く通った酒屋の親父や、はたまた、高嶺の花とは思いつつも、その姿を一目見たいがためにわざわざ用も無いのに、この館は珍妙だなぁ、なんて独り言ちながらうろつき、あ!どこにやったか!などと先ほど通りすぎた門に立ち返り、ないなぁ、あるはずなんだがなぁ、と右往左往の立ち振る舞い。ただその館の娘の姿を一目見たいがための阿呆の行いなのであるが、さて、その娘ももうこの世には居ないと言うではないか。


自己を知る者の居ない世界などというものは、意外に沢山あるようにも思われる。今握りしめている携帯電話を解約し、家も引き払ってしまってから、飛行機にでも乗ってどこかの国へ行ってみると、どうだろう。そこはもはや誰もあなたを知る者がいない世界になってしまうだろう。だがしかし、ここで我々の住む時代と太郎が住む時代とを簡単に比べてしまうのは危険である。というよりも、私は太郎に同情的なのだ。意図して得る孤独と、不意に訪れる孤独とを比べるのは、それはあまりにも太郎が可哀想でならない。


話を戻そう。この時の太郎の悲哀は我々には分からないものかもしれないが、太郎は悲しんだ。三日三晩は泣き続け、気分が悪くなり、嗚咽から吐き気を感じて腹から全て吐き出そうにも、三日三晩飲まず食わずの太郎の胃袋には何も無く、吐く事叶わず、いっそこのままこの砂浜の一部と化してしまおう、良い考えだ、誰も私を知らないのだからこの砂浜で骨となり、雨風にさらされて、終いには何も無くなってしまえばいい、そうすれば悲しい事など忘れてしまえる。太郎は砂浜に仰向けになったまま眠った。


ふと瞼に光を感じた。浄土の遣いは眩い程の光を背負い、空から地上へ降りてくるという。どうやら眠る間になんとか私もあの砂浜の一部となり、遣いのお方が私のもとへやって来てくれたようだ。太郎は安心しきって薄目に開くと、ぼやけた視界に古びた電球が見えた。ぼんやりした景色が鮮明になってくると、側で無遠慮に太郎を見下ろす人の姿が確認できた。どうやら砂浜の一部になるという太郎の儚い希望は、無残にも打ち捨てられたようである。

「生きているのか。」その佇まい同様、無遠慮なその一言に「ああ。」とだけ応えた。しかし太郎にとってはもう一度死んだも同然な気持ちであったし、死に損なった自分と、その自分に、生きているのか、と問うこの無遠慮な人物の対比が妙に可笑しく思えて、少しだけ笑いが漏れた。


共に暮らしてみると、意外にも良き人物であった。住居もなんとも居心地の良い所だった。「一人で建てた。」と言ってはいたが、その細腕一本でどうやって運んできたのかと疑わずにはいられないような丸太を真ん中に据えた小屋で、潮風にやられないように釘等は使わず、毎日朝起きてからせっせと掃除を始める姿はいじらしくすらあった。十日過ぎた頃から、太郎も流石に厄介になっているだけでは心苦しく思ったようで、どれ、一度死んだ身でも貝の五六個は取れるであろう、とぶらり浜へ出掛けてみた。


久しぶりに訪れた砂浜には亀が居た。事もあろうに、その辺りに住まう悪童どもに木で突かれ小石をぶつけられながらも、必死の反抗とでも言うかのようにその硬い殻に閉じこもり、じっとしたまま微動だにしていない。手向かいの出来ないものに集団で当たるなど、全くもって正道の欠片も無い行為である。


その時の太郎の心境は、我々には到底理解出来ない代物であろう。一般的な道徳心を持った青年ならば、古今を問わず、このような現場に遭遇したならば迷いなく悪童どもを蹴散らして亀を救うものであるし、そうであってもらいたいとの希望すら感じてしまうのは当たり前の感覚ではなかろうか。勿論我らが太郎殿は、我々の期待を裏切らずに悪童どもを追っ払い亀を救ってやったのだが、問題はこれが二度目、だという事なのだ。

前述した太郎の周囲の者達の消失の原因となったと言っても過言ではない、あの誰しも知る物語の入口となる場面。太郎は恐怖した事だろう。いや、恐怖などという大まかなカテゴリィに無理矢理押し込めるなど無粋に他ならない。あの三日三晩の悲しみもある、浄土の遣いと勘違いした人物との二人だけの平穏な日々もある、しかし何より、あの海の底で暮らした極楽の記憶は必ず呼び戻されるに違いない。

ここで太郎の心情を一つ残らず想像してみた処で、結局それは想像でしかないのだから、やはり私に出来る事はこの物語を進める事しかないのであろう。


瞳孔が開き、額には玉の汗が浮かび、自身の身体を支えるにはその両膝では心許なく、自分で助けた亀のはずなのに、それがまるで自身に災いをもたらす鬼の化身かのように感じられ、それでもやはり懐かしき情を心の隅に気付きながら、やっとの思いでその亀に触れてみた。ぬっと伸びてきたその顔は、やはりあの日のあの亀の顔であった。

「久しいですね。」そう言う亀の顔は、懐かしさからか、多分笑っていたのであろう。

「久しいね。」太郎も笑って返そうとしたのであるが、上手くいかなかったかもしれない。

「私と共に戻りませんか。」

「海の底に、かい?」

「ええ。」

太郎は悪くない、と思ったに違いない。またあの極楽の日々が送れるのであれば、それはそれで楽しい事に思えたし、何よりあの極楽にいる限りは、もう別れの心配は無いのだから。ふっと、ほんの一瞬あの人の姿が脳裏をかすめた。「行くな。」ゆっくり振向く太郎の心は、親に悪戯がばれてしまった時の子供のそれと大差なかったであろう。振向いたそこには、浜に打ち上げられた海藻を放り込んだ籠を肩に担ぎ、相変わらず無遠慮な態度で太郎を見下ろすあの人が居た。


幾月が過ぎた。相変わらず平穏な日々であった。しかし、終わりは突然だった。あの箱を開けてしまった。開けたのは太郎ではなかった。あの人はただ、美しい色の石や珍しい形の貝殻や、二人で集めた宝物をきちんと仕舞っておきたかっただけだった。太郎は箱の事など遠に忘れていたのだ。かつて太郎が砂浜で絶望の淵に望んだ姿がそこにあった。白い塊は触れるとぽろぽろ崩れてしまい、持ち上げる事すら叶わなかった。


私は思うのだ。竜宮城から地上へと帰った太郎が、果たして玉手箱を開けるであろうか。確かに一つの希望として、決死の思いで開ける。 または、もはや白痴になってしまい、何となしに開ける。開けるかもしれない。しかし、開けようが開けまいが、太郎の消息が現代に伝わっていない以上、そこに希望は見出せない。それでも私は、ほんの数日の間だけでも良いから太郎に平穏という最上の日々を与えたかったのだ。それ以上の意味など無い。


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