27話
空は、さっきまでの騒ぎが嘘みたいに静かだった。
守護竜アウルディオンは巨大な翼をゆっくりと広げたまま、空中に浮かんでいる。ほんの少し羽ばたくだけで体が安定するらしい。あれだけの巨体なのに、まるで空気に支えられているみたいだった。
暴風はもうない。さっきまで空を切り裂いていた炎も、轟音も消えている。
ただ、風が流れているだけだ。
オレはアレンの腕の中で、まだ少しドキドキしていた。さっき落ちかけたせいで、心臓が落ち着かない。
だけどそれよりも――
さっきの声。
『小さきものよ、礼を言う』
あれは、確かに聞こえた。
耳じゃない。頭の中に直接響いた。
オレが竜を見上げていると、再び声が響いた。
『先ほどは世話になった』
低く、深い声。
山の奥で響く雷みたいな、重い声だった。
オレは思わず周りを見た。
……今のも聞こえた?
その横で、ダリオが腕を組んでいた。
「はっきり聞こえたな」
「ああ」
アレンが短く答える。
竜がゆっくりと首を動かす。黄金の瞳がこちらへ向く。
『念話だ』
声が続いた。
『声ではない。頭へ直接届く言葉』
念話。
確かに、そんな感じだ。耳から聞こえる音じゃない。頭の中に、意味そのものが落ちてくる。
竜の声は落ち着いていた。
さっきまで暴れていたのが嘘みたいに。
『先ほどまで、それが使えなかった』
アレンが小さく頷く。
「……あの足環か」
『その通りだ』
竜の翼がゆっくり動いた。巨体が少し高度を下げる。
『我の体の中には魔石がある』
竜の胸の奥。
オレには見えていた。
あの強い光。
『そこから魔力が生まれ、全身を巡る。念話もその力を使う』
竜は淡々と説明する。
『だが、あの輪がそれを吸い上げていた』
オレは足元を見る。
さっき外れた黒い輪は、もう空のどこかへ落ちてしまっただろう。
『最初は小さな違和感だった』
竜の瞳が少し細くなる。
『魔力の流れがわずかに乱れる。体が少し重くなる。それだけだった』
だけど。
『時間が経つにつれ、力が削がれていった』
声は静かだが、重みがあった。
『念話が使えなくなった』
それはつまり、誰にも助けを求められないということだ。
『そして足首に痛みが走るようになった』
竜の後ろ脚がわずかに動いた。
『魔力が吸われるたび、体の奥が軋むようだった』
ダリオが低く口笛を吹く。
「そりゃたまらんな」
竜は続ける。
『だが我にはどうすることもできなかった』
巨大な爪がわずかに開いた。
『自分の足首を噛むこともできぬ。爪で外すこともできぬ』
確かにそうだ。
竜の体は大きすぎる。自分の足首なんて見えないだろうし、仮に見えたとしても、あんな小さな輪を外すなんて無理だ。
『やがて痛みは強くなった』
竜の翼がゆっくり動く。
『魔力が流れるたび、体の奥が焼けるようだった』
それで。
あんなふうに暴れていたのか。
怒っていたんじゃない。
苦しかったんだ。
『あのまま続けば』
竜の声が少し低くなる。
『我は完全に正気を失っていただろう』
アレンの表情が少し険しくなる。
「……完全に暴走する可能性があったか」
『うむ』
竜が短く答える。
『我が守るべき城も、人々も、この王都も、我自身が壊していたやもしれん』
ダリオが腕を組んだまま言う。
「それは洒落にならねぇな」
守護竜が本当に暴走したら。
この城なんて簡単に壊れる。
街だって無事じゃ済まないだろう。
竜の瞳が、ゆっくりこちらへ向いた。
『だからこそ』
黄金の瞳。
巨大な瞳が、はっきりオレを見ている。
『小さきものよ』
オレの耳がぴくっと動く。
『助かった』
声は静かだった。
『感謝する』
オレはちょっと照れた。
「……にゃ」
どういたしましてみたいな感じだ。
ダリオが笑った。
「おいおい、猫が竜に礼言われてるぞ」
アレンが小さく息を吐く。
「本当に無茶をする」
でも怒っている感じじゃない。むしろ少し安心しているようだった。
ダリオがふと顔を上げた。
「で」
腕を組んだまま竜を見る。
「そんな足環、誰がつけたんだ?」
空気が少しだけ変わった。
竜の瞳がわずかに細くなる。
すぐには答えない。
数秒の沈黙。
それから。
『……新人の世話係だな』
オレとアレンは同時に顔を見合わせた。
「新人の?」
アレンが聞き返す。
『我の世話を担当する人間がいる』
竜の声が続く。
『鱗の手入れ、餌の管理、体調の確認』
つまり、飼育係みたいなものか。
『最近、新しい者が来た』
ダリオが眉を上げる。
「新人か」
『ああ。あの者が我の足元へ近づいたことがある』
竜は淡々と言った。
『その時だろう』
つまり、その新人が。足環をつけた。
ダリオが肩をすくめる。
「ずいぶん分かりやすい話だな」
アレンも静かに頷いた。
「そいつに話を聞いてみるか」
竜の翼がゆっくりと動いた。
巨大な体がゆっくりと下降していく。
王城の中庭が近づいてくる。
騎士たちがだんだんと近づいて見える。
そしてオレは、なんとなく思った。
(……新人の世話係)
それってつまり。
犯人。
もう分かってるようなものじゃないか。
だけど。
胸の奥に、小さな違和感が残っていた。
あんな竜を暴走させる道具。
あんな危険な足環。
ただの新人が持っているだろうか。
(……誰かに渡された?)
そんな気がする。
竜の巨大な影が、中庭の石畳に落ちた。
ドォン……。
重い音とともに、守護竜アウルディオンが静かに着地する。
戦いは終わった。
だけど――事件は、まだ終わっていない。




