『白い手』-3
第三章 紅い爪の記憶
夕刻、黄昏が街をどす黒い紫に染める頃、祖父は何事もなかったかのように帰宅した。デイサアビスの職員に付き添われ、幼児のような無垢な表情で玄関に立っている。
佐々木君は、その祖父の姿を、門の影から盗み見るように観察した。
その時、彼女の脳裏に、昼間の光景が鮮烈な色彩を伴って蘇った。
廊下から伸びていた、あの「手」。
それは、白磁のように滑らかで、瑞々しい肌をしていた。長年、土にまみれ、機械を操り、苦労を刻み込んできた祖父の、あの節くれ立った、深い皺とシミの浮いた手とは、似ても似つかぬ代物であったのだ。
何より、彼女の心臓を凍りつかせたのは、その指先に塗られた色彩である。
あの白い手の爪には、血を滴らせたような、鮮やかな「真っ赤なマニキュア」が施されていた。
それは、およそこの家の誰のものでもない。地獄変の屏風に描かれた、業火の中で悶える女の指先のような、不吉なまでの美しさ。
「……お帰り、おじいちゃん」 彼女は声をかけたが、その視線は祖父の手元に釘付けになっていた。祖父の手は、やはり茶褐色に汚れ、震えている。では、あの赤い爪の主は、一体誰だったのか。
その夜、彼女は自分の指先を眺めた。マニキュアなど塗っていない、清潔な爪である。しかし、鏡に映った自分の顔は、昼間の恐怖と、老いゆく者を見捨てる自責の念によって、奇怪な「面」のように歪んでいた。
彼女は悟った。あの白い手は、家の外から来たのではない。それは、彼女自身の心の奥底に潜む、若さへの執着と、醜悪な現実を拒絶する「エゴ」が具体化したものではなかったか。
深夜、隣室から再びコン、コン、と音が聞こえる。
彼女はもう、襖を開ける勇気を持たない。ただ、暗闇の中で、自分の指先が次第に赤く染まってゆくような、狂おしい錯覚に身を委ねるだけであった。
窓の外では、風が冷たく吹き抜けてゆく。
この家には、もう人間はいない。ただ、記憶を失った抜け殻と、美しさに取り憑かれた幽霊だけが、寄り添って朽ちてゆくのである。
――天国へ行くのは、おじいちゃんだろうか。それとも、赤い爪を持った「僕」だろうか。
その問いに答える者は、銀鼠色の闇の中に、一人もいなかった。




