『潮満ちて、ふたりは再び 〜鳴門海峡二重アリバイ〜』
大鳴門橋を吹き抜ける潮風は冷たく、どこか湿った重みを含んでいた。橋の上から見下ろす鳴門海峡では、太平洋と播磨灘の海水が激しくぶつかり合い、不気味な白波の渦をいくつも描いている。
徳島県警捜査一課の鳳条佳月警部補は、風に乱れそうになる髪を無意識に押さえながら、隣に立つ男の横顔を視界の隅に捉えた。
「……で? 警察の捜査が行き詰まったからって、元カレを呼び出すのはどういう計算だ、佳月警部補」
使い込まれたカメラマンジャケットのポケットに両手を突っ込み、どこか斜に構えた苦笑いを浮かべたのは、旅行ライターの今湊健介だ。
かつて三年間交際し、そして破局した男。二年前のあの日、この男が去っていく背中を、自分はどんな顔で見送ったのだったか。佳月はトレンチコートのポケットの中でそっと指を握りしめ、冷徹な警察官の仮面をかぶり直した。
「私情は挟んでいないわ、健介。あなたの持つ交通網と地理に関する客観的なデータが必要になった、ただそれだけよ」
努めて平然を装う声が、潮風にかき消されそうになる。佳月は小さく息を呑み、スマートフォンを取り出すと、液晶画面を健介の目の前に突きつけた。画面を差し出す指先が、ほんの少しだけ強張っているのを自分でも感じていた。
「一昨日、淡路島の個人美術館で高額な絵画の盗難事件が発生したの。容疑者は地元の美術商。現場の犯行推定時刻は午後一時十分。だが、彼には完璧なアリバイが存在する」
再生された動画には、画面の手前で満面の笑みを浮かべる容疑者の姿と、その背景で激しく逆巻く鳴門の渦潮が映し出されていた。画面のタイムスタンプと、船上に設置された時計が示す時刻は、いずれも「午後一時十五分」。
「現場の淡路島から徳島側の観覧船乗り場までは、どれほど車を飛ばしても三十分はかかる。犯行の五分後に彼が船の上にいたというのは、物理的に不可能な計算になるわ」
健介は差し出された画面を覗き込んだ。彼の体温が近づき、かすかな柑橘系の香りが潮風に乗って佳月の鼻腔をくすぐる。昔と変わらない匂い。佳月は胸の奥が一瞬キュッと縮こまるのを覚え、わずかに身体を引いた。
健介は映像に映る海面をじっと注視していたが、やがてその瞳に静かな観察者の光が宿った。
「なるほど。一見すると完璧な数式に見える」
健介はふっと息を吐き出し、眼下の海へ視線を移した。
「だが佳月、君は重要な仮説を一つ見落としている」
「見落とし……? 動画のデジタル解析でも偽装の痕跡は出なかったのよ」
詰問するような口調になりかけた自分に気づき、佳月は下唇を軽く噛んだ。昔からそうだ。彼の前に立つと、自分を守るために言葉が尖ってしまう。
「条件が映像そのものにあるとは限らない」
健介は静かに首を振った。
「潮流の向きだ。一昨日の潮汐データを確認したかい? 午後一時前後は『干潮』だ。海水は北から南へと流れ込む。しかし、この動画に映っている渦の形成過程と白波の崩れ方は、南から北へ流れる『満潮』の特性を示している」
佳月の視線が泳いだ。まばたきの回数が増え、健介の顔からスマートフォンの画面へと、落ち着きなく視線が彷徨う。
「……満潮の、特性?」
「この動画が撮影された本当の時間は、満潮のピークだった『午前七時十五分』だ。彼は朝一番の船で映像という素材を採取し、タイムスタンプを改ざんした。そして昼には、別の移動ルートを用いて二度目の船に乗り込み、乗船記録という真実のアリバイを作ったんだ。……人間の思い込みを利用した、実に合理的なトリックだよ」
佳月は絶句した。数時間もの間、捜査本部の誰も気づかなかった盲点が、この男のわずか数分間の観察によってあっさりと突かれた。
敗北感よりも先に胸の奥からこみ上げてきたのは、かつて惹かれた男の明晰な頭脳に対する誇らしさと、それを素直に口にできない己の不器用さへの嫌悪だった。
「でも、昼の移動はどう説明するの?」
佳月は自分の声から揺らぎを消そうと、努めて淡々と尋ねた。
「淡路島から徳島側へマイカーやタクシーで移動すれば、検問やNシステムに引っかかるわ」
「車に固執するから解が出ないんだ。公共交通機関を使えばいい」
健介は手際よく自身のスマートフォンを操作し、高速バスの時刻表を表示して見せた。
「淡路島の現場から福良のバス停までは、原付なら五分足らず。午後一時十分の犯行直後、一時十五分発の鳴門行き高速バスに乗れば、大鳴門橋を渡って一時三十二分には徳島側の『鳴門公園口』に着く。バス停から観覧船乗り場までは徒歩三分だ」
「一時三十五分には港に着く……! それなら、一時四十分の出航便に無理なく間に合うわね」
「そう。彼は昼の便で『乗船記録と目撃証言』を作り、警察には朝に仕込んだ『改ざん動画』を出した。二重のアリバイ工作だ」
「でも、待って。一時四十分の乗船記録では、一時十五分に船にいた証明にはならないでしょう?」
「その通り。そこがこのトリックの肝なんだ」
健介はスマートフォンに表示された二つの時刻を指で示した。
「乗船記録と目撃証言が証明するのは、午後一時四十分の船に彼が乗ったという事実だけだ。ところが彼は、その本物の記録を改ざん動画と一緒に提出した。実際に午後の船に乗っていたという事実が、午後一時十五分という動画の時刻まで本物らしく見せてしまったんだ」
「……つまり、別々の時間に作られた証拠を、ひと続きの行動に見せかけた?」
「そう。ただし、二つの証拠は本来、互いを裏づけていない。映像の時刻を信用すれば犯行時刻の五分後には海上にいたことになるが、乗船記録が示すのは、その二十五分後の行動でしかない。犯人は警察がその違いを見落とすことに賭けたんだ」
佳月は画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
嘘の映像と、本物の乗船記録。
どちらも午後の海にいたことを示しているようで、実際には犯行時刻のアリバイを保証するものではなかった。
「……証拠が二つあるからこそ、疑わなかった。私たちは、自分たちで勝手に辻褄を合わせていたのね」
「人間は、事実そのものより、事実が並んでできた物語を信じやすい。そこを突かれたんだよ」
視界が開けていく感覚。それと同時に、自分にはない柔軟さを持つこの男への憧憬が、かつてのように胸を打った。
佳月は左手首の腕時計の文字盤を、親指でそっと撫でた。緊張が解けたときの、彼女の無意識の癖だった。
「……助かったわ」
佳月は素早く携帯電話を取り出し、捜査本部に連絡を入れて令状の手配を指示した。
指示を出す声は、いつもの切れ味鋭い刑事のものに戻っていた。だが、その横顔をじっと見つめる健介の視線に気づくと、電話を切った佳月はふっと視線を斜め下へ泳がせた。
夕刻。
家宅捜索により、容疑者のパソコンからは動画の編集データが見つかり、室内からは乗船チケットの半券も押収された。事件はあっけなく幕を閉じた。
茜色に染まる海を見下ろす高台で、二人は並んで立っていた。
「捜査一課の面目が保てたわ。……本当に、ありがとう」
佳月は海を見つめたまま呟いた。素直な感謝の言葉を口にするのは、彼女にとって容易なことではなかった。
「気にしないでいいさ。僕も……久しぶりに君と話せて良かった」
健介の柔らかい声に、佳月の肩からすっと力が抜けた。
彼女はトレンチコートのポケットの中で握りしめていた拳をほどき、ゆっくりと健介の方へ顔を向けた。そこにはもう、「鉄の警部補」の仮面はなかった。
「……あの頃の私ね」
佳月の声が、波の音に混じって少しだけ低くなる。
「自分の仕事の重圧にかまけて、あなたのこと、ちゃんと見ようとしていなかった。あなたの知識も、優しさも……どこか軽んじていたのかもしれない。ずっと、それが引っかかっていたの」
突然の告白に、健介は一瞬目を見開いたが、すぐに目尻を下げて穏やかに首を振った。
「僕だって子どものままだったよ。君が一人で背負っていたプレッシャーを理解しようとせず、勝手にすれ違って逃げ出したんだ」
健介の言葉に、佳月の長い睫毛が細かく揺れた。
彼女はそっと息を吐き出した。この二年間、胸の底に沈んでいた冷たい塊が、夕焼けの海に溶けていくような気がした。
「鳴門の潮はさ」
健介が海を見つめたまま言った。
「引き潮で離れていっても、満潮になればまた同じ場所に戻ってくる。自然の法則なんだよ」
「……相変わらず、キザな言い回し」
佳月はくすりと笑った。その笑顔には、健介がよく知る、昔の無邪気な佳月の面影があった。
「ところで、佳月警部補。明日は非番だろう?」
「……ええ、有給を取ったわ。どうして分かったの?」
「長年、君という人間を観察してきたからね」
健介は照れくさそうに車のキーを指で弾くと、助手席のドアを開けた。
その動作を目で追う佳月の瞳には、夕日の柔らかな光と、ほんの少しの照れくささが映っていた。
「事件の検証は終わりだ。今度は本当の旅をしよう。讃岐うどんの美味い店なら、完璧なルートを構築してある」
佳月は開かれたドアの前に立ち、一瞬だけ躊躇するように足を止めた。
そして、健介の目をまっすぐに見つめ返すと、かすかにうなずいた。
「いいわ。その計算、乗らせてもらうわね……最高のガイドさん」
助手席に乗り込む佳月の足取りは、いつもの事件現場へ向かう重々しいものではなく、軽やかで、どこか弾んでいた。
暮れゆく阿波の街道を、二つの影を乗せた車が静かに走り去っていった。




