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2話


 町の中央通りから一本外れた石畳の道を、黒衣の男が歩いていた。


 夜はまだ更けきってはいない。酒場の灯りは残り、遠くから笑い声が漏れてくる。だが男の周囲だけは、不思議と音が遠い。


 その腕の中には、小さな黒猫が抱えられていた。


 ぐったりとしているが、呼吸はある。かすかに上下する胸が、命の証だ。


 男――アレンは視線を前に向けたまま、一定の速度で歩いている。


 焦っているようには見えない。


 だが、その歩幅はわずかに広い。


 路地裏で起きた魔術暴走は、すでに収束していた。暴れたマナは散り、破壊された石壁だけが痕跡を残している。


 それでも、妙だった。


 収束の仕方が、どこか引っかかる。


 暴走は通常、荒れ狂ったあとに自然と散る。だが先ほどのそれは――削がれたように消えた。


 何かが“抜け落ちた”ような感覚。


 アレンは思考を一度切る。


 今は優先順位が違う。


 腕の中の体温が、ほんの少しだけ冷えている。


 角を曲がり、白い石造りの建物の前で足を止めた。


 窓辺に吊るされた乾燥薬草が、夜風に揺れている。入口の横には、治癒術師の紋章。


 アレンは扉を押し開けた。


 チリン。と小さな鈴が鳴る。


「はい、いらっしゃ――あら」


 受付にいた女性が顔を上げる。


 栗色の髪を後ろで束ね、落ち着いた瞳をした女性だ。三十前後、穏やかな雰囲気をもつ治癒術師。


 アレンを見ると、彼女の目が一瞬だけ見開かれる。


「アレンさん」

「久しぶりだな、エリシア」


 声は低く、簡潔だ。


 彼は余計な前置きをしない。その代わり、必要なことは端的に伝える。


「魔術暴走があった。路地裏だ。こいつが巻き込まれた」


 そう言って、黒猫を診察台の上にそっと置く。


 動作は丁寧だ。


 荒事を生業にする男とは思えないほど、慎重に。


 エリシアはすぐに仕事の顔になる。


「……可哀想に」


 焦げた毛並み。裂けた皮膚。衝撃で打った痕。右後ろ足には軽い捻挫の兆候もある。


 彼女は手際よく確認していく。


「生きているのが不思議なくらいですね」

「そうか」


 アレンの声色は変わらない。

 だが、ほんのわずかに、肩の力が抜けた。


 エリシアはそれを見逃さない。


「大丈夫です。きれいに治りますよ。時間は少しかかりますが、後遺症は残りません」

「……なら良かった」


 本当に、それだけだ。

 だがその一言に、安堵が滲んでいる。


 エリシアは小さく微笑む。


「相変わらずですね。もっと心配だとか、焦ったとか、ないんですか?」

「必要なら言う」

「今回は?」


 わずかな沈黙。


 アレンは眠る黒猫を見下ろした。


 黒い毛並みは煤でくすんでいるが、形は整っている。野良にしては毛艶も悪くない。


「……必要ない。治るならそれでいい」


 そっけない。

 だが視線は、ずっと離れない。


 エリシアは棚から術式が刻まれたスクロールを取り出す。


 術式を発動させると、淡い緑色の光がにじみ出る。


 それは柔らかい波のように黒猫を包み込んだ。


 裂けた皮膚がゆっくりと閉じていく。焦げた毛が再生し、血の滲みが消えていく。


 治癒院の空気は穏やかだ。


 窓から差し込む月明かり。乾燥薬草の匂い。遠くの時計塔が鳴らす夜半の鐘。


 外の騒ぎが嘘のように、静かだった。


「……それで」


 エリシアは治癒を続けながら尋ねる。


「この子、どうするんですか?」

「どう、とは」

「飼うんですか?」


 少しだけ、からかう響き。


 Sランク冒険者。国家を越えて自由に移動できる存在。王族すら頭を下げる男が、猫を抱えて治癒院に駆け込む姿は、正直珍しい。


 アレンはわずかに目を伏せた。


「……こいつが許してくれそうならな」

「え?」

「なあ?」


 そう言って、眠ったままの黒猫に視線を落とす。


 当然、返事はない。


 だがその瞬間。

 黒い尻尾が、ほんのわずかに動いた。


 エリシアは目を丸くする。


「聞こえてるんですかね」

「どうだろうな」


 アレンの口元が、わずかに緩む。

 それはほとんど誰も気づかない程度の変化だった。


「名前は?」

「まだだ」

「じゃあ、どう呼ぶんですか」


 アレンは少し考え、そして答えた。


「……黒いな」

「はい」

「黒い」

「ええ」

「……クロでいいか」


 あまりにもあっさりしている。


 エリシアは一瞬ぽかんとし、それから吹き出した。


「安直すぎません?」

「分かりやすいだろう」


 アレンは眠る黒猫を見下ろす。


「クロ」


 低く、穏やかな声。


 名を与えるという行為は、本来もっと重いものかもしれない。


 だが彼は気負わない。そこに在るものを、そのまま呼ぶように。


「まあ……いいんじゃないですか」


 エリシアは肩をすくめる。


「許してくれたら。なんて言うなら、目を覚ましたら、ちゃんと許可を取ってくださいね」

「ああ」


 治癒が終わる。


 黒猫の体はすっかり整っていた。呼吸は安定し、傷も消えている。


 エリシアはそっと抱き上げ、アレンに手渡した。


「今日は安静に。無理はさせないでください」

「分かった」


 アレンは受け取り、胸元に抱き寄せる。

 その腕は大きく、安定している。


 扉を開けると、夜風が流れ込んだ。


 町は静まりつつある。だが遠くの空気は、まだわずかにざわついている。


「クロ」


 もう一度、名を呼ぶ。


 小さな耳が、ほんのわずかに動いた。


 気のせいかもしれない。


 それでもアレンは、ほんの少しだけ目を細めた。


「しばらく、付き合え」


 誰にともなく告げる。


 夜の石畳を、黒衣の男は歩き出す。


 その腕の中で、黒猫はまだ眠っている。


 名を与えられたことも。

 これから始まる日々も。


 まだ、何も知らないまま。


 だが確かに――


 運命は静かに、繋がった。

 

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