森の逃亡者
この作品はフィクションであり、実際の団体、人物、などなど、には一切関係ありません。
「ここは、何処だぁぁぁぁぁ!」
濃い緑色の針葉樹が生い茂る森の中、朝もやを引き裂くように男の叫び声が木霊する。
声に驚いたのか数羽の鳥が羽を休めてた木から飛び立った。
声のした方から、タッタッタと走る足音。
声の主、壬生アスヒトは白い息を吐きながら、走っていた。
地面は少しぬかるんでいて、アスヒトが足を一歩踏み出すたびに泥が飛び跳ねる。
飛び散った泥は、アスヒトが履いている薄いブラウンのチノパンとアディダスのスニーカーに付着し、斑模様を作っていた。
チノパンの尻の部分には泥の汚れ以外に濃い青汁を擦り付けた様なシミもある。先ほどコケの生えた岩に足をすくわれ、盛大に尻餅をついた時に着いた物だ。
満身創痍で走るアスヒト。学生時代は野球で『高機動型センター』を自称するほど自慢だった脚力も、今となっては見る影も無く。社会人になってからの4年間、全く運動してこなかったのが祟って既に膝が笑っている。
アスヒトの走力をサポートして来た肺活量も、過去の栄光を忘れたように衰えてアスヒトは既に肩で息をしている。
体力的な限界が今にも来そうなアスヒトであったが、足を止める事は無かった。
彼の顔には恐怖と混乱が渦巻いており、切羽詰まる物を感じさせる。
走り続けながら、アスヒトは後ろを返り見る。アスヒトの視線の先から、大地に岩を叩き付けるような轟音と太く猛々しい獣の唸り声が響く。
「ハァ。ハァ。どこまで…ケホッ……着いて来るんだ……ハァ、ハァ」
枯れた喉に酸素を無理矢理送り込みながら、アスヒトは悪態をつく。
『ブフォォォォォォォォォォゥ!!』
朝霧を切り裂いて飛び出してきたのは巨大なイノシシ。前を見つめる両眼は怒りに染まり、赤く血走っている。大きく開かれた口から伸びる二本の牙は、太く鋭い。人間一人を易々と串刺しに出来そうだ。
その姿を見たとき、アスヒトは走る速度を上げた。
しかし、イノシシも見つけた獲物を逃がすまいと食らいつき、アスヒトの走っている道を完璧にトレースしながら、巨大なイノシシが迫り来る。
入組んだ天然の迷路を右へ、左へと奔走する。
アスヒトの足跡を辿るように、体に苔を生やした大イノシシは邪魔な木々をなぎ倒しながら、距離をジリジリと縮めてくる。
大イノシシの巨大な蹄が地面を捉える度に、コンクリートを大きなハンマーで砕く時の様な音と、震度2ぐらいの揺れが到達する。
大イノシシの走った後には、小学生一人分くらいがすっぽり収まる窪みが出来ている。
あんなのに踏み潰されたら、多分ミンチにすらして貰えない。
アスヒトは走りながら手に持った多目的携帯端末・MPDSを操作する。もしもの時の為に、MPDSの連絡先リストの中に登録しておいた地元警察の番号を呼び出して、通話のマークをタッチ、MPDSを耳に押当てる。
『ツー。ツー.ツー』
さっきからコレばっかりだ。
森の中をどこまで走っても、MPDSは電波をとらえる事が出来ない。
『世界中どこでも通話可能』を謳い文句にしていたプロバイダの端末なのに、通話不可能地域がこんな所にある。こういう危機的状況でこそ、真価を発揮するべき通信手段なのに全くもって役に立たない。
「ハァ……ハァ……、このままじゃ追いつかれる……。こうなったら、あんまり使いたくは無かったけど」
アスヒトは走りながら、右手に握ったMPDSを操作する。
「どこに格納したっけ……早く見つけないと……ハァ……確か……ファイル名は……ケホッ……なんだったっけ?『霹靂』だったけ?」
端末の有機ELディスプレイには検索中の文字が踊る。
アスヒトは祈るような気持ちで端末を握りしめながら、木の根を飛び越え、木の幹を迂回し、化け物のようなイノシシから逃げる。
アスヒトの耳に鈴を鳴らしたような音が聞こえてきた。
男は画面を一瞥するや否や端末の画面を数度タップすると、再び端末を握りしめた。
画面上には「『霹靂.m』インストール中」という文字と一緒に、インストールの状況を知らせる数字が並ぶ。
10%……20%……と、着実に進行していくインストールと同じように、アスヒトとイノシシの化け物との距離も着実に縮まっていた。
荒く猛るイノシシの呼吸がアスヒトの髪を揺らす。既にイノシシの牙は男を貫く事が出来る位置に着いていた。インストールが終わるのが先か、イノシシが短気を起こすのが先か、一瞬の差がアスヒトの命運を分ける。
懇願するように端末の画面を凝視する。
80%……85%……90%……インストールの完了は目前だった。
「ハァ……なっ、なんとか……間に合いそう——」
『ブフォォォォォッグゥゥゥゥ!!』
アスヒトの安堵を引き裂くように、怒りに燃える獣の声が響いた。
イノシシがその顎を引き、串刺しにする予備動作に入る。
画面に写る数字は95%。……間に合わなかった。
勢い良く振り上げられる大イノシシの牙が男の背に迫る。
大イノシシの牙が男の背に浅く食い込んだ。
アスヒトには時が止まったように思えた。
走馬灯というものだろうか、脳内に様々な思い出が過る。
子供の頃の楽しい思い出と淡い恋の記憶。
甲子園を目指し野球に明け暮れた高校時代。
馬鹿みたいに笑い続けていた大学生活。
初めて大きな仕事を任されたときの喜び。
男自身の一生が、26年間の思い出が、洪水のように脳内を巡り、そして、消えていった。
あぁ。ボクの人生はここで終わるのか……。と、アスヒトが、己の死を覚悟した次の瞬間——
——アスヒトの体は宙を舞った。
アスヒトの背から流れた血が赤い軌跡を描き、空中に奇妙な放物線を描いていく。
宙を舞う男の背には浅く一文字の傷が走っている。大穴は空いていない。
出血が少なかったからだろう、描かれた放物線は細く淡い。
空中で回転するアスヒトを追いかけるようにして、打ち上げ花火が爆ぜる時のような音が森に響いた。
空中で体が半回転していたアスヒトの目に飛び込んできたのは、見えない大金槌かなにかで、殴られたかのように、大きな顔と鋭い牙を歪ませるイノシシの姿であった。
左側から打ち付けられたのであろう外力は、大イノシシの左牙を砕き、下顎を十数センチ右側にスライドさせていた。
なんだ、何がおこっているんだ?
こんな芸当……もしかして、攻性現実干渉か?
男の脳内を様々な憶測が交錯する。
考えがまとまらないまま、3回の空中回転の後に、アスヒトは数秒ぶりの地面と接触した。
が、アスヒトの体に加わった横向きの加速度はあまりにも大きく、地面を二転三転と転がり、10メートルほど進んだところで、ようやく停止する事が出来た。
男の後方で、大イノシシの巨体が崩れ落ちる地響きが轟く。
しかし、アスヒトはうつ伏せになったまま動かない。
森を静寂が包む。
アスヒトの意識は、深い闇の中に落ちていった。
こんにちは、シロトです。
昨日に引き続き、二話目を何とかアップできました。
さて、一応この物語のスタート地点です。
やっと、あらすじに少しだけ近づいた!
コレから先が長く険しい道のりですが、頑張っていきます。
誤植とうとうあるかもしれませんので、見つけ次第教えていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。