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六章

六章

 長い眠りから覚め、重たい瞼をゆっくり開けると、不鮮明で見慣れない月の色の天井が少女の眼に入った。ここはどこなのだろう? と、恐る恐る、部屋全体を見渡そうと試みる。しかし、魔女の実が齎す毒は、少女の自由を奪い、体を支配していた。痺れる体に力を入れ、抗うかのように必死に起き上がるが平衡を崩し、小さな悲鳴を上げながら、ベットから落ちた。鈍い痛みと餌を求め、悍ましい数の蟻が全身を這うような不快感が少女を襲い、低い呻きが口から洩れる。まもなくすると、部屋の外から重い靴で慌ただしげに床を踏む音が不規則に鳴り響き、勢いよく扉が開いた。

 脊の高い男と蜂蜜色の髪の女が部屋に入り、男が絨毯の上に横たわる少女を抱き上げると、そっとベットの上に坐わせ、憂わしげに「怪我はないか?」と尋ねた。

 すると、少女は体を顫わせ、菫色の瞳を涙で濡らして、怯えた表情で小さく二、三度頷いた。恐怖の感情が迸った眼差しを向けられ、レオンは酷く動揺する。同時に、雷で打たれたかのようなショックを受けた。アンに向き直って、戦々恐々とした少女を宥めるように頼む。メイドは微笑し、快く引き受けると、肩を窄め、溜息を洩らしながら、部屋を出ていくかれを見届けた。

 しばらくすると、「ここはどこなの? あなたは誰?」顫えながら、細く弱々しい声で少女は尋ねた。

「私はメイドのアンです。お気軽にアンとお呼びください。それと、ここは安全な場所ですよ――お聞きしたいのですが、あなたはエリスさんでお間違いないですか?」

 エリスは頷き、囁く。「あの男の人は打たない?」アンは一度眉を顰めた。が、少女の傍に座り、愛情のこもった眼差しを注いで優しい声音で言った。「先ほどの男性はあなたのことをけして痛ぶったりしません。どうか怖がらないで下さい。この家のご主人レオンハルト・ハワードと言うお方でお医者さまでもあり、あなたのお体のことをとても心配されていました。エリスさん、旦那さまにお伝えしたいので、どこか痛いところなどはありません? 不安はことなどもあれば、なんでも仰ってください」

「体が痺れて上手く動かせないの……見えるものがぼやけていてなんだか怖い」

「以前は、きちんと見えていたのですか?」

「うん。このまま見えなくなってしまうの?」

「大丈夫です。霞んで見えるのと体の痺れは一時的なものです。元に戻るまでもう少しだけ時間は掛かりますが、きっと良くなりますよ」

 少女の華奢な体に両腕を回し、顫えが収まるまで荒れた皺だらけの手で白い髪を撫で続ける――やがて心が和らぎ、エリスはすっかりと安心した様子でアンの腕の中に身を委ねていた。

「落ち着いたようですね」両腕をそっと離すと、涙に濡れた少女の頬をハンカチで拭いながら言う。「エリスさん、お水をお持ちいたしますので、少しだけお待ち頂けないでしょうか?」

 エリスは、不安の表情を眼に泛かべながら、小さく頷いた。アンは、立ち上がって、部屋を出ると、顔を厳粛に曇らせた主人が腕を組み、壁に寄り掛かっていた。

「旦那さま、そこにいたのですね――聞こえていたかと思いますが、エリスさんは、ベラドンナの毒で身体の痺れと霞み目に悩まされているとのことです」

「そうか。一秒でも早く、毒を抜くためにもできるだけ多めに水を飲ませてあげてくれ」

「もちろん、そのつもりでいます。では、お水を取りに行って参ります」お辞儀をして、その場を去ろうとするアンに、かれは刺々しい口調で言った。「アン、引き留めて悪いのだが、他に言うことはないのだろうか?」

 ぴたりと歩みを止め、振り返って、どこかぎこちない様子で曖昧に答えた。「特にないかと思いますが……」レオンはいつもよりも低い声で、不機嫌そうに語を継ぐ。「そうだろうか? あの子の……エリスの足の裏や掌にある無数の傷痕は知らなかったと? 着替えは君たちに任せていたとは言え、あれほど目立つ傷だ――誰一人気付かなかったとは思えない。それとも、俺に何か言えない事情でもあったのか?」

 徐々に陰りゆくメイドの表情にかれは、多事多端としている状況下でこれ以上の負担を増やすまいと彼女が秘密にしているのだと悟る。静かな怒りが心の中で渦巻き、わなわなと顫え始める手を強く握り締める。アンを詰問するべきなのか、あるいは愚行を優しさとして受け容れ、赦すべきなのかと、思考を巡らせる。すると、コニーが駆け寄り、レオンに悲しげな声で叫んだ。

「旦那さま、アンを叱らないで下さい! 本当は私が旦那さまに報告するはずでした。きちんと共有できなかった私が悪いのです!」

 二人は驚きに眼を見はった。特に胸に納めた秘密を打ち明けようと、身構えていたアンは言葉が喉に詰まり、狼狽としていた。一方のかれは、渋い顔をして躊躇いながらもコニーに続けて話すように求める。

 コニーは、眼に涙を滲ませながら、語り始める。「エリスさんの手足にある鞭で打たれたような傷痕を見つけたのは、お召し替えをした時でした。とても痛々しく残酷なものでしたので、私たちはしばらく言葉を失い、旦那さまにすぐ報告するべきか悩んでしまいました。いつも冷静なアンが、まるで怖しいものを見たかのようにずっと怯え、深刻な顔をしていました。その日は、判断を下すのが難しい状態だった為、一旦保留にすることにしたです。今朝、アンに確認したところ、まだ悩まれていたので、私が代わり、旦那様にご報告すると引き受けました。このような形でお伝えすることになってしまい申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げて、謝罪の言葉を述べるメイドの姿に、レオンは太い三日月型の眉を下げて、しばらく考えた。緊張した沈黙に二人のメイドは、沈鬱な顔つきになる。かれは、ひとつ息をついて、穏やかな語調でこう言った。

「事情はよくわかった――だが、今後、俺に対しての気遣いは不要だ。今回、傷痕で済んだが、もしあの子が負傷していて、そのままにしていたらどうなっていたか君たちもよく理解しているはずだ――次から気を付けておくれ。ベティにも共有するように。それと、アン――君を責めるような言い方をしてしまい、すまなかった」

 アンが薄紅色の脣を歪めて、何か言いたげな様子でコニーと主人の顔を交互に見つめていると、レオンは微笑を泛べ「俺はしばらく書斎室に籠っている。あの子のことは君たちに任せる――何かあれば、いつでも呼んでくれ。では」と言い、書斎室へ入った。

 床に乱雑に積み重ねられた幾つもの古い本の障壁を避けながら、歩いていると、小さな人影が現れる。かれは「イアン、そこにいるのか?」と声を張って言った。

 イアンは本棚から覗くように顔を出して答えた「うん、ここにいるよ! 毒物について調べていたけど、お姉ちゃんの体調はどう?」

「先ほど目醒めたところだ。案の定、毒で体の痺れや視界がぼやけて見えるらしい。すぐに良くなると良いのだが……」

「お姉ちゃんが元気になったら帰してあげるの?」

「帰してやりたいところだが、帰せない」少年が怪訝そうに眉を顰めると、レオンはどっかりと椅子に腰掛け、深い溜息を洩らす。しばらく間を開けてから言った。「掌や足の裏に傷があり、鞭による体罰を受けたかのような痕があったのだよ。あまり考えたくはないが、酷い虐待を受けている可能性が大いに高い――カッスルがいれば、合わせて調査するように依頼していたが、こんな時こそ都合良く現れて欲しいものだ」

「手紙でも書いて報告したらどうだろう?」

「そうしたいところだが、宛先を聞くのを忘れてしまったのだよ」

 イアンは、ポケットから羊皮紙のカードを取り出して渡した。かれが、それを受け取ると、驚いた様子で少年に眼を注いだ。

「カッスルから僕宛に置き手紙を貰ったんだ。レオンにとって必要な時がやって来たら、宛先が記されているカードを渡すように頼まれていたんだ。けど、予想より遥かに早くやってきたね」

「ありがとう。ランベスにあるコッテージ・デライトで拠点を構えているのか――随分と洒落た名前の酒場だ。しかし、あの男は、初めからこうなると見透してたと言うのか?」

「見透かしてなければ、こんなことしないと思うよ。それより、カッスルは次いつ来るの?」

「わからない。恐らく、あの男は神出鬼没だ――何か頼みたいことでもあるのか?」

「お父さんとお姉ちゃんについて調査していると手紙で教えてくれたから、次来た時に手紙を託して、お父さんに渡して欲しいんだ。もしかしたら、僕のことを探しているだろうから安心させたくて……」

「そうだったのか――イアン、君が良ければだが、俺たちがロンドン橋で出会う前、屋敷で何があったのか教えてくれないだろうか?」

「屋敷内はいつもと変わらなかったけど、お父さんは跼天蹐地(きゅうてんせきち)としていて様子がおかしかったんだ。ヘンリエッタとネリーに何かを伝えたあと、僕の手を引いてそそくさと屋敷の外に出たんだ。『どうしたの?』って聞いてもずっと黙ったままで何も答えてくれなかったから、大人しくついていくと人気の少ないところの路地に辿り着いた。お父さんは『しばらくここに隠れていなさい、迎えに来るから』と言って、どこかに行ってしまったけど、どれだけ待っていても来ないから歩き回ることにしたよ」

「何故、その場に留まらなかったのだ?」とレオンは、思わず眉を顰めて訊く。

「街に行くことは特別な日以外許されなかったから、じっとすることが出来なかったんだよ。お父さんの話、新聞、物語の中でしかロンドンを知らない僕にとっては、白いウサギを追いかけて不思議な国に迷い込んだアリスのように仰天の連続でとても新鮮だった。煤を被ったり、欄干の上から落ちかけるとは思わなかったけどね」

 かれは笑いながら言った。「そうだったのか。だから、馬車や汽車の中では、眼を輝かせていたのだな。今だからこそ言うが、初めて欄干の上を歩く君を見た時は、低俗な笑劇を鑑賞している気分だったよ――それが、ハムレットに登場する少女オフィーリアを彷彿させる狂気に変容するとは思わなかったが」

 少年は、脣から苦笑が洩れると、恥ずかしそうに頬を赤らめて、眼を逸らした。レオンはすぐに口を切る。「それより、あのような陰気な街を一人で歩き回って怖くなかったのか?」

 イアンは首を横に振った。「生まれて初めて見る景色が沢山広がっていたから、恐怖心やお父さんの指示を破った罪悪感よりも、好奇心が強かった。今はお父さんに対して、酷いことをしたと反省している――再会した時、ここに来るまでの出来事やレオンたちのことを話しても良い?」

「もちろんだ。俺もグレイ卿と言葉を交わしたいと思っていた――それらが実現できるようにカッスルの活躍に期待するとしよう」

「うん! だけど、無事にお父さんのことを見つけられるのかな? 名前以外の情報を提供していないから、僕は少し心配なんだ」サイレンの美しい死の旋律に魅惑され、魂を奪われたかのような眼つきでレオンは懶げに言う。「心配不要だ。ロンドンのことを熟知している元警部補の経歴を持つ者だ! 無能とは思えん!」

「なんだかトゲのある言い方をするんだね。カッスルと何かあったの?」

 かれは、気怠げに机の引き出しから喫煙具を取り出すと、巻煙草に火を点けて吸い、嫌悪のこもった声で答える。「実は言うと、カッスルとは昨日会ったばかりの浅い関係性であり、その時の印象は実に最悪なものだった。俄かに信じがたいだろうが、奴は友人の情報を元に、ロンドンに残された僅かな痕跡をわざわざご丁寧に辿り、エリス・グレイの件を兼ねて俺のところに訪ねてきた。それだけなら良かったものの、奴は、俺が警視庁で監察医として勤めていたこと、故郷に戻った理由、ドイツ語を操れることまでを把握していた。病的な執着心を持ち、己の底知れぬ知的好奇心を満たす為ならば、身と命も惜しまない権謀術数主義(マキャベリズム)な男だ――今頃、猟犬の如く、地の果てまで嗅ぎ周り、地面に這いつくばってまであらゆる情報や秘密に証拠を炙り出しているだろう」

「僕には、カッスルがそんなに怖しい人には見えなかったよ」

「やはり、君もアンと同じように見えるのか――まだ知り合って間もなく、信憑性が大いに欠けることを言うが、俺の眼に映るカッスルは探偵として優れている分、人としてあるべきものが欠如しているように見える。幾分も重ねた分厚い仮面の下に隠されている悍ましさと狂気をいずれ見せる日が来るに違いない――君も関わりを持ってしまった以上、十分に警戒するようにしてくれ。奴は、一体何を考えているのか分からないからな」

 疑念を抱いたイアンは、躊躇いながら頷き、しばらく黙り込んだ。が、その沈黙はすぐに破られる。

「イアン、君に頼みたいことがあるのだが、エリスが回復した時、孤独による精神的心痛で苦しませない為にもそばにいてやってくれないだろうか? 君とあの子は年齢が近しく、同じグレイの名を持つ者同士として親しい関係を築いてほしい」弱々しい口調で懇願するレオンに対し、イアンは微笑んだ。「もちろんやるよ! アンたちに頼みたくても頼めないんだもんね」

「ああ。メイドの仕事は過酷な上に、重労働だ。これ以上、彼女たちに負担を掛けたくないのだよ」

「じゃあ、今日から僕がお姉ちゃんのお世話をするよ。そうすれば、レオンやアンたちの負担を少しでも減らすことができるでしょう?」

「それもそうだが……」

「大丈夫だよ! この前みたいに何かあればすぐに言うし、お姉ちゃんが元気になるのなら僕はなんだってやるよ」

 いつになく真剣な眼差しを向ける少年に、かれは、燻る巻煙草を再び薄い唇に運び、吸いながら「分かった。そこまで言うのなら、あの子のことはイアンに任せるとしよう」と、渋々と承諾した。悦楽に浸かり、イアンは踊るように部屋を出ようとした。レオンは、すぐに大きな声で呼び止める。「イアン! 一つだけ君にやって欲しいことがある――エリスの反応や言動に一つでも不審な点や不可解なことがあったら、すぐに記録を取ってして欲しい」

「記録? なんだか監視しているみたいであまり気が進まない……どうしてそんなことをする必要があるの?」とイアンは不満げに口を尖らせる。厳粛な口調でレオンは言う。「先程、鞭による体罰と虐待を受けている可能性があると話したことを覚えているだろうか。あの子は俺の姿を見た途端、異様なまでに怯え、アンに『あの男の人は打たない?』と尋ねていた――恐らく、男から酷い仕打ちを受けていたのだと思う――エリスに対する今後の接し方や置かれていた環境を把握する為にも、一つひとつの反応や言動を記録して分析し、理解する必要がある。本来ならば、俺がやるべき仕事のうちの一つなのだが、嘆かわしいことに荊で覆われた城の如く警戒されている以上、緊急時を除き、俺になす術はない。カッスルに報告することも兼ね、どうか引き受けてくれないだろうか?」

「そんなことなら早く言ってよ! でも、僕を見てレオンと同じように警戒されないかな?」憂いの影が少年の顔を霞める。

「アンに警戒心を示さなかったのだから、きっと大丈夫さ。和顔愛語な君に示すとは思えない」

「レオンは、脊が高いし、常に眉間に皺を寄せていて、恐ろしい顔つきをしているもんね」イアンは、からかうように笑いながら言った。

「怖しい顔つきだと!?」かれは飛び跳ねるように椅子から立ち上がって、酷く動揺した眼で見ながら叫んだ。「そんなに怖しいのか――」

「ロンドン橋で初めて会って間もなかった頃のレオンは、心に余裕がない感じでいつも不機嫌そうに見えた。実際、話してみると、すぐに優しい人って分かったけどね」

 少年の残酷な言葉が胸に刺さり、両手に顔を埋め、苦悩の声を洩らした。レオンは、しばらく返事をしなかった。無垢な子供の口から出る言葉ほど鋭利なものはないからだ。すっかりと気が沈んでしまったかれに、イアンは戸惑いながら慰めの言葉を並べるが、弱々しい微笑を泛べて頷くだけだった。陰鬱な情念が齎すしんとした重苦しい空気を変えようと、少年は叫ぶように言う。「そんなに落ち込まないでよ。悪気はなかったんだ――それに、幻覚で怖しい人に見えていたのかもしれないのだからまだ希望はあるよ! お姉ちゃんことは、アンたちと話し合って、なんとかしてみるから落ち着いた頃に、散歩にでも連れ出してみたらどうかな? ここに来てまだ間もない僕でもカンタベリーは長閑で素敵な場所だと分かるし、綺麗な景色が沢山広がっているのだからきっと気にいると思うよ」

 レオンはイアンの顔を見て、妙に落ち着き払った声で「それもそうだな。情けないところを見せて悪かった」と呟いた。

「情けなくないよ! こちらこそ失礼なことを言ってごめんなさい! 僕は今からお姉ちゃんのところに行くけど、レオンはどうするの?」

 羊皮紙のカードを手に取り、それをひらひらと靡かせながら、かれは脣をへの字に歪めた。「あまり気は進まないが、カッスルの止まらぬ渇望を一時的に満たす為、彼女について分かったことを共有しなければならない――その分、奴には報酬に見合う素晴らしい仕事ぶりを見せて欲しいものだ――それと、あの子の世話のことだが、今回ばかりは君の口からメイドたちに事情を説明してくれないだろうか?」

「うん! そのつもりでいるから安心してよ」

「頼もしい! イアン、しつこいようですまないが、何かあればすぐに報告するようにしてくれ――では、よろしく頼む」再び引き出しを開けて、真新しい黒い革の手帳とペンを渡した。少年はそれを受け取り、手紙を書き始めるレオンの姿を一瞥すると、薄暗い書斎室を静かに出た。エリスがいるマティルダの部屋に向かう途端、鼓動が高鳴り、少しばかり緊張しているのだと感じた。扉の前に立ち、ノックしようとした。すると、階段を駆け登る足音が聞こえ、振り返るとそこには頬が火照り、両手一杯にベッド用シーツを抱え、息を切らしたベティがいた。

「ベティ、大丈夫? 何か手伝うことあるかな?」メイドは声を張って言った。「イアンさん! 申し訳ありませんが、旦那さまの部屋の扉を開けてくれませんか?」

 慌ててドアノブに手を伸ばして、扉を開けると、メイドは急ぎ足で主人の部屋に入る。抱えていたシーツを綺麗に掃除された机の上に置くと、膝から崩れ落ち、乱れる呼吸を整えながら、額から流れ出る汗をハンカチで拭う。

「大丈夫?」イアンは心配そうに尋ねた。

「お気遣いありがとうございます。走り回り、疲れて少し休めば大丈夫です。どうか心配しないで下さい」

「ベティ、レオンからメイドの仕事は過酷と聞いたけど、本当なの?」

 落ち着きを取り戻したベティがゆっくりと立ち上がった――「それは雇用主とお屋敷の規模によって決まりますが、旦那さまのおっしゃる通り、過酷であることは変わりありません。無賃で奴隷のように働かされることもありますし、運に見放された場合、他のメイドから虐げられたりすることもあります。とても残酷ですが、メイドの世界ではこれは日常茶飯事なのです」

「やっぱり話は本当だったんだね」悲しみをたたえた眼で少年は言う。「メイドって表面上では、とても煌びやかに見えるけど、本当は暗くて苦しい世界なんだね」

「そんな世界でも、私やアンとコニーのような充実した日々を送れているメイドだっているのですよ。旦那さまのところは異例で、同じ人間として接し、休日だけではなく、自由まで与えて下さるので、今まで務めてきたところに比べてしまえば楽園のようなものです! 今はこうして休みながらイアンさんと会話をしていますが、本来は禁止されてますから」

「楽園の主人がレオンで良かったね! レオンじゃなかったらアダムとイブみたいに容赦なく追放されたよ」

 メイドは、思わず声を立てて笑った。

「イアンさんったら、まるで旦那さまのことを異端的だと言うのですね! けれども、そんな旦那さまに感謝しなければなりませんね――イアンさん、お伺いしますが、どうして手帳とペンを持っているのでしょうか?」

「お姉ちゃんのお世話をするついでに、容態、不審点を見けたら、すぐに記録を取るんだ」

「エリスさんのお世話をイアンさんがするのですか? それに、どうして旦那さまの代わりに記録を?」

「アンたちの負担を減らしたくて、『お姉ちゃんのお世話は僕がやるよ』とレオンにお願いしてみたら、記録を取ることを条件に許可を貰ったんだ。それと、レオンに頼まれた理由は、お姉ちゃんに対する接し方や置かれていた環境を把握するために、言動を記録して分析したくても、お姉ちゃんに恐がられた挙句、警戒されて緊急時以外は近づけないから代わりに記録を取って欲しいと言われたからだよ」

「そうでしたか。アンは、マティルダの部屋にいます。ここ最近はエリスさんに付きっきりなので、イアンさんが加わることによって、少しでもアンの負担が減ると思うととても助かります――感謝致します! あら、少し長話が過ぎましたね――のんびりし過ぎると、怒られてしまいますので、私はこれからベットメイキングに入ります。イアンさん、先程はありがとうございました」

「うん! 忙しいのに話し相手になってくれてありがとう」と言うと、いつも見せる冷淡な表情とは裏腹に、温かで優しく微笑むベティを見つめながら、そっと扉を閉めた。

 イアンはマティルダの部屋に向き直って、早速ノックをした。中から、重い足音が響き、灰色の眼に眠気と疲労を帯びたアンが出てきた。メイドは首を傾げながら、「どうかしましか?」と尋ねると、少年は朗々とした口調で事情を説明した。一瞬、アンは迷いの表情を見せたが、喜びでかすかに頬を赤らめ、微笑し、少年を部屋の中に入れた。

 イアンは、エリスに眼を注ぐと、少女の特徴的な白い髪と青白い肌に親近感を覚え、同時にどこか懐かしさを感じたのだ。

 

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