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1話


 その日、路地裏はいつもより騒がしかった。


 オレの寝床は、壁と壁の隙間みたいな場所だ。昼間でも薄暗くて、雨もしのげる。人間はあんまり入ってこないし、ネズミもそこそこ通る。悪くない。むしろ結構いい感じの場所だ。


 夜の石畳は、昼よりもずっと冷える。


 昼間に蓄えた熱はとうに逃げ、湿り気だけが残っている。腹を地面すれすれまで落とすと、その冷たさが毛皮を通してじわりと染みこんできた。


 オレは身を伏せた。


 細い路地裏。両側の壁は古く、ところどころ漆喰が剥がれ落ち、煉瓦がむき出しになっている。高い位置にかかった洗濯物が、夜風にわずかに揺れていた。


 匂いが重なっている。


 腐りかけの野菜。濁った水。古い木箱。油。鉄。


 その奥に、かすかな、生きた匂い。


 ねずみ。


 瓦礫の隙間に、灰色の尾が一瞬だけ見えた。


 黒猫の黄金の瞳が細くなる。


 腹が減っている。


 昨日は他の奴に奪われた。今日の昼は人間の子どもに石を投げられ、獲物を逃した。今回は失敗できない。


 息を、止める。


 世界が、静かになる。


 遠くの通りから流れてくる笑い声も、鍋を打つ金属音も、すべて薄くなる。耳の奥で、自分の心臓だけが鳴っている。


 とく、とく、とく。


 尾の先が、ゆっくりと揺れる。


 前足を、半歩。


 石畳の隙間に爪がかすれる。音は立たない。


 ねずみはまだ気づいていない。鼻先をひくひくと動かし、何かを齧っている。


 あと、三歩。


 一歩、二歩。


 筋肉がしなり、跳躍のために溜められていく。


 飛べる。


 路地の向こうから、怒鳴り声がした。


「だからその式は違うと言っているだろう!」

「理論上は問題ないはずだ!」


 人間の声。しかも複数。苛立ちと焦りが混ざった匂いがする。魔術師だろうか。ああいう連中は、時々この辺りで実験めいたことをする。正直、迷惑だ。


 耳がぴくりと動いた。が、今はそれよりも。


 一歩踏み込み、一気に目の前のねずみに向かって跳躍する。


 獲ったっ...


 その瞬間だった。


 ――空気が、裂けた。


 白。


 音が消え、次の瞬間、爆ぜる。


 地面が震える。眩い光が路地の奥から爆ぜ、衝撃が壁を伝って押し寄せる。石が砕ける音。人間の悲鳴。焦げた匂い。熱。


(……は?)


 次の瞬間、オレの体は宙に浮いていた。


 何かに弾き飛ばされた。視界がぐるりと回転する。背中から地面に叩きつけられ、肺から空気が強制的に吐き出された。息が、できない。


 痛い。熱い。うるさい。


 高い音が、頭の中でなり続ける。


 でも、それよりも。


 視界が、おかしい。


 空気の中に、光が満ちている。


 きらきら、なんて可愛いものじゃない。


 嵐みたいに、色のない光が渦を巻いている。流れている。ぶつかり合っている。


 さっきまで何もなかったはずの空間が、何かで、満ちている。


(なんだよ……これ……)


 目を閉じても、見える。


 瞼の裏でも、光が走る。糸みたいな線が絡まり、ほどけ、また絡まる。


 その中に、濁り。


 灰色。黒に近い灰。


 煙みたいなのに、上にいかない。地面に沈んでいる。


 流れない。


 光は荒れて流れているのに、それだけが、そこに溜まっている。


 嫌だ。


 理由はない。


 でも、嫌だ。


 毛が逆立つ。喉の奥がきゅっと締まる。


 灰色の塊が、わずかに、脈打った。

 呼吸をしているみたいに。

 

 耳鳴りは消えない。体は動かない。前足に力が入らない。


「くっ、制御できない...!」

「おい!引くぞっ」


 遠くで、何かが崩れた。


 人間の声が、途切れた。


 代わりに、空気の中の光がさらに荒れ狂う。暴風だ。光の暴風が、世界をかき回している。



 その中に、ひとつだけ。


 違う流れがあった。


 荒れた光の奔流の中を、まっすぐに進む、静かな流れ。


「……魔術暴走か」


 低い声。落ち着いている。


 世界が壊れかけているのに、その男の周囲だけ、空気が整っているような。


 男の胸のあたりに、光が集まっているのが見える。


 大きい。濃い。澄んでいる。


 そこから、整った流れが広がる。


 荒れ狂っていた光が、押さえ込まれる。

 裂けていた流れが、縫い合わされる。

 暴風が、静かな風に変わる。


 それは青に近い、澄んだ色をしているように見えた。


 耳鳴りが、少し遠のく。


 重い足音が近づく。


 視界の端に、黒い影。

 長い外套。揺れる黒髪。青い瞳。


 オレを見下ろす、その視線だけが、やけに鮮明だった。


「……巻き込まれたか」


 低い声。落ち着いている。周囲はあんなに壊れていたのに、この男だけ、嵐の外にいるみたいだった。


 男の周囲の光は、穏やかに流れている。暴れない。乱れない。強いのに、静かだ。


(なんだこいつ……)


 オレは、かすれた息を吐いた。鳴き声にならない。喉が焼けたみたいだ。体のあちこちが痛い。右の後ろ足がうまく動かない。血の匂いがする。


 男が膝をついた。


 大きな手が、そっとオレの体の下に差し込まれる。不思議と、怖くない。


「生きてるな」


 その声は、確認するみたいでいて、どこか安堵していた。


 男の手の中で、光が集まる。


 今まで見えていた荒れ狂う光とは違う。整っている。規則正しい流れ。男の胸のあたりから、腕を通って、掌へ。そこからオレへ。


 体の中に、何かが流れ込んでくる。


(あ……)


 温かい。いや、熱いわけじゃない。内側の荒れが、少しずつ静まる。

 

 痛みが、少しだけ遠のいた。


 遠くで、誰かが叫んだ。


「竜人の……!」


 その言葉の意味は分からない。でも、周囲の空気が変わったのは分かった。畏れと、安堵と、敬意が混ざった匂い。


 男は一度だけ周囲を見回し、静かに立ち上がった。


 オレを腕に抱いたまま。


「治癒院だな」


 誰に言うでもなく呟く。


 その胸元に、オレは収まっていた。鼓動が聞こえる。一定で、ゆったりしている。さっきまで世界が壊れそうだったのに、この鼓動だけが、やけに安定していた。


(……助ける気かよ)


 別に頼んでない。


 オレは、ひとりで生きてきた。路地裏は甘くない。優しくもない。でも、まあ、悪くもなかった。


 なのに。


 どうして。


 男の青い瞳が、もう一度オレを見る。


 強い光を宿しているのに、どこか柔らかい。


「もう少しだ。死ぬなよ」


 命令みたいでいて、願いみたいな声。


(……勝手だな)


 でも、どこかほっとする。


 体が、重い。まぶたが落ちる。


 オレの中にも、何かが変わっている気がした。


 さっきまで、ただの路地裏だった。


 今は、うるさい。


 光が、多すぎる。


 男の胸に顔を押しつける。


 革と鉄と、風の匂い。


(本当になんなんだよ……急に……)


 処理しきれない。猫の頭じゃ追いつかない。


 男の腕の中で、揺れが心地いい。


(……ああ……)


 完全に意識が落ちる直前、オレはぼんやり思った。


(……もし今死んでも、こいつの腕の中なら…悪くないかもな…)


 視界が、闇に沈む。


 光も、音も、匂いも、全部遠ざかる。


 でも。


 寒くない。怖くない。


 鼓動が、ゆっくりと響く。


 光が薄れていく。

 灰色が遠ざかる。


 青い瞳が、最後に揺れる。


 鼓動が、遠くなる。



 それも、やがて聞こえなくなった。

 

はじめまして。今日のご飯はねこまんまです。

お読みいただき、ありがとうございます。

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