婚約破棄? 結構ですが、私の私財で建てたそのお屋敷から今すぐ退去してください
婚約破棄? 結構ですが、私の私財で建てたそのお屋敷から今すぐ退去してください
婚約破棄を告げられたとき、クラリッサは食堂の長卓に並んだ銀食器の数を数えていた。十二人分の食器はすべて彼女が王都の工房へ注文した品で、柄には伯爵家の紋章ではなく、小さな麦の穂が刻まれている。正面では婚約者のアルバートが金髪の令嬢を隣に座らせ、その肩へ見せつけるように手を回していた。
「クラリッサ、君との婚約を破棄する。これからはリディアと結婚し、伯爵家を二人で守っていく」
焼きたての鴨肉から脂の匂いが立ち、給仕頭が切り分け用のナイフを持ったまま動きを止めた。上座にいるアルバートの父母は驚くどころか、目の前の葡萄酒をゆっくり飲んでいる。今夜の食事会は婚約破棄を告げるために用意されたものらしく、クラリッサの席だけ、ナプキンの刺繍が古い伯爵家の紋章になっていた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「君は何でも金で解決しようとする。商人の娘らしく、口を開けば利益、契約、支払期限だ。そんな金目当てのあさましい女を、由緒あるベルモント伯爵家へ迎えるわけにはいかない」
クラリッサは膝の上のナプキンを畳み直した。三年前、雨漏りしていた旧伯爵邸には、雨を受ける桶が十四個置かれ、厨房の竈には薪を買う金さえなかった。アルバートが着ている濃紺の上着も、伯爵夫人の真珠の首飾りも、今夜の鴨肉も、その「あさましい女」が支払ったものだった。
「わたくしが金目当て、でございますか」
「しらばっくれるな。伯爵家の名が欲しくて、父上たちへ金を差し出したのだろう。だが、リディアは違う。彼女は何も求めず、僕という人間を愛してくれた」
隣のリディアが伏せた睫毛の下で笑った。彼女の薄桃色のドレスも、クラリッサが立て直した伯爵家の織物工房で作られた品だった。代金はまだ支払われておらず、請求書は三度送り返されている。
「承知いたしました。婚約破棄をお受けいたします」
クラリッサが答えると、伯爵夫人は露骨に息を吐き、銀の匙で芋の付け合わせを崩した。アルバートは勝ち誇った顔で椅子に背を預け、リディアは早くも女主人になったつもりなのか、給仕へ葡萄酒を注ぐよう指を動かした。クラリッサは鞄から革表紙の書類を取り出し、長卓の中央へ置いた。
「それでは皆様、今夜中にこの屋敷から退去してくださいませ」
「何を言っている?」
「この屋敷は、敷地を含めてわたくしの私有財産です。家具、食器、絵画、馬車、厩舎の馬も、すべてわたくし名義で購入しております。伯爵家には、婚約期間中に限って無償で使用する権利をお貸ししていただけです」
クラリッサは書類の最後の頁を開いた。そこには三年前のアルバートと伯爵夫妻の署名が並び、「婚約の解消と同時に使用権は失効し、日没までに明け渡す」と明記されている。当時のアルバートは内容を読みもせず、商人の契約書など退屈だと言って署名していた。
「こんなものは無効だ。ここはベルモント伯爵邸だぞ」
「いいえ。正式な名称は『クラリッサ・ハーディ商会所有第一迎賓館』です。門柱の表札を伯爵家のものにしてよいとは申し上げましたが、建物を贈与した覚えはございません」
「父上、何とか言ってください!」
アルバートに呼ばれた伯爵は、口元についたソースを拭きながら書類を引き寄せた。署名の脇には王立公証院の印章があり、伯爵自身が契約条件へ同意したことを示す拇印まで残っている。三年前には細かいことを気にする娘だと笑っていたが、今夜は一行読むたびに額の汗を袖口で拭った。
「クラリッサ嬢、これは少々、性急ではないかね。婚約を解消したからといって、三年間住んだ者を夜中に追い出すなど、淑女の振る舞いとは思えん」
「現在は午後六時十分です。契約では日没までとなっておりますが、荷造りを考慮して、午後十時までお待ちいたします。四時間近くございますので、十分に寛大かと存じます」
「我々に行く場所がないのだ!」
「旧伯爵邸がございますでしょう。雨漏りする三階部分は閉鎖しましたが、一階の居室は残してあります。わたくしが購入を申し出た際、先祖伝来の屋敷だけは売れないとおっしゃったので、そのまま伯爵家名義です」
伯爵夫人が握っていた匙を皿へ落とした。旧伯爵邸には暖炉が二つしかなく、窓枠は歪み、冬になると台所の水桶へ薄い氷が張る。夫人は二度と戻りたくないと言い、この新しい屋敷の壁紙を三回も張り替えさせていた。
「では、わたくしとアルバート様がここへ住めばよろしいのではなくて?」
リディアが甘い声を出し、クラリッサへ向かって顎を上げた。彼女は卓上の燭台へ指を伸ばし、自分の所有物を確かめるように金細工を撫でている。クラリッサはその指に光る青い宝石を見て、鞄からもう一枚の紙を取り出した。
「その前に、ドレス三着と宝石の代金をお支払いください。合計二千八百四十万リル、支払期限は先月末でした」
「アルバート様からの贈り物よ」
「そのアルバート様は、代金を一度もお支払いになっていません。わたくしの商会の商品を、わたくしの帳簿へつけて持ち出されました」
「結婚したら伯爵家の物になるのだから、同じことでしょう」
「では、アルバート様ご本人へ請求いたします。なお、期限を過ぎていますので、明日から遅延利息が発生します」
リディアは宝石から手を離し、隣の男を見た。アルバートはクラリッサが毎月渡していた小遣いを競馬と酒に使い切り、私有財産など持っていない。求めない女を選んだはずの男は、請求額を聞いただけで椅子の下へ財布を隠すように足を引いた。
「卑怯だぞ。婚約破棄を予想して、最初から罠を仕掛けていたのか」
「いいえ。婚約が無事に結婚へ至れば、この屋敷の使用権を婚姻契約へ移す予定でした。あなたがわたくしを捨てなければ、何一つ問題は起きなかったのです」
食堂の扉が開き、王立公証院の執行官二人と、荷運び人が六人入ってきた。クラリッサは昼のうちに呼んでいたのではない。婚約破棄の席へ公証人を同席させるよう申し出たのはアルバートであり、後から無効だと言わせないために、自分で証人を揃えていた。
「婚約破棄の成立を確認いたしました。従いまして、使用貸借契約も午後六時十二分をもって終了しております」
執行官が告げると、アルバートは椅子から立ち上がった。勢いで卓が揺れ、食べかけの鴨肉からソースが白いクロスへこぼれた。クラリッサは染みを見下ろし、洗濯係へ落とし方を伝えるため、小さな手帳へ時刻を書き込んだ。
「使用人たちはどうするつもりだ。僕たちを追い出せば、皆が路頭に迷うぞ」
「使用人は全員、わたくしの商会と雇用契約を結んでおります。給金もわたくしが支払っていますので、そのまま勤務を続けてもらいます」
「ならば僕の従僕だけは連れていく」
「彼は先週、領地管理部門への異動を願い出ました。あなた様から半年間、一度も心付けを頂けなかったそうです」
給仕頭が堪えきれないように咳払いした。厨房からは食後の焼き菓子の香りが漂っており、使用人たちは夕食会が終われば、残った鴨肉を薄く切って賄いにする予定だった。クラリッサは今夜だけ葡萄酒を一本開けてもよいと給仕頭へ告げ、伯爵一家の荷物については、私物かどうかを台帳で確認するよう命じた。
荷造りは、一時間もかからなかった。伯爵一家が自分たちの物だと思い込んでいた絨毯も、寝台も、羽根布団も、衣装箪笥も、すべてハーディ商会の所有物だったからである。四人が持ち出せたのは、古い衣類を詰めた鞄が七つ、伯爵家の紋章入りの箱が二つ、先祖の肖像画が三枚だけだった。
「せめて馬車を出しなさい。この荷物を持って歩けと言うの?」
「馬車をご利用になる場合は、王都内一回につき四百リルです。前払いでお願いいたします」
玄関ホールで伯爵夫人が睨みつけたが、誰も財布を出さなかった。結局、リディアが青い宝石の指輪を外し、馬車代の代わりとして執行官へ預けた。鑑定の結果、その指輪は代金の三分の一にも満たず、残額はアルバートの負債として記録された。
午後九時二十分、伯爵一家は小雨の降り始めた玄関先へ並んだ。屋根のある馬車へ乗れたのは伯爵夫妻だけで、アルバートとリディアは荷物を膝に積み、御者台の脇へ座ることになった。リディアの薄桃色のドレスの裾には泥が跳ね、アルバートは自分の外套すら商会の備品だと分かって、春物の上着一枚で肩を縮めていた。
「クラリッサ、今ならまだ許してやる。僕とリディアを客として住まわせろ。後悔することになるぞ」
「どの件について後悔するのでしょう」
「伯爵家の後ろ盾を失うことだ。商人の娘が一人で、王都の商売を続けられると思うな」
「明日の朝刊をご覧くださいませ。わたくしは本日付で、王室御用達商会の認可を受けました。伯爵家の名をお借りする必要は、もうございません」
玄関脇に控えていた使用人たちから、小さなどよめきが起きた。クラリッサは三年間、伯爵領の荒れた小麦畑へ新しい水路を引き、織物工房へ仕事を戻し、利益の一部で王都の救貧院へ冬服を納めてきた。認可は伯爵家との縁ではなく、彼女の商会が納期と品質を守り続けた結果だった。
「門を閉めてください」
鉄門が音を立てて閉まり、馬車は旧伯爵邸へ向かって暗い道を進んだ。後に残ったのは、濡れた車輪の跡と、リディアが落とした桃色のリボンだけだった。クラリッサは拾おうとした庭師を止め、明日の掃除の際に処分するよう頼んだ。
三か月後、ベルモント伯爵家は領地経営権を失った。クラリッサが手を引いたあとも以前と同じ暮らしを続け、支払いの当てもないまま酒と衣装を注文したためである。伯爵夫妻は旧邸の一階へ引きこもり、アルバートは債権者との話し合いを避けて逃げ回り、リディアは請求書の束を置いて実家へ戻ったが、その実家からも未払いのドレス代を理由に門前払いされた。
一方、第一迎賓館の食堂では、新しい商談会が開かれていた。長卓には十二人分の銀食器が並び、麦の穂の刻印が磨かれて、午後の光を細く返している。クラリッサは地方から来た女性商人たちへ温かい鴨肉を取り分け、冷める前に食べるよう勧めた。
「このお屋敷、以前は伯爵家のものだったと聞きました」
「いいえ。初めから、わたくしのものでございます」
クラリッサは答え、三年前から一度も座れなかった上座へ腰を下ろした。給仕頭が葡萄酒を注ぎ、厨房から焼きたての林檎菓子が運ばれてくる。かつて伯爵家の紋章が掲げられていた壁には、金色の麦の穂と、ハーディ商会の新しい看板が掛かっていた。




