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突撃近所の火星人

作者: ひーらぎ

本作は、「Twitter突発リライト企画」(http://sagittakikaku.blog.shinobi.jp/)の参加作品として、梅原タロさんの『友達』(http://gdstreet.sutpin.com/novels/11.html)をリライトしたものです。

「直哉が?」

「そうよ、柏原さんとこの直ちゃん」

 湯のみに番茶を注ぎながら婆ちゃんが言った。

「一時期なんて随分ひどかったみたい。今はだいぶ落ち着いてるらしいけど、やっぱり大学には行けなくてうちで静養してるみたいねえ」

「ふーん……」

 俺は軽く相槌を打ち、差し出された湯のみを手に取って啜った。

 幼馴染みの柏原直哉はイケメンである。

 まず、日本人とは思えないくらい目鼻立ちがはっきりしている。おまけに健康的に日に焼けた肌、微笑めば唇から白い歯キラリン、まつげなんかマッチ棒が乗る勢い。細く見えるが脱げば結構、という一番モテるガタイの持ち主でもあり、高校の部活(サッカー部)ではこいつ目当てで女の見学者が絶えなかった。

 成績も優秀。高3の冬には都内の有名私大にトップ合格、入学式で新入生代表として朗々と祝辞を読み上げた。「絞め殺してやりたい」「やめろ。あいつをやるのは俺だ」「いや俺だ」そんな声が常に周りから絶えない奴。

 その柏原が大学進学後、精神失調を理由に休学したという。

「うちで静養ってことは、柏原のおばさんと二人であの家にいんの?」

「そうみたいね。外にはほとんど出ないみたいよ」

 女がこういう話題のときによく出す過度に同情めいた声で、婆ちゃんは答えた。

「母子で暮らしてはいるけど、ほとんど口も利かないみたい」

 煎餅をバリ、と齧って続ける婆ちゃん。

「あ、そういえば有栖川さんがこの前、回覧板届けに行くときにちょっと見たって言ってたわね。なんだか……」

 婆ちゃんはそこで一度言葉を切った。

「なんだか、誰のこともまともに見えてないみたい、って」



* * *



 忌々しいことに柏原直哉の家は資産家でもある。

 爺さんが戦後のどさくさで財を築いたとかで、家もデカけりゃ庭もデカイ。デカイというだけなら田舎だからまあ多いが、さすがに門から玄関にたどりつくまでに、四十センチ超のニシキゴイが泳いでる池を橋で渡らにゃならんようなようなお宅は他にない。

 ちなみに俺の実家は築三十年の一軒家で広さは下の上、庭は犬を飼うのも多分つらい。あーやっぱりあいつ絞め殺してやりたい、と高三までは一日二回ずつ思っていた(奴の家は俺の通学路にあたっていたのだ)。

 小一から高三にかけて毎日毎日そう思っていたのだから、「柏原」と刻まれた立派な表札を前にしただけで条件付けされたパブロフの犬のごとくあの気持ちが湧き上がってくると堅く信じていた。なのに今玄関の前に立つ俺はまったく冷静平然としたものだ。高校卒業後何年かを経て大人になったのか。それともあいつの現状を婆ちゃんから聞いているからか。

 俺は小さく息を吸い、「柏原」の表札の下にあるインターフォンのボタンを押した。

 そのまま待つ。

 待つ。

 待つ。

 待つ。

 ――誰も出ない。

 留守だろうか?

 なら仕方ない。婆ちゃんは奴はほとんど外に出ないと言っていたが、奴にだって外に出たいときくらいあるだろう。あるいは家にはいても単に出たくないのかもしれない。だったら俺に応対を強要する権利はない。

「帰るか」

 ため息ひとつついて来た道を戻ろうとしたとき。

 何か大きなものが割れる音がした。

 奴の家の中からだ。

「……直哉?」

 グラスを落として割っちゃった、なんて感じではない。もっと大きくて重量のあるものが、高所から思いきり叩きつけられて木っ端微塵になる音。どんな状況であれ自分の家の中では絶対聞きたくない音。

 何かあったんだろうか。

 続いてまた音がした。今度は何か硬いものをもっと硬いもので打ち壊すような音だった。

「おい、誰かいるのか?」

 俺は声を荒げる。

「いるのか? いないのか? 柏原のおばさん! 直哉!」

 返事、無し。



 物取りか何かだろうか。

 それとも、あれだろうか。映画なんかでよくある、精神錯乱して暴れてどうこうとかいうアレだろうか。

 後者ならいい。でも前者なら……

 俺の頭に週刊誌の見出しが浮かんだ。

『惨劇! 白昼の豪邸での強盗殺人』

『散乱する母と息子のバラバラ死体』

『犯行中に鳴り渡った轟音』

『隣人たち語る「気づいていれば……」』

 俺は首を横に振った。そんな展開はごめんだ。

 迷った時間は短かった。門に手をかけ、そのまま滑らす。

 俺の記憶が正しければ、そして柏原のおばさんの防犯意識がこの数年間で劇的向上していなければ、これで充分いけるはずだ。

 物々しい門は、見た目よりは遥かに滑らかに開いた。

 ガキの頃からの付き合いだから分かる。柏原のおばさんは門にも玄関にも鍵をかけない人なのだ。



 めでたく柏原邸への侵入を果たした俺はそのままずんずん突き進んだ。ニシキゴイが悠々泳ぐ池を橋で越え、玉砂利の中に敷き詰められた踏み石を踏んで、玄関へと到達した。

 ご立派な日本家屋の例に漏れず玄関も引き戸式だ。門の外にインターフォンがついているわけだから、当然ながらこっちにはない。それでも何の予告もなくガラッと開けるのも気が引けて、申し訳程度にコンコン、と2回ノックをした。

 そのまま開ける。

 目に入ったのは幼い日の記憶そのままの柏原家の玄関と、

「……こ、こんにちは」

 憎らしいまでのイケメン。

 柏原直哉が、そこに立っていた。



 俺の記憶の中の直哉はいつもいつでも身奇麗でさっぱり清潔で、口を開けばファブリーズされた空気が香ってきそうな奴だった。俺は奴に死ねとか絞め殺したいとか思う一方で、あいつだってたまには家でダラダラするときくらいあるんだしそういうときなら奴にだって隙だとか見苦しさだとかそういうのが生じるはずだと思っていた。

 そんな俺の長年の思いはこの時点で完膚なきまでに粉砕された。

 柏原直哉はイケメンだった。伸び放題の髪をボサボサにし、高校時代のジャージに身を包んでいても、なお変わることなく。

「……どうも」

 口をぱくぱくさせてしまったのは勿論そんな理由ではなく、扉を開けるなり顔を合わせるはめになるとは思っていなかったからだ。そんな俺に、柏原直哉は緩い笑みを浮かべ頭を下げた。

 左手には消えかけの煙草。

 右手には折れ曲がったバット……って、おいおい。帰ったほうがいいか? 俺。

 『失礼しました~』と言ってそそくさとその場を去るか、『よぉ、久しぶり!』と何も見なかったふりで声をかけるか、揺れ動く俺の胸にストップをかけたのは続いての奴の台詞だった。

「火星からのお客様ですか」

 ――はあ?

「遠いところからようこそ。お疲れでしょう? 中にどうぞ」


『あ、そういえば有栖川さんがこの前、回覧板届けに行くときにちょっと見たって言ってたわね。なんだか……』

『なんだか、誰のこともまともに見えてないみたい、って』


 よく分からないが。

 奴の脳内で、俺は火星生まれのイカした野郎ということで決定した、らしい。



* * *



 柏原直哉はガキの頃から完璧だった。

 子供の目にも分かるほど顔立ちは整っていたし、テストでも運動会の徒競走でも奴に勝てる奴はいなかった。

 小三のクラス替えを迎える頃には、周りの連中は皆こう思うようになっていた。

『あいつと俺では種類が違う』

 俺も含めて。

 家が近所でなかったら、かつ親同士の仲が良くなかったら、俺のあいつとの交友関係は高校卒業を待たずに終わっていたろう。こうして家に上がり込む機会も、きっともっと早くになくなっていたろう。

 しょせん俺と奴はその程度の薄い関係だ。

 なのにわざわざ家にまで様子を見に来てしまったのにはそれなりの理由がある。

 廊下を歩く奴の後を、俺は少し距離を開けて追いかける。

 途中、塵ひとつない床の上で、「何か」が砕けて散らばっているのを見かけた。元は高い壷……だったんだろう。多分。これが人間の頭蓋骨でなかったのは何よりだ。

「どうぞ」

 通されたのは奴の部屋だった。立派な応接間があるはずなのに、そこに通さない理由は謎である。

 広い和室にはテレビにDVDプレイヤー、果てはミニ冷蔵庫まで置かれていた。さすが資産家のお坊ちゃまのお部屋は違う。

 日の差す縁側に座布団を出され、座るように勧められたので胡坐をかいた。

「飲みますか?」

 出してきたのはポカリだった。

 何故ポカリ。真夏の縁側なら麦茶と相場は決まってるだろ。

 ただ確かに喉は渇いていたので、俺は礼を言って受け取った。

 俺たちはしばらく何も喋らなかった。

 俺はその間、ずっと窓の外を見ていた。そこから空が見えた。昼だったので空は青かった。


 ――火星。

 どこまでも青い真夏の空を見上げ、ぼんやりと思う。

 こいつが俺を火星人と決めつけたのは、もしかしたらここからの連想だろうか?

 気持ちのいい青さのどこかに火星を隠したこの空を見て、遥か彼方からの客人に思いを馳せたんだろうか。


 ポカリを飲み干した俺は、もう一杯いただけませんか、と言った。

「喉が渇いていて」

 俺の家から柏原邸まで、大した距離ではないとはいえ盆のこの時期の蒸し暑さの中歩いてきたのだ。口の中はとっくに干からびた山脈みたいになっていた。

 奴は俺からコップを受け取って、そこにまたポカリを注いだ。それでポカリはなくなってしまった。

「地球は暑いですか?」

 短く奴が聞いてきた。

 俺は言葉に詰まった。火星人扱いされたときの想定質問なんて、当たり前だが用意しちゃいない。

「ええ」

 考えた挙句にこれだけ答えた。確かに地球は暑い。今の時期は北半球と赤道直下だけだが。

 すると奴は立ち上がって、

「もう一本、ポカリスエットを買ってくるので待っていてくれませんか」

 俺はまた少し迷って、もちろん、と言った。



* * *



 奴が出て行き、俺は縁側に一人残される。

 開け放たれた縁側には、真夏の日が容赦なく降り注いで暑い。

 エアコン完備のセレブなお部屋にお住まいのくせに何で閉めて空調効かせないんだか、と最初はちょっと思った。だが座布団に胡坐をかいてぽっかり開いた空を眺めてるうちに、そんなことはどうでもよくなった。

 ちりん、と軽い音が耳をくすぐる。軒先から下がった金魚の形の江戸風鈴だ。

 いい音だ、と思う。相変わらず本当にいい音だ。

 小三のとき、お袋と浅草見物に行った。途中で寄った風鈴工房で、お袋が『直ちゃんに』と買ってきたのがこれだ。

『ほら、直ちゃん金魚が好きでしょう。喜ぶと思うのよ』

『……ふうん』

 柔らかく笑うお袋に、俺は生返事を返した。俺は奴が金魚が好きということすら知らなかった。

 かくして柏原直哉は俺(正確にはお袋)の土産の金魚風鈴をいたく気に入って、渡したその日に軒先に下げた。以来十年以上この金魚は、夏が来るたび生ぬるい風に身を任せてちりんちりんと鳴いている。

 俺は目を閉じた。

 じりじり日差しが照りつける。どっと汗が吹き出した。背中なんてもうぐっしょり濡れていた。汗をかいて、かいて、かいて、どんどんかいて、体内の水が出きってしまうような気がした。全部出し切って体が縮んで、小学生だったあの日に帰っていくようだった。

 俺は目を開ける。そして空を見上げる。

 あの頃と何ひとつ変わらない青い空がそこにある。



 ――ふいに襖の開く音がした。

「何を見ているんですか」

 振り向くと柏原直哉が、ポカリの一リッター半ボトルが二本透けた袋を下げて立っていた。

 俺はまた言葉を探そうとして、見つけられなかった。

 長い長い沈黙のあと、ようやくこれだけ言えた。

「遠くです」

「遠く?」

「そう、遠く」

 奴は軽く目を細めて俺を見た。

 そしてシャワーを浴びませんかと言った。



* * *



 適当なところで帰ればよかったのに、夜になるまでだらだら火星人として過ごしてしまった。

 ひとつ気になったのは、奴が今何をして日々過ごしてるのかということだった。まさか朝から晩まで火星人来客妄想くりひろげてるわけでもあるまい。ネットやゲームで引きこもりというタイプでもない。少なくとも高校出た頃はそうじゃなかった。

 尋ねてみると奴は小説を書いているのだと答えた。

「小説?」

「そう小説。火星には小説なんていうのはありませんか、物語を書くような文化は?」

 おっと、『文化』と来たもんだ。俺は思わず口元がひん曲がりそうになるのを必死に抑えて考える。自慢じゃないが高校までは地球の現代国語さえおぼつかなかったのだ。

 考えた末に俺はやっとのことでこう答えた。

「ありません。きっととても寒いからでしょう」

 言ってしまってから、じゃあロシア文学とかどうなんだよオイ、とちょっと思ったが、別にドストエフスキーやツルゲーネフに恩義があるわけでもないのでフォローはしなかった。

 我ながらめちゃくちゃな答えに、だが奴は納得したらしかった。

 そして今度は向こうから聞いてきた。

「なぜ日本に来たの?」

 いや日本に来たも何も俺日本人だし。喉まで出かかったツッコミを必死で堪える。

 日本が好きだからです。普通すぎる。

 ただ何となくです。つまらん。

 理由なんて必要なのか? ハードボイルドは時代遅れだ。

 今度の間もさっきと負けず劣らず長かったと思う。ようやく俺が口にしたのは、

「……母が昔よく、ここの話をしていたから」

「お母さん?」

 奴が軽く眉根を上げた。

「ええ、母です。二年前に死にました」

「……………………」

「母は昔、ここに来たことがありました。ずっと昔のことですが。彼女はここが好きだと言っていました」

 嘘は言っていない。俺のお袋は二年前に死んだ。

 インフルエンザ脳症だった。危篤の知らせを受けて急いで戻ったが、間に合わなかった。

 奴はコーラを飲んでいた。縁側からは月が見えた。

 俺は気まずくなった。人を火星人と決めつけているサイコさんに対してちょっと内面を吐露したところで大して気にする必要もないはずだが、それでもやっぱり気まずいものは気まずかった。自分の中身を晒しすぎたような気がした。

 何をやってるんだ、俺は。大してこいつと仲がよかったわけでもないのに。

 とにかく何でもいいから話を逸らしたい一心で、俺は夜空の月を指差し、噴飯ものの台詞を口にした。

「あの星はなんというんですか」

「月です」

「あそこに人はいますか」

「誰もいないと思う」

 馬鹿馬鹿しい、ただの場つなぎの茶番だったはずだ。

 なのに奴の言葉が妙に寒々しく響いて、何かに拒絶されたような気分になった。

「誰もですか」

「そう、誰も」

 俺はそれからしばらく月を見ていた。奴はコカ・コーラを飲みほした。

 沈黙を破ったのは奴の方だった。

「昔、あそこには兎が住んでいるんだって信じられていたんです」

「兎?」

「兎です。あの影が兎に見えたから」

 どうしてそこで兎。一瞬首をひねってから、ああこいつは埋め合わせをしようとしてるんだと気がついた。

 月に誰もいないと言ってしまったから。俺がそれを聞いて表情を変えたから。

 俺はおかしくなった。幼馴染みの俺が火星人に見えるくらいオツムがいかれているのに、今更そんなどうでもいいようなことまで気を回すのか。おかしくて――悲しかった。

「寝ようか」

 奴がそう言ったので、俺は頷いた。



* * *



 奴は押入れから布団を出して俺のために敷いた。じゃあお前はどうするんだよと思って見ていると、押入れの更に奥からコタツ布団を引っ張り出して隣に敷いた。いくら何でもそれはどうなのかと俺は思ったが、奴は笑ってこれでいいと言った。

 帰ろうと思えばいつでも帰れたはずなのに、帰りたいという言葉がどうしても口から出て来なかった。

 もともとそう仲が良かったわけでもない、まして今やサイコさんと化した幼馴染みと一対一で顔を合わせていてたって、面白いことなど何ひとつない。それは分かっているはずなのに。

 電灯から下がった紐を奴が二回引っ張ると、暗い中に豆電球が点った。イケメンはオレンジ色の豆電球に照らされてもやっぱりイケメンだった。

 おやすみ、と奴がつぶやいた。



 眠気はなかなかやって来なかった。

 目を開けて天井の一点を見つめる。見た目はきれいな資産家の邸宅でも、こうして見上げると年月を経た染みがいくつも浮いていた。ガキの頃ここに泊まりにきたときは、他の連中と一緒になって幾つあるか数えたものだ。

 ――他の連中。

 俺は薄手のブランケットの上から胸を押さえた。

『気にしないで行って来て、××××。お母さんの三回忌でしょう』

『けど……』

『大丈夫よ。そう簡単に死んだりしないわ。一緒に帰れないのは寂しいけど、ちゃんと待ってるから』

 だから行って来て、と、しのぶは笑った。

 甲状腺ガンだった。発見が遅く、気づいたときにはあちこち転移していて手遅れだった。

 余命一ヶ月と宣告されて、それでもしのぶは笑っていた。

『仕方ないのよ、神様がそう言ってるの』

 その神様とやらを殴ってやりたかった。

 間山しのぶ。柏原直哉と同じく俺の幼馴染みだ。家が近所で、小学校、中学校と同じだった。

 中学の途中で親が死んで東京の親類に引き取られたが、進学した大学が同じで偶然にも再会したのだ。

 子供の頃から好きだっただとか、ずっと想い続けていただとかそんなメロドラマにありがちな要素はなかった。お互い高校の間に相手のことなんてすっぱり忘れていて、大学合格のときに『そういえばしのぶちゃんも○○大なんだってね』と言われてようやく思い出したという感じだった。

 再会からしばらくして付き合うことになったのは、運命ってやつが仕掛けた壮大なドッキリだろうと俺は思っている。

 しのぶの懇願に突き動かされる形で、俺は今回の帰省に踏み切った。その間に彼女が死ぬかもしれないと知りながら。

 毎日決まった時間に、『元気?』と短くメールを送る。それに対して彼女が、『元気!』と返してくるまで、俺の心拍数は平常に戻らない。彼女のメールを見て初めて胸を撫で下ろす。ああ良かった、しのぶはまだ生きてると。

『わたしの分まで、お母さんによろしくって言ってきてね。おばあさんとか他の親戚の人たちにもよ。ああ、佐藤さんちの真紀ちゃんと甘粕さんちの由香里ちゃんにもよろしくね。井本さんとこの陽くんにもよ。それから……』

 別れ際、痩せ衰えた顔でしのぶは笑って、そして言った。

『柏原さんちの直くんとか、今どうしてるかなあ。わたし、昔あの子のことちょっと好きだったのよ……』

 ブランケットをきつく握り締めたとき。

 誰かに見られている気がした。

 隣の布団にすばやく目を走らせると、柏原直哉が俺の顔を見ていた。熱したアイロン押しつけてやりたいくらいきれいな顔で、じっと無表情に俺のほうを見つめていた。

 奴は身を起こし、俺の方に寄った。そして、指の長い手を差し伸ばしてきた。

「遠くに来たんだね」

 俺の手を握り、ゆっくりと、あたたかく、いたわるように、そう言った。

「遠くに来たんだね……」

 たったそれだけの言葉が、ひび割れた岩をつたう水のように沁み込んできた。

 鼻がつんとした。涙をこぼすまいと眉間に深い皺を寄せた。泣くな、こんなことで。こいつは何も分かっちゃいないサイコさんだ。自分の脳内妄想に俺を適当に配役して勝手に喜んでる、ただそれだけのことなのだ。なのに。

「遠くに、来たんだね」

 遠く。そう、遠くに来た。

 しのぶから距離が離れたという意味じゃない。

 子供の頃の懐かしいあの日々は、あまりにも鮮明であまりにも遠すぎる。


 俺の手を取った奴はそのまま起き上がり、窓を開けて縁側へと出た。そして、ほら、というふうに空を指してみせた。

 インク色の空に円く浮かぶ白い月。

 あの日奴やしのぶと一緒にここから見たのと同じ月。

 微笑む柏原直哉はまるで、一緒に行こう、と言っているように見えた。

 行く。どこへ?

 ――月へ。


 俺は布団から身を起こした。吸い寄せられるように直哉に近づいた。

 黄色い豆電球ではなく夏の満月に照らされた顔は、まるで血が通っていないように白く見えた。

 俺は初めて直哉の顔はきれいだと思った。イケメンでも女にモテそうでもなく、死ねばいいのにでも絞め殺してやりたいでもなく、ごく純粋に美しいと初めて思った。

 縁側に出てきた俺に直哉は手を伸ばしてきた。俺はその手を握り返し月を見上げた。

 いいよ。お前がそう望むなら、月だってどこだって一緒に行ってやる。

 兎を探そう。どこにいるか分からないけど、兎を探そう。月は俺らが思ってるよりずっと広いから探すのは大変だろうけど、一晩もかければきっと見つかるさ。地球からはあんなに簡単に見つけられるんだから。

 砕け散った壷が脳裏に浮かんだ。折れ曲がったバットの映像もまぶたに一瞬閃いた。どちらも俺にとってはどうでもいいことだった。こいつが置かれた現状がどうであれ、こいつがこうなった理由が何であれ、今の俺にとって大事なことは一つだけだ。


 ――しのぶ。

 遥か彼方の東京にいるもう一人の幼馴染みに、俺は語りかけた。

 ――直哉は幸せだよ。

 ――誰が何と言おうと今この瞬間このとき、直哉は幸せだよ。


 直哉の右手が空を掴み、何かを掬い上げるような動きをした。

 その手のひらからは一握りの月の砂が、地上の六分の一の速度でこぼれ落ちているに違いなかった。

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