3話
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
木材の匂い。人間の生活の匂い。ほんのり甘いパンの残り香。路地裏とは全然違う、ちゃんとした“部屋”の匂い。
(……どこだよ、ここ)
次に音が戻る。
遠くで階段を上り下りする足音。皿の触れ合う音。誰かの笑い声。窓の外を通り過ぎる荷馬車の車輪の軋み。
柔らかい。下が、柔らかい。
オレはゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、木目の天井だった。薄い光が差し込んでいる。窓だ。ちゃんとガラスが入ってるやつだ。割れてない。すげぇな。
瞬きをする。
――見える。空気の中に、あの光が。
路地裏で見た、暴れ狂う奔流とは違う。穏やかだ。細い糸みたいな光が、部屋の中をふわふわ漂っている。窓から差し込む光に溶けるように、流れている。でも、あの路地裏で見たような、気持ち悪い淀みはない。
(……まただ)
夢じゃないらしい。
オレはゆっくりと首を動かした。体は、動く。痛みは、ほとんどない。後ろ足もちゃんと感覚がある。毛並みも焦げてない。
(あれ、生きてんじゃんオレ)
ちょっとすごくない?
あんな爆発みたいなのに巻き込まれてさ。普通死ぬだろ。いや知らんけど。
体を起こそうとして――
「起きたか」
低い声。
びくっとして振り向く。
部屋の椅子に座っていたのは、あの男だった。
黒髪。青い目。無駄のない体つき。窓からの光が横顔を照らしている。外套は脱いでいて、簡素なシャツ姿だが、それでも隙がない。
(……ああ、こいつか)
オレを拾ったやつ。
じっと見られる。
逃げるべきか? いや、逃げる体力あるか? ないな。
男は立ち上がり、ゆっくり近づいてくる。足音が静かだ。重いのに、静か。
「水は飲めるか」
返事はできない。
そりゃそうだ。猫だし。
でもオレは一応、前足でシーツをポン、と叩いてみた。なんとなく。生きてるアピール。
男の目がわずかに細くなる。
「問題なさそうだな」
机の上から浅い皿を持ってきて、ベッドの横に置く。透明な水。その周囲で、光の糸が揺れる。
(……やっぱ見える)
水の中にも、細い流れがある。外の空気とは違う、少し密度のある光。
なんだこれ。
オレは皿に顔を近づけ、ぺろりと舐めた。
冷たい。普通の水だ。
なのに、見える。
(なんなんだよこれ……)
ちょっと毛が逆立つ。
「ゆっくりでいい」
男はそれ以上触れてこない。
無理に抱き上げない。撫で回さない。観察はするが、踏み込まない。
……悪くない距離感だ。
水を飲み終えて顔を上げると、男が腕を組んでこちらを見ていた。
「一応、自己紹介しておくか」
自己紹介?
誰に?オレに?
「俺はアレン。冒険者だ」
淡々とした声。
「お前は……」
そこで一瞬、間があった。
「クロ」
――は?
今なんつった?
「黒いからクロだ。分かりやすいだろう」
いやいやいや。
(安直すぎだろ!!)
もっとこう、なんかあんだろ。ノアールとかスーパーブラックとかさ。かっこいいやつ。
クロて。そのまんまじゃん。
オレは思わずアレンを睨んだ。
じっと。無言で。
「……気に入らないか?」
青い目が、少しだけ真面目になる。
オレはぷいっと顔を背けた。
別に? って感じで。
……いや、まあ。
絶対嫌ってほどではないけどさ。
さっき、あの治癒院っぽいとこでも呼ばれてた気がする。眠ってたけど、なんとなく聞こえてた。
低い声で。
「クロ」って。
あの声で呼ばれるのは、ちょっとだけ――
(……良いかもしれないけど)
いや、でも安直だろ。
オレはしっぽをぱたん、と一度だけ打ちつけた。
アレンはそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩める。
「まあいい。嫌なら、そのうち変えればいい」
軽いな。お前が付けたくせに。
……なんだこいつ。
「しばらくはここにいる。宿だ。怪我は治ったが、念のため様子を見る」
宿。
そりゃ路地裏じゃないわけだ。
部屋は広くないが整っている。ベッドが一つ。机が一つ。椅子が一つ。壁際に剣が立てかけてある。鞘からでも分かる、ただならぬ気配。
剣の周囲の光は、密度が違う。絡まり合い、層を成している。
(……なんか、やべぇなあれ)
視線が剣に吸い寄せられる。
アレンがそれに気づいた。
「気になるか」
オレは瞬きをした。
分かるのかよ。
「触るなよ。怪我はしないが、驚く」
いや怪我しないのかよ。ツッコミどころ多いなこの人。
アレンはベッドの端に腰掛ける。
「で」
青い目が、まっすぐこちらを見る。
「クロ、俺と過ごさないか」
唐突。
オレは固まった。
……は?
「拾った責任、というわけではないが。元の場所に戻るなら止めない。ただ――」
一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「路地裏よりは、ましだと思う」
図星。ぐうの音も出ない。
オレは路地裏生まれ路地裏育ちだ。自力で生きてきた。誰かに飼われたこともないし、縛られたこともない。
自由だった。
……腹は減るけど。
雨の日は最悪だけど。
寒い夜は震えるけど。
でも自由だった。
アレンはそれ以上何も言わない。
選べ、という目だ。
強制はしない。ただ、隣にいるという選択肢を差し出している。
(……どうすっかなあ)
オレはベッドの上でゆっくりと立ち上がり、部屋を一周見回してみた。ふらつきはない。窓辺に跳び乗る。外の景色が見える。町並み。人々。遠くの塔。
光が流れている。空気の中に、見えない何かがある。
あの爆発の日から、なぜか見えている。
これが何なのか分からない。でも、あの男の周囲の光だけは、やけに安定している。
落ち着く。
理屈はない。
でも、分かる。
オレは窓から離れ、アレンの前まで歩いた。
じっと見上げる。
青い目と、金色の目が合う。
「……決めたか」
オレは前足で、アレンの右足をとん、と叩いた。
それから、アレンの周りを一周ぐるりと回って、彼の足元に座る。
別に甘えてるわけじゃない。
たまたまそこが落ち着くだけだ。
「……そうか」
アレンの手が、ゆっくりと頭に触れる。
優しい。無駄に撫で回さない。ひと撫でだけ。
それで十分だ。
「よろしくな、クロ」
低い声。
今度は、ちゃんと目を逸らさなかった。
(まあ、いいか)
路地裏も悪くなかった。
でも、たまには違う景色もいい。
オレはもう一歳で大人だし? 柔軟だし?
冒険者ってのも、ちょっと面白そうだし。
アレンの足に体を預ける。
心臓の鼓動が、さっきより近い。
規則正しい。安心する。
(よろしくな、アレン)
声にはならないけど、たぶん伝わるだろ。
そんな気がした。
こうして、オレ――クロの新しい日常が、静かに始まった。




