七章
七章
あれから数週間が経ち、レオンは記録を眺めながら溜息を洩らしていた。エリス・グレイの体調はすっかり回復したものの、人としての温かみを捨てた少女が見せたいくつかの不可解な行動に頭を抱えていたからだ。特にその中でも、食事を与えると特定の食物を眼にした途端、怯えた顔をしながら避けたり、こちらから言葉を掛けぬ限り、大切に飾られた人形の如く椅子に坐り、眠りにつくまでずっと窓の外を眺めている行為に悩まされていた。一体、何が少女をこのようにさせたのだろう? 人が持つ温かみを捨ててしまったか? と、これまで磨きあげた智慧と経験を頼りに、思考を巡らせるもそれらの過程に結び付くものを見出せず、焦立ちを募らせる。かれは、一度書類から眼を離し、額を摩り、気を紛らわそうと、巻煙草入れとマッチ入れに手を伸ばそうとしたその時だった。
「相変わらず怖しい顔をしているのね。なにをそんな焦立っているの?」
後ろから聞き覚えのある凛とした声、自然なドイツ語に驚き、レオンは椅子から飛び上がって、振り向いた。そこには、かれと同じ色の髪、大きな碧い瞳、太く釣り上がった濃い眉、細長い鼻、角張った顔の女が立っていた。思わず、机の前に立っているイアンを横目で睨む。
「あら、『どうしてお前がここにいるのだ?』と言いたそうな顔ね。私は、優しいから教えてあげるわ――愛しい弟の顔を見にきたのよ」
レオンは首の横を摩りながら、鼻を鳴らすと、姉マティルダにドイツ語でわざとらしく嫌味を洩らす。「マティルダ、わざわざその為に来てくれたのか。あまりの嬉しさに涙が溢れそうだ」
「あら、言葉では嬉しさを物語っても眼は歓迎していないと言っているわね――それより、意地の悪い遠い、遠い親戚の子供を預かっているみたいじゃない。リアムの服まで与えて、随分と可愛がっているように見えるわ。いつどこで拾ったの? バーニーに勘付かれるのも時間の問題よ」
脣を尖らせ、弟は不機嫌そうに姉から眼を逸した。懶い空気になり、耐え難い沈黙が訪れる前に、イアンはマティルダに向き変わって答える。「お姉さん! ロンドン橋で落ちそうになったところをレオンに助けてもらったんだ。僕に取って命の恩人だよ。バーニーに、今のところ、怪しまれている様子はないからきっと大丈夫だと思う」
姉は驚きで眼を見張ると、すぐさまレオンの顔をまじまじと見つめる。弟は呆れ、溜息混じに「その子が嘘を述べる必要があると思うか? 仮に、俺がお前に嘘を述べたとしよう――この後、頭を抱えるほど面倒なことが起きるだけだ」と、言って再び椅子に坐った。マティルダは大きな音を立てて息を吸うと、ゆったりとした足取りで少年の元に歩み寄り、腰を落として柔和な微笑を泛べ、温かく優しい声で言った。
「自己紹介が遅れてしまってごめんなさい。レオンの姉マティルダよ。マティルダと呼んで頂戴。ロンドン橋ってことは、例の件の帰りに出会ったのね――けど、どうして上流の子供がここにいるの? 家族と離れて、それなりに時間が経過しているの思うのだけど心配していないかしら?」
「ロンドンでお父さんと一緒にいたけど、途中で逸れてしまったんだ。数週間前、レオンが探偵を雇って、お父さんを探しているよ。お父さんと再会するまでの間、ここに身を置かせてもらうことになったんだ。それと、僕はイアン・グレイ。孤児院で育ったから上流の子供じゃないよ」
マティルダは、戸惑い、一瞬眉を顰める。が、すぐに微笑み、喋り続けた。「そうだったのね。イアン、後程、孤児院について詳しく聞かせて頂戴! 刺激に溢れ、文化の街と呼ばれているロンドンと違って、カンタベリーはとても退屈じゃないかしら? 大聖堂や修道院を除けば、豊かな自然以外何もない土地よ」
「そんなことないよ! レオンに街や大聖堂に連れて行ってもらったり、自然とも触れ合えるからとても充実した時間を過ごせているからロンドンにいた時より、ずっと楽しい! お父さんに会えたら、一緒にカンタベリーを見て廻りたいと思ってるよ」
「その言葉を聞けて嬉しいわ! 一日でも早くお父様に再会できると良いわね。ところで、お父様はどんな人か伺っても宜しくて?」
「うん! もちろんだよ! お父さんの名前は、ラファエル・グレイ。生まれつき髪は白くて、僕と同じ碧い瞳をしているよ。優しくて、沢山のお話を聞かせてくれる程、とても物知りなんだ」
「そう、素敵な人なのね」姉は弟の方へ向き変わって、尋ねる。「ねえ、レオン! ラファエル・グレイと言う名に心当たりはないかしら? 私の記憶に間違いが無けば、お父さんと関わりのある人物だった気がするわ」
「マティルダ。俺は、一切の心当たりがないから探偵を雇っているのだよ。しかし、聞き覚えがあると言ったが、それは一体、いつの話なのだ?」
「相変わらず、回りくどい言い方ばかりするのね。まあ、良いわ。私たちが幼かったときのことよ。昔のことだから鮮明に思い出せないのだけど、お父さんのとても親しい人の一人に白い髪の若い殿方がいた気がするの」
非協力的な弟は、素早く首を横に振った。マティルダは唇を尖らせ、目を細める。
「期待に応えてやれなくてすまない。生憎、俺はお前より物覚えが悪いのだよ」
「勘違いしないことね。初めからあんたに期待していないわよ――それより、例の件だけど断ったそうじゃない。バーニーから聞いたわよ」その瞬間、レオンは怖しい形相で姉を睨んだ。マティルダは、続けて言う。「そろそろ身を固めたらどう? あんたはとうに結婚適齢期は過ぎているのだし、いつまでも独り身でいると悪い噂を流されるわよ――黒死病のようにね」
ナイフで胸を深々と突き刺すような鋭い言葉に、レオンは頬を火の如く赤らめ、憤慨し、立ち上がって叫んだ。「放っておいてくれ! 限嗣相続による縁談の話を持ち掛けられた時、そろそろ身を固めるべきだと覚悟していた。だが、純血ではない、夫となるものが職に就いているのは貴族として相応しくないと言われた上に、父を穢らわしい異邦人の醜女を娶り、ハワードの名に泥を塗った愚者だと侮辱されたのだぞ? マティルダ、それでも俺に身を固めろと言うのか!」
「落ち着いて――私は、限嗣相続で身を固めろだなんて言ってないわ。お父さんとお母さんのように恋愛結婚と言う手段があるじゃない」
「今更、恋愛しろと? 馬鹿馬鹿しい! もう結婚の話はしないでくれ! これ以上、偏見によって父と母を侮辱されたくない」
「お父さんとお母さんが侮辱されて腹立たしいのはよく分かるわ! だけど、あんたが怒り叫ぶほど結婚を拒む理由はそれだけなの? それらを含めて、本当は血筋や自分自身を否定されるのが怖いのでしょう?」
姉は弟のことを見通していた。かれがロンドンで迫害を受け、自己統一性を失い、純粋な英国人でもなければ、ドイツ人でもない己自身に強い劣等感を抱いていることを十分に理解しているからだ。怒りで激しく燃える焔は涙で消え、次第に悲痛の影がレオンの顔を覆い、薄い脣を顫わせる。かれは俯き、姉と少年を横切って、逃げ出すかのように書斎室から飛び出た。マティルダは慌てて、大声で呼び止めるも、かれは一瞥を与えることなく、階段を降りて、屋敷から飛び出す。扉の閉まる音が屋内に大きく響き渡り、虚しさと沈黙だけ残った。二人はしばらく黙り込んだあと、イアンが口を切った。
「あんなに怒っているレオンは初めて見たよ。何を言っているのか分からなかったけど、一体どんな話していたの?」
姉ははっとして、少年の方に向き変わると、弱々しい微笑を泛べ、憂を帯びた声で話し始める。「見苦しいところを見せてしまってごめんなさいね。レオンと結婚について話していたのだけど、縁談先の相手に残酷な言葉を浴びせられたみたいなのよ。限嗣相続ではなく、恋愛結婚で身を固めたらどう? と、提案してみたのだけど、どうやら逆鱗に触れたみたい――だけど、混血、職に就く中流階級出身の人間を夫にしたくないだなんて貴族もとても傲慢よね。跡継ぎがいないから遠縁のレオンをカンタベリーから呼び出し、熱烈な罵倒で歓迎するだなんて許し難いし、同じハワード家の血を引いている人だなんて思いたくないわ。現に王室の血筋なんてドイツ系じゃない……」
「自分たちと違うから拒絶する――なんだかヴィクター・フランケンシュタインが創造した怪物みたいだね」
「怪物で例えるだなんて聡明な子なのね。境遇は異なるけど、レオンはロンドンで怪物のように人々から手酷く拒絶され、臆病になり、周囲を見渡しても自分と同じような存在がいなければ、耳にしたことすらもない――その耐え難い孤独に悩まされている点は、共通しているわね。時々、レオンがロンドンに行くことに対して、私が必死で止めていたら、そして両親が亡くならなければ、孤独で苦しむことはなかったと考えることがあるの。人生の選択に正解だなんてないのに……」
痛ましい表情を泛かべたイアンは、レオンと初めて出会った地で過ごした僅かな時間をすぐに思い返す。今でこそ、穏やかな顔を見せるが、ロンドンと言う世界に置かれていたかれは、顔つきは暗く、一つ、一つの言葉は冷淡さを含み、心煩意乱としていた。それだけではない――共に過ごしていく中、愚かなる好奇で、かつてレオンが監察医として過ごした文化の街について尋ねる度、飄然とした態度を見せることもあれば、愁いを帯びた微笑を泛べ、どこか遠くを眺めながら、黒く澱んだ虚ろな眼で語る姿が脳裡によぎると、少年は胸を強く締める罪悪感を覚えた。
「だから、ロンドンを嫌っていたんだね」と呟く。マティルダは首を傾げ、イアンに眼を注いだ。
「なんでもないよ!」少年は、戸惑いながら訊く。「マティルダ、ご両親を亡くした理由を聞いても良いかな?」
泉の如く湧き出るの悲哀の情を押し殺し、眼にうっすらと涙を滲ませながら、姉は静かに語り始める。その顔には、弟とよく似た陰が帯びていた。
「やはり話していなかったのね――両親の死因は事故よ。暴走した馬車に轢かれ、死後写真を残すことができない無惨な姿で亡くなったの。既に気づいているでしょうけど、部屋にある一部の時計が止まっていたり、鏡が布で覆われているものがあるでしょう? レオンは、唯一の理解者であった両親の死を今でも受け容れられずにいるのよ――ずっと変えることのできない過去に立ち止まって後悔ばかりしている。あなたに訊くことではないけど、どうすれば、孤独から解放してあげられるのかしら?」
「同じ孤独を抱えてる人と巡り会えたら、解放されると思う。怪物も孤独だったからね」
「そうね。イアンの言う通り、同じ人に巡り会えたら、きっと――けどね、例えとして、名もなき怪物を出すのはすばらしいし、確かに怪物は孤独だったわ――だけど、彼はあらゆる罪を重ねたのを忘れちゃダメよ。本来は沢山の人を殺めて、他責だったのだから! 本当に孤独だったのはヴィクターよ」
愛おしげな眼差しをイアンに注ぎ、頭を撫でようとしたその時、書斎室にノックの音が鳴り響き、扉を開らく。二人は、憂愁に閉ざされたアンに眼を注ぐと、メイドは口を開く。「マティルダ、旦那さまが何も言わずに出て行かれたのだけど、また口論でもしたの?」
「例の件でね――きっと両親とリアムのお墓参りにでも行ったのでしょう。ねえ、アン――私が使ってた部屋に白い髪の女の子が見えたのだけど、どう言う訳か、結果だけを教えてくれないかしら?」アンは溜息混じりに言う。「ある日突然、急患で運ばれて、身元がわかるまで旦那さまが保護することにしたの。探偵も雇っているわ」
「急患に探偵ね――私が想像する以上に、面倒なことに巻き込まれてるみたいね。それで、名前は? 一体どんな子なの?」
「名前はエリス・グレイ。外見を含めて、例えるならお人形みたいな子かしら――感情表現は乏しくて、ほとんど会話を交わす事なく、ずっと椅子に座って窓の外を眺めているわ。それから、旦那さまを見ると怯えるの」
「ずっと椅子に座って外を眺めてる――レオンを見ると怯える件だけど、まさか、一度も言葉を交わしていないの?」
二人は僅かに眼を泳がせると、互いに眼を合わせて、物憂げな様子で小さく頷いた。苺色の唇を噛み、怪訝そうに姉は言う。「なんだか不思議な子ね。それにしても、失踪した若い男エリス・グレイの正体は、人形のような女の子だったと、世間が知ったら一体どんな反応を示すのかしら? 二人ともお会いしても良くて?」
二人が頷くと、マティルダは「二人とも良いわね? お紅茶とお茶菓子を用意して頂戴!」と言い、足早にかつての自室へ向かって、ノックしてから中に入った。
すると、黒いショールを羽織り、首元、袖口、裾にはフリルが施され、足首丈まである滑らかな肌触りをした奥ゆかしい純白のネグリジェを纏うエリス・グレイが驚いた様子で振り向く。少女は、立ち上がって薄紅色のカーテンの裏側へ隠れて僅かに顔を覗かせた。姉は、ゆっくりと歩み寄りながら少女を宥めるように語りかけた。
「急に驚かせたしまってごめんなさい。突然、見慣れない女の人が入ってきたら怖いわよね――私は、常に険しい顔をしているレオンの姉マティルダよ。弟に意地悪はされていないかしら?」
エリスは首を縦に二度頷く。姉は続けて喋る。「そう、それなら良かったわ――あなたの名前を教えて下さるかしら?」
少女はしばらく黙り込んだあと、「エリス・グレイ」と小鳥のような声で囁いた。
「エリスね、今日は心地良く素敵な天気ね。常にどんよりとしている日が続いているものですから、とても貴重な日よ。ご一緒に散歩はいかが?」
「『外の世界は危険だ』」と、お父さまが言っていたから出たくない」と、エリスが首を振りながら言う。
「出たくない? 外にいたのに一体どうして?」
菫色の瞳に迷いの色を宿して、再び黙り込む。沈黙の中、閉ざされた少女の口が開くまでの瞬間を待ち続ける。すると、エリスはマティルダの碧い瞳を見つめて囁いた。「ポリーに『お屋敷の中は危険ですから、旦那さまに見つかる前に、今すぐお逃げなさい! 遠く、遠く安全なところまで!』と言われたからなの――ポリーは慌てた様子でわたしに生まれて初めてドレスや被り物を着せて、強引にお外の世界に逃したのだけどずっと独りぼっちで恐かった」
「可哀想に……外でとても恐ろしい目に遭ったのね。どうか安心して――ここは、あなたに危害を加えるものは誰一人いないとても安全なところよ。弟が許す限り、ここに身を置いて頂戴」
不安な様子で少女が俯くと、マティルダは慈愛に満ちた眼差しを注ぎ、側まで歩み寄って白い髪を優しく撫でた。
すると、エリスは顔を上げ、真冬の夜空に煌めく無数の星の如く菫色の瞳を輝かせながら言った。「ポリーと同じ香りがする」
「あら、それは、とても良い香りってことかしら?」姉は、眼を丸くさせて訊ねる。
少女は白い頬を薔薇色に染めて「うん。大好きなポリーと同じお花の香りがするの、あなたの近くに行っても良い?」と言うと、マティルダは微笑を泛べながら頷き、愛おしげに華奢な身体を抱き締めた。母親の温かく豊かな愛情を求める幼子のように、エリスは腕を腰に回し、顔を上げて、姉をじっと見つめながら口を開く。「あなたのお名前はマチルダ?」
「正解と言いたいところだけど、ほんの少しだけ違うわ。マティルダよ、マティルダと呼んで頂戴。ところで、あなたはとても髪が短いのね。肩につかない程度の長さだと、男の子に見えるわ――せっかくの綺麗な顔立ちと白い髪が台無しね。一日でも早く伸びることを願うわ」少女が、小首を傾げながら喋った。「どうして伸ばす必要があるの? わたしはお父さまに『お前は髪を伸ばす必要もなければ、その権利もない』と言われているから伸ばせないわ」
この時代を生きる儚い女性たちの尊厳を剥奪する世にも恐ろしい残酷な言葉に戦慄が走る。同時に、エリスが度々口にする『お父さま』に対して、全身がわなわなと震えるほどの不快感と嫌悪感がマティルダを襲い、「そんなことないわ! 女性としてこの世に生を授けたのに、まるで男性として生きることを強要しているみたいじゃない! これは、おかしなことでもあり、仮に男性として、育てあげたのならば、あなたのお父様は間違っている――いいえ、狂っているわ!」と叫ぶように言うと、エリスは驚きで眼を見はった。
姉ははっとして、「突然、取り乱してしまってごめんなさい! エリス、あなたのお父さまを侮辱する気はなかったの――あなたの髪が短かったり、生まれてから初めてドレスや被り物を着たと言うものですから、不可思議なことばかりで戸惑ってしまったのよ。どうかご無礼を赦して頂戴」
少女は、まるで一つひとつの言葉の意味を理解出来ないかのか眼を伏せる。瞬く間にぎこちない空気が流れ、マティルダは思わず口を紡いだ。これほどまで世間を知らず、塔に幽閉されたラプンツェル、あるいは、鳥籠に囚われた小鳥のように生きてきたのだろうか? と考えつつ、無意味な沈黙が続かぬように適当な会話を続ける。まだか、まだかと何度も扉に眼を注ぎ、アンの合図を待ち続けると、やがてその音は鳴り響いた。
「失礼致します――マティルダ、待ちくたびれたわよって言いたそうね。お待ちかねの紅茶とショートブレッドを用意したから文句は言わせないわよ」マティルダはにこりと微笑み、友愛な眼差しをアンに注ぎながら言った。「まあ! ショートブレッドだなんて素朴で素敵ね。張り切ってヴィクトリアサンドイッチケーキやプディングなどが出てくるかと思ったわ。それに、紅茶は二人の姓に因み、あえてアールグレイを選ぶと思っていたけど違うのね――ちなみに、イアンはどちらへ?」
「イアンさんなら、庭で旦那さまの帰宅を待ちながら読書すると言って外へ――マティルダ、お茶菓子だけどヴィクトリアサンドイッチケーキやプディングはちょっとした手間暇をかけて作らないといけないものだから、すぐに用意できなかったの。その代わり、手軽なショートブレッドにしてみたわ――紅茶は、特に指定がなかったからアッサムよ。ミルクも用意してあるわ。紅茶はともかく、ショートブレッドを口にしてくれれば良いのだけど……」
「砂糖をふんだんに使ったお菓子は老若男女を虜にする耽溺なものなのに、まるでエリスは食べてくれないと言いたげね?」アンは、溜息混じりに言う。「すぐに分かるわ。私は、他にやらなければならないことがあるから失礼するわ。何かあったらいつでも呼んで」
メイドは遠くを眺めて、不満そうに唇を噛みながら、可愛らしい苺の柄が浮き彫りされた乳白色の茶器と焼菓子を乗せた小皿、銀のテーブルスプーンを円テーブルにそっと置き、会釈をして部屋を後にした。
姉は椅子に腰を掛け、「さあ、一息つきましょう」とエリスを促す。しかし、少女は悲しい囀りで言った。「ごめんなさい……お父さまに、『甘いものは毒だから口にしてはいけない』と言われているの」
マティルダは驚きで眼を見はった。が、すぐにおかしげに声を立てて笑った。「そんなことないじゃない! もし毒が入っていたとして安心して良いわ! この家には医者であるレオンがいるのだし、あの子のことだからあらゆる手段を使って解毒してくれるわ」
何か物言いたげな少女に、姉は焼菓子を手に取り、二つに割ると、一つを口に運んだ。エリスは、困惑の眼差しでじっと見つめていると、微笑を泛べていたマティルダの顔が苦痛で歪みだし、口元抑え、激しく咳き込む。咄嗟に、紅茶に手を伸ばし、口に含むも、苦痛から解放されることなく、やがて、姉は床に倒れ込んだ。大いに狼狽する少女は、眼には涙を泛べ、顫える細い咽で声を絞り出し、名を呼ぼうと試みる。
「驚いたかしら?」
突然、笑いながら起き上がるマティルダに驚き、エリスは小さな悲鳴を上げ、踏まれた花のように坐り崩れると、涙を流し、嗚咽の発作に息を詰まらせた。
「ごめんなさい、少し悪戯が過ぎたわね」涙する少女を抱き寄せ、頭を撫でてしばらく宥め続ける。ようやく心が静まり、息を整えたエリスは、姉の名を呼ぶ。
「どうか安心して、私は無事よ。あなたを揶揄おうたとして、やったことなのだけれど、とても愚かな行いだったわ――ごめんなさい」マティルダは少女の涙を優しく拭いながら、言った。「けど、これだけは、分かって頂戴――私が口にしたものはメイドたちが沢山の愛情を注ぎ、作った焼菓子よ。悪意がない限り、毒を盛られることはないわ」
「本当に? 食べても苦しくならないの?」
「もちろんよ! さあ、坐って! ここにあなたのお父さまはいないのだから、私を信じて一口食べてご覧なさい――きっと気に入るわ」
少女は、再び椅子に腰を掛け、マティルダと焼菓子を交互に眼を向けると、姉は微笑を泛かべて頷く。エリスは焼菓子を手に取ると、それを静かに口に運んだ。すると、口の中にふわりと広がるバターの芳醇な香りと甘美な味わいに、少女は思わず微笑み眼を輝かせた。
「どうやら気に入ったようね」
「わたし、こんなにも焼菓子が美味しいだなんて知らなかった」
「そうだったの。今日は一つ素敵なことを学べたわね――エリス、笑った顔がとても愛らしいのね」
少女は驚き、すぐに無機質な表情で訊く。「マティルダは、人形のわたしが笑ってもお父さまのように叱らないの?」
「ええ、叱る理由なんてないからよ」と、マティルダは再び負の情を抱き、眉を顰めながら、喋り続ける。「それに、どうしてあなたが笑みを泛べただけで叱らなければならないのかしら? エリスを含めて、私たちは人形ではなく、人間よ。私たちはね、喜怒哀楽と呼ばれる心を持って、生まれてくるの。その心があるからこそ、喜びや悲しみに怒り、恐怖などと様々なことを感じた時、沢山の笑みや涙を泛べるのよ。エリス、あなたが私の為に、涙を流したり、メイドが焼いた焼き菓子の美味しさに感動を覚え笑みを泛べたのは、その心があるからなの――心が壊れ砕けない限り、人は人形のようになることはなく、意図的になれるものではないと、私は考えているわ。人形とは、人が創り出した美の象徴の一つであり、特定の人々を魅了させる芸術品だもの」
少女は、姉の言葉を重く受け止めたのか、菫色の瞳に迷いの色を滲ませて俯き、己は何者であり、何故この世に命を授け、マティルダが述べる『人間』とは何か? と、父の顔を脳裡に浮かべながら、黙想する。これまで見せ与えられた世界、父の口から語られる数々の怖しい言葉に秘められた真意、求めらる人形としての理想像、そして霧の都ロンドンでの奇怪な体験とハワード家の温もり、それらがエリスを不治の病のように酷く思い悩ませる。やがて澄んだ湖が少しずつ黒く濁るように、青白い顔が苦悩で歪む。
「エリス、どうかそんな顔をしないで。一つ、あなたに訊きたいのだけど、ポリーってどんな方なの?」
エリスは顔を上げ、菫色の瞳を輝かせながら答えた。「ポリーは、わたしが小さいから頃からお世話してくれてる優しい人よ。マティルダのように綺麗な髪の色をしてたけど、今ではすっかり灰色になってしまったの」
「そう、乳母がいたのね。願いが叶うとするなら、もう一度ポリーにお会いしたい?」
エリスは滔々と話す。「もちろん会いたい! 大好きなポリーに会えたら、頬に接吻をするの。そしてわたしを外へ逃した理由を聞きたい」
「分かったわ。レオンに、ポリーを探すように頼んでみるわね――ところで、ここに来てからずっと、その格好なのかしら?」
少女はネグリジェに眼を向けてから頷くと、姉は溜め息を洩らし、椅子から立ち上がって、弟に対する不満を呟きながら箪笥の引き戸を開けた。そこには、目を惹く鮮やかなラベンダー色のドレスと、少女が身につけていたであろう喪服と肌着が綺麗に畳まれて置かれていた。姉はドレスと肌着を手に取り、それらをベッドの上に置いて「少し待っていて」と言い部屋を出た。
軽やかな足取りで階段を降りて居間へ向かうと、声を張って三人のメイドの名前を呼んだ。まもなくすると、円舞曲を奏でるように軽快な音を立てて、端正な顔立ちのアン、どこか気怠げなベティ、あどけなさの残るコニーがマティルダの元へ駆け寄った。
「如何なさいましたか?」とアン。
「エリスのことだけど、昔、私が着ていたラベンダー色のドレスを譲ろうと思っているの。お召し替えを手伝って下さる心優しいメイドはいらっしゃるかしら?」
三人のメイドは顔を合わせて、にこりと微笑む。喜色満面な姉は、メイドたちを連れ、乙女の心を満たす美しいドレスの話題で会話を弾ませながら、少女が待つ部屋へ向かう。扉を開けると、エリスは椅子に腰を掛け、どこか愁を帯びた眼で窓の外を眺めていた。まるでピアノを優しく奏でるような声でマティルダは少女の名を呼び、衣服が置かれたベットの近くまでに来るように促した。メイドたちは青白い肌を覆うネグリジェを脱がすと、綿のシュミーズとドロワーズ、絹サテン生地の白いコルセットの順に着せる。途中、コルセットを締め上げるたび、少女が小さな呻き声を上げた。次に、バッスル、ラベンダー色のスカートとブラウスを着せ、身なり整える。最後に大きな楕円の鏡まで引き連れると、可憐なラベンダー色の淑女を映し出す。
エリスは眼を見張た。水面に映った己に恋焦がれたナルキッソスのように、少女は鏡の自身としばらく見つめ合い、その場でゆっくりと回ってみたり、裾を持ち上げ、不慣れなカーテシーをし、女性である瞬間に現を抜かす。
「旦那さまにお見せしたいほどお綺麗です! エリスさん、旦那さまがお戻りになりましたら、今のお姿をお見せしてはいかがでしょうか? きっと褒めに下さりますよ」
少女は、拒むように首を大きく横に振った。
「そうですか……それは、とても残念です」
「何かやってみたいことはあるかしら?」と、マティルダ。
「綺麗な庭を歩き廻ってみたいの」
すると、コニーが口を開いた。「それでしたら、私たちでご案内しませんか? 新しいお召し物で散歩するのは、エリスさんにとって、素晴らしい時間になると思います」
コニーが賛同の声を上げ、期待の眼差しをマティルダに注ぐ。しかし姉は違った。眉を下げ、二人を裏切るように首を横に振った。
「庭での散歩の件だけど、私ではなく、家の主人であるレオンに話してみなさい。この家の権限はかれにあるのだから」
アンもマティルダに続くように言った。「私もマティルダと同じ意見よ。」
回答に、ベティとコニーは眼を見はった。あまりにもマティルダらしくないからだ。
少女はその眼には、失意の色が帯びていた。そして唇を顫わせてか細い声で言った。「お父様のように、いつも、いつも怒っている顔をしているから打たれてしまうのではないかと恐いの」
「あらぬ誤解を招いてしまってごめんなさい。けして、レオンはあなたのことを傷めることはしないと、断言するわ――かれが、常に怒っているように見えてしまうのは、癖で眉を顰めているだけよ。これは姉として、お願いなのだけれど、どうかイアンと同じように接してあげて。一見、怖しい人に見えるかもしれないけど、あなたが想像するよりもずっと、ずっと繊細で誠実な人なのよ」
少女は、マティルダの精悍な目つきをじっと見つめ、静かに頷いた。姉は、感謝の言葉を述べ、白い髪の下の丸く広い額に接吻をした。
「エリスさん、マティルダの仰る通り、旦那さまはお優しい方ですよ。メイドの我儘を聞き入れて下さるのですから」とベティ。
アンは意地悪く笑いながら言った。「まあ、ベティが旦那さまを立てるだなんて珍しいわね! 常に悪態ついたり、皮肉を言い合うのだから敬遠しているのだと思ったわ」
すると、ベティはポピーの花のように顔を赤らめ、咄嗟に否定的な言葉を並べた。対照に無垢なコニーは、主人に対する肯定的な言葉を並べると、ベティは真っ赤な顔を両手で覆った。まるで仲睦まじい姉妹の会話を眺めるアンは、笑いながら「旦那さまのこと慕っているのね」と言った。その話は終わりですと言わんばかりに、「あんな面倒な人を私が慕うわけないじゃないですか! ほら、都合よく馬車の音が聞こえて参りましたよ! マティルダは久々に愛しい弟にお会してきたらいいと思います」
大笑いしながらマティルダは「そうね、会ってくるわ。ベティも一緒に来なさい。メイドとして出迎えるのよ」と言ってベティを強引に連れ、部屋を後にした。ずっしりと重たい青いドレスを持ち上げて、階段をゆっくり降りる姉に対して、メイドは後に続くように降りていく。階段を下り切った頃には、陰鬱な顔で扉を開けて、今にでもため息を出しそうな顔をした主人が帰宅をした。すぐさまベティは、慣れた手つきでレオンの黒い外套を脱がしウォールスタンドに丁寧に掛けた。
「ベティ。ありがとう、君は下がってくれ」メイドは軽く会釈をして賑やかな二階の部屋に戻った。
そして、先ほどとは対照的な重く苦しい沈黙が二人を支配した。一度も目を合わせることなく、ただただ重い重い沈黙貫く。その沈黙を咄嗟に破ったのは姉だった。
「ねえ、レオン、話がしたいのだけど良いかしら?」
「構わない。しかし、珍しく深刻な顔をしているのだな。何がお前をそうさせている?」レオンが憂鬱そうに答えた。
「エリスのことよ。あの子が、度々口にする『お父さま』に、私は強い憤りを感じるの。レオン、愛おしい嫁入り前の娘に対して、髪を伸ばすことや甘いものは毒であると禁じたり、笑みを見せればと叱るだなんて極めて異常なことだと思わない? 最も、衝撃を受けたのが、まるで虐げられていることを物語る掌や足の裏に刻まれた痛ましい無数の傷跡よ! 同じ子を持つ身として、何故このようなことをするのか全く理解できないわ――それと、あの子の側には、ポリーと言う老乳母が常に側にいて、彼女が『屋敷の中は危険』を理由に、エリスを外へ逃したそうよ――きっと、エリスと父親の間に何かあったのでしょうね」
「『屋敷の中は危険』を理由に逃すとは、実に奇妙だな。そのお優しい老乳母と過保護なお父さまとやらが、二人で手を取り合い、あの子を虐げている可能性はないのだろうか?」
「その可能性は否定するわ! 何かしらの理由で逃したのでしょう。あの子は、ポリーの話題になると、菫色の瞳を真冬の夜空の星みたいに輝かせるの。レオン、あの子が急患として運ばれてきた際、黒いドレスの一部として総レースの黒いカシミヤショールを身につけていたのを覚えているかしら? 今でも、それを肌身離さず身につけているの――ポリーが乳母ではなく、母としてエリスに沢山の愛情を注がなければ、見ることのない光景よ。異論はあるかしら?」
かれは、首を横に振った。
「長らく虐げられたのか正常な判断を下すことが出来ず、一人の人として生きていく事が出来ないに違いないわ。姉としてお願いよ、患者としてでもあり、一人の人間として彼女を救って頂戴!」
「そこまで言うのなら、引き受けよう。俺には否定権はないのだからな」マティルダは歓喜のあまりに弟に抱きつき、耳元で囁いた。
「ありがとう。最後に、しばらく彼女の前ではなるべく眉を顰めないように心掛けることね――あなたを避けているのは、常に不機嫌そうに見えるからだそうよ」
レオンは、姉をそっと引き離すと、その場に座り込み、髪を乱すようにかき上げ、深い、深い溜め息を洩らし、哀愁を帯びた低い声で小さく唸った。
マティルダは、そんなレオンを見て肩をすくめた。「事実を述べただけよ。諦めなさい」と残酷な言葉を残す。ぼそぼそと呟くレオンに容赦なく二階から女性達が現れる。
「どうかされたのですか? 旦那様?」と、アンが言う。
かれは慌てて起き上がり、なんでもないと言いながら慌てた様子で姉の背に隠れるように移動し、背中を向けた。
「少し弟と話をしていただけよ。それより、エリス、ボンネットまで被せてもらったのね! とても可愛らしいじゃない――こうしてまた自分が着ていた服を人に譲って見られるのとても素敵なことね」
エリスは、どこか照れた様子で顔を伏せがちに微笑を泛べた。そんな少女にとって、姉は恐ろしい言葉を口にした。
「そろそろ私は、帰るわ。皆の顔を見ることが良かったわ」すると、エリスが「行かないで!」と叫んだ。
姉は困るそぶりを一切見せる事なく、少女の方を優しく掴みながらこう言った。「エリス、ずっと傍にいてあげたいけど、それだけは赦されないわ。私には、可愛い小鳥と天使が待っているのだから――だけど、どうか安心して頂戴。あなたたちの顔を見に必ずまたここへ来るわ。そして、勇気を持って、私の弟に庭を眺めたいと言ってごらんなさい。きっと、あなたが想像しているよりも、優しげな笑みを浮かべて案内してくれると思うわ。私達とイアンの事も信じてくれたようにどうかレオンのことも信じてあげて頂戴」
涙を浮かべたエリスは、決意をしたように大きく頷いた。マティルダは微笑を浮かべると「さてと、改めて私は帰るわ。愛らしい新人の顔まで見ることが出来てとても満足よ――ところで、イアンは?」
「外で読書をしている」とレオン。
「どんよりとした顔のあんたに声をかける事ができず、きっと読書を続けることにしたのよ。あとで、謝っておきなさい」
「分かっているさ」不貞腐れながらかれは言った。
「それじゃあ、またね」
アンが玄関の扉を開けると、マティルダは皆に手を振りながら、帰路へ向かった。姉がいなくなると、賑やかな空気は一変、しんとした静寂に包まれた。その中ですぐに行動を起こしたのは意外な人物であった。
「姉のマティルダから聞いていると思うが、レオンハルト・ハワードだ――君が俺の名を呼ぶ日が訪れた時には、レオンとでも呼んでくれ――では」少女の元を去ろうと歩み始める。
「あの……」
かれは歩みを止め、振り向き、驚きでエリスに眼を注ぐ。そして、困惑の声色で尋ねた。「今、なんと言ったのだ?」
マティルダの言葉を思い出し、メイドたちの顔を時折、見ながらか細い声で少女はレオンに「あの……わたしを散歩へ連れて行って欲しいのです」と言った。
すると、光を遮る灰色の暗い空の如く、陰るレオンの顔から蕾が開くように穏やかな微笑が泛んだ。少女の元へ歩み寄ると、そっと手を差し伸べた。そして、少女はその手を取った。




